愛死−LOVE DEATH− 

第五章 凍てついた闇から



愛用の一眼レフカメラを、スルヤは熱心に覗いている。

レンズの向こうには、赤茶色の枯葉が積もる湿っぽい地面を、わき目も振らずに一生懸命掘り返している、灰色リスの一団がいた。木の実を、そうやって地面に隠しておく習性があるのだが、あまり頭のよくない彼らは、自分たちがどこに隠したのか、じきに忘れてしまう。どこの公園でも、あるいは庭先でもよく見られる、この可愛らしくユーモラスな小動物は、スルヤの気に入りの被写体の一つである。

この日も、日差しの明るい朝から、よく出かける公園に、数台のカメラをつめこんだリュックサックを背負って出かけたのだが、撮影にかかるとつい熱中して、時間のたつことは無論、自分の周りに注意を払うことも、忘れ果ててしまうスルヤは、シャツの上に薄手のセーターを着ただけの格好で、体がすっかり冷え切っていることにも気づかず、ほとんど地面にへばりついて歩腹前進でもついてるかのような姿勢で、すばしっこいリス達を驚かせてしまわぬよう、慎重にカメラで追っていた。

(やれやれ…)

スティーブン・ジャクソンは、そんな友人の姿を、人の姿もまばらな広々とした公園の片隅に見つけた瞬間、あきれたような溜め息をついて、軽く肩を竦めたが、その口元には、親しみのこもった笑いがうかんでいた。

彼の存在に全く気がつく気配もないスルヤを、ステーブンは、立ち止まったまま、しばらく眺めていたのだが、ふいに、思いついたように、肩に引っ掛けていたショルダーバックからカメラを取り出し、無言のまま構えた。

いいアングルを見つける為、息を殺し、足音を忍ばして、ゆっくりと移動する。ここからでは、あまり光線の具合はよくないが、枯葉まみれになって夢中でリスを追っている男の子の構図は、なかなか面白いではないか。よしよし、そのまま、動くなよ。

静かな公園に、唐突にシャッター音が響き渡った。カメラのファインダーを通した、自分だけの世界にすっかり埋没していたスルヤは、よほど驚いたのだろう、おどかされた猫の子のように、びくっと身を震わせて、地面から跳ね起き、斜め後ろにいたスティーブンの方を振りかえった。がさっと、枯れ葉が音をたてて、舞いちり、突然の物音に、灰色リスたちも、手にした獲物を取り落とし、一斉に逃げ去っていった。

「ス、スティーブン!もう、いきなりびっくりさせないでよっ」

大きな目を真ん丸く見開いて、心底驚いたというように、声を張り上げるスルヤの動揺ぶりに、スティーブンは、吹き出した。

「ああ、悪かった。おまえが、あんまり真剣で、おれが近づいても全然気がつかないふうだったからさ」

スルヤは、少し恥ずかしそうな顔をして、それから、スティーブンの手にしたカメラに気がついた。

「…何?俺のこと、撮ったの?」

「ああ。俺が男を撮るなんて、めったにないんだが、何ていうか、可愛らしくてさ…って、怒るなよ。女の子の御機嫌を取りながらのポートレート撮影には、時々うんざりすることもあるんだよ」

「ふうん…」

女の子の扱いについてあまりよく知らないスルヤは、ちょっと首を傾げ、それから、灰色リスの消えていった辺りを、惜しそうに肩越しに振りかえった。

「そろそろ、この辺りは日差しが陰ってきたし、撮影はもう終わらせたら、どうだい?昼飯だって、まだだし、腹が減ったろ?近くのカフェかピザ屋に飛びこんで、何か食っちまおうぜ」

「お昼ご飯…あ、そうか、忘れてた」

腕時計を見て、改めて、いつのまにそんなに時間がたっていたのかと驚くスルヤに、スティーブンは、優しく目を細めた。

「そんな薄着じゃ、風邪ひくぞ」

撮影の邪魔になるので、近くのベンチに残していた、スルヤのジャケットを、スティーブンは、投げてよこした。そうして、くるりと背を向けて、歩きだす。

「あ、待って」

スルヤは、手もとのリュックサックとジャケットをつかみしめると、先に立って歩き出した、背の高い友人の後を、慌てて、追いかけた。




スティーブン・ジャクソンは、スルヤの親友であり、クラスは違うが、同じ美術学校に通う仲間でもある。

主に動物や風景を撮るスルヤに対して、スティーブンは人物のポートレイトやグラフィック的なものがテーマであったし、海外留学生のスルヤとロンドンで生まれ育った生粋のイギリス人であるスティーブンとでは、実際、生活や性格に共通点もあまりなく、どうしてこの二人が、うまがあうのか、夜遊びや、休みの日はしょっちゅう撮影やら課題についての相談やらと一緒に出かけ、つるんでいることが多いのか、傍から見ている他の友人達にとっては、少々不思議だった。

本当は、ただ気の合う親友同士というのとも少し違っていたかもしれない。むしろ、スティーブンの方が、兄貴分的にスルヤの世話を焼きたがっているようだと、評する連中もいる。それは、ある意味、正しい。社交家で友人も多く、講師たちの受けもいい、要領がよくて何でもできてしまう、父親が舞台写真をやっているだけあって、プロの俳優やモデル達にも顔がきく、年の割に大人びた所のあるステーブンは、写真をやる友人達からは一目置かれて、何か集まりがあればほとんど必ずその中心にいたし、女優だったという母親に似たのだろう、端正な面立ちで、女の子にもよくもてた。そんなスティーブンにとって、右も左も分からない異国の地に一人やってきたばかりの、年よりもかなり子供っぽく見える、見知らぬ他人に対する警戒心など皆無の、人なつっこい笑顔を誰彼構わず向けるスルヤは、危なっかしくて、放っておけない相手なのだと。

だが、決して、それだけではなかった。

叔父が有名な写真家だということで、初めから、スルヤは、あまり彼のことをよく知らない者達から、余計な関心を引いてしまっていた。やっかみもあったのだろう、何かというと叔父を引き合いにだして、スルヤの作品をこき下ろしたり、講師達の評価は彼に関しては甘いのは叔父の威光があるからだなどと、無責任な中傷をする者すら、あった。

そんな心ない噂も、聡いスティーブンの耳には、当然入っていたし、にもかかわらず、にこにこ笑っているスルヤに、言葉がひょっとしたらよく分かっていないのかもしれない、鈍すぎる、こいつは本当に馬鹿ではないかと、初めのころは、そんなことを思いながら、離れた場所でただ見ていたのだった。が、ある時、スルヤは、本当は、それら不愉快な囁きの存在はちゃんと分かっているのだということを知って以来、スティーブンの彼を見る目は、少し変わった。

「だって、そんなことでいちいち腹を立てたり、落ちこんだりしても、仕方ないもの。有名な叔父さんと同じ、写真を勉強していくつもりなら、ずっと比較されたり、あの人の甥だという先入観に付きまとわれるのは、初めから覚悟してなきゃならないことだし。俺は、叔父さんのことは尊敬しているし、その作品も大好きだけれど、叔父さんを目指している訳でも、全く同じものを作りたいわけじゃないし…作風も全然違うって、見れば分かるのに、何で、あんなこと言うのかなぁ。きっと、あの人達は、自分の思いこみの色眼鏡をかけて、よく知ってもいない俺のことを見ているんだね。俺は、まだ、ここに来て日が浅いし、友達だってそんなに多くないから、変な誤解が先走るのも、仕方ないけれど、時間がたって、俺のことをちゃんと分かってもらえたら、そんな思い込みもなくなるだろうから。そうしたら、今は陰口言ってるような人とも友達になれるかもしれないし。どうしても駄目な相手も、そりゃ、いるかもしれないけれど、だから、その点は、あまり気にしていないんだ」

楽天的で前向きな性質にも好感を覚えたが、あっけらかんとそう言った口調にも表情にも、変な卑屈なところや、自分にそう言い聞かせて納得させようとしているような暗さが微塵も感じられないことに、スティーブンは、何かしら胸をつかれたのだった。それから、今までは、やはり「あの写真家の甥っ子」としてしか認識していなかった、ろくに話したこともなければ、まともに向き合ったこともなかった、相手の目を初めて正面から見、その中を覗き込んだ。またしても微かな衝撃に胸が震えた。父親の仕事の関係もあって、子供のころから、モデルの撮影に立ち会った機会も度々あった、年の割には、色んな被写体相手に人物写真を撮ってきたし、ファインダーを通じて、相手の内面を感じ取り、見つめる目は肥えているつもりだ。けれど、こんな目をした人間には、ちょっと出会ったことはない。一言で言えば、綺麗な瞳なのだが、あんまり恐れ気がなくまっすぐで、澄みきっているので、生々しい人間にそれよりも、むしろ、深い森に住む、優しい生き物のそれを思わせた。

とっさにそこから目を逸らしてしまったのは、自分こそ、スルヤのことを何も分かっていなかったくせに馬鹿にして、ある種の優越感に浸っていたのだという事を気づかされて、恥ずかしくなったからだ。

以来、スティーブンは、スルヤを傍から離さなくなった。クラスは違っても、スルヤのいる教室に休みの度に現れたし、ランチも、帰る時も一緒で、生徒達がよく集まるパブにもスルヤを連れてくるようになった。ガールフレンドにだって、そこまで親切にしたことなどないだろうに、毛色のちょっと変わった新しい友人に、スティーブンは、何やら夢中になっているようだと、からかいの種になるほどだった。

「別にいいんだ。あいつは、ちょっと変わっている、というか、特別なんだからな」と、そんな軽口に対しては、スティーブンは、ますますよく分からないことを言って、煙に巻くのが、常だった。

「分からなきゃ、あいつの目を見てみろよ。それで、何も感じなきゃ、写真なんか、少なくとも人物を撮るのは、やめちまいな」

スルヤにとって、スティーブンが、どうして、急に親切になったかの理由は分からなかったが、もともと人恋しい性質の彼にとって、やっと友達と呼べる存在が現れたのは嬉しい事だったし、それに、スティーブンと行動を共にしているうちに、どんどん交際範囲も広がって、新しい友達も大勢でき、そうするうちにひそひそと囁かれていた陰口も何時の間にかおさまって、スルヤにとって万事うまくおさまっていったのだ。

撮る対象は、まるで違う二人だったが、それでも愛用のカメラを携えて、いい被写体探しに共に外出する事は多かった。ただ、共同製作をしようというより、もっぱら街中をぶらついて、大抵若い綺麗な女の子達に声をかけて写真を撮らせてもらう、お礼にお茶など奢って、打ち解けさせて、うまくいけばモデルの約束を取り付けるといったスティーブンに、スルヤがくっついて、撮影の手伝いをするか、でなければ、市内の公園か、バスで郊外まで出かけるスルヤに、スティーブンが、気晴らしのピクニックに出かける気分で付き合うといった具合に、気のおけない友達との一時を楽しむためのものだった。

そうして、この日曜も、あまり当てにならない天気予報が、それでも晴れると言ったので、これからどんどん寒く陰鬱になってくる季節の、貴重な美しい一瞬を逃さぬようにと、朝から撮影にでかけることを決めたスルヤに会うために、スティーブンが、わざわざ早起きして、出てきたのだった。

実際、こうして休みの日に二人で出かけるのは、久々だった。スティーブンが、提出期限の迫った課題製作に追われていたこともあるが、スルヤの方でも、この頃はプライベートなことで忙しかったからだ。

「何だか、こんなふうに外で時間も忘れて写真を撮ったのって、随分久し振りのような気がするよ。本格的に寒くなる前に、やっててよかった。来週辺りから、しばらく天気が崩れるみたいだし、そのまま、冬になっちゃいそうな気配だもの。俺にとっては、もう充分冬みたいな感じなんだけれど。今の時期でこんなに寒かったら、本当の冬になったら、どうしたらいいんだろうって思っちゃうよ」

若者達で混み合った、イタリア語で「美しい」という名前のついた、カジュアルなイタリア料理のチェーン店で、二人は、それぞれ熱々のピザとスパゲッティを注文し、瞬く間に平らげた。やっと人心地ついたようにほっとした顔をして、スルヤはカプチーノのカップを両手で包み込むようにしながら、前の席でタバコをふかしているスティーブンに、屈託なく笑いかけた。

「俺の知り合いでもね、イギリスに留学したものの、冬のロンドンだけはどうしても駄目で、その時期だけ国に帰ってる人もいたもの」

「寒いは、暗いは、天気は悪いじゃ、気が滅入るんだろう。統計でも、冬場には、鬱病の患者や自殺者の数がぐんと増えるんだそうだ」

「ええっ、本当?」

ちょっと心配そうに眉を寄せるスルヤに、スティーブンは、にやにやと、意味ありげに笑った。

「そんな心配をしなきゃならないのは、一人暮しの寂しい連中だけだろう。外は暗くて惨めでも、その分家の中が暖かくて、明るくて、楽しければいいって、イギリス人は言うんだぜ。ガールフレンドと別れたばかりの俺なら、しょっちゅう友達を家に呼んで、ビールとワインでパーティーを開くところだが、今のおまえには、そんな必要もいらないだろう、スルヤ?」

スティーブンが言外にほのめかしていることに、すぐに気がついたスルヤは、感じやすそうな頬を赤くした。好きな人ができたからと、パーティーの誘いを断ったのは、十日ほど前の話だ。

「いきなり、恋人ができた聞いた時も驚いたけれど、一緒に暮らし始めたって知った時には、正直言って仰天したな。おくてなおまえが、初めからそこまでやるなんて、意外だった」

そう言って、スティーブンは、どこか変わった所はないかと探るように、スルヤの、相変わらず子供のような顔をつくづくと眺めた。

「それも、何と見知らぬ外国人で、街でおまえから声をかけたっていうんだものな。いつの間に、そんな手管を覚えたんだ?」

「公園だよ、声をかけたのは」

「けれどさ、大丈夫なのか?どこの誰かもよく知らない相手を、そんなふうに信じて、家に住まわせるなんて、ちょっとうかつじゃないのか?」

「大丈夫、カーイは、そんな人じゃないよ」

お人よしめと言いかけて、スティーブンは、口をつぐんだ。それから、タバコを吹かす素振りで、スルヤから、一瞬目を逸らした。どうしてだか、スティーブンは、スルヤに恋人ができたことをあまり快く思っていない自分に気がついた。スルヤのために、今まで何人もの女の子を紹介してやったスティーブンなのに、いざ、彼に特定の相手ができてしまったと聞くと、妙に落ち着かない気分なのだ。可愛い弟が、自分の知らない誰かにいきなり取られて、遠ざかっていくような不安感かもしれない。

「ねえ、スティーブンは、あれきり、バレリーとは会ってないの?」

結構な修羅場を経て別れた前の恋人のことを、おずおずと聞いてくるスルヤに、スティーブンは、再び注意をそちらに戻した。

「ああ。完全に終わったからな、あいつとは」

ほとんど冷淡なくらい、きっぱりと言いきる彼を、スルヤは、まだ少し何か言いたげな、心配そうな顔で見ている。

「ひどい奴なんて、思わないでくれよ。こればかりは、気持ちの問題だから、仕方ない。もう、少しも愛情も興味も持てない相手と、一緒に暮らして、恋人のふりを続けることなんて、できないよ」

スルヤが、スティーブンと知り合ったばかりの頃、相当面食らった、今でも理解しかねる悪癖が、彼にはあった。スティーブンは、次から次へと恋人を変えるのだ。女癖が悪い、単なる浮気者というのでもない、同時に複数の相手と付き合うことは決してなかったし、恋をしている間は、本当に彼ほど優しい愛情深い恋人はいないと女の子が決まって感激して言うくらいなのだが、ただ、それは長続きせず、冷める時には徹底していたのだ。ブラウンの髪の間から覗く濃い青い瞳と、はにかんだような笑顔が魅力的なステーブンの周りには、いつも女の子の影が絶えなかった。スティーブンの恋人は、皆一時期彼の写真のモデルをしていた。被写体に入れ込む性質の彼は、納得できる作品ができるまでの撮影期間中、モデルである恋人に夢中になるのだが、いざ撮影が終わってしまうとともに、その恋人に対する関心も急速になくしてしまうのだ。ファインダーを通してしか、恋ができないかのようだ。いきなり、冷淡になり、別れ話を持ち出す恋人に、女の子は戸惑い、傷つく。納得できずに、別れようとはしない相手も多かったが、スティーブンは、泣き喚いたり、すがったりする相手にはどうしても我慢ができなかった。身勝手だと分かっていながらも、怒りと、嫌悪感を抑えられず、結果、散々相手を傷つけた末に別れることも多々あった。

「どうしていつもこうなんだろうって、我ながら落ち込むことも多いんだ。我ながら、ひどい奴だって、嫌気がさす事もある。だけど、どうしても…バレリーの顔なんか思い出すと、いまだにぞっとしてしまうんだ。一時は、本当に好きだと思ったはずなのに…どうして、俺は、こうなんだろうな」

その呟きは、彼の偽りのない本心なのだと、スルヤは知っている。バレリーとの関係が終わった時に、さんざん飲んで酔いつぶれたスティーブンが、彼女のために泣いていたことも知っている。

「俺は、実は女嫌いなんだろうな」と、別の時に、やはり少し酔っ払っていたスティーブンが、スルヤを捕まえて、密かに打ち明けた事もある。そうして、聞かされたのは、子供の頃に離婚した両親との間で繰り広げられた、ぞっとするような修羅場の話であり、どこまでも自分の我を通したがった母親の身勝手な愛情を、押しつけとしか感じられなかった事、舞台監督との不倫の末に父親と己を捨てた彼女に対する深い恨み、離婚後もことあるごとに母親の権利を主張して、スティーブンの気持ちを少しも考えない振る舞いを続けたことへの怒りと、嫌悪感…。たぶん、付き合う女の子達の内に、何かしら母親に似た部分を探し出して、それに反発を覚えてしまうのだろうというのが、彼の自己分析だ。

スティーブンの抱えている問題を解決してやる事は、スルヤにはできない。けれど、その悪癖ゆえに、冷淡だとも言われる彼が、苦しんでいること、傷を抱えていることを、彼は知っている。

「スティーブンは、ひどい奴なんかじゃないよ。ねえ、あまり自分を責めたりしないで。バレリーのことは残念だったけれど、他にどうしようもなかったんでしょう?辛いのは彼女もスティーブンも同じに見えるよ。もう、いいから、忘れようよ。忘れて、いいと思うよ」

心からの気遣いのこもった、優しい呼びかけに、スティーブンは、実際少し気を取り直したようだ。テーブル御しに手を伸ばして、スルヤのぴんぴんとはねた癖のある黒髪の頭を、あやすように叩いた。

「ありがとうよ。実の所、もう、そんなにどん底の気分という訳ではないんだ。むしろ、やっと終わったっていう、ほっとした気持ちのほうが強いくらいでさ。心配させて、すまないな、おまえの話を聞いているはずだったのに…」

「ううん。俺も、ずっとあれからスティーブンがどうしてるかって、気になってたから…こんなふうに、ゆっくり話すのって、本当に久し振りだものね」

近くを通りかかったウェイトレスを呼びとめ、スティーブンは、コーヒーのお代わりを注文した。

「おまえの恋人のことを話せよ、スルヤ」 

向き直って、改めてゆっくり問い詰める態勢に入ったスティーブンに、スルヤは、少し困ったような笑いを浮かべた。

「うん…会ったら、すごくびっくりすると思うよ、そのくらい綺麗な人だよ」

「ふん…そうか、美人ね。それから?」

「年はよく分らないんだけれど、たぶん俺より4、5才上だよ。北欧の出身らしいけれど、親の仕事の都合でずっと各地を転々としていたみたいだね、ホテルとか高級アパルトメントとかそういう所ばかりだったから、普通の家で普通の生活をするのが新鮮だって言ってた。あまり仕事をしているようには見えないのに贅沢だし、することもちょっと常識からずれてるし、すごくいい家で育った人なんだろうね。浮世離れしているっていうのかな。だからって別に気取っているわけじゃないけれど」

「何だか、ちょっと眉唾みたいな話だな」

「うんとね、びっくりすることが、実は、もう一つあるんだけれど」

「何だよ、言ってみろよ」

「実はね、その人、カーイってというだけど…男の人なんだ…」

突然、スティーブンは、吸っていたタバコにむせて、げほげほと激しくせきこんだ。スルヤは慌てて、手元にあった水の入ったグラスを差し出す。が、それに目もくれず、まだ少し苦しげに喉を押さえたまま、スティーブンは、引きつった顔で問い返した。

「男…だ…?冗談、だろう?」

スルヤは、少し不満気に口を軽くすぼめて、スティーブンを見返し、それから、むしろあっぱれなくらいに潔く、きっぱりと答えた。

「本当だよ」

「………………」

丁度ウェイトレスが運んできたコーヒーを受け取り、それを一口すすると、スティーブンは、信じられないものを見るかのように目でスルヤを眺め、それから、椅子の背にどさりと身を預けた。

「参ったな…」と、口の中で低く呟き、混乱した頭を整理するかのように、ゆっくりとかぶりを振った。

「おまえ、今まで女の子と付き合ったこともなかったじゃないか…だからって、男が好きそうにもまるで見えなかったのに、一体、何事が起こったんだ…?」

「そうだねぇ、確かに、何事が起こったのかという気は、するよねぇ」

まるで人ごとのように相槌を打って、あははと笑いさえするスルヤに、スティーブンは、うめいた。

「でもね、あの人のことは、本当に大好き。あの人と出会ったのはたまたま偶然だったし、すぐに行ってしまうはずの人だったから、それが、こんなふうに一緒に暮らせるようになるなんて、夢のようだと思ってるよ」

無理もないことだが、スティーブンは、しばし、絶句した。

「スルヤ…」

唇を舌で湿し、何と答えるべきが考えあぐねるように黙りこんだ後、やっとの思いで、スティーブンは、言った。

「おまえさ、そのことは、あまり、周囲には言いふらさない方がいいぞ。その…この国はあまり同性愛には寛容ではないし…からかいのネタにする奴だっているだろうし…」

「別に積極的に言いふらす気はないけれど、だからと言って、隠すことでもないとは思うんだけれどなぁ」

「おまえの叔父さんなら理解するだろうし、俺だって、かなりびっくりはしたけれど、それでおまえを見る目が変に変わることはないさ。けれど、世の中、そんな相手ばかりではないし、余計なことは言わないにこしたことはないと思うぜ」

「ううん…」

「その…おまえ、その恋人の写真は、持ってないのか?おまえが、そこまで夢中になる相手って、どんなだろうと、興味が沸くよ」

穏かな口調でそう言うスティーブンの胸中は、かなり複雑なものを孕んでいた。それどころか、髪をかきむしりながら、外に飛び出していって、おお、神よとでも叫びまくりたいくらい、動揺していた。かわいいスルヤが自ら選んだ相手が、まさか、男性だなんて。 

「モデルになってって頼んではいるんだけれど、ちゃんとした写真は、まだないんだ。初めて会った日の、簡単なスナップ写真があるけれど、何が悪かったのか、現像してみたら、おかしなことになってて、ちゃんと写ってなくてさ」

それでも、持ち歩いていたらしい、リュックサックの中から取り出した、一枚の写真をスルヤは、スティーブンに差し出した。

「ううん、駄目だな、これは…絞りの具合が悪かったのかな…?人物が完全に飛んじまってるな」

確かに、中心に人がいるのは分かるが、まるで、その人物が奇妙な光でも発しているかのようなハレーションをおこしていて、その顔も姿も、ほとんど確認できない。

「モデルを頼んでって…人物を撮る気はないって、言ってたはずのおまえが…?」

「うん。何だか、あの人のことは、すごく撮りたいと思うんだ。今まで、自分が何を撮りたいのかよく分からなかった俺だけれど、カーイを見た瞬間、ああ、俺がずっと探していたのは、この人だって、不思議と思ったんだよ」 

スティーブンは、溜めていた息を煙草の煙と一緒に押し出すようして、笑った。

「探していた相手に、やっと巡り合ったって?今時、そんな大げさな台詞言う奴なんて、いないぜ。まあ、おまえが言うと、不思議と違和感ないけどな。…つまりさ、そう思いこんじまうくらいに、おまえは恋人にめろめろに惚れてるってことだよな」

「えへへ…」

赤い顔をして、照れくさそうに、それでも誇らしげに笑っているスルヤを相手にしていると、何だか、ボーイスカウトか何かで乳臭い中学生の相談に乗ってやっているような気分になってくる。実際には、2年しか離れていないはずなのだが。

「また、その恋人を、いつも皆が集まるパブにでも連れてこいよ。いや、恋人と紹介するのはまずいな…叔父さんの知り合いで、部屋を提供しているとか、何とかごまかしてさ」

「そこまで、ごまかすことはないと思うんだけれどねぇ。でも、近いうちに紹介できたらいいなって思ってるよ。実際カーイを誘ったこともあったんだけれど、意外に人見知りするみたいで、よく知らない人ばかりの中に混じるのは気疲れするって、乗り気じゃないんだ。もっと友達を作ったら、ここでの暮らしもそんなに退屈じゃなくなると思うし、機会を見て、また、言ってみるよ」

裕福な旅を続けるスルヤの恋人は、彼の友達の、わいわいと騒がしい学生達などとはとてもじゃないが付き合えないとでもいうのだろうか。別にそうと言われた訳でもないのに、訳もない反感を覚えて、スルヤの恋人を、気に入らない奴だと、スティーブンは思った。

「北欧の出身って言ったよな、国籍は?」

つい詰問口調になるスティーブンにスルヤは不思議そうに首を傾げる。

「さあ、そこまでは聞いてないよ」

「おまえさ、恋人と言う割には、相手のことを知らな過ぎるんじゃないか。普通、どういう生まれ育ちとか、もう少し聞くだろう」

「だってさ、そんなの一緒に暮らす上で関係ないもの。そりゃ、あの人の旅の話とか、面白いから聞かせてって頼むことはあるけれど、昔、どこでどんなふうに、誰と暮らしていたかとか、細かい事を詮索しようとは思わないよ。あの人が、いつか話してくれたら、それでいいし、話す気分にならなくてもそれはそれでいいと思うよ」

「おまえって、絶対騙されやすいタイプだよなぁ」

嘆かわしげに頭を左右に振るスティーブンに、さすがのスルヤも少しむきになったようだ。

「パリには、長い間住んだことがあるって言ってたよ。子供の頃はそこで育ったんだって。気に入りの街で、度々訪れているって。今回ロンドンに来る前もパリにいたらしいよ」

「パリ…」

スティーブンのタバコを持つ指がかすかに震えたことに、スルヤは気づかなかった。

「いいよねぇ、俺も、パリには一度行ってみたいな。うん、絶対行こうっと、カーイを連れてさ。叔父さんにカーイに引き合せたら、何て言うだろう…スティーブン?」

心ここにあらずの顔になっていたのだろう、訝しげなスルヤの呼びかけに、スティーブンは、ぶるっと身を震わせて、我に返った。

「どうしたの、ぼうっとしてさ」

「ああ…すまない、ちょっとな」

スティーブンは、ちょっと言葉に詰まって、ごまかすように吸いかけの煙草の火を灰皿に惜しつけて、消した。と、手元の置いてあった、スルヤの恋人の写真に目がいく。ひどい失敗作だ。顔も何も分ったものじゃない。技術的な問題だろうが、この奇妙な光、何だか、見ようによっては、宗教画に描かれた聖人や天使の光背であるかのようだ。

「スティーブンは、パリには行ったことある?」

無邪気な問い掛けに、苦笑した。無言で、奇妙な写真を、スルヤの方につき返した。

「あるさ、一度だけ」

スルヤからふいっと目を逸らし、窓の外に行き交う人々を何気なく眺める素振りで、暗い声で呟いた。

「最悪の街だったさ」


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