愛死−LOVE DEATH− 

第六章 彷徨



カリカリ…。




カーイは、ロンドンの街をまた、訪れることになった。

この時の訪問の理由は、もう覚えてはいないが、時期的には、第一次大戦が勃発する直前くらいだった。滞在中の記憶もあまりなく、たぶん、ごく短い期間だったからだろう、鉛色をした空の印象しかない。そう言えば、ロンドンを訪れるのは、いつも、こんな季節だった。春や夏に訪れれば、受ける印象ももっと違っていただろうが。

その頃のカーイは、本格的に仲間探しを行なっていって、近々アメリカにも渡ってみるつもりでいた。自分以外のヴァンパイアがまだ世界に残っているということに、そろそろ、疑いを抱き始めていたからだ。だから、そのロンドン訪問も、仲間探しの一環であったのかもしれない。そうでなければ、あんな状態の彼と、再会する事などなかったろう。  

よほど注意深く神経を周囲に張り巡らせて、仲間の発するわずかなシグナルを拾い集めようとしなければ、ただ、擦れ違っただけでは、分らなかったろう、それは、微細な気配だった。それは、とても弱っていた。

それが、本当に同族のものであるかも、カーイには、初め、分らなかった。同族ならば、カーイの放つシグナルに、警戒であれ、好奇心であれ、何らかの反応が返って来るはずなのに、それは、全くの無反応だったからだ。まるで、カーイが存在など無意味であるかのように、理解できないかのように、その心は、全くの空白だった。

関わらずに通り過ぎる事も、カーイは、考えた。そうするべきだったのかもしれないが、仲間探しの目的を抱えた彼には、このまま無視することはできなかったのだ。

それは、うっそうとした木々の取り囲まれた、古い建物だった。以前は、貴族の持ち物だったという古い邸宅だったのが、今は、ロンドン中から集められた行き倒れの浮浪者や精神病者を収容する施設として使われていた。ヴァンパイアの感覚を駆使して、ここを探し当てたカーイの受けた衝撃はなかなかのものだった。まさかと思い、初めの日は、内部を確かめもせずに引き返したくらいだ。

それでも、目的の気配は、紛れもなく、その病院から立ち昇っていた。何度も確かめ、否定しようもない。悪夢のようだが、しかも、カーイには、その気配に覚えがあった。

ついに、ある霧深い深夜、カーイは、病院に忍び込んだ。周囲に立ちこめる霧と自らも化して、古い、分厚い石壁をするりするりと通りぬけ、目当てのものの所に、まっすぐに向かっていく。そんな彼の姿を、この夜目撃した者があったら、まさしく、それはこの古い陰鬱な建物にまつわる、お馴染みの幽霊談として語り伝えられたことだろう。白い、長い髪をした、美貌の幽霊は、他のどんな怪奇談にもまして、人々の想像力をかきたてただろう。

カリカリ…。

その音は、幽霊と化したカーイが、病院に忍び込んだ時から、ずっと彼の耳に届いていた。ネズミか何かが、壁を引っかくような音が、この石造りの建物の奥深くから響いてくる。灯りに引きつけられる蛾のように、カーイの足は、迷わずに、そちらへと向かった。

カリカリ…。

次第に音は迫ってくる。カーイに、訴えてくる、自分はここだと。

カリカリ…カリ…。

更に幾つかの壁を抜け、ぐっすりと眠りこんだ、薄汚れた病人達の枕もとをかすめた末、カーイは、頑丈な鉄の扉に閉ざされた、一室にたどりついた。鉄の扉には、小さな窓があり、その窓には、太い鉄格子がはまっていた。一体、何ものを閉じこめるためだろうと訝しくなるような、厳重さだ。

隣り合った部屋の一つから、不気味な呻き声が響いてくる。特に注意の必要な、重度の精神病者の棟なのだろう。

カーイは、しばし、その鉄の扉を凝然と見つめながら、立ち尽くした。

ここにたどり着く前から、薄々、彼は、気づいていた。

白い幽霊の口元には、微苦笑めいた淡い影。煙のごとく、鉄の扉に吸いこまれていく。

そうして、カーイは、冷たく、じめじめとした独房の中に立った。

つんと、嫌な臭いが鼻をついた。垢と排泄物と腐敗した食べ物の入り混じった、悪臭が、四方を壁に囲まれた、狭い部屋にこもっていた。わずかに眉を寄せ、コートの袖口で鼻の辺りを押さえた。

カリカリ…。

ずっと鮮明なものとなった、その音は、カーイのすぐ傍でした。素早く、視線をそちらに向ける。はっと、息を飲んだ。

扉に取りつけられた小さな窓から鉄格子ごしに差し込むわずかな光以外、灯り一つない、真っ暗な独房の隅に、誰かがうずくまっている。ひどく痩せた、一人の男だった。こちらに背中を向けて、体を丸めるようにして坐りこみ、弱々しい手で、分厚い石の壁を叩いたり、爪で空しくかきむしっている。ここから、出ようとしているのだ。

カーイは、その場で、凍りついたようになったまま、その男の様子をつぶさに観察した。乱れた長い髪は、垢じみて黒っぽく変わっているが、もともとはもっと明るい色だったのだろう。老人かと思われる程に痩せてはいても、本当はまだ若い男だ。背も、高い。それに、さっきから、あきもせずに壁を引っかいている、その手。執拗に爪をたてて、かきむしったせいで、指先の皮はめくれ、血が出、薄汚れているが、その形は、ほとんど完璧で、優雅であることが、この狂人を、尚更ぞっと見せていた。そして、貴族めいた、美しい手の、その左の小指は、根元から綺麗に切り取られていた。

カーイがここにいることに気づきもしないで、狂人は、己の作業に熱中している。一体、何年、ここで、こうしてきたのだろう。

「なぜ、そんな馬鹿げたまねをするのです?」

用心深く、カーイは、声をかけた。

「自由になりたいなら、あなたは、いつだって、そうできるはずです」 

カーイの呼びかけに、狂人は、その作業を中断し、のろのろと首を動かして、肩越しに彼を振りかえった。奇妙な、探るような目で、カーイを眺め、その数瞬だけ、少しは正気らしい色がうかんだが、すぐに、焦点のあわないうつろなものに戻ってしまう。それでも、血の匂いだけは分かるらしい、くんくんと、鼻をかぐ仕草をして、それから、何ともいえない、もの欲しげな顔でカーイに向き直った。

カーイは、思わず、扉の方に、一歩下がった。

「そんなあさましい姿になるまで、落ちて、よくも生きられるものですよ」

嘲るように言ってみたが、非難の言葉も、どこか弱々しかった。本当に、死ねれば、よかったのだ。人間のように、死ねれば。こんなふうな、生きた死人と化して、生き続けるくらいならば。

「レ…」

その名を口に上らせかけて、カーイは、ぐっと飲みこんだ。このおぞましい化け物を、その名で呼ぶことは、どうしても、できなかった。震える手で口を押さえ、心を鎮めようと、瞑目した。

カーイの隙を狙っていたかのように、狂人が、獣めいた唸り声をあげて、飛びかかってきた。捕まえた、と狂人が思った瞬間、しかし、獲物の姿は忽然と掻き消えており、勢い余った彼は、頑丈な扉に体を打ちつけて、悲鳴をあげた。

「壁抜けの仕方も忘れてしまったんですか?あなたが、私に教えてくれたはずなのに?」

扉の外側で、震える声がそう叫んだが、内側でそれを聞いた者にとっては、何の意味も持たなかっただろう。

カーイは、逃げた。

その病院から、ロンドンの街から。そして、ヨーロッパを離れ、アメリカに渡った。

初めて訪れる、かつて新大陸と呼ばれた地で、新しい仲間探しをするつもりだった。

(私達は、自らの終着地を見つけるために旅を続けるのだと言ったレギオンは、ついに見つけられず、絶望して、狂気に陥った。あれが、終わりの姿なのだろうか。私は、ずっと、終わりなどこないと思っていた。私達種族は、永遠だと…間違っていた。たぶん、どんなものにも、終わりはくるのだろう、この星がいつか終わるように、不死の私達にだって、きっと…)

ヨーロッパでの捜索に見切りをつけて、旅立つカーイの胸には、一つの固い決意があった。

(ああ、でも、あんな形で、あるはずがない。私は、認めない。永遠から永遠に渡って、生きる、神々の末裔が、あんな終わり方をしなければならないなんて、認めない。ああ、消えてしまった、仲間達、彼らは、どこに行ってしまったのだろう。レギオンのように、生ける死者と化して、この世界の暗い片隅をさまよっているのだろうか、それとも、マハや、他の何人かの長老達がそうなったというように、どこかで、人の手の届かない地で、死にも似た深い眠りについているのだろうか。そして、ブリジット…お母さん、あなたの最後を、どう考えたらいいか、私は、今も分からない。ねえ、あなたは、あなたの終着地を見つけていたの?)

最後の子供。かつては、それ程深く考えなかった、その呼び名が、何時の間にか、カーイにとって、非常な意味を持つようになっていった。古い、誇り高い、神の血統が産んだ、たぶん最後の子供として、一族の希望を担っている、そんな気負いが、一人で旅を続ける彼を、支えていた。

一族の希望?だが、その一族は、一体、どこに行ってしまったのか。彼らの誇りを守ることの意味が、今更、あるのだろうか。疑いと迷いが、心に忍び寄ってこようとするたびに、ありったけの意志の力を振り絞って、退ける。その繰り返しだった。いつも、いつも…。

(私は、認めない)

アメリカに渡って、随分経ってから、たぶん、新聞か何かで、そのロンドン爆撃のニュースを知った。そして、あの病院が、どうやら、戦火に巻き込まれて消失らしいという噂も耳にした。では、そこに収容されていた、自分が何者であるかも忘れ果てた、あの狂える魂は、どこにいったのだろうと、カーイは、その運命に思いをはせた。今も、この世界のどこかを、死ねない体を引きずって彷徨しているのだろうか。彼の心は、もう死んでいた。あそこに残っていたのは、その脱け殻、ただの残骸に過ぎない。全てを焼き尽くす炎が、呪われた、その肉体をも焼き尽くしてくれたなら、いいのだが。それきり、レギオンの行方は、知れない。例え、調べることができたとしても、カーイは、そうしなかっただろうが。

(決して、認めない)

未来は、いつも希望にあふれている。明日、一年後、十年後を思う時、以前は、もっと心が浮き立ったものだが、今や、自分の前に果てしなく広がる、時の荒野を眺めやる時、いつの頃からか、ひどく倦んでいる自分に、カーイは気がつくようになった…。




「カーイ!もう、駄目、とまって…とまってよ!」

スルヤの悲鳴に似た声に、カーイは、はっと我に帰って、足を止めた。何時の間にか、すっかり、ヴァンパイアである自分のペースになって、人間にすぎないスルヤを振りまわしていたらしい、フルマラソンを完走した選手のような真っ赤な顔で、はあはあ言いながら、その場に、ぺたんと腰を落とす少年を、カーイは、ちょっとすまなそうに、見下ろした。

「すみません…」

スルヤは、しばらく声も出ないらしい、肩を大きく上下させて、喘いでいたが、カーイが慌ててくんできた水を一気に飲んで、やっと人心地ついたらしい、潤んだ目を上げて、言った。

「何か、すごかったね…ワルツって、こんなに体力使うものなの?」

カーイは、困惑したように、口元を手で押さえた。

「たぶん、違うと思いますが…その…すみません、考え事をして、それで、あなたのペースにあわせてあげることを、忘れてしまった」

「また、考え事?」

スルヤは、軽く首を傾げて、また、あの何とも言えない綺麗な、恐れ気のない目で、問いかけるように、カーイを見る。

何となく、ばつが悪くなって、カーイは、目を逸らした。

「俺の好きな人は…」

そのまま、背中を向けて、テーブルの上に置きっぱなしになっていた百合の花束を取り上げるカーイの背中に、スルヤは、そっと語りかけた。

「とても、不思議な人なんだ。どこから来たのかも、今まで何をしてきたのかも、俺は、何も知らない。その人は、話さないし、俺も、聞かない。でも、たぶん、俺よりもずっと色んな体験をしてきて、だから、そんなに色んなことを知っているんだろうって、思うよ。すごく若いのに、時々、この人は、本当はもう何十年も生きてきたんじゃないかって気がするくらい。その人の話を聞くのが、俺は、とても好きなんだ。俺の知らない世界を旅しているような、どきどきする気分になるから。けれど、本当はね、もう少し、その人自身の話を聞けたらって、思ってる。だって、時々、すごく寂しそうに見えるから。苦しそうだから。…心を開いて欲しい…」

カーイは、背中を向けたまま、ぽつりと言った。

「花を生けてきます」

百合の花を抱え、そのまま、階下に降りていく恋人を、スルヤは、床にうずくまったまま、切なそうに、見ていた。

そして、その姿が完全に見えなくなると、己の膝を抱えこむようにして、そこに顔を伏せ、溜め息混じりに、こう呟いたのだった。

「可哀想だ…」

頑なな恋人に、その想いが少しは届いたのか、少年には知るよしもない。

 

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