愛死−LOVE DEATH− 

第六章 彷徨


茶色く縮んだ、かさかさした枯れ葉がいっぱいに散らばる、ひっそりと静まりかえった街外れに、ロングコートの、長い髪の人物が、じっと佇んでいる。これが、にぎやかな街中であったなら、通りかかった人々が一瞬立ち止まっただろう、印象的な、人目を引きつける姿だ。

上等だが、そろそろこんな薄いものでは寒そうな薄手の黒いコートの前は開けたまま、黒いタートルネックのセーターと細身の皮のパンツというシンプルな服装が、余計にその際だった、男性とも女性もつかぬ美貌を引きたてていた。ほとんど白に近い銀髪が風で顔にかかるのを煩わしそうにかきあげる以外は、ほとんど微動だにせず、その青い目は、ひたと前に向けられている。

カーイだ。

一体、何をそんなに熱心に見ているのか。

彼の前にあるのは、ロンドンのどこにでもあるような、比較的な小さな公園の一つに過ぎないというのに。

彼は、何かしら、迷い、不安を覚えたかのように、微かに首を傾げ、公園の入り口辺りに目をさまよわせたが、やがて、馬鹿馬鹿しいとでも言いたげな微苦笑を薄い唇にうかべると、唐突に動き、大胆な足取りで、その公園の中に足を踏み入れた。

(本当に、この場所だったろうか)

随分と葉も落ちて、かなり寂しくなってきた、大きな楡の木々の下を、何かを探し止めるようにゆったりと歩きながら、カーイは、一人ごちた。

一度しか訪れたことのない、その場所の記憶はあやふやだが、周囲をぐるりと、こんなふうな立派な樹に囲まれていたような覚えはある。昔の貴族の邸宅だかを改装した、歴史のある建物のはずだったから、もしかしたら、その一部でも保存されているかもしれないと思ったのだが、こうして、ぐるりと見て回った限り、建物らしいもの形は見つからない。先の大戦でのロンドン空襲でここも被害を受けたらしいが、本当に影も形も残らないほど破壊されてしまったのだろうか。この付近の街の様子も、カーイの目には、随分と新しい印象に映って、昔の面影はほとんどなかった。無理もない。彼が、ここを訪れたのは、二十世紀に入ってまだ間もない頃だった。

と、その時、一人物思いにふけりながら、歩く彼の目は、前方からこちらに向けて歩いてくる、仲良く散歩中の老夫婦を見つけた。 

「すみません」

呼びかけられたと思って、顔を上げた、その瞬間には、もうすぐ目の前まで来ている若者に、老婦人の方は、ひどく驚いて、小さな声をあげた。

「失礼、驚かせてしまいましたね」

彼の目から見ると、白く透けそうな皮膚も、頼りなげな骨も、あまりにも脆く、今にも壊れてしまいそうな、人間の老人達をなだめるように、優しい笑顔を向けて、カーイは、言った。

「あの…一つ、お尋ねしたいのですが、昔、この辺りに大きな病院があったというようなことは…覚えてらっしゃいますか?」

唐突なカーイの質問に老夫婦は顔を見合わせたが、夫人の方が、人づてに聞いた話を覚えていて、彼に話してくれた。

ええ、ええ、そう言えば、そんな話を聞いたことがありますよ。私は、結婚して、初めてここに移ってきたんですが、お隣の奥さんが、ここの生まれでね。戦争前はこの辺りがどんなだったか、よく話してくれました。ここも、今じゃ、こんな公園になってますけれど、以前は、立派な病院があったそうですよ。戦争中は、空襲で怪我をした人でいっぱいだったって。それが、ついには、ドイツ軍の爆撃にあってね、ひどい火災になって、逃げ遅れた怪我人が大勢亡くなって、それは無残なものだったそうです。

もっと以前は、精神病院だったって?さあ、そこまでは、私には…ただ、とても古い建物だったという話ですから、時代によって、様々な使われ方をしていたのでしょうね。

今は、どうなったって?ご覧のとおり、建物は、修復も諦められて、ほとんど残っていませんよ。ああ、壁の一部だけが、何でも、歴史的に貴重なものということで、わずかに残っているくらいで。どこに?この先をずっと行った所にある薔薇園にですよ。

短い礼を言って、足早に離れていく若者を、老夫婦は、素直な感嘆のこもった眼差しで見送り、そっと囁きかわした。

驚いたね、すごく綺麗な人じゃないか。天使みたいじゃないか。

カーイの方は、例え、その超常の聴力が、老人達の囁きを捕らえていたとしても、何の意味もないもののように、関心を払わず、教えられた方向目指して、まっすぐに歩いて行った。

(一体、私は、何をしているのだろう…。今更、こんな場所まで探し当てて、何かが見つかるなどと、期待しているのだろうか)

百年近くも前になくした、かつてはとても大切だったものが、そこにはあったはずだった。だが、どうして、今更、探そうなどという気持ちになったのか。ロンドンを訪れたことなら、何回もある。これまで、思い出したこともほとんどなければ、わざわざ、こんなふうに訪ねようなどという酔狂をおこしたこともない。それが、スルヤと出会った日、偶然この近くを通りかかった時から、どうしても、気になって、こんなふうに、ついに来てしまった。

(本当は…たぶん、思い出したくなかっただけなのかもしれない。恐かったのかも…心の奥底に封印した、忌まわしい亡霊がよみがえってきて…私の大事にしていた、子供の頃の思い出をめちゃくちゃにされそうで。馬鹿だね、カーイ、二百年も生きてきて、まだ、そんなふうに、何も知らない子供時代に見た夢にしがみついていたのかい。生きることは、少しも優しくも美しくもないし、裏切りと失望に満ちている…いいかげん、分ったと思っていたけれど…)

自分が、何時の間にか、憂鬱そうに顔を俯けている自分に気がついて、カーイは、腹立たしげに唇を噛むと、昂然と頭を上げた。

程なくして、目当ての薔薇園にたどり着いた。半ば倒壊した赤レンガの壁に三方を取り囲まれている。かつてはかなり大きかった建物の一部を利用したもののようだ。朽ち果てた、歴史を感じさせる建造物の残骸とそれに取り囲まれるようにして咲く薔薇は、これが、春であったら、なかなか趣があったのだろうが、この季節のことだから、葉の色も暗く変色し、遅くについた蕾が僅かに残るだけ、それも、開かぬままに霜枯れていくのだろう、見るからに寒々としたものだった。

カーイは、挑みかけるような視線を薔薇園に向け、ためらいのない足取りで中に入りこんだ。茶色に枯れたラベンダーの下生えが、足早に歩く彼の脚をこすって、乾いた音をたてた。

ほとんど裸になった蔓薔薇を伝わせた、赤い石壁の前にカーイは、立ち止まった。

手を伸ばし、冷たい、わずかな湿気を帯びた、古い壁に表面に、そっと指を滑らせた。複雑な感情に揺れる瞳は、目の前の壁をつきぬけて、どこか別の場所を見ているかのようだ。壁の感触を確かめるように撫でていた手をとめ、唐突に彼は、爪をたてた。

凍りついた薔薇のような唇が微かに動き、ひどく疲れた、苦笑混じりの声が、つぶやいた。

「レギオン…」 


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