愛死−LOVE DEATH− 

第六章 彷徨


あれは、1850年代、ビクトリア時代初期のロンドンでのことだ。美しく明るい女王の治世のもと、女達は色味のはっきりとしたピンクトパーズ、サファイア、エメラルド、華やかでロマンチックなリボンや、鳥や花をモチーフにした、装身具で身を飾り、世界で最も栄えた、この大都市に漂う空気は明るく華やいでいた。

そんなロンドンをカーイが訪れたのは、いつものように人間の恋人との束の間の恋が終わって、それまで暮らした南フランスの片田舎の街を離れることにした時に、たまたまその大都会の噂を耳にし、久し振りに、大都市のきらめきを見てみたいと思ったからに過ぎなかった。

新しい恋をそこでするつもりもなければ、滞在期間が長期になるか短期になるかも全く不明で、ただ、恋人を殺した後は決まってそうなるように、しばらく、一人で何も考えずに過ごす時間が欲しかったのだ。

都会の人間は、必要以上に他人に構おうとしないから、いい。こちらから進んで社交場に顔を出したりなどしなければ、概ね、わずらわしい人付き合いも最小限に留められる。

今回の滞在先に決めたホテルも、サービスは申し分ないものだが、孤独を求めているらしい客のために用意された奥まった一室には、完璧な静寂が保てるよう、しつけの行き届いたホテルの従業員達は、ほとんど人の気配を感じさせないくらい、慎重で、特別な配慮を払ってくれているようだ。カーイが望まない限り、彼が部屋にいる時間は、ほとんどメイドやベルホーイの姿も、見られない。

そんな、とても寛げる仮のすみかで、夜は、街の散策の間に見つけた興味深い本を紐解いてすごし、昼は、美術館で一日中絵を眺めて過ごすこともあれば、人ごみの中をぼんやりと流されるように歩きながら、周囲でざわめく人間達の顔を、珍しい珍獣でも眺めるような気分でじっと観察してみることもあった。

そうして、そんな生活が半月ばかり続いた、ある日、再会は、思い掛けなくも、突然に訪れたのだ。

ヴァンパイアの超感覚は、己の周囲にある生き物が放つ生気を敏感に感じ取る。もうずっと、カーイは、やわやわと燃える蝋燭の火めいた人間の気配にだけ囲まれて暮らしていたのだが、それらに混じって、強烈なエネルギーを放散する、異質な気配を、ふいに捉えたのだった。隠れていても、隠しようのない、その存在感。間違いない、カーイと同じ、ヴァンパイアのものだ。

近頃では、こんなふうな、同族との邂逅は珍しくなっていた。時代が急速に移り変わり、近代における人間の数の爆発的な増加に追いやられるように、それら古い種族は、何処かへと姿を消しつつある。不死であるヴァンパイアが、他の生き物のような死による滅びを迎えるはずはないのだが、居場所をなくして、どこかに隠れ潜んでしまったの、カーイが、これまでに会った仲間たちも、一人二人と、連絡を絶って、消息不明となり、気がつけば、カーイは、たった一人で人間社会に紛れこんで、生きているのだった。自らとは違う珍獣を見るような目で、人間たちのことを、さげずみながらいつも見ているカーイだったが、本当は、そんな彼の方こそ、人間という大多数の社会に隠れ住む珍獣なのだ。

今となっては遠い昔、彼のもとを去っていった恋人が、言っていたではないか。彼らヴァンパイアは、消えつつある種族だと。もっとも、カーイは、そんなことは認めてはいなかった。彼らは、永遠から永遠を渡っていきる、不死の一族。瞬きのような短い生のしか生きられない人間たちに、負けるはずなどない。いつか、我が物顔に世界を支配している人間たちの、この時代が終わっても、見ているがいい、彼らヴァンパイアは生き残る。この頃のカーイが夢見ていたのは、太古の昔、彼に似た生き物たちが住まう楽園の再来だった。目で見る現実には反していたが、千年単位の時間を生きることも可能な彼にとっては、どんな夢の実現も不可能だは思えなかった。彼は、まだ若いヴァンパイアだったのだ。

その同族の気配に最初に気づいたのは、ある霧深い夕暮れ時、注文していたベルトのバックルを宝石商まで受け取りに行った、帰り道でのことだった。初冬の頃だったから、日が傾き始めると暗くなるのもあっという間で、そうでなくてもこんな天気の時はあまり外を出歩きたくはなくなるものだ。家路を急ぐ人間たちに混じって、ホテルへと続く大通りを途中まで歩いたカーイだったが、やはり気が変わって、辻馬車を拾おうとした、その時だった。うまく見つけた馬車に、ほとんど乗りかかっていた彼は、ふいに自分に向けられる強い視線を感じた。どこから?わずかに頭をずらして、肩越しに鋭い視線を投げかける。人々の行き交う大通りの向こう、暗くなった路地の辺りに、それは潜んでいるようだった。

実に久々に出会った仲間だ。友好的に声をかけて、近づいてみるのもいいかもしれない。もともと、同じ狩人であり、猟場をめぐって争うライバルにもなりうる同族に対しては、友愛よりも警戒心を覚えがちな彼らだったが、何と言っても、数少ない仲間なのだ。カーイも、初めは、そうするつもりだった。しかし。

訝しげに、目をすがめるようにして、その路地裏を覗き込もうとしかけたカーイが、はっと息を飲んだ。次の瞬間、彼は、馬車に飛び乗り、固い声で、御者にホテルの名前を告げていた。

続く、一週間あまり、カーイは、何事もなかったかのように過ごした。それまでと同じように、昼間は、気ままな街の散策を続けた。珍しい本や、高価な宝石や服を買い求め、気に入りのカフェに何時間もこもったり、時には、庶民達で賑わう、下町の猥雑な市場を見学に行くこともあった。しかし、表面上は、いつもと変わらぬ日常を過ごしながら、その心は、気がつけばいつも、あの大通りの向こうの暗い路地裏に戻っていた。 夕闇に解けこんだ、狭い通りの奥に、一瞬翻って、消えた、金色の炎…。

そして、そんな時、決まって、物思いにふけりながら歩いている彼の意識を、いきなり揺さぶり起こすものがある。カフェの窓の向こうの通りから、静まりかえった教会の柱の陰にわだかまる影の中、込み合った市場のひしめき合う人間たちの体の後ろから、カーイを見ている、追っている。

カーイは、振り向かなかった。しばらく、カーイに付きまとっていたかと思うと、やがて遠ざかっていく気配を追いかけもしなかった。これが、七十年前だったら、違っていただろう。自分の感情にひたすら正直だった子供なら、すぐにでも振り返って、追いかけ、捕まえようとしただろう。

追おうとしないカーイをどう思ったのか、相手も実にあっさりと引き下がって、姿を消すが、また、次の日になれば、どこからともなく現れるに決まっていた。お互いの手のうちを探り、相手の出方をうかがう、おなじみのゲームでもしているかのようだった。

結局、この場合、先に降参したのは相手だったのか。姿の見えないヴァンパイアとの奇妙な駆け引きが続いた、七日目、その日に限って、ついに姿を見せなかった相手に、不満と苛立ちを募らせながら、夜遅くホテルに戻ったカーイは、書き物机の上に、一輪の赤い薔薇の花を見つけた。無言のまま、手に取り、匂いをかいだ。新鮮な薔薇の甘く瑞々しい香りに混じった、微かな香料を嗅ぎ取った。ふいに笑いだし、手の中で薔薇をぶらぶらさせながら、まっすぐに窓に近づくと、大きく開け放った。外は雪混じりの雨だったが、寒さを感じないカーイは、吹きこんでくる風に向かって微笑み、そして、そのまま、宙に身を躍らせた。

一度として、彼を探そうとはしなかったカーイだったが、その気になれば、見つけることは容易かった。真っ暗な夜の闇の中、その一点だけ、あざやかに燃えるような光を発している。目をつぶっていても、体ごと引き寄せられるように、彼のもとにたどり着ける。体の中で、かつて彼と分け合った血の記憶が、沸きかえり、はからずもカーイを高揚させていた。まるで、この一瞬、遠い子供時代に返ったような、うきうきした気分だった。

そうして、気がつけば、カーイは、どこかの家の中にいた。無意識のまま、屋根も壁も通り抜けていたのだろう。裕福な人間がロンドン滞在中に借りるような、なかなか立派なフラットのようだ。カーイが立っているのは、その玄関近くだった。

手に持ったままの薔薇を、どうするかと迷うように見下ろし、コートの胸ポケットに差すと、無言のまま、奥に向かって歩きだした。すると、豪奢な家具の並べられた客間らしい部屋に出た。

カーイは、そっと眉を寄せた。置かれた調度品は、どれも趣味のよいものだが、ろくに手入れもされていないらしく、中国風の陶製の大時計は止まったまま、黒檀のサイドボードの上には白い埃が積もり、大鉢に生けられた花は萎れて、微かな腐臭を放っていた。

当惑したようにその部屋をしばし眺めていたカーイだったが、家の奥から、誰かが、クッションの上に身を投げ出すような音がしたのに、我に返って、そこを離れた。

次の部屋には、大きなピアノがあり、壁には、何枚もの絵がかけられていた。一瞬通り過ぎようとしたが、足を止めて、それらの絵をしげしげと眺めた。どの絵にも、同じ人物が描かれていた。カーイは、息を大きく吸いこみ、少しの間止めて、ゆっくりと押し出した。壁にかけられた絵の中から、何人ものカーイ自身が、彼を見返していた。あるものは無邪気に笑いかけ、あるものは、少し拗ねたような甘ったれた目で見上げている。癇癪を起こす寸前の怒った顔、今にも泣き出しそうな顔…。七十年前の、子供時代のカーイだ。遠い昔から蘇った自らの似姿に向き合うカーイの顔には、初めはただ驚きと戸惑うがあるのみだったが、次第にそれは、苦渋の色に変わっていった。手を伸ばして、その中の一枚、小ぶりな絵を取ってみる。絵の中の少年は、ふかふかの枕を抱きしめるようにして、安心しきった様子で、眠っていた。何の不安も苦しみもない、その姿は、安らかで、暖かく、幸せそのものだった。思わず、手を上げて、己の顔に触れてみた。こんなふうな表情をしたことが、かつて本当にあったのだろうか。

突然、その絵を破り捨ててしまいたい衝動に、カーイはかられた。こんなものは、嘘っぱちだ。鋭い爪で、絵の中の少年を引き裂こうとした。だが、その時、彼の背中に向かって、呼びかける声があった。

「やめてくれないか。それは、私の大切なものなんだ」

カーイは、すぐには応えなかった。手の中の絵を、激しい目で睨みつけ、ゆっくりともとの場所に戻すと、軽い身のこなしで、くるりと振りかえった。

「お久しぶりですね。もう七十年くらいになるでじょうか。いつ、ヨーロッパに戻ってきたんです?」

相手に向き直った時のカーイは、つい先程、その身の内を駆けぬけた激情の名残もなく、穏かで、冷静そのものになっていた。薄い唇にうかべた微笑は友好的だが、本心は隠されており、わずかに細めた目で、相手の出方を慎重にうかがう。既に、一人で生きるすべを人生から学び取った、一人前のヴァンパイアの顔だ。

「レギオン?」

この男の名を、こんなふうに冷淡に呼べるようになるなどと、かつてのカーイ、あの絵の中の少年は夢にも思っていなかったろう。ここに来るまでのわずかな時間は、昔に戻ったような、浮き立つ気分を確かに味わった。だが、そんなものは、一瞬の幻想に過ぎなかった。仕方のないことだ。七十年も、たっているのだ。カーイは、変わってしまった。それは、目の前にいる、この男にも言えることだ。

レギオンは、カーイのいる、絵のある部屋と隣あった寝室の扉の所に、長身を軽くもたせ掛けるようにして立っていた。黒いズボンの上に幾分だらしなく着崩したシャツ、その上に緋色のガウンを羽織っている。かつてのレギオンは、家の中であろうと、こんな自堕落な格好はしなかったはずだが。

用心深く、じっと押し黙って佇んだままのカーイをレギオンはしばし値踏みでもするかのように眺めていたが、やがて、無造作に背を向けて、寝室の中に戻り、カーイに入って来るよう、手招きした。

「…ロンドンに戻ったのは、丁度三年前だよ」

寝室に足を踏み入れたカーイは、素早く周囲に目をやり、他の部屋と同じような、荒廃ぶりを見て取った。床の片隅に、筆や絵の具など絵を描くための一式が押しやられていたが、もう随分長いこと使っていないらしく、クモの巣をかぶっている。ベッド脇の小卓の上には、何本ものワインのボトルが取り残されていて、そのすぐ下には、グラスが割れたままで放置されている始末だ。

「なぜ、また戻ってこようという気になったのです?新大陸の生活は、期待したほど、よくはなかったのですか?」

寝室の端で立ち止まったまま、淡々とした口調で尋ねながら、カーイは、レギオンを観察した。何てことだろう。あのレギオンが、人生にすっかり打ちのめされた老人のように、肩を丸めて歩くなど、信じられない。カーイの胸の奥では、様々な感情が渦巻いていたが、実際にはおくびにも出さずに、かつての恋人が、ひどく疲れたような足取りで部屋を横切り、寝乱れた寝台に腰を下ろすのを見守っていた。長い、豊かな髪は、相変わらず、見事な輝きを保っているが、ろくに櫛も入れていないのだろう、ばさばさに乱れていた。それを、神経質に掻き揚げる手を見て、さしものカーイも、微かに息を飲んだ。指の長い、しなやかなその手の、小指だけが他とは異なって、根元から金色をしている。よく見れば、それは精巧に作られた、黄金製の義指なのだった。カーイが、かつて、形見として彼につけた傷だ。

カーイは、思わず、目を閉じた。

「灯りは、つけないんですか?」

しかし、彼の口から出たのは、思っていることとは、全く関係のない別のことだった。

「必要、ないだろう?」

どうでもよさそうに答えるレギオンに、カーイは、苛立ちを覚え、そちらを睨みつけた。

「私達は暗闇でも目が利くけれど、人間社会では、努めて、人間らしく振舞う癖をつけるようにしなければならない。あなたが私の教師だった時、そんなことも、確か言っていましたよ?」

レギオンは、一瞬黙りこんだ。

「君の教師だった時…ああ、あれから、一体何年がたったんだ?」

過ぎ去った過去を懐かしむのか、彼は少し笑ったようだ。だが、その微笑みは、心から楽しんでいるようにも、晴れやかにも見えず、むしろ、苦々しげだった。

「私が、なぜ、アメリカを離れて、ここに戻ってきたか、そう君は聞いたね」と、ふいに、彼は語り出した。

「結局、君の予言があたったということになるのかな。私は、初めてあの地を踏んだ時、生まれて初めて見る、新しい世界に夢中になった。楽しかったよ。告白するが、あんなふうに、私が、私自身でいられたことは、それまでなかったと言ってもいい。何と言うか、たがが外れたようだった。同じようにヨーロッパから渡ってきた人間たちの作る町に居を定めたが、それでも、特に夜などは、古い野蛮な世界の息吹を、すぐ身近に感じることができた。人間たちは、怯えて家の中で小さくなっていたが、私にとっては、とてもうきうきするものだったよ。そうして、文明に侵食されていない未開の地の奥深くに分け入ることも、その気になればいつでもできたし、実際、暇があれば、何日も、時に何ヶ月もかけて、探検したものさ。土着の民の、素朴な村々を訪れたこともあるよ。調子に乗りすぎた私が、迷信深い彼らの前で、ヴァンパイアのちょっとした手妻を見せてやったら、私を、神と見て崇めるか、逆に悪魔に見られることもあったな。だがね、それなりに受け入れてもらえたんだよ。全く、驚くべきことだったさ。人間が、ヴァンパイアであるこの私を、歓迎して、抱きしめてくれたんだから。つまり、文明社会ではお馴染みの、先入観というものが、彼らにはなかったのだね。だから、雨や風や稲妻と同じ自然に属するものと、私のような存在を捕らえることができた。これは、私にとっても、なかなかの衝撃だったよ。実際、私自身も、西洋の人間たちが作り上げた価値観に、つま先から頭の天辺までどっぷり浸っていたわけだからね」

カーイは、寝室の片隅に立ったまま、それ以上は近づこうとはせず、途中で言葉を切ったレギオンが、手元にあったワインボトルをつかんで、そのまま口をつけ、中に半分ほど残っていたワインを喉に流しこむ様子を、固い表情で見守っていた。

「あなたは、あなたの求める終着地を…そこに見つけたと思ったんですね。そして、あなたの旅は、そこで終わるはずだった」

カーイの方を、レギオンはちらりと見やった。かつては、鮮やかな緑色の炎のように輝いた瞳は、すっかり習慣化している深酒のせいか、どんよりと濁っていた。空になったボトルを床に転がすと、奔放に乱れた金髪の頭を両手で抱えこむようにして、胸の奥から絞り出すような嘆息をついた。

「人間の恐ろしさを見せ付けられたような気がしたよ。ヨーロッパから渡ってきた白い連中は、もともとそこに暮らしていた赤い肌の住民達のことなど、同じ人間だとは思っていなかった。言葉を巧みに操って自分達に都合のいいような約束を取りつけながら、かわした条約を一方的に破ることなど当たり前、平気で、他人の家を奪い、土地から追い出し、生活の糧を奪った。私は、血を奪うために人間を殺す。時にそれを楽しみさえするが、基本的には生きるためだ。だが、人間たちは、必要もないのに同族を虐殺する。白人達の容赦のない先住民政策によって、彼らはどんどん劣悪な土地に追いやられいった…抵抗する動きもあったが、銃で武装した白人達に彼らが勝利をおさめることはまれだった。あげくの果てが、強制移住の法律だ。その辺りで、私は、もうこれ以上見たくないと思ったよ。君の言ったとおりさ。太古の姿そのままの楽園に、人間たちはあっという間に広がり、自分達の文明を持ち込んで、土着の文化を持つ人々に強要し、初めはぽつぽつあるだけだった西洋風の村や町は数を増やし、その中の大きなものがやがて巨大な都市となり…私が後にしてきた世界と同じ世界が、ここにも現れつつある。もう充分だと思ったんだよ」

「やっと見つけた、自分の家のような場所を、人間たちが作り変えていく様を見たくなかったから…かつて捨てたこの世界に帰ってきたと?」

カーイの声には、冷たい、氷の刺がこもっていた。

「人間相手に、おめおめと尻尾を巻いて逃げ帰った、というわけ?」

鞭打たれたかのように、レギオンは、顔を上げた。

「私に、一体、何ができたというんだい?あの土地がどうなっていくか、運命はもう見えていた。何をしても、流れはもう変えられなかったろう。どうすればよかったと言うんだい?空しい抵抗を試みる、まだ、戦いの気概を失っていない人々の神になってやればよかったとでも?ブリジットなら、できたかもしれないな。けれど、私の力など、しょせんは微々たるものだ。宙に浮くことも、壁を通り抜けることも、何の役にもたちやしない。人間どもを殺しまくっても、数があまりに多すぎる。私にせいぜいできたのは、小手先の魔術で、追い詰められた小さな部族を煽り立て、白人達を襲わせ、運命よりも早い玉砕の機会をもたらすことくらいだったよ」

「それでも、逃げ帰るよりはいいでしょう。せっかく、手にした楽園を守り抜こうとするだけの勇気を、なぜ持てなかったのです?」

レギオンは、今初めて気づいたかのように、つくづくとカーイの顔を見た。

「ああ、カーイ」と、まぶしいものを見るかのごとく、目をわずかに細めて、笑った。

「君は、まだ若いんだね。無邪気な子供時代に持っていた、あのきらめきはなくしてしまっても、今の君は、不死者としての誇りと自信に満ちて輝いている。うらやましいことだよ」

カーイの胸の奥から、激しい瞋恚の炎が沸きあがってきた。この男を、こんなにも憎いと思ったことは、かつてなかったかもしれない。捨てられた時でさえ、恨みよりも、むしろ思慕の思いで、泣いていたカーイだったが、今や落ちたる偶像と化したかつての恋人に抱く感情は、かつて深く愛した、その愛情の反動めいた、すさまじい憎悪と嫌悪だった。

「他人を羨ましがっている暇があったら、自力で、その穴から這い上がってみてはどうなんです?」

軽蔑も顕に、カーイは、言った。

「今のあなた、とても見られた姿じゃ、ありませんよ。その分だと、狩りもまともにできていないのでしょう?自らの魅力で獲物を引きつけるヴァンパイアが、その力をなくしてしまったら、おしまいですよ」

「ああ」

急に喉の渇きを覚えたように、レギオンは、舌で唇を舐めた。

「狩り、か」

そう、彼は、飢えていた。

「ロンドンに戻って以来、そういえば、ろくな血を飲んでいないな。狩りの仕方も、忘れてしまったような気がする。何だか、もう、何もかも、嫌気がさしてしまって…人間のふりをするのも、嘘をつくのも、殺すのも。生きることに疲れ、ほとほと、うんざりしてしまったようだ」

「馬鹿なことを」と、カーイ。

「私達が、血を飲まずにいられるものですか」

そうして、それまで頑なにレギオンとの距離を保っていたのが、ようやく、その気になったように、彼に向かって近づいていった。

「狩りをしましょう」 

誘うような魅惑を帯びた声で、カーイは、囁き、がっくりと落とされたレギオンの肩に手を置いた。

「昔のように、一緒に獲物から奪いましょう。あなたは、少し疲れているだけなんです。美しい、垢抜けたロンドンの女達相手に、恋をしかける、あのゲームをしましょう。暖かい、最高級の血で喉を潤せば、じきに勘が戻って、以前と同じように、生きることを楽しめるようになりますよ」

カーイが、こんな優しい言葉をかけたのは、ほとんど、仲間に対する義務感からだった。

「放っておいてくれ!」

大声をあげて、レギオンは、カーイの手を振り払った。

「私は、やらない!狩りなど、くそ食らえ、だ。そうだとも、私はやめたんだ、もう二度と、演じることはやめたんだっ」 

カーイは、打たれた手と、寝台の上で頭を抱えるようにしながら、苦悶に身を震わせている男を見比べた。

「演じることをやめる、ですって?」

見下げ果てたというような目をして、カーイは、言った。

「私達は、自分が主役の舞台の上でずっと演じつづける。人間の役者が、舞台に立つ間そうであるように、いえ、それ以上に、定められた役に完璧になりきらなくてはならない。ただ、人間の演技にはすぐに終幕が訪れるけれど、私達の芝居は永遠に終わらない。演じることが生きること。それを、勝手に降りられるなんて、まさか、本気で思っているわけではないでしょう?」

レギオンは、答えなかった。そんな彼に、カーイは、刺すような目を向けていたが、やがて、全ての興味をなくしたかのごとく、視線を逸らした。

「勝手になさい。あなたには、失望しましたよ、レギオン」

そのまま、踵を返して立ち去ろうとするカーイを、レギオンの低い声が呼びとめた。

「カーイ、一つ、聞きたいんだが」

肩越しに振りかえったカーイを、レギオンの、皮肉な、挑みかけるような微笑が迎えた。

「ブリジットの…彼女の最期は、どんなふうだったんだい?」

思わぬ不意打ちにカーイの白い頬が微かに震えた。が、それだけだった。

「私を激昂させようとしても、無駄ですよ」

そう言い捨てて、足早に扉に向かうカーイの背に、今度こそ真剣な、懇願する声が追ってきた。

「待ってくれ」

巨大な鳥が羽ばたくような気配がした、次の瞬間、カーイのすぐ前に回りこんでいたレギオンは、彼の腕をしっかりと捕らえ、そのまま、壁に押さえ付けた。

「行かないでくれ、カーイ。ブリジットも…かつての友人達もどこかに消えてしまった。私には、もう、君だけなんだ」

「勝手なことを。その手を、離してください」

「頼む、傍にいてくれ。私を一人にしないでくれ。私は、打ちのめされ、弱くなって、飢えからくる寒さに震えている…どうか、君の血を飲ませてくれ」

カーイは、愕然となった。レギオンの腕の中で、激しく喘ぎ、抵抗することも忘れて、呆然と、相手の追いつめられた顔を見ることしか、できないでいた。

「私の血を飲むことなど、あなたには、できない。私は、もう、あなたを愛してなど、いない…」

やっとの思いでそう言うと、カーイは、ゆらゆらと首を横に振った。

「いいや、君の中には、まだ、私への愛が残っている。ここまで、会いに来てくれたじゃないか」

ぞっと怖気を振るって、カーイは、レギオンから、顔を背けた。

「カーイ」

レギオンの鋼と化した腕が強引な抱擁を強いるのを、その乾いた唇が潤いを求めて、カーイの頬を掠め、喉に向かって降りていこうとするのを、カーイは全身で拒否した。

牙をむき、獣めいたうなり声と共に、レギオンの胸を突き飛ばし、固めた拳でその顔を殴りつけた。人間なら、一撃で死んでいただろう、渾身の力を込めた一撃に、レギオンの長身の体は弾け飛び、反対側の壁に打ち付けられるようにして、倒れこんだ。

カーイは、レギオンが、起き上がるのを待たずに、すぐに外に向かって、駆け出した。

「カーイ!」

叩きつけるようにして閉じた扉の向こうから、悲痛な叫びがあがるのを聞いたが、耳をふさぎ、そこから少しでも遠ざかるよう、静まりかえった、夜の街を無我夢中で走った。幸い、ヴァンパイアの速度は、あっという間に、彼を、レギオンから引き離してくれた。そうして、気がつけば、暗く、寒々としたテムズ川のほとりにさ迷い出ていた。

真っ黒に見える水の流れを眼下に眺めながら、すっかり葉を落とした河岸の木の一本に背中をもたせ掛けるようにして、しばし、休んだ。体の疲れは感じないはずなのだが、精神的にひどく参っていた。 

胸元を見下ろし、そこにまだ、レギオンから贈られた赤い薔薇が咲いていることに気がつき、眉間をしわめて、それを毟り取ると、川の方に投げ捨てた。

「ああ…」

両手で顔を覆い、そのまま、ずるずると崩れるように、地面に坐りこんだ。そのまま、じっとうずくまっていた。

「レギオン…」

膝の上に顔を伏せ、肩を震わせて、まるで、泣いているかのようだったが、やがて、あきらめたように上げられた、その目は乾いたままだった。

「あなたのために、せめて泣こうと思ったのに…」

カーイは、泣けなかった。人間相手の空涙なら、いつだって流せるし、これまでずっと、そうしてきたはずだった。嘘の涙ばかり流してきたせいで、本当に悲しい時には、泣けなくなってしまったのだろうか。それとも、悲しいと感じる心が、何時の間にか、麻痺してしまったのだろうか。

寒さなど感じない身のはずなのに、ひどく、冷え冷えとした気分で、カーイは、うつろな目を川の方に注いだ。鉛の塊でも飲みこんだかのような重苦しさを、胸に抱えながら、そのまま、やがて夜が白々と明けるりを、じっと待っていた。

そして、その日のうちに、カーイは、ロンドンを離れた。レギオンとの不愉快な再会の記憶は、しばらく彼の脳裏に付きまとっていたが、意識的に頭から閉め出すようにし続けて、やがては、思い出すこともまれになっていった。

そうして、一人、各地を転々としながら、狩りを続けた。それをすることに、迷いも、疑いもなかった。カーイは、誇り高いヴァンパイアの、最後の子供だった。そのことを、一時も、忘れたことはない。何も、恐れてはいなかった。やがて、時代は二十世紀を迎え、自分以外の古い種族の声が、ぴたりと聞かれなくなっても、彼は、更に先の時代を見据えて、歩きつづけた。

そう、例えレギオンが脱落しても、仲間が一人もいなくなってしまっても、カーイは、終わらない舞台を続けなければならなかったのだ。


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