愛死−LOVE DEATH− 

第七章 逃れえぬもの



スルヤの叔父の家の裏庭には、なかなか立派な林檎の木があって、それがこの庭の風景をリビングから眺める時、見る者に、いい視点を与えていた。その木の枝には、子供の拳くらいの大きさの幾つもの緑色の林檎の実がなっていた。そして、根元にも、枝を離れた実が転がっている。地面に落ちた実は、また今度、芝生の上を覆う枯れ葉と一緒に掃除してしまおう。今欲しいのは、幾らかの、熟した新鮮な林檎だ。

ヴァンパイアの力を使って、宙に浮いて、高い所の実を取るのは簡単だが、裏庭に面した隣家の窓から、誰かが覗いていないとも限らない。用心して、物置から、折畳式の段梯子を持ち出し、それに昇って、適当な実を幾つか摘んで手に下げた籠の中に放りこむ。

「その林檎は駄目だよ、すっぱくて、食べられないよ」 

数日前。林檎に興味を示すカーイに、スルヤは、そう主張したが、カーイは、やんわりと間違いを指摘した。

「これは、クッキングアップルですよ。酸味が強くて固いから、生食には向いていないけれど、お菓子を作る時は、これじゃないと林檎の実が崩れてしまう」

「そうなの?それじゃあ、何か、作ってよ?」

食べられると聞くと、とたんに興味津々、子供のように目を輝かせだすスルヤに、つい押される形で約束をしてしまった。今日は学校からまっすぐ帰ってくると言っていたから、今から作り出すと丁度間に合うだろう。アップルクランブルは、ごく簡単な家庭向きのお菓子だ。適当に切った林檎に砂糖とシナモンをまぶしたものを型に入れ、その上に小麦粉とバターで作ったクラムを乗せて、オーブンで焼くだけで出来てしまう。焼き立てを食べると、焦げ目のついたクランブルの香ばしさと中の熱々の甘い林檎のフィリングが、たまらない…らしい。この頃はまっているテレビドラマで、おばあちゃん役の女優がそう言っていた。実際作るのは、これが初めてだが、何の問題もない。一流のシェフが作る、手の込んだ料理だって、傍に立って、一通り見れば、すぐにそのままコピーできる。味覚、嗅覚だって、人間の数倍敏感なのだ。その辺りのへっぽこ料理人などに負けはしない。本当は、もっとこう、作りがいのある、複雑な手法を駆使した作品を作りたいのだが。これでは、あまりに面白みがなさ過ぎる。脳神経外科医なみの技巧を要する、繊細極まりない飴細工とか、ゼリーでこしらえた、ほとんどアートのような飾り付け、中国の料理人がやるような、野菜を使った花鳥図などだったら、作るのも楽しかろうと、食べることよりも、その過程の方に興味があるカーイは、思うのだが、スルヤは、こういう温かみのある、素朴な家庭のお菓子の方が好きだろう。

そんなことに思いをはせながら、キッチンに立つ、カーイの顔には、楽しげな微笑がうかんでいる。

スルヤの食べる時の顔は好きだ、と思う。人間はものを食べる時、一番幸せな顔をするそうだが、彼を見ていると、それは真実だとつくづく思う。特に、大好きな甘いものを出してやると、とろとろに溶けてしまいそうな目になる。

あんなに細いくせに、驚くほど食べるし、いつでも、お腹をすかせていて、外から帰ってくると、決まって、開口一番、「もう、お腹、ぺこぺこだよ」と言う。全く、あの体に摂取した、大量のエネルギーは、一体、どこで消費されているのだ?たぶん、まだ成長が止まってないのだろう。手足の長い、先に身長が伸びすぎてしまって、一時的にバランスが崩れているような、華奢な体つきも、もう、三年もすれば、若い男らしい筋肉がついて、惚れ惚れするような見事なものになるだろう。たぶん、そちらの方が、カーイの好みにはあっているはずだ。できれば、今から三年後くらいに、出会いたかった。

大人になったスルヤを想像してみて、微笑むカーイだったが、同時に、そんな、「三年後」がスルヤに訪れることはないということも、充分分っていた。スルヤは、永遠に、大人にはなれない。

スルヤの血を、いつ、カーイは奪うのだろうか。いつまで、彼を生かしてあげよう。焦ることはない。最後の犠牲者から飲んだ血は、充分な時間を与えてくれている。まだ、しばらく、この幼い、ままごとめいた恋を楽しもう。スルヤは、きっと、ロンドンでの初めてのクリスマスを過ごしたいと思うだろう。大丈夫、彼は、クリスマスまでは生きていられる。

その時、キッチンの電話のベルが鳴った。

カーイは、夢から覚めたように瞬きをして、そちらを振りかえった。

「はい?」

胸騒ぎめいたものは全くなかったが、受話器の向こうで、若い男の狼狽した声を聞いた瞬間、カーイは、全てを察した。

「スルヤに…何か、あったんですね?」

切り出す前に、言い当てられて、受話器の向こうの男は、はっと息を飲んだようだった。

「え、ええ…そうなんです。学校の帰り道に、車と接触して…気を失って、病院に運び込まれました。今、治療中なんですが、あなたにすぐ連絡した方がいいと思って…D救急病院です。住所と電話番号を言いますから、書きとめてください」

カーイは、手もとのメモに素早く、男の言う住所と電話番号を書きとめた。 

「分りました。今から、すぐ、そちらに行きます」

「お願いします。俺は、スルヤの友人のスティーブン・ジャクソンです」

「カーイ・リンデブルックです。スルヤから、聞いて、御存知でしょうが」

緊急の事態であったので、手短な挨拶と礼だけを述べて、電話を切ると、カーイは、すぐに外出の準備をし、タクシーを呼んだ。

本当は、のんびり車など呼ばずに、自ら、風となって、空を飛び、恋人のもとにかけつけたかったのだが。

コートを手に、タクシーに乗り込んだ時、その顔には、ほとんど怒りめいた、激しい感情がうかんでいた。

人間の、何が一番嫌かというと、その脆弱さだ。

いとも簡単に、その体は、壊れ、命は失われてしまう。

車のシートに身を落ちつけ、病院に向かう道すがら、その速度が遅いことにもどかしくてたまらないというように、いらだたしげに窓の外の風景が走るのを眺め、口元に持っていった指を、軽く噛んだ。

スルヤを殺す時を夢見ていたカーイだったが、こんな唐突な、一方的な終わらせ方は、許せない、認められないと、強く思った。

(まだ、早すぎる、早過ぎる。こんな終わらせ方、私には、我慢できない。私を置いて、勝手に死ぬことなど、許さない)

カーイにとって、この恋の終幕は、あくまで彼の手で下ろすものでなくては、ならなかったのだ。


NEXT

BACK

INDEX