愛死−LOVE DEATH− 

第七章 逃れえぬもの



その日の授業が終わるや、すぐにリュックを引っつかみ、教室を飛び出していこうとするスルヤの前に、スティーブンが、立ちはだかった。

「あ、スティーブン」

「何だ、随分急いでる様子だな。何か用事でも、あるのか?」

クラスルームから出てくる女の子達が、スルヤと話している、背の高い、ハンサムな青年の方をちらちら見ながら、何やら、そっと囁きかわしている。

スティーブンは、そちらに軽い一瞥を向け、すぐにまた注意をスルヤに戻した。

「そういう訳じゃないけど、ただ、家を出る時、今日は、まっすぐ帰るって、カーイに言って出て来たから」

「ふうん」と、スティーブンは、ちょっと片目をつぶって見せながら、揶揄するように言った。

「おまえ、いつも、そんな調子なのか?恋人と片時も離れたくないから、学校が終ると、友達なんか、放っておいて、家にまっすぐ、飛んで帰るって?同棲中の相手にばかりかまけてないで、たまには、つき合えよ。男同士の友情って奴も、大事なものだぜ?」

「男同士って、それを言うなら、カーイだって……」

その時、丁度教室にまだ残っていた数人のグループが出てきて、話し込んでいた彼らのすぐ傍を通りすぎるのに、うかつにも口を滑らせかけるスルヤの、おしゃべりな口をスティーブンは、慌ててふさいだ。

「馬鹿。学校では言うなって、釘を刺しただろう?」

「…ごめんなさい」

スルヤが同性の恋人を持ってしまったことに、当の本人以上に、スティーブンは気を使っている。素直に謝りながらも、どこまで本気で用心していることやら、あっけらかんとしているスルヤを、困った奴だというような目を見つめ、優しい口調で言った。

「ほら、この間、言ったろう?俺の知り合いのカメラ屋が、おまえの欲しがってる望遠レンズを安く売ってくれそうだって?取り寄せになるから、時間はかかるだろうし、前払いになるけれど、それでもいいならって、言ってくれてるんだ。だが、一度、直接会って相談した方がいいと思って、今日、おまえを連れていこうと思ったんだ」

「本当?ありがとう、スティーブン。それなら…いいよ、どうせ、帰り道だし、少しくらい遅くなったって」

それでも、一瞬迷ったのか、小首を傾げて考えこむスルヤだったが、結局、スティーブンの親切な申し出に頷いて、ついて行くことにしたようだ。

学校の校舎から外に出たとたん、吹きつけてくる冷たい風に、スルヤは、ぶるっと身を震わせて、ジャケットの襟を合わせた。

「うううっ、寒い。これでまだ10月だなんて、信じられないよっ」

「そうか?今日はまだ随分暖かい方だと思うけれどな」

「暖かい、これで?うう…ずっと思ってたけれど、何ていうの、体感温度が、イギリスの人は俺とは違うみたいだよね」

「だったら、もっと厚着して来いよ。コートを着てくれば、いいじゃないか」

「実は、まだ冬ものは用意してないんだ。この週末に、カーイと一緒にコートやセーターを買いにいくつもりにしてるんだけれど。あ、カーイはね、ロンドンのこの寒さも全然こたえないみたいなんだ。北欧生まれだからかな。おとつい、実は家のヒーターが壊れてね。修理がくるまで、俺は震えあがってたんだけれど、カーイは、いつもと同じ薄いシャツ一枚で全然平気な顔してたんだよ。何だか不公平だよね。でも、その分、たぶん暑さには俺の方が強いんだろうけれど」

二人は、学校から地下鉄の駅へと続く、学生達が行き交う道を、おしゃべりに花を咲かせながら、肩を並べて歩いた。一日中いつ行っても(ALLAYS)レジには買い物の列ができているからそんな名前なんだと冗談の種にされる、コンビニエンスストアALLAYSでスナック菓子を買い、通りかかったフッシュアンドチップス店のガラス戸の向こうに見知った顔を幾つか見つけて、手を振って挨拶をし、花屋では、スティーブンに気があるらしい可愛い女の子が、声をかけてくる、いつもと同じ帰り道の情景。

いつもと少し違う所があるとすれば、スルヤの話の内容が、これまでのような、カメラの話や、サッカー試合や友達の噂話ではなく、もっぱら、つきあい出して間もない恋人との他愛のない日常の一こまに変わっていたことだろう。

「…何だかさ、おまえの話、聞いてると全部のろけにしか聞こえないんだけれど、いくら仲がよくったって、喧嘩くらいするだろう、たまには」と、スティーブンが、呆れて、言いたくなるくらいに、スルヤは、恋に目がくらんでいるようだった。 

「喧嘩…そういえば、この間ね、俺が、あの人の為に腕を振るって、俺の国の料理をご馳走しようとしたんだけれどね」と、何を思い出したのか、クスリと笑いながら、

「あの人の口にはあわなかったみたい。初めてだったのかな、随分ショックを受けてたよ」と、スルヤは、答える。

「おまえの国の…というと、辛い奴か」

「うん。スパイスは控えたつもりだったんだけれどね…一口味見をさせたら、ものすごい顔をして、血相変えて、バスルームに飛んでいっちゃった。何てものを食べさせるんだって、ひどく怒られたよ。で、その日一日、俺がどんなに謝っても、指一本触らせてくれなくってさ。あれには、参ったな…。仲のいい恋人同士が、些細なことがきっかけで駄目になる…何ていうの、よくある危機的状況…っていうのになったら、どうしようって、一晩、悩んじゃった。あ、でもね、次の朝にはちゃんと機嫌を直してくれたよ。そうそう、料理と言えばね…」

別にスティーブンが無口なわけではないのだが、スルヤが相手だと、彼がもっぱら聞き手に回っている。上機嫌でピチピチ歌う小鳥のように、豊かな表情と身振り手振りを交えて話しつづけスルヤの様子は、以前と少しも変ったようには見えないが、その話すことは、初恋に夢中になっている初心な十代の男の子らしい、しようもないのろけで、少し意地の悪い者だったら、聞いてられないとばかりにからかったり、たしなめなくなるようなものだった。その点、我慢強いスティーブンは、これが普通の女の子相手だったら、もっと素直に喜んでやれたのに、余計な心配をせずにすんだのにと内心溜め息をつきながらも、ふんふんと相槌を打っていた。

「スティーブン、スルヤ!」

地下鉄の駅の近く、結構交通量の多い交差点まで来た所で、彼らは、同じ学校の顔なじみの生徒達に呼びとめられた。

「あら、スルヤ、何だか久し振りに顔を見る気がするわ。近頃、いつものパブにやって来なくなったじゃない、どうかしたの?」と、金髪美人のアニーが、弟に対するような口調で言うと、

「誰かと付き合い始めたんじゃないかって、みんな、噂してるんだぜ」と、チョコレート中毒の太っちょのケンが、意味ありげに笑って、肘でスルヤをつつく。

「そういやさ、スティーブン、バレリーが、さっき学校でおまえのこと、探してたぜ?」

そう、気遣わしげに聞いたのは、ちょっと神経質な、眼鏡のティム。

「バレリーが?」

すっかり清算したはずのもと恋人の名を聞いて、スティーブンは、露骨に嫌そうな顔をした。

「今更、一体、何だっていうんだ?俺の方は、もう、あいつに何の用もないっていうのに」 

「おまえってさ、そういう所、つくづく薄情で冷たいよな…」

溜め息をつくティムに、スティーブンも、少しむきになった。

「だって、今更、俺に、あいつに会って、何を、どうできるっていうんだ。優しくして、下手な期待を持たせるよりは、はっきりと言ってやった方が、よほど、あいつのためになるってものじゃないか」

「おい、ちょっと落ちつけよ、スティーブン。そんなに熱くなるようなことじゃないから…」

一瞬、気まずくなりかける友人たちの間に、ケンが入って、とりなそうとする。

その様子を横目で見やって、小さな溜め息をつくアニー。

「あら、やだ」

丁度、信号が赤だったので、彼らは、歩道の端に並んで立って、信号が変わるのを待っていたのだが、その時、唐突に彼女がそんな呟きを漏らすのに、隣にいた、スルヤが注意を引かれた。

「何?どうかしたの?」

「あのネコ…やだわ、危ない…」

アニーの視線を辿って、車がビュンビュン行き交う道路の方を見やると、その真ん中にある植え込みの辺りで、一匹の白いネコが、こちら側に逃げようか、向こうに逃げようか、迷うように、うろうろしている。すごい勢いですぐ傍を走っていく車に、パニックを起こしているのだろう、今にも、それら車の間に飛び込んでいきそうで、見ているだけで冷や冷やする眺めだった。

「じっとしてなさいっ、危ないからっ」

アニーの叫びが届いたとしても、通じるはずはなく、願いも空しく、我慢しきれなくなったネコは、スルヤ達の立つ歩道目指して、猛然とダッシュをかけた。そして、

「キャアァッ、スルヤ!」

けたたましく鳴り響く、車のクラクション。

口論に夢中になっていたスティーブン達が、アニーの悲鳴とクラクションに、はっとなって、振りかえる。

その時、彼らの見たものは、クラクションに驚いて、道の真ん中で、身をすくませてしまうネコ目掛けて、無謀にも、両腕を差し伸べて走っていく男の子だった。

「スルヤ、危ないッ!」

いきなり飛び出して来た少年をかわそうと急ブレーキをかけ、ハンドルを切る車の影に、その姿が隠れ、見えなくなる。そして、続く数瞬、停止した数台の乗用者から慌てふためいたドライバーが降りてくるまで、道路脇の仲間たちは呆然と立ち尽すのみだった。 


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