愛死−LOVE DEATH− 

第四章 最後の子供



一緒にいても気持ちは擦れ違うばかりとなったレギオンとの恋の悩みを、カーイが、母親に相談することは、今度はなかった。レギオンから遠ざかった分、ブリジットと過ごす時間が再び増え、何も言わずとも分かり合える相手といることに、恋人との不和に痛む胸を慰められていた。

ブリジットが、カーイとレギオンの不仲を案じなかったわけではなく、幾度か息子に向かって問いかけたこともあったが、それに対して、カーイは、諦念と寂しさの入り混じった笑顔で、大丈夫だからとだけ答えるのだった。一体、何が大丈夫なのだろう。レギオンとの関係の修復する可能性がまだ残っているものか、全く自信など持てないというのに。それとも、もう、いつ失っても大丈夫、その覚悟はできているという開き直りの気持ちだろうか。

レギオンのことをまだ愛しているのかと問われれば、やはり愛していると、この時でも答えただろう。もしも、戻れるものであれば、彼に恋したばかりの、全てが輝いて見えた始まりの頃に戻りたい。一時はあんなに愛し合い、心が通じ合うのを感じ、永遠の伴侶になれるとも夢見たのに、少しのボタンの掛け違い、心の擦れ違いが重なって、今では見知らぬ他人にように遠く、よそよそしくなってしまった。

「では、一体、どうするつもり?レギオンのことはまだ愛していても、これ以上彼には付き合えないというあなた。けれど、本心から、彼と別れたがっているのかしら」

そんなブリジットの問いに、カーイは、少し心もとなかったけれど、半ばは強がりの気持ちから、どうでもいいように投げやりに答えた。

「知りませんよ。レギオンに、どうするつもりか聞いてみれば?なるようにしか、なるものですか。少なくとも僕の方は、彼に関して、これ以上無駄な努力を払う気にはなれない」

するとブリジットは、押し黙って、静かながら、全てを見とおすような力のこもった眼差しでカーイを見つめるのだった。嘘でしょう、本当は彼といたいのでしょうと問いただされているかのようで、何だか落ちつかない気分になって、カーイは顔を背けた。

それから、どうしてブリジットがこんなふうにカーイの恋に構うのか、捨て鉢のような諦めの態度に責めるような眼差しを向けるのか、訝しく思った。人のことなど放っておけばいいのにと反抗的に考えさえした。第一、レギオンと言えば彼女の昔の恋人だというのに、息子との恋をどうして後押しするような心持になれるのだ。理解できなかった。

なるようにしか、なるものか。

では、そんな気持ちで、自分から歩み寄ることを放棄したカーイが、レギオンの出方をうかがいながら彼と過ごした最後の日々のことを語ろう。

狩りのゲームに相変わらず熱中しているふりをして、深刻な話をすることはどちらもが巧妙に避けていた騙しあいのような関係に、カーイは徐々に苛立ちをつのらせ、煮え切らない恋人に対する態度はますますとげとげしくなっていった。

レギオンがちょっとでもカーイの行動に意見するようなことがあれば、あえてそれに逆らうように逆のことをして、それでも怒りを表すかわりに沈黙して踵を返す相手を、臆病だと言って嘲笑うという始末だった。だから、ある日、レギオンが、カーイにその頃まとわりつくようになったある男について、やんわりと警告めいたことを言ったとたん、カーイは、そんな気弱な助言に従ってなどやるものかというふうに意固地になってしまった。

「どうして、あいつに用心しろ何て言うんです。あのおとなしそうな顔をした、ちょっと気のきいた文章を使って僕に恋文をよこすのが精一杯の、内気なロマンチストの一体どこが、あなたが心配するように危険だと言うんですか」

険のこもった言い方で、突っかかるようにそう言うカーイに、レギオンは、あまり熱意の感じられない調子で、淡々と答えた。

「ああいう思いつめるタイプに、下手に手を出すと思わぬ火傷をする場合があるんだよ。だが、問題は、あの男そのものよりも、後ろのあるものと言った方がいいだろうな。これまで君が餌食にしてきたような、ちょっと裕福なブルジョワの紳士や学生、貴族と言ってもそれ程重要ではない連中と違って、あの男の一族は、宮廷でも名の通った一流の貴族にあたる。父親初め何人もが宮中に勤めている大した家柄で、もし、誰かがあいつを手にかけたとしたら、その捜査はかなり厳しいものになるだろう。殺しの相手を選ぶ時には、そんな用心もある程度必要なんだよ、カーイ。人間達にどうこうできるような私達ではないが、身近な所で騒ぎ立てられては、うるさくてかなわないからね」

カーイは、反抗的な顔で無言でレギオンを睨みつけるだけで、その忠告になどろくに耳を傾けてはいなかった。そうして、わざとあてつけるように、レギオンの見る前で、その若い貴族の男に思わせぶりな眼差しを向けたり、誤解を招くような優しい言葉をかけたりするのだった。

その男は、本当に初心な文学青年といった風貌の、思いこみが強く神経質で、カーイの好みのタイプではまったくなかった。カーイは、レギオンに対するあてつけにちょっかいを出しただけで、「恋人」にする気はそもそもなかったのだ。しかし、男の方は、カーイの態度をそのまま自分に対する本心だと受け取った。不器用な男は、更に熱烈な恋文を書いて送りつけ、その中でしきりに二人だけで会いたいと懇願するようになった。はなから、そんな気などないカーイは無視し続けたが、すると今度は、男は、カーイがよく出かける劇場や夜会には必ずと言っていいほど姿を見せ、少し離れたところでカーイに妙にねつい視線を向けつづけ、一緒にいることが多いレギオンをあからさまな敵意にぎらつく目で睨みつけるのだった。その上、カーイの屋敷の傍にまで、気がつけば、男の影のような姿がちらちら見え隠れしているのだった。

「だから、言ったろう。君が、その気もないのに、あんな誘惑的な態度を見せるからだよ」

二人で出かけたある夜会の帰り道、ずっと一定の距離を保ってつけてきた、男の気配に、レギオンもカーイも気づいていた。屋敷について、玄関をくぐるなり、それ見たことかというようにたしなめるレギオンに、カーイは、不機嫌なしかめ面をして、答えた。

「放っておけば、いいんですよ。あんな奴が、僕に手出しなんかできるものか」

反抗的なカーイに、レギオンは、歌いかけるようにこう言った。

「血を吸う気もないのに恋の罠を仕掛けるのは反則だよ、半人前の狩人くん」

かっとなって、食って掛かろうとするカーイに、レギオンは、降参したように両手を上げて、あっさり引き下がった。

「まあ、いいさ。私もこれ以上は口を出さないよ。言っても、私の忠告になど聞く耳は持たないらしいからね。君の責任で、始末をつけるんだな、カーイ」

それ以上は話し合う気はないというように背を向け、手をひらひらさせて、一人先に玄関ホールから続く階段を上がっていくレギオンを、カーイは、怒ったように睨みつけて見送っていたが、さすがに内心では少し心細い気分になっていた。

「レギオン…」

口の中で小さくその名を呼んでみたが、すぐに、むきになって否定するかのように激しくかぶりを振った。レギオンになど、頼るものか。彼の手など借りなくとも、一人で何とかできるはずだ。それに、実際あの気の弱そうな人間に、カーイに対して大それた行動が起こせるとも思えなかった。しばらくの間は、周囲にわずらわしさと不自由を覚えるかもしれないが、放っておけば、やがて諦めるに違いない。それにしても、全く、何て厚かましい男だろう。ほんの少し優しい顔を向けてやったら、いい気になって、勝手な思いこみに至った挙句、無遠慮にカーイをつけまわすなんて。今度からは、外であっても完璧に無視をしてやる。

高慢な少年は、腹立たしくそんなことを思い、次の日からその決意を実行した。突然、冷淡になったカーイの態度に男は初め混乱し、訳の分からないようなうろたえた顔をしていたが、じきにその戸惑いは、かわいさあまって憎さ百倍の、根深い怒りとすさまじい執着に変じていったのだ。



「レギオン」

その夜、ある夜会に出席したカーイは、またしても人ごみから離れて、一人テラスに出、ものおもわしげな風情でぼんやりと暗い庭を眺めているレギオンを見つけた。この頃のレギオンは、かつてはあんなに楽しんでいた社交にも急に興味をなくしたようで、カーイに付き合って出席はするものの、どこか上の空で心は別の何かに捕らわれているようなことが多くなっていた。

「探しましたよ、あなたがまた急にいなくなってしまったから、もしかしたら先に帰ってしまったのではないかと疑い始めていた所でした」

胸の底に秘めた苛立ちを押し隠して、カーイは、神妙な顔で声をかけたが、レギオンの応えは、あまりに気のないものだった。

「余計な心配をさせて悪かったね、カーイ。今夜はもうこれ以上ダンスも無駄なお喋りもする気になれなくて、ここに隠れていたんだよ。だが、君はまだ楽しみたいのだろう。遠慮せずに行っておいで」

カーイの方をろくに見もせずに答える、レギオンのそっけない態度に、カーイは、抑えるつもりでいた不満と苛立ちをついあらわにして、冷たい声で更に問うた。

「一体、何を考えていたんです。この頃のあなたは、少し前まで好きだった華やかな世界には突然関心を失って、ずっとそんなふうに陰気な思いつめた顔で何かに心を捕らわれている」

すると、レギオンは、やっとカーイの方に向き直って、まともに彼を見た。明るく輝く、表情豊かなものだった、彼の緑色の瞳は、今は影に立っているせいか、暗い湖のように沈んで見え、そこにうかぶ感情は読み取れなかった。

「君に話したら、きっとまた馬鹿にされるようなつまらないことさ、カーイ」

カーイは、頬を僅かに染め、思わず恋人から視線をそらした。

「前に…僕はあなたにひどい言い方をしてしまった。それは、確かだけれど…まだ、根に持っているんですか、レギオン」

気を取りなおして、カーイは、そう言いかえしたが、本音を漏らした恋人を冷淡にはねつけたことに後ろめたさがないわけではなかったので、その言葉には力がなかった。

「違うよ、カーイ。ただ、君と私の違いを実感しているだけさ。私の気持ちを理解するには、君はまだ若すぎる、それだけのことなんだ」

「どこまでも僕を子供扱いするつもり、レギオン?

「君の若さと純粋さを羨ましく思っているだけさ」

軽く肩をすくめて、レギオンは再び闇に沈む庭園に顔を向け、カーイのことなど忘れ去ったかのように自分の考えに浸り始めた。もどかしさと怒りに、カーイは、身悶えしたくなるような心地だった。

そして、意を決したように、無言で、足音もなく進み出ると、レギオンの金色に輝く頭に手をかけ、強引に振り向かせると、何か言いたげに開きかけるその唇に、そっとキスをした。以前は、思いきり背伸びをして相手にも身を屈めてもらわないと自分からキスなどできなかったのに、今では少し伸びあがるだけで楽にできるようになった。逃げようとしても、そう簡単には逃がさないくらいの力もある。ふいに強烈な欲望がわき上がってきて、カーイは、夢中になって、恋人の唇をむさぼった。レギオンが欲しいとこんなに強く感じたのは、久しぶりだった。だが、舌を挿し入れて激しく吸い続けても、自分と同じ情熱を、いつまでたっても相手の内には引き起こせないことに気づくと、あきらめたように身を引いた。

「僕達は、本当にもう駄目なんでしょうか」

肩を落とし、哀しげにカーイはそう呟いた。 

「あなたが、もう僕を愛していない、欲しいと思わないなら、恋人のふりをしてこれ以上一緒にいても空しくなるだけです」

「カーイ…」

「結局、僕はあなたが昔愛したブリジットのかわりにはならなかったんだ。僕が瞳の色も性格も何もかもみんな彼女と同じだったら、いっそ女の子だったら、もっとうまくいっていたんだろうか。ねえ、あなたが僕に飽きたのは、結局ブリジットとは違う部分が色々目に付いてきたからなの?

カーイがあんまり落胆して、哀しそうだったからか、レギオンも、つい心を動かされたかのように、彼にちゃんと向き合って、先程までとは違って、感情のこもった声でかき口説くように囁いた。

「カーイ、私は君をブリジットの身代わりに愛したわけじゃないよ。初めは確かに君の外見に引かれて欲しいと思ったことは、否定しないがね。だが、君ではなくブリジットの方を愛していたとしたら、身代わりの相手になど満足せずに、結局彼女に迫っていただろう。だが、それをしなかったのは、今の私には君の方が魅力的だったからさ」

しかし、今更そんな優しい言葉をかけても、すっかり自信を喪失したカーイの、疑心暗鬼を払拭することはできなかった。

「あなたの言うことなど、信じられるものですか」

すると、レギオンも、一転して冷やかになって、言いはなった。

「では、自分の信じたいことを勝手に信じていればいい。私の言うことなど、初めから聞く気がないのなら。君が、そんなにブリジットにコンプレックスを抱いていたとは知らなかったな。いいだろう、身代わりということにしよう。君を抱きながら、実際には、私はブリジットも含めた三人で寝ているような気分だったよ」

へそ曲がりのレギオンは、カーイになじられたせいで、誤解を解く努力をするかわりに、余計に偽悪的に振舞ってしまったのかもしれないが、これはいけなかった。何かが弾け飛んだように、激昂したカーイは、目から涙をほとばしらせながら、両手でレギオンの胸に打ちかかった。

「裏切り者」

「カーイ、憎まれついでに、いっそ告白をしてしまおう」と、レギオンも、カーイにつられたように感情を昂ぶらせながら、己の残酷さを楽しむように目を細めて、更に打ちかかろうともがくカーイの腕を痛いくらいにつかんだまま、囁いた。

「私がこのところ一人でずっと思い巡らせていたことさ。いや、君に会う以前から、時々考えてはいた計画なんだが、ここしばらくは他に熱中できるものを見つけたおかげで、忘れていた。カーイ、私は旅に出るよ」

カーイは、もがくのをやめ、息を飲んで、レギオンを凝視した。

「旅といっても、これまでのようなちょっとした息抜きのための小旅行のことじゃないよ。今まで、ヨーロッパ中を転々としてきた私だが、今度は全く未知の場所に行こうと思っているんだ。おそらく、旅だってしまえば、その先君といつ会えるかは分からないだろうな」

「一体、どこへ…?」

カーイは、目を大きく見開いたまま、喘ぐようにそう言った。

「新大陸、アメリカさ」

勝利の宣言のようにそう高らかに告げるレギオンは、少年のような興奮に頬を紅潮させ、その瞳を輝かせた。しかし、その言葉は、茫然自失のカーイの胸に、何の共感も覚えさせず、無意味な記号としてすとんと滑り落ちてしまうのだった。



それから、どんなふうに今がたけなわの宴を脱け出して、レギオンと二人で帰路につくことになったのか、カーイの記憶にない。気がつけば、放心した状態で、レギオンに半ば急き立てられるように夜道を歩いていた。

「…私達は、生きているかぎり、旅を続ける。一所に留まるのは、どういうわけか苦手なんだよ」

そうしながら、レギオンが語るのに、ぼんやりと耳を傾けていた。

「それは、人間を狩って生きる生活のためだとも説明づけられるだろう。同じ土地で狩りを続けるのは、人間達が利口になってきたこの頃は、難しくなっているからね。私も、ずっとそう思っていたよ。生まれ育ったベネツィアを捨てたのも、ローマを出奔したのには他にも理由があったが、どこに行っても定住はできなかった。愛着のあったロンドンには何年も帰らず、君達と過ごすパリでの華やかな生活を楽しんできたが、それも、これまでだ。そうして、今度は、欧州を遠く離れて、話に聞いただけで全く見知らぬ新しい世界に向かおうとしているのは、しかし、狩人としての本能だけでは説明がつかない。この頃では、私は、こう思うようになった。私達は探しているのだ。自分の帰るべき場所、魂の故郷を。自分自身でいられる家のような安心できる場所。人間ならば、死に場所とでもいうかもしれないが、永遠に生きる私達の旅の終着地はあるのだろうか。多分、はるかな昔には、そんな場所はいたる所にあったんだが、その大部分は失われてしまった、ということなのだろう。今あるこの世界は、人間のものだからね。私がヨーロッパを去ろうというのは、ここでは、人間の存在が強力になりすぎて、いつまで旅を続けていても、私が求める楽園など見つからないだろうと見限ったからだ。だが、まだやっと文明を受け入れ始めたばかりの新しい土地、古い時代の荒々しい息吹を残した未墾の大地ならば、姿を消してしまった私達の親たる太古の神々の唄も聞けるかもしれない、本来の自分に戻れるかもしれない」

カーイは、何も答えなかった。レギオンの口調にこもる熱に、彼が本気なのだとは知ったが、それは共有できる情熱ではなかった。

「そのために、僕を捨てるんですね」

レギオンの腕からするりとすりぬけて、カーイは、暗い路上に立ちつくし、相手をきっとにらみつけた。

「またしても、あなたは逃げるんだ。ブリジットの時もそうだった。今度は、人間で溢れかえる世界におじけついて逃げる、心の通わなくなった恋人からも逃げるというわけ。けれど、新しい場所に行けば、何かが変わるだろうなんて考えは、甘いですよ。環境が少しくらい変わったって、自分自身の根本が同じままなら、結局何も変わりはしないでしょう。新大陸だろうが、同じことです。今でこそ、未知の土地でしょうが、ご覧なさい、ヨーロッパ中からどんどん人が流れこんでいる。瞬く間に開墾されて、どこもかしこも人で溢れかえって、古い神も精霊たちも姿を消し、そうして、あなたはまたしても自分の居場所をなくすでしょう」

僅かに顔色をなくしたかに思える、レギオンにカーイは指をつきつけた。

「そうして逃げつづける限り、あなたは、いつまでも居場所を失いつづける。魂の故郷なんて、ただの幻想なんですよ」

レギオンは、打たれたようになって立ち付くしていた。

「カーイ、カーイ…そんな残酷なことを言えるのは、君が幼いからか。ブリジットは、君を純粋なヴァンパイアだと言ったが、君の曇りのない瞳には、年経た私には見えなくなってしまった真理が映るのだろうか。…恐い子だね」

荒野で出会った預言者に対するような、深い畏怖の念が束の間レギオンの瞳によぎった。その時だ。

「レギオン!

それは、一瞬の出来事だった。レギオンが背を向けて立っていた、暗い路地から、何者かが急に飛び出してきたのだ。振り上げた手には、きらめく刃が握り締められていた。不意をつかれた攻撃に、これが人間だったら、無防備な背中を突き刺されていただろうが、レギオンは、いかに注意力がそがれていたとはいえ、ヴァンパイアの反射神経であざやかに体ごと飛びこんでくる相手をかわし、よろめいた所を簡単にその手を捕らえて、ねじり上げた。

「く…くそぅっ…!」

レギオンの怪力に悲鳴をあげてあっけなくナイフを取り落とし、怒りと屈辱に顔を真っ赤にしてもがいているのは、カーイを追いまわしていた、あの男だった。

「離せ!殺してやる!おまえなど、殺してやる!カーイは、私のものだ、おまえが邪魔さえしなければ、今ごろ私達は…あうっ…」

レギオンに手首をねじられて、男は悲鳴をあげた。

「だそうだよ、カーイ」

鼻白んだように、レギオンは、言った。

カーイは、怖気を振るって、我が身を守ろうとするかのようにかき抱き、哀れな男を激しくにらみつけた。レギオンとの重大な話を邪魔してくれた、無礼な無知な闖入者に対する怒りに、目がくらみそうになった。

「どうするね、カーイ?

唇に皮肉な笑みをたたえたレギオンが問いかけるのに、カーイは、燃えるような眼差しを向けた。

「殺して」

「君の手でやればどうだい?こいつは、哀れにも君に恋している。せめてもの情けに、血を飲んでやれば?

男に対する凶悪な殺意に、レギオンに対する憤怒も加わって、カーイは、氷そのものに冷酷になって、高慢な口調で言いはなった。

「僕は、そんな奴の血など欲しくないし、そいつのために指一本あげたくもない。あなたが殺して、レギオン。僕のために、あなたが殺すんだ」 

レギオンは、眉を跳ね上げて、しばし、黙したまま、カーイを凝然と見つめ返した。それを、カーイは、挑みかけるような、敵意に満ちた顔で受けとめていた。

「私に命じるのかい、カーイ。君の奴隷であるかのように命令するという訳か。いいだろう、君の望みに従おう」

言うやいなや、レギオンは、茫然自失となっていた、無力な男の首を片手でつかみ、何の抵抗も感じないかのように握りつぶしてしまった。骨が折れる鈍い音がして、男の体は痙攣する。

「もっと残酷にして。僕は、血が見たい。そう、そいつの心臓をつかみ出して」

レギオンは、喉の奥で低く笑った。そうして、こんなになってもまだ命が残っているらしい男の体を、石の壁に押し付けると、鉄のように強い腕で、その胸を貫き通した。男の体が、衝撃にはね上がり、口から真っ赤な血が吹き出すのを見て、カーイは、やっと溜飲が下がったように、肩でほっと息をついた。

「カーイ、ご覧」

男の胸の中を探っていたレギオンの手は、熱い血の滴る、まだびくびくと震えている心臓を引きずり出して、カーイの方に差し出した。

「君に恋した男の心臓は、君の目にはどう見える?

カーイは、妖しく目を細め、艶然と笑った。

「綺麗」と、囁いた。

「だからと言って、その血を飲む気にはなれないけれど」

レギオンは、震える心臓を握りつぶした。鮮血が飛び散り、彼の服と青ざめた端正な顔を汚した。

「それがあなたの心臓だったら、僕はちゃんと血を飲んで、それどころか全部食べてあげたでしょう」

手についた血や肉片を払いながら、レギオンは、うんざりしたように足下の死体を見下ろしていたが、ぞっとするようなカーイの言葉に、とっさに顔を上げた。

「光栄だな」

薄く笑ってそう答えるレギオンは、しかし、カーイに残忍さにすっかり魅せられ、圧倒されているかのようだった。

それから、再び、無残な男の死体に無感動な視線を投げかけた。こんな無計画な殺しはしないはずのレギオンだったが、そこに転がる死体は、彼の一瞬の激情の産物だった。後始末の高くつく、するべきではなかった殺しだ。その割には、彼は落ち着き払っていた。

「カーイ」

じっと彼の出方をうかがう手強い恋人を振りかえり、淡々とした口調で言った。

「いずれにせよ、これで、私はこの街にはいられなくなったよ」  



その瞬間、レギオンはむしろほっとした顔をしたような気がしたというのは、かんぐり過ぎだろうか。だが、本当にもうこうなっては、レギオンを引きとめることはできなかった。

それが分かっていたから、残りの時間を、空しい口論に費やすことはせずに、息をひそめておとなしく待ってはいたカーイだったけれど、その心中には、実に様々な感情がひしめき合っていて、少しでも口を開いたり、気をぬいたりしたら、それらが一気に溢れ出して、制御できなくなるだろう。そんなカーイのもとに、旅支度を整えたレギオンが、別れを告げにやってきたのは、殺しのあった次の日の、夜が更け始めた頃だった。

「カーイ」と、扉を叩くと応えも待たずに、レギオンは部屋に入ってきた。カーイは、扉が開くのを待ちうけるように、その正面、重いカーテンが吊り下がる窓わくの傍に、腕を組んで立っていた。

「どうしても、行くんですね」

分かりきったことを聞かずにはいられない自分に、歯噛みする思いで、それでもカーイは、傲然と顔を上げてはいた。近づいてきたレギオンは、その頬にそっと指で触れた。

「行かずにはいられないんだ、カーイ。君は、どこに行こうが、何も変わらないと言いきったが、私はそれでも確かめずにはいられない」

「では、行けばいい、僕にはあなたをとめることはできないのだから。僕を置いて、出て行けばいい」

「カーイ…」

レギオンは、苦しそうな顔になって、一瞬口篭もった。

「私は…いいかい、私は、君から逃れたいわけではないんだよ。それだけは、誤解しないでくれ。今でも、できることなら、君を…。ここに心残りなど一切ない私だが、君のことだけは思いきれないでいる。君をここに残していくことだけが、残念で、何より心配なんだ。これが最後だから、無理を承知であえて尋ねるよ。カーイ、私と一緒に旅に出る気はないか?

カーイは、一瞬相手の真意を推し測ろうとするかのようにつくづくとレギオンの、思いつめた真剣な顔に見入った後、喉をのけぞらせて、嘲笑った。

「何を馬鹿なことを言い出すんですか。勝手にここを出て行くと決めたのはあなたの方なのに、今度は僕が心配だから、一緒について来いですって?身勝手にも、程がある。あなたの気まぐれに振りまわされるのは、もうたくさんですよ。本気で僕が心配なら、無意味な旅などやめて、ここに残ればいい。できないでしょう?」

「ここにとどまることに固執するのは、ブリジットがいるからかい?」

「そうですよ。ああ、そうだ、あなたがいなくなったって、僕には、まだブリジットがいるんだ」

「私とブリジットとでは、やはり彼女を選ぶというんだね」

「ブリジットは、あなたのように僕を裏切りはしないから。そう、あなたがいなくなっても、それは、ただ以前と同じ母子二人だけの生活に戻るだけの話なんだ。僕は何も失ってはいない。だから、あなたを恋しがって泣くなんて、思わないでくださいよ。あなたに心配してもらうことなど、僕には何もないんだ」

レギオンは、沈黙した。それから、何か伝えたいことがあるのだが、打ち明けるべきなのかどうか分からないというような、迷いに揺れ動く瞳で、カーイを、眺めた。その表情は、何かしらカーイを不安にさせた。

「カーイ、ブリジットは、君の唯一のよりどころであるお母さんは…」

言いさして、躊躇したのか、一瞬言葉を切り、そして、やっと心を決めたように、再び口を開いた。

「カーイ、君もじきに知ることだから、今のうちに言っておくよ。ブリジットは、君が望むようにいつまでも君の傍にいつづけることは、できないだろう」

「今度は、下らない言いがかりですか。ブリジットは、あなたとは違う。僕を見捨てて、勝手に出ていったりするものか」

レギオンは、哀しげに、頭を横に振った。

「カーイ、カーイ、そんな君だから、心配だと、私は言ったんだよ。できるなら、母親との辛い別離など味わわないうちに、君を彼女の手から飛び立たせることができればよかったんだが。私には、そこまで君を導くことはできなかった。ブリジットは…彼女も承知のことだよ。彼女は、私が君をここから連れ出すことを望んでいたんだ」

カーイは、愕然となった。それから、突き上げてくる発作的な怒りに青ざめ、唇を震わせた。

「いい加減なことを言わないでください。レギオン、この御に及んで、まだ僕に口論をしかけるんですか。僕を怒らせて、素直に泣くことすらできない、そんな後味の悪い別れ方をさせるつもり?

懸命に気持ちを鎮めようとして、肩で大きく息をしているカーイに、レギオンは、口をつぐんだ。

「すまない、君に最後まで、嫌な思いさせてしまう。けれど、どうか、一つだけ、私に聞かせてくれ、カーイ。ブリジットは、君といっしょに狩りをしたことがあったか?私が見ているかぎり、彼女はここで一度も人間の血は飲まなかった。それ以前は、どうだったんだ?君が小さかった頃から、覚えているかぎりで、彼女は獲物から奪ったことはあるのか?

カーイは、虚を突かれたような顔をした。大きく息を吸いこんだ。

「ブリジットが、最後に人間の血を飲んだのは、一体、いつなんだ?

カーイには、答えられなかった。青ざめ、当惑したようにレギオンを見るばかりだった。

「私達は、人の血を断っては、生きられない生き物なんだよ…君のお母さんだって、それは変わらない。私は、ここに来てブリジットと再会した時に、彼女の変わりように驚いた。君という子を産んで、母となっていたことだけじゃない、私が知っていた時に比べて、彼女の力は格段に落ちている…いや、尽きてきていると思ったからだよ」

「嘘…嘘だ」

声を震わせて、反論しかけるカーイを、レギオンは胸に引き寄せて、抱きしめた。

「お願いだ、カーイ、私と一緒に行くと言ってくれ。新しい世界で、共に永生を重ねていこう」

「嫌…」

弱々しいながらも、断固とした拒絶の意思のこもった答えに、レギオンは、ついにあきらめたようだ。カーイを、かき抱いていた腕を離し、そっと退いた。

「分かったよ、カーイ。もしかしたら、遠い未来に再び会うこともあるかもしれない…今よりも一層魅力的になっている君との再会を楽しみにしているよ」

しょんぼりとうなだれている、カーイの銀色の頭を優しく撫でた。

「愛しているよ、カーイ、私が私でいるかぎり、永遠に」

何も答えないカーイの頭から手を離すと、レギオンは、さっと踵を返した。

「…行かないで」

まるで、置き去りにされた子供のような、妙に幼い、今にも泣き出しそうに震える声が呼びかけるのに、レギオンは、一瞬足を止めた。が、振り向きはせず、思いを断ちきるように、扉へと急ぎ向かった。

「行かせない」と、今度は、声の調子が変わり、深い憤りを秘めた、はっきりとした強いものになった。

翼でもあるかのように身軽に跳躍すると、カーイは、今まさに立ち去ろうとしているレギオンと扉の間に立ちはだかった。

「このままでは、行かせるものか」と、涙に濡れた目に狂おしい怒りをみなぎらせて、カーイは叫んだ。

「私にどうしろというんだい、カーイ」

レギオンは、疲れたような顔で、微かに笑った。それを激しくねめつけたまま、カーイは、ゆっくりと用心深く近づいて、その左手を取った。

「僕達のゲームの清算をしましょう」と、低い声で囁いた。

「僕も何度か賭けに勝って、あなたの体の一部を勝ち取ったはずですよ。僕に、あなたの形見をください、レギオン」

「あの哀れな男のように、私の心臓をと言うんじゃないだろうね、カーイ。どうせなら、あまりなくしても困らないようなものにしてくれないかな」

「そんな無茶は言いませんよ。そうしたいのは山々ですが、これで、許してあげます」

捕らえていたレギオンの手を持ち上げて、カーイは、それにそっと顔を寄せ、形のいい長い指を愛撫するかのように、唇を滑らせた。

「カーイ…」

その意図することに気づいたレギオンの顔に、一瞬戦慄にも似た衝撃が走った。しかし、すぐに、それは諦めと奇妙な陶酔の混じった許容となった。

「いいよ、カーイ、君にあげよう」

カーイは、レギオンを見上げ、妖しく笑った。そうして、彼の小指を口に含んだ。ダイヤモンドを傷つけるには、同じダイヤモンドで。決して傷つくことのない、不滅の体に食い込む鋭い牙のもたらす痛みに、レギオンは、一瞬頬を震わせたが、それ以上は、ついにカーイの凶器が彼の指を切り取ってしまうまで苦鳴一つもらさなかった。

カーイが、口を離して身を引くと、切断された指から鮮血が吹き出したが、それも一瞬で、すぐにとまった。それよりも、レギオンは、己の血に唇をぬらして、カーイが奪い取った戦利品をしばし味わうように口の中で転がした後、ついには飲みこんでしまうのを、恍惚とした顔で見守っていた。

「レギオン」

カーイは、今度は自分の手を上げ、レギオンに押しつけた。レギオンの取り分を奪えということだろう。しかし、レギオンは、苦笑をうかべて、首を横に振った。

「駄目だよ、カーイ。私には、できない」

カーイは、失望したような、哀しげな目になった。

「君を拒むわけじゃない。君の完璧な美しさを損なうような勇気は、私は、持ち合せていないんだよ」と、レギオンは、優しい声で言った。

そうして、やっと気がついたように、小指の中程から先をきれいに切り取られた自分の左手を、ものめずらしそうに眺めた。

「さすがにとかげの尻尾のようにはえてくることはないようだな。まあ、三百年間少しも変わらない体で通してきたんだ。こんな変化も、ちょっとしたアクセントになって返っていいかもしれないな。向こうについたら、腕のいい細工師を探して、黄金製の凝った義指をつけることにするよ」

妙に陽気な口調でそう言うと、レギオンは、再び虚脱してしまったカーイの体を、最後に、深い愛情を込めて抱きしめた。

「元気で…」

そうして、レギオンは、カーイのもとを立ち去った。

恋人を見送った後、あんまり激しい感情の起伏を味わったせいで、すっかり消耗してしまったカーイは、寝台に身を投げ出して、ぐったりと横たわっていた。

疲れきっているためか、頭の中もすっかり麻痺してしまったようで、まだ、悲しいという感情はそれ程わきあがってこなかった。後で、徐々にくるのだろう。レギオンが、本当に自分のもとから去っていったことを実感してから。

口の中には、レギオンの血と肉の味が残っていた。人間の犠牲者の血は、最後には、皆裏切られたことを悟り死んでいくせいか、どうしても失望や怒りの苦い味が舌にざらりと感じられたが、この血はとても甘く、カーイの舌と胃に優しくなじんだ。愛されていたのだ。

そうして、しばらく、カーイは眠った。幸い、夢は見なかった。



「ブリジット」 

真夜中に再び目覚めたカーイは、ブリジットの姿を求めて、部屋からさまよいでた。

彼女は、カーイの訪れをずっと待っていたようだ。穏やかな顔で、彼を部屋に招き入れた。

「レギオンは、行ってしまいました」

自分のものではないかのように声がそう告げるのを、カーイはぼんやりと聞いていた。

「ええ、そうね」

ブリジットは、カーイの手を引いて、小さい子のようにソファまで導くと、そこにそっと坐らせた。

「彼が、いつか出ていくだろうとは思っていたわ。でも、あなたは追っていかなかったのね。それで、本当によかったの?」

カーイは、少しの間、ブリジットを呆然と見つめていたが、やがて、はっきりした声で言った。

「多分、レギオンは、彼なりの本気で僕を求めて、そうして、いっしょに来てくれと言ったのだと思います。でも、だからと言って、レギオンの考えや態度が、改まるというわけではない。新しい場所に行っても、ここにいた時と同じ仲たがいをするなら、ついて行くことに意味などないんです」

ブリジットは、押し黙ったまま、少し悲しげに小首をかしげて、カーイを見ていた。

「私は、あなた達なら、もしかしたらうまくやっていけるのではと思ったのだけれど…どこか似たところのある、二人だったから…」

カーイは、母親に、じっと観察するかのように目を向けた。レギオンの残した言葉は、カーイの胸にしっかりと刻みこまれている。確かに、ブリジットは、決して人間の血を飲まなかった。

「おかあさん」

問いただして、確かめたいことはたくさんあったが、今は、それをするには、カーイの心は、あまりにも疲れ切り、打ちひしがれていた。

「お願いです。僕の傍から、急にいなくなったりしないで…あなたまでなくすことは、僕にはできない」

子供のように心細げに頭をうなだれるカーイを、ブリジットは黙って引き寄せて、優しい胸に抱きしめた。すると、麻痺し、凍り付いていた心が、次第に溶けていくのを覚え、カーイは、素直な悲しみに肩を震わせて、泣いた。

泣くのは、今だけだ。じきに忘れられる。

黄金のまばゆい太陽が姿を消したって、別にそれでカーイの世界が終わるわけではない。穏やかで優しい月の女神のような母が傍にいてくれる。

目をつぶると、あざやかな金色の残像のような恋人の面影がちらついて、どうしても離れず、更に哀しみをかきたてられたが、強がって泣くまいとするかわりに、今はカーイは己の感情に正直に心を委ねていた。

(レギオン…レギオン…)

大丈夫。明日になれば、気分も少しは楽になっているはずだ。

傷は時が癒してくれるものだというし、いずれにせよ、時間ならば、カーイは無尽蔵に持っているのだ。

 


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