愛死−LOVE DEATH−
第六章 彷徨
三
友人と一緒の写真撮影から帰ってきたスルヤが、家の扉を開けると、聞いたことのない、クラシック音楽が、上の部屋から流れてきた。
「カーイ、ただいまっ」
帰り道、よく立ち寄る花屋で買い求めた、いつもと同じ百合の花を一束胸に抱えて、勢いよく階段を駆け登る。
「ねえねえ、聞いてよ、今日さ、スティーブンにね、あなたのこと、話しちゃった。そしたらね…」
二人が一緒に使っている屋根裏に、元気よく駆け上がったスルヤは、そこで、ちょっと口をつぐんだ。
「カーイ?」
広々とした部屋の片隅に置かれたオーディオセットから流れる音楽は、カーイが趣味で買ってきたものらしい。そして、その曲をかけっぱなしにして、当の本人は、ソファの上に寝そべって、うたた寝をしているようだ。
何となく遠慮して、足音を殺して、近づくと、ソファの前の、ガラスのテーブルに花束を置き、ジャケットを脱ぎながら、よく眠っているらしい恋人を見下ろした。
「眠ってるの?」
ゆったりとしたソファに仰向けに横たわり、胸の上に軽く組んだ手を置くようにしているカーイは、声をかけて起こすのがためらわれるくらい、ちょっと表現する言葉が見つからないくらいに綺麗だった。
スルヤは、黙ったまま、恋人の傍らに膝をついて、その静かな顔を覗き込んだ。ぴったりと閉じられた、長い銀色の睫毛が、ルームライトを受けて、きらきら光っている。雪で作られた、繊細な細工のようだった。指で触れたりしたら、壊れてしまうかもしれない。
「カーイ?」
恋人の寝姿にうっとりと見惚れていたスルヤは、ついに我慢できなくなったように、手を伸ばして、恋人の頬を指先で軽くつついてみた。赤い顔をして、すぐに離した。それから、ゆっくりと身を屈め、薄く開いた珊瑚色の唇に、そっと唇を寄せていった。
「悪戯、しないでくださいよ?」
突然、ぱっちりと目を開いたカーイに、スルヤは、仰天して、飛びあがりそうになった。
「うわぁっ、び、びっくりした」
どきどきしている心臓の辺りを押さえながら、上擦った声をあげるスルヤを見上げ、カーイは、薄く笑った。
「お、起きてたの?」
「目をつぶって、じっと考え事をしていたんですよ。そうしたら、あなたが、上機嫌の様子で帰ってきて。あんまり嬉しそうだったから、少し意地悪をしたくなったんですね。あなたはどうするかと思いながら、眠ったふりをしてみたんです」
「人が悪いよ、カーイ」
ソファから上体を起こす恋人を、スルヤは、少し恨めしげに見た。それから、ちょっと小首を傾げて、言った。
「何を考えてたの?」
「別に、大したことじゃありませんよ」
乱れた髪を、指で撫でつけながら、素っ気無く答えるカーイを、スルヤは、何か言いたげな、大きな瞳でひたと見つめている。
カーイは、やれやれというような溜め息をついた。
「昔の友人のことを少し思い出していただけですよ。そんな、心配そうな顔をするのは、やめてください。私は、それほど暗い顔をしていますか?」
もっと鈍感かと思っていたが、意外に鋭いスルヤに、カーイは、不覚にも驚かされることがある。
「うん…ちょっと悲しそうに見えたから。大事な人だったんだね。その人、死んじゃったの?」
感じやすそうな顔を曇らせる少年の、右手を取り、両手で包み込むようにしながら、カーイは、優しく囁いた。
「大昔の話ですよ。大体、あなたが悲しむことではないでしょうに」
ゆっくりと引き寄せて、ぴんぴんはねた黒髪の頭を、あやすように抱きしめた。外の冷気を吸って、ひんやりと冷たい少年の髪は、微かな森の匂いがした。湿った落ち葉と土の匂いだ。
「また、公園で撮影していたんですか?」
「うん、どうして、分ったの?」
「あなたのすることは、何でもお見通しですよ。たぶん、撮影に我を忘れて、地面に寝そべったり、転げたりして、葉っぱと土まみれになったんでしょう。リスみたいですね」
「すごいなぁ。ね、どうして、分るの?」
「…いつも、あなたのことを考えているからですよ」
目をぱちくりさせるスルヤを覗き込むようにして、カーイは、笑った。
「ね、スティーブンは、どんな顔をしたんです?」
「えっ?」
「私のことを、話したんでしょう?」
スルヤは、口をすぼめて、ちょっと考え込んだ。
「鳩が豆鉄砲を食らったみたいな顔してたよ」
それから、思い出して、本気でおかしくなったらしい、あははと、声をあげて、笑った。
「だから、男性の恋人ができたなんて、話すのはよしなさいととめたのに…」
「だってさ、俺は、話したかったんだもの。俺の好きな人のこと、どこなと行っては、誰なと言いふらしたいくらいなんだもの」
「馬鹿」
まだ何か言いたげな少年の口を、カーイは、キスでふさいだ。今でも、時々、スルヤは、キスをする時、息をすることを忘れてしまうようだ。よくやく解放してもらった時、ほうっと、肩で息をついた。
「…この曲、なんていうの?」
カーイの体に腕を回したまま、スルヤは、うっとりと囁いた。
「まことの愛に。ルネサンス期のイギリスの曲ですよ。確か、ヘンリー八世が作曲したという…」
「誰、それ?王様?」
間の抜けた質問に、カーイは、真面目に答えるやるべきかどうか、少し悩んだ。丁度、その時、うまいタイミングで曲が終わったので、それを口実に立ち上がった。
終わってしまったCDを新しいものと取り替え、再生する。今度は、軽快なワルツだった。
「スルヤ、踊りませんか?」
「えっ、駄目だよ、俺、ダンスなんか…」
「教えてあげますから、さあ…」
戸惑うスルヤの手をとって、立ち上がらせると、カーイは、基本的なステップを教えこみ、強引にリードして、踊り出した。
「そうそう、上手じゃないですか。筋がいいですよ、あなた」
「カーイが、うまくリードしてるからだよ。もし、足踏んだりしたら、ごめんね」
おっかなびっくり、カーイの手を取り、その動きに必死になってついてくる、素直な恋人に、彼は、楽しげに、喉を逸らせて、笑った。
「カーイ、待ってよ、もっとゆっくり動いてくれないと…」
どんどんテンポの速くなる曲と、それよりも早く、複雑なステップを踏み出すパートナーに、スルヤは、困り果てた声をあげるが、カーイは、からかうように、彼の唇に羽根がかすめるようなキスをして離れ、全く取り合う気がないようだった。
素人のスルヤが、それでも、何とか、相手の足も踏まずに、ついていけるのは、カーイのダンスが非常に巧みだったからだ。ほとんど体重を感じさせないほど軽やかで、流れるような、優美な身のこなしだ。
「私には羽根があるんです。ちゃんと手をとって、捕まえておいてくれないと、あなたのもとから飛び去ってしまいますよ」
笑いながら、ゆるやかに円を描くようにして、動きながら、恋人の腕に抱かれ、抱きながら、そうして、カーイの心は、またしても、過去に向かって、沈み込んでいった。