愛死−LOVE DEATH− 

第五章 凍てついた闇から



(畜生。畜生)

夜の更けた、静まりかえった、クリスマスの夜、パリの街の石畳を一人走る子供がいる。

(あんな女、死んじまえばいい。勝手な事ばかり言って、人の気持ちなんか、おかまいなしで。嫌いだ、大嫌いだ)

子供の名は、スティーブンだ。

両親と友にクリスマス休暇を過ごすためにここ、パリを訪れていた、12才の少年。

楽しいものであるべきその旅は、しかし、最初から気まずい雰囲気のものだった。両親の仲はとっくに破綻しており、不倫中の母親はその事をもはや隠しもせず、離婚の機会をうかがっており、それでも父親は、己の家庭の崩壊の事実を認めようとはせず、家族で素敵なクリスマスを過ごすために、パリの高級アパルトメントを二週間借りることにしたのだ。

環境が変われば、離れつつある家族の心を一つのまとめることもできるかもしれないという淡い期待もあったのだろうが、その当ては外れた。一緒にいる間、何かというと口論ばかりの両親といることに、スティーブンの神経はすっかり参ってしまった。これでは、家にいる方がまだましだった。仕事を口実に顔を合わさないようにしていれば、不要な争いも避けられるのだから。

何より、スティーブンをうんざりさせたのが、愛人との関係になんの後ろめたさもなく、事あるごとに、離婚した時は、自分がスティーブンを引き取ると、愛人もその事を承知しているので何の問題もないと、母親が、かき口説くことだった。

(ね、あなたもママといたいでしょう?)

拒否されていることをまるで意に介さずに、一方的で身勝手な母の愛を押し付ける。どうして、あんな女を、母親などと呼んで、愛せるだろう。

「あーあ、随分遠くまで来ちゃったみたいだな」

飛び出して来たアパルトメントから、そこにある嫌なものから逃れたいばかりに無我夢中で走りつづけたスティーブンは、セーヌ側に面した、昼間は河岸を散歩する人も大勢いるだろうが、さすがにこの時間では人気のない、背の高い街灯にぼんやりと照らし出された通りにさまよい出た所で、足を止めた。

この真夜中に、居間でまたもや何事か言い争いを始めた両親の声に、眠りから叩き起こされたスティーブンだった。またかという諦めに似た思いと、両親の荒げた声を隣室に聞くうちに胸の奥から沸き上がってくる怒りと哀しみに、ついに我慢の限界に達したスティーブンは、一人、こっそりとアパルトメントを脱け出したのだった。自分がいなくなった事に気がつけば、両親はどんなにか心配し、動揺するに違いない。あの無神経な母親も、自分がどれだけ息子を傷つけているかに気がついて、少しは反省するかもしれない。それによって、両親が仲直りすことを期待していたわけではない。そこまで、無邪気な子供では、彼はなかった。けれど、たぶん、普通の子供のように、もう少し優しくされたかったのだ。

へとへとになるまで走ったせいか、少し気分は落ち着いたようだ。そうすると、改めて、凍てつくような冬の夜の冷気を意識し、両手を顔の前に持って来て、はあっと白い息を吹きかけた。しまった。手袋をしてくるべきだった。それから、慌ててはおっただけのジャケットのポケットに両手を突っ込んだ。

(どうしよう)

朝までは遠く、このまま寒い外にいるのは耐えがたかったが、かと言って、言い争い合う両親の待つアパルトメントに戻る気にはなれず、隠れ場所を探し求めるように、川沿いをとぼとぼと歩き始めた。

それにしても、寒い。走って温まった体も、あっという間に冷えてしまう。

(地下鉄の駅を探して、もぐりこんでみようか。ホームレスみたいに。けれど、そこで本物のホームレスや麻薬をやっているような怪しげな連中に出くわすのは嫌だな)

十二歳という年齢の割にしっかりしたスティーブンだったが、人っ子一人いない真夜中通りをさまよっていると、さすがに心細く、寂しい気持ちになって来た。

一人ぼっちで歩きつづける、傷ついた少年は、やがて河にかかった、ゆるくカーブした橋に差しかかった。そこで、はっとなって足を止めた。

人がいる。

こんな時間に、自分以外の人が外にいる事が意外だった。泥棒とか、麻薬中毒者とかの類かもしれないと、初めは思って、警戒し、見つからないように橋の袂に身を低くして隠れたが、そうっと様子をうかがってみると、そういうわけではなさそうだった。

橋の上の街頭の丁度下辺りにいるので、スティーブンにも、彼らの様子は分った。身なりのちゃんとした、若い男女の二人連れだ。カップルのようだった。さすがに顔や、何を話しているのはまでは分らなかったが、橋の縁に背中をもたれかけるようにしている男と向き合うようにして、女が立ち、何やら親密に話しこんでいる。黒っぽいロングコートをまとった女の髪は長く、ほの白く輝いて見えた。

次の瞬間、スティーブンの目は真ん丸く見開かれた。

(うわぉっ)

恋人達は、まさかこんな所に人の視線があるなどとは夢にも思わず、互いに腕を回しあって、抱擁し、熱烈なくちづけを交し合いだしたのだ。

(すげえ、すげえぞっ)

と、映画の中で見るかのようなラブシーンに、興奮した悪ガキは、その瞬間、じめじめと落ちこんでいた気分も綺麗さっぱり忘れ去ったようだ。用心深く身は屈めたまま、橋の袂から身を乗り出し、目を細める様にして、偶然目撃する事になった刺激的な見世物に我を忘れて、見入っていた。

二人だけの世界に埋没しているらしい恋人達は、抱き合い行為にすっかり夢中になっている。くちづけは激しく、互いをむさぼり尽くそうとしているかのようだ。しまいにはキスだけではおさまらず、女の手が男のジャケットの胸元に伸び、そっと前をはずし出すのに、スティーブンは、喉をゴクリと鳴らした。

(見たい。もっと近くで)

子供には刺激の強すぎる展開に悪乗りしてきたスティーブンは、悪戯気を発揮して、橋の上の恋人達に密かに近づこうと試みた。相手には、気づかれないように、息を殺して、静かに、静かに。よし、歩腹前進だ。じりじりと恋人達に近づいて、適当な所で、大声を出して、驚かせてやろう。

冬の冷気に胸を顕にされた男の、興奮に熱くかすれた呻き声に、スティーブンの心臓の鼓動も早くなった。どきどきしながら目を上げると、ほんの4、5メートルばかり離れた所で、欄干に背中を押しつけられるようにしてたつ男の胸に女が顔を埋めている。そのほっそりとした手が肌を滑り、その伏せられた顔が動くたび、顔をのけぞらせた男の口から、戦慄くような息が漏れていた。

背徳的な行為にふける恋人達を脅かすには絶好のタイミングだったが、スティーブンにはできなかった。顔を上げたまま、その扇情的な光景に魅せられたかのように、ぽかんとなって見惚れていた。黒いコートの肩から背に流れ落ちる女の髪が、橋の上を吹きぬける風に揺れ、白い翼のように広がり、その陰に一瞬男の姿が見えなくなる。何だか、巨大な白い鳥に食べられているようだと、スティーブンが思った、その時、恐るべき事が起こった。

女の手が男の顔に伸び、それをぐっと押さえるようにし、胸から滑るように這い上がったその口が、男の首筋を探り当て、そこで止まった。

男の体が、電流に触れたかのようにびくりと大きく震えた。胸の奥から迸った絶叫は、しかし、口をふさぐ、繊細なくせに強靭な手に塞がれて、わずかしか漏れなかった。

スティーブンは、それでも、しばらく、自分の目の前で何が起こっているのか、理解できなかった。

女に覆い被さられた男の体は、しばらく、凄まじい緊張と衝撃に震えていたが、やがて静かに、ぐったりと力なく崩れ落ちていった。女の腕が、いまや意識のないただの塊と化した男の体を支え、一方的な、鋼のような抱擁を続けているのだ。

静まりかえった空気を伝わって、何かをすするような、奇妙な音がスティーブンの耳に届いていたが、それが何であるのかも、彼には分らなかった。

魂を奪われてしまったかのように、その異様な抱擁の一部始終を目撃した少年の前で、女はやっと恋人の首筋から顔を上げた。とたんに、妙に生白い男の首から胸にかけて流れた赤い血の筋が、目に飛び込んで来た。スティーブンの、頭に中で何かが弾けた。

男は、既に事切れているように見えた。殺されたのだ。女に血を吸われて。

女は、腕の中でぐったりと動かなくなった恋人を、しばし、名残を惜しむかのように見ていたが、暗いセーヌの流れにちらりと目をやったか思うと、信じられないような怪力を発揮し、自分よりも大きな男の体を引きずりあげ、欄干から、下を流れる河に簡単に投げ落としてしまった。

大きなものが落ちた水音に、少年は、弾かれたように、大きく身を震わせ、思わず小さな悲鳴が漏れてしまった口を両手で押さえた。

(逃げなきゃ。逃げなきゃ。)

しかし、起きあがろうとあがいても、恐怖にすくみ上がった体は、思うように動かず、がくがくと震える足を叱り飛ばして、駆け出そうとしたが、すぐに足がもつれて、無様に転んでしまった。

(は、早く、逃げなきゃ)

動転するあまり鳴きそうな声でそうつぶやいて、彼が地面から這いあがろうとしたその時、彼の目は、すぐ前の地面に立つ、綺麗に磨かれた黒皮のブーツを捕らえた。

自然に、体がおこりにかかったように震え出し、歯ががちがちと鳴り出す。恐怖にかられながらも、ほとんど無意識に視線を上げる彼が見たものは、とてもつい今しがた人を殺したようには思えない穏かな風情で、自分の足元で震えあがっている子供を不思議そうに見下ろしている、長い白銀の髪をした、恐るべき美貌の殺人者だった。

近くで見ると、その美しさは圧倒的で、女性とも男性とも思えず、まるで淡い燐光を発しているかのような顔も髪も、とても人間には見えなかった。その超然とした雰囲気は、パリで見て回った美術館や教会の絵に描かれた、光背を帯びた天使にも少し似た所があるが、そのどれよりも美しかった。少年のすぐ傍に立っているその足が、地面から浮き上がっていたとしても、少しも不思議ではなかっただろう。 

この世のものではなかった。

スティーブンは、何かを言おうとするかのように口をパクパクさせたが、実際に舌まで凍りついてしまったかのように一言も発する事ができず、恐ろしいと思うのに、この人間ではない何者かの顔から目を逸らす事もできず、その抗いがたい不思議な魔力をはらんだ眼差しを呆然と受けとめたまま、金縛りにあったかのように地面にはいつくばっていた。

彼女、あるいは彼は、そっと首を傾げ、微かに戸惑い、憐れむかのようにスティーブンを見下ろしていたが、少しして、口を開いた。

「見ましたね、坊や?」

その声は、怒りや悪意は少しもにじませず、静かで、その姿そのままに、物柔らかなものだったが、にもかかわらず、冷たい河から吹き上げてくる身を切る風よりも、身も心も芯から凍えさせる、底知れぬ冷酷さを孕んでいた。殺されるのだと、スティーブンは、本能的に悟った。見てはいけないものを見てしまった、不運な幼い目撃者を、憐れみこそすれ、見逃す気は、人ならぬ殺人者にはなかったのだ。

「こんな時間に、こんな所で、君のような子供がまさか見ているとは思いませんでしたた。間が悪かったですね。可哀想だけれど、仕方ありません」

ほとんど優しいとさえ言える表情でそう囁いて、僅かに細めた、その目は、凍りついた湖のように冴々と青い。またしても、吹く風にふわりと広がった白銀の髪がその背中を覆う翼となった。その手も、どんなにか冷たいだろうと思っていたが、実際、そのほっそりとした優雅な手が自分に向かった伸ばされ、その指先が頬に触れた時に感じた意外な熱さ、まるで今殺したばかりの犠牲者の体温をとりこんだかのように火照ったその手に触れられた瞬間、スティーブンの呪縛は吹き飛んだ。

「嫌だぁっ!」と、叫んで、スティーブンは、その手を振り払った。見逃してもらえるとは思わなかったし、とても逃げられるような状態でもなかったが、両手で己の頭を庇うようにし、必死の思いを込めて、泣き叫んだ。

「やだっ、助けて…助けてっ、ママ…ママぁっ!!」

この追いつめられた状況で、なぜ自分が、よりによって、大嫌いなはずの母親を呼んでしまったのか、彼には、この時はむろん、後になって考えてみても、どうしても分らなかった。

と、少年に伸ばされた殺人者の手が、唐突に離れた。

スティーブンは、それでも、いつその残酷で容赦ない一撃が自分に襲いかかってくるかと、怯えきって、腕で頭を庇ったまま震えていたが、いつまでたっても、相手が何も仕掛けてこないことに気づいて、ようやく、恐る恐る顔を上げてみた。

「あ…?」

少年に向けられた、人間ばなれして白い顔に、僅かな変化が生じていた。あえて言うなら、共感とでも言うのだろうか、何かしら今初めて意識したかのように、スティーブンの、涙に濡れた、幼い顔をしげしげと眺めていた。

「坊や、年は幾つですか?」

彼(どうやら、女性ではなく、男性である事が分った)は、諦めたような溜め息をつき、そう言った。

「じゅ、十二…」

ひくひくと喉を鳴らせている子供の幼さが、彼をためらわせたのだろうか。先程感じられた、冷え冷えとした殺意はきれいに拭い去られていた。スティーブンは、助かったのだ。

「やはり、まだ幼すぎる。母親を呼んで、泣くくらいですからね。いいでしょう、今は見逃してあげますよ。けれどね、その代わり、今夜、君がここで見たことは、誰にも、例え君の親や、どんなに親しい友人にだって、決して話してはいけません。この秘密は、君が死ぬまで、ずっと胸にしまっておくんですよ。ね、坊やだって、君の親の年になるくらい、それ以上に長生きしたいと思うでしょう?」

その意味する所に、震えあがりながらも、スティーブンは、大きく頷いて、秘密にする事を誓った。

「いい子ですね。では、約束しましたよ。一言も話してはいけませんよ。君のお母さんを哀しませるようなことをしては駄目です」

そう囁いて、彼は、スティーブンの前に膝をつき、恐怖のあまり血の気の失せた、小さな顔を両手で挟み込んだ。怯えきってはいても、すぐ目の前に迫った、天上に輝く月もかくやのごとき美貌は、目をつぶって、そこから逃げることすら許してくれず、そうして、少年の柔らかな脳に、魂に、深く刻印するかのように、彼は、その額に唇を押し当てた。柔らかく、絹のように滑らかで、微かな血の匂いがする、くちづけだった。

「約束、しましたよ」

そうして、ついに限界に達した、少年の意識は闇に沈んだ。




長い悪夢を見ているようだった。

次に、スティーブンが、意識を取り戻したのは、病院の集中治療室だった。ぼんやりとかすんだ目の端で、取り乱した母親と、やはり動転した父親が、医師らしき白衣を着た男の前で何か言い合っているのを認め、またしても彼は気を失った。

目をつぶるとすぐに、赤黒い熱夢の底から、あの白く輝く顔が、決して消えない地獄の火のように吹きあがり、燃えあがって、スティーブンに押し迫り、圧倒した。絶叫して、振り払い、逃れようとあがいたが、その火は彼を捕らえこんで、離そうとはしなかった。

(約束、しましたよ)

実際、明け方近く、セーヌ河の袂で倒れているのを発見され、意識不明のまま病院に運びこまれたスティーブンは、続く数日間を、肺炎からくる高熱と、何かしら精神的なショックを受けたのだろう、夢にひどくうなされて、度々絶叫を上げつづけたのだ。しかし、決して、彼は、そのことについて、例え無意識にでも、口には上らせなかった。夢の中の、白い怪物が彼に約束させたからだ。誰にも、決して、一言も話してはならない。

五日後に、ようやく意識を取り戻し、容態が安定し、そうなると健康な子供らしい体力を発揮して、体の方は瞬く間に回復に向かっても、スティーブンは、やはり一言も話さなかった。心配そうに、何があったのか尋ねる両親にも、治療にあたって医師たちにも、一言も口をきかず、自分の殻の中に閉じこもってしまった。

そう、スティーブンは、言葉を失っていた。初めは高熱による脳の障害かとも疑われたが、どこにも異常はなく、神経的なものと判断されて、退院した。

帰国後、スティーブンは、一年あまりをカウンセラーにかかることになった。両親の不仲が原因だろうと、担当のカウンセラーは考えていたようで、両親もその説明に納得していた。スティーブンだけが、そうではないことを知っていた。

彼は、口を開くことを恐れていたのだ。少しでも、何か言ったら、あの夜の恐怖が悲鳴となって、胸の奥から迸り、それとともに決して明かしてはならないあの秘密を吐き出してしまうかもしれない。

あの夜以来、両親はスティーブンに対しては、腫れ物を扱うように、奇妙に優しくなったが、その実、ますますよそよそしくなっていった。

母親は、息子に失望したのだろう。

こんなはずではなかった。こんなふうになるはずではなかった。私は何もこの子に対して、誤ったことはしていないのに、どうして、この子は、しゃべれなくなったのだろう。いいえ、私は、悪くない。

次の年のクリスマスが来る前に、母親は、ついに家を出ていった。

父親は、とうに覚悟していたのか、無感動にその事実を受けとめていた。息子に伝える時だけ、微かな苦渋をその疲れた顔にうかべていた。

「スティーブン、お母さんは、出て行ってしまったよ。もう、帰ってはこないだろう。おまえに辛い思いばかりさせてすまない。だが、おまえのことは、お父さんがちゃんと面倒見てやるから、心配しないで、な」

その瞬間だ。スティーブンが、ほとんど一年ぶりに言葉を発したのは。

「ママは…俺を捨てたの?本当に、もう、俺のことなんか、いらなくなったんだ」

とたんにそれまで石のように固く閉ざされていた心が、爆発し、いなくなった母親を恋しがり、なじり、怒りをぶつけて散々泣いた後は、彼は、すっかり元通り話すことができるようになったのだった。

それからのスティーブンは、ごく普通の少年に戻って、父親と二人きり、多少の不自由はあったが、それなりに平和な暮らしを送るようになった。当たり前に学校に行き、友達と元気に遊びまわって、勉強は好きではなかったがそこそこでき、休日には、父親とサッカーの試合を見に行くのが何より好きな、平凡な少年。どこにも、彼がかつて一年もの間言葉を失っていたということを窺わせる、陰りはない。父親も、あえて、あのパリの夜、息子の身に実際何があったのか、是が非でも追求しようとはしなかった。思い出させることで、再び、息子が以前のように心を閉ざしてしまうことを彼は何よりも恐れていたし、それに、思春期の子供の心をあのように傷つけてしまったのは、親のいたらなさだと考える方が、実際受け入れやすかった。仮に、もっと恐ろしくおぞましいことが息子の身に起こっていたと薄々気づいてはいても、異国の地のたった一夜に起こった出来事、少年が河岸で発見された数日後に、同じ川の下流で、身元不明の変死体が引き上げられたというような事件と、自分たちを結びつけることまではできなかったろう。

そうして、あの恐ろしい夜から、9年の年月が流れた。これまで、スティーブンは、約束どおり、決して、誰にも、あの夜の体験を打ち明けも、それらしいことを匂わせることもしなかった。彼自身、表面的には、その時の記憶などきれいさっぱり忘れ去ってしまったかのような様子だった。

しかし、幼い日に出会った悪夢、彼に襲いかかりその心を恐怖で焼いた白い炎のような影は、彼の魂の奥底にとりついて、未だに、その冷たい火の舌で彼の心を焼き焦がしていた。あるいは、彼と短い期間共に暮らした恋人達のうちの何人かは、彼が、ひどくうなされて真夜中に悲鳴と共に目を覚ます姿を知っていたかもしれない。自信家で堂々とした彼が、その時ばかりは、怯えた子供のように震えあがって、何も言わずに、顔をてで覆って泣くばかりあったことを。

そんな夜は、スティーブンは、慰めようとする彼女らの優しい言葉も、もっと直接的な抱擁も、決して受けつけようとはしない。頑なに拒否し、一人、寝室を出て、自分の作業部屋に閉じこもってしまう。

スティーブンは、写真の作業をするその部屋にだけは、恋人も、親しい友人も、絶対にいれようとしない。愛用のカメラやフィルムやその他、様々な機器が散乱する中、グラフィック作業用のコンピューターのスイッチをいれ、作業中の画像を呼び出し、その前に何時間も、朝が来るまで座りつづけるのだ。

それは、スティーブンが、本格的にグラフィックをやり始めた、ここ二年ほどの間に、ひそかに作り続けているイメージだった。

これまでモデルにした女達の数多くの画像から、一部ずつ、取りだし、繋ぎ合わせたものをもとにして、ある一つの顔のイメージを作り上げることに、彼は、熱中していた。

コンピューターの画面は、長い髪を持つ、ほの白く輝く人物の顔を描き出している。スティーブンは、少年の日に、彼の胸に焼きついた傷跡をなぞり、形あるものとして、目の前に復元しようとしていたのだ。まるで、己を傷つけた者だけが、その傷を癒してくれるとでもいうかのように。

あの顔は、こんなふうだったか。いや、少しも似てはいない。目も、唇も、こんなものではなかった。青い光が乱反射するような、あんな底知れない目をどうやって、作り出せるだろう。優しいくせに、ぞっとするほどに酷薄な微笑みを、どんなふうに作り出せるのか。肌の色だって、もっと、こう透明で、淡い燐光を帯びて、とても人間の肌のようではなかった。

恐怖に捕らわれ、発作のように小刻みに震えながら、まるで自らに苦行を科すかのように、その画像に更に手を加え、同時に、求めてやまない恋人の面影であるかのように、愛しげにそのイメージに指を走らせる。

この秘密は、誰にも明かせない。

例え、スルヤにだって、母親に対する複雑な思いも、自分の屈折した性向も、明け透けに打ち明けられる、大切な友人にも、これだけは話せない。

記憶に封印をし、時の流れに任せて、忘れられたなら、よかった。この夜毎の悪夢を恋人にして生きたい訳ではない。けれど、あの運命の夜から、スティーブンの魂は、とりつかれてしまった。

幼い彼の目の前で、恋人の喉を噛み切り、血を飲んで殺した、その存在は、しかし、善悪を超越して、美しかった。捧げられた供物を飲み干す傲慢な神のように、神々しくさえ見えた。人殺しの場面に美を見出すなどと、いかれているかもしれない。だが、どこか太古の匂いのする未開の地で、暗い秘密の祭儀を覗き見してしまった、そんな気持ちがするのだ。

とすれば、投げ出してしまいたい衝動に度々かられながらも、記憶に残るイメージを再現しようというこの試みは、さながら神の似姿を自らの手で作り出そうという古くおなじみの信仰にも似てはいまいか。馬鹿げている?そう、きっと。

そうして、その人の白い腕の中で、死んでいく犠牲者の顔は、気がつけば、スティーブン自身のものとすりかわり、言い知れぬ戦慄と共に体中に快い震えを走るのを覚えた。

このいわく言いがたい魅惑を、何と呼ぼうか。

恐ろしく、激しく、圧倒的で、情け容赦のない、決して逃れ得ない何ものか。

死への誘惑に、それは酷似していた。

 

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