愛死−LOVE DEATH− 

第四章 最後の子供



母と恋人と自分と、三人でいたい。

カーイのそんな子供じみた望みは、それからもしばらくの間は叶えられた。

ヴァンパイアの仲間達と過ごしたパリでの、恋と狩りの冒険に明け暮れた日々は、振りかえってみると、カーイの長い生の中で最も華ぎ、充実した、心のうきたつ体験に満ちた時期と言えた。そして、最も愛した二人を失って、その後は決して、カーイは同族の誰か共に暮らすことで、かつてと同じ高揚感を取り戻そうとはしなかったのだ。

初めの頃はレギオンと二人で行うことが多かった狩りも、カーイは、やがて一人でするようになっていった。最初の狩りから一年も経つ頃には、彼は、成人したヴァンパイアの例にもれず、熟練した色事士で殺人者となっていた。年長者の手ほどきを必要としなくなったカーイには、初めからゲームとして行なう場合はともかく、狩人としてはライバルともなる別のヴァンパイアに獲物をしとめるところを見られたくないという意識が段々芽生えていって、時には自分から恋人を避けるようにして、獲物との逢瀬に出かけてしまうことすらあった。そんな自分自身の変化に当惑と一抹の寂しさを覚えるカーイだったが、実際、その一年の彼の変化は、ブリジットが評した様に急激なものだった。それまではどちらかと言えばおくてで年よりも子供らしく見えたほどだったのが、精神的な目覚めに合わせるように肉体の成長もいきなり早まって、背が一気に伸び、顔もケルビムのような幼児めいた愛らしさは失ったが、相変わらず天使や妖精めいた性別不明の冷たい美貌には圧倒的な深みが加わって、ブリジットにも似た、超越した雰囲気を漂わせ始めていた。もはや、子供らしいところはどこにもなくなっていた。16、7才で既に完成された美しさを持つカーイを、人間達はまぶしいものでも見るかのように見つめ、ある者は飢えたような狂おしさを、別の者にはいい様のない不安をかきたてられるのだった。カーイ自身は、あんまり急速に背が伸びたために体の節々が痛むこと以外は、その変化にそれなりに満足していたが、どうやら大人になっても自分にはレギオンのような男性らしさは現れてこないことに関しては、当てが外れたと口惜しがっていた。その反動もあったのか、彼の人間の恋人はたくましい男性であることが多かった。もっとも、カーイの理想は相変わらずレギオンで、束の間の人間の愛人達など、彼の魅力の前では霧で作られた人形の様だと思っていた。

レギオン。恋人に対するカーイの気持ちは、そのころになってもまだ冷めてはいなかった。外見は大人らしくなっても、心許せる同属のパートナーの前では、たちまち以前少しも変らない、すなおな少年の顔に戻ってあまえたがったし、とても愛情深く接してくれたかと思えば時にそっけないレギオンの態度の違いに一喜一憂し、人間の愛人達に対する時の巧みな手練手管など忘れ去った、直情的でひたむきな仕方でその心を捕まえようと必死になっていた。

彼らは、依然恋人同士ではあったけれど、ブリジットの楽観的予想は外れた様で、レギオンはカーイに対して完全には心を開かぬままだった。彼のよそよそしさは一時的なもので、いつか再び以前と同じ蜜月を取り戻せると自分を励ましながら、カーイなりに辛抱強く、わずかに色褪せたように思われる恋人との時間を、哀しく思いながらそれでも大切にしてきたが、この頃はさすがに諦念の思いが加わりつつあった。どうあがいても、過ぎ去った蜜月を呼び戻すことはできないらしい。それでも、レギオンはカーイを愛していることには変わりないのだと自分に言い聞かせて、慰めた。ただ、熱情に任せていた最初の頃とは違って、レギオンには、色々と思うことが出てきてしまったらしい。それが、カーイとの距離を広げ、かつてのような心から打ち解けた雰囲気を消してしまったのだ。レギオンが一体何を考えているのかについては、しかし、カーイには想像もつかなかった。ブリジットは、彼を天邪鬼だと言っていた。カーイのことも、手に入れたとたんに、どう扱えばいいのか分からなくなって、もてあましているのだろうか。失うことが不安ならば、もっと優しくして、しっかり捕まえていてくれればいいのに。愛しているのに、愛していないふりをするなんて、全くカーイの理解の範囲をこえていた。もっとも、そんな分析もみんな外れていて、本当に、ただカーイに飽きてしまっただけなのかもしれないけれど。

哀しかったが、不平を訴えてもどうしようもない、そんなことをすれば、ますますレギオンの心が遠くなるだけだと悟り、諦めた。レギオンを怒らせてしまうのが恐くて、もう、身勝手な我が侭をぶつけることもしなくなったし、彼の要求にはすなおにこたえる従順な恋人となっていた。

「全く、近頃の君は、一体どうしてしまったんだろうね、カーイ。えらく素直におとなしくなって、以前の我が侭ぶりはすっかり影を潜めてしまったようで、もちろん、こんな君もいいけれど、少し物足りない気もするな」

例えば、二人きりのベッドの中で、カーイの辛い心情など全く意に介さぬ無神経さで、レギオンがそう囁いた時などは、さすがに突き上げてきた怒りに顔が引き歪み、そっとレギオンから顔を背けて、彼に見えない所で震える拳を握り締め、殴りかかりたい衝動を必死でこらえたものだった。

「僕は、もう大人なんですよ。以前みたいな、子供じみた癇癪は卒業したんです」と、本当は爆発寸前になっていたにもかかわらず、そっけなくそう言って、殴るかわりに、恋人の首に腕を巻きつけて、優しい愛撫をねだった。自分の感情に逆らうのは、辛いことだ。獲物である人間に対してならいざ知らず、真の恋人に対してまで偽らなければならないなんて。

しかし、レギオンがカーイを見捨ててどこかに行ってしまうよりは、ずっとましだと思っていた。かつて、ブリジットから去って行った時にように、ここでの生活に嫌気が差して、レギオンが立ち去ろうとしたらというのが、この所、カーイの胸を占めている、漠然とした不安だったのだ。

だから、ある日、唐突にレギオンが、一人でパリを離れると言った時には、それまで、こらえにこらえていたものが一気に噴出して、忠実な恋人の見せかけの仮面など放り出し、憤怒にかられたすごい形相で、カーイは恋人に迫った。

「離れるって、一体、どういうことなんです?一人で、僕をここに置いて、どこに行くというんですか?!」

「たった2、3日のことじゃないか。そんなふうに大げさに言うようなことじゃないよ、カーイ」と、久方ぶりに見るカーイの激昂を前に、一瞬鼻白んだ後、レギオンは、むしろ楽しがっているようなにやにや笑いをうかべた。

「私は、ずっと一人気ままな暮らしを送ってきた男なんだよ。それが、君やブリジットとの生活を始めて、もう一年以上になる。いいかげん、一人になりたくなっても、不自然じゃないと思うがね」

「どうして、恋人である僕を放り出して、一人になろうなんて思うんです。許せない。そんな勝手なこと、許せるものか!」

カーイは荒れ狂ったが、そんな非難など少しもこたえていない厚顔さで、レギオンは冷たく言いはなった。

「私は、別に君の許可なんて、求めているわけじゃあないんだよ、カーイ。私がこうと決めたら、君にはとめることはできない」

低いうなり声を上げて、打ちかかるカーイの手をレギオンは捕まえて、笑いながら引き寄せた。

「ああ、外見がどんなに大人らしく変わっても、やっぱり君の中身は以前のままだったんだね、カーイ。変わらない君を見るのは、嬉しい事だよ」

「ふざけないで…う…」

強引なくちづけに唇を奪われて、カーイは、余計に怒りをあおられ、相手の唇に激しくかみついた。ひるむレギオンの腕から身をもぎ離し、怒り心頭に発した態度でねめつけた。

「出ていきたいなら、勝手に出ていけばいい!もう、帰って来るな!僕は、あなたを追いかけたりなんかしないし、あなたがいないからって、恋しがって泣いたりなどするものか」 

激情にまかせて、そんな憎まれ口を叩いてみせたが、それはみんな嘘だということは、カーイが一番分かっていた。瞬く間に青ざめるカーイを、レギオンは噛まれた唇を舐めながらしばし眺めていたが、無言のまま近づいてきて、その強張った頬にそっと手を置いた。

「そんな心にもない嘘は、君には似合わないな、カーイ」と、緑色の目を残酷に細めて、低い声でささやいた。

「私が姿を消したら、君はこの世の終わりみたいに泣くだろう、賭けてもいいね」

怒りと屈辱に唇を震わせ、カーイは耐えられなくなったかのように瞼を閉じた。早くも瞼の裏に熱いものがこみ上げて来るのを感じたが、あふれさせないよう懸命にこらえた。

「もし、私がこのまま帰ってこなかったら、君はどうするだろうね。…追いかけてくるかい?」

今度は優しく、レギオンは、カーイのかたく引き結ばれた唇にキスをした。カーイの体は慄いた様に震えた。レギオンがいなくなる。激情の炎も瞬く間に鎮火し、体中の力がぬけてへなへなとその場に崩れ落ちそうになったが、プライドだけで何とか立ち続けていた。

「嘘だよ」と、レギオンは付け加えた。

「すぐに帰って来る。君を一人になどしないよ、カーイ。愛している」

恋人の強い腕が体に回され、一瞬苦しいくらいに激しくかき抱いた後離れ、その気配がそっと退いて、遠ざかり、扉が閉じられるまで、カーイは強情に目をつむったまま、立ち尽くしていた。

扉が閉ざされたとたん、カーイは目を見開いた。押さえていて涙が双眸から零れ落ちた。恋人の姿は既になく、その気配もどんどん遠ざかっていく。本当に行ってしまった。カーイは、レギオンが出ていった扉を呆然と見つめていた。

「レギオン…」

呼び戻そうとするかのように開いた口からもれた声は嗚咽となり、その顔が、突き上げてくる激しい感情にくしゃくしゃに歪んだ。さすがにあんなふうに拒絶されてもなおレギオンを追いかけていくことはしなかったが、傍にあったソファに身を投げ出し、柔らかなクッションに顔を埋めて、さめざめと泣いた。何て、悔しいことだろう。あの薄情な身勝手な男が出ていったとたん、その言葉どおりに、本当にこの世の終わりみたいに泣いてしまうなんて。ひどい奴。人の感情を掻き乱し、真摯な気持ちをさんざん玩んで、見栄も誇りもめちゃくちゃに傷つけておきながら、ぬけぬけと愛しているなんて。

今度ばかりは、カーイは、この恋の先行きに絶望的になっていた。もう、駄目だ。こんな扱い、仕打ちには耐えられない。心からの愛情を込めてどんなに慕っても、正面から向き合って答えようとはしない。ひたむきに追いかけても、するりと逃げかわされてしまう。少しも見えてこない相手の真意をうかがい、怯えながら、飼い主から投げ与えられる骨に飛びつく犬の様に、待ちわびた優しい言葉や抱擁の一つ一つに有頂天になる、そんな惨めな恋など続けられない。

レギオンのことなど、もう何一つ信じられないと思った。すぐに帰って来ると約束はしたけれど、それは逃げるための方便で、ひょっとしたら、このまま帰ってこないかもしれない。そう考えると、またしてもカーイの胸は深い哀しみと喪失感に満たされ、悔しいと呟きながらも、泣かずにはいられなかった。

「嘘つき…」

ここにはいない恋人をなじる、ほとんど憎しみに近い、深い恨みのこもった言葉が、カーイの震える唇の間から低い嗚咽に混じって絞り出された。



そうして、カーイは、レギオンのいなくなった屋敷での数日を、ほとんど泣き暮らした。レギオンはもう帰って来る気はないのだと、何時の間にか本気で彼は思いこんでしまっていたので、怒りと哀しみに取り乱し、思い返してみるとあまりに唐突な別れ方に混乱し途方にくれて、たとえば狩りに出て気を紛らわせるとかいった、前向きな気分には少しもなれずに、じめじめと落ちこみ、真っ暗に締め切った部屋に閉じこもって、食事も取らず、心配して声をかける母にも会おうとはせずに、目覚めている時は不実な恋人に対する恨みつらみを呟いて泣き、夢の中では逆に恋しがって泣き、どんなに多くの人間達の心をつかんでも、本気で欲しいと思った一人の心も繋ぎとめる事もできなかった自分など、このままこの部屋で朽ちてなくなってしまえばいいというような、しようもない自虐的な一種の陶酔にほとんど浸ってさえいた。 

だから、実際にはレギオンが約束どおりにわずか3日で再びパリの屋敷に戻ってきた時には、カーイは、どんな反応をすればよいのか分からなくなってしまった。それまでの日々をさんざん恨み言と涙で費やして来てしまったので、疲れきって、今更、律義に期限を守って帰って来た相手を責めたてるだけの気概は奮い起こせなかった。それに、勝手な思いこみで大騒ぎをしていた自分が恥ずかしくもあったので、帰還するなり真っ先にカーイの姿を求めてやってきたレギオン、昼間だというのにカーテンをひいて、やつあたりの痕跡をそこかしこに残した散らかった部屋をびっくりした様に眺めまわす恋人を前に、黙りこむしかなかった。

「カーイ…」

夢の中で何度も聞いた優しい声が呼ぶのに、カーイは、両手で顔を覆って、細い肩を震わせた。

「言っただろうに…帰って来ると」

恥ずかしい。みっともない。悔しい。腹立たしい。嬉しい。カーイには、とっさに何も答えられなかった。

「馬鹿だね」

レギオンは、カーイがうずくまる寝台の端に腰を下ろして、うつむいてしまった彼の髪にそっと指を滑らせた。

「ここにいなかった3日、夜は決まって君の夢を見たよ。昼間は一人で気ままに過ごした。つまらないことさ。気に入った景色を見つけて絵に描いたり、川辺りでぼうってしたり、釣りをしたり。せっかく、自分だけの孤独な時間を手に入れられたんだから、君のこともなるべく心から閉め出そうとしていたんだが、夢まではどうしようもなかったらしい。夢の中の君は、言葉では言い尽くせないほどに美しく、可憐で、心乱される存在だった。離れていると、無性に会いたくて仕方がなくなって、落ちつかなかった。果たせるかな、現実に会ってみた君は、私が夢で見たよりも数倍も美しいよ」

レギオンの声は優しく、心からの愛情と気遣いに満ちていた。離れていた数日が、彼の心に変化を生じさせたのだろうか。カーイの気持ちは揺らいだが、それでも、完全には信じられなかった。レギオンの心は、移ろいやすい。今の真実が、明日には、もう変わっているかもしれない。

「あなたに見捨てられたかと思った」

カーイは、顔を覆っていた手を下ろし、レギオンをひたと見つめながら、囁いた。

「辛かった」

カーイが傷ついているのを見て取ったレギオンは、さすがに後悔したような顔をした。そして、カーイの体を引き寄せて、慰める様に抱きしめた。

レギオンの腕の中で、カーイは、逆らいこそしなかったが、用心深く、心を開かずにじっと身を堅くしていた。

「かわいいカーイ、私が君を見捨てるはずなどないだろう。この通り、ちゃんと帰って来たじゃないか。私の約束を信じなかった、君が悪いんだよ」

耳元でなされる囁きは、甘く、いつものカーイならば、うっとりと聞き入って、少しくらいつむじを曲げていても、それで許していたかも知れなかったが、さすがに、今度ばかりはそんな気持ちにはなれなかった。どんなふうに言い訳しても、レギオンは、一度カーイを捨てたのだ。

「あなたの約束に、一体どんな値打ちがあるというんです」

疲れ果て、レギオンの胸に力なく頭をもたせかけながら、溜め息混じりにカーイはそう呟いた。

「あなたは嘘つきだ。初めて会った時から、ずっと…いつでも僕を騙してきた」

もはや、怒る気にもなれず、せっかく優しい気持ちになっているらしい相手をいらだたせるかもしれなかったが、それももうどうでもいいというような投げやりな気分で、カーイは、激昂とは程遠い沈んだ声で、静かに言った。

「私が一体いつ君をだましたというんだい、カーイ。つまらない言いがかりはやめなさい」

心外そうなレギオンの言葉に、カーイは、苦笑せずにはいられなかった。それから、今まで溜めこんでいた恋人に対する不満と不審を、ぽつりぽつりとではあるが、もらし始めた。

「だましてというのとは少し違うかもしれませんね。あなたには、本当にそんなつもりはないのかもしれない。一流の舞台役者のように、自分が演じる役に完璧になりきって、それが自分の本心じゃないってことにも、もしかしたら気づいていないのかもしれない。僕がもっと鈍感な相手だったら、ずっと欺かれていたかもしれないけれど、人間相手に見せかけの恋の罠をしかける、同じヴァンパイアだからでしょうか、あなたの嘘は敏感に感じ取ってしまうんですよ。もしかしたら、これが同族同士のカップルは長続きしない事が多いという理由なのかも」

「カーイ、いいかげんにしないと、怒るよ。恋人から嘘つき呼ばわりされるのは、決していい気分のものじゃない」

怒りの前兆のような、微かな昂ぶりがレギオンの声にともるのにもひるまず、カーイは、顔を上げて、相手を覗き込んだ。

「僕は、あなたの恋人なの?あなたは僕の恋人?傍にいても、まるで人間の獲物に対する時みたいに、あなたはいつも恋人という演技をしているようで、本気の態度と言葉なんかほとんど向けてくれないじゃないですか。愛していると言いながら、自分の本当の姿は見せられない、一緒にいても心からくつろげないなんて。血を吸う者、永遠に生きる、数少ない同族として、お互い分かり合えるはずだと思っていた。人間のふりをして、人間に混じり生きるかぎり、ずっと演技しつづけなければならない僕だけれど、あなたの前では、いつでもあるがままの自分でいられる、心にもないことを言ったり、そうしたくもないのに笑ってみせたりする必要もないのだと思うと、とてもほっとできた。空しい嘘なんて付き合わずにすむ、あなたこそは、僕の理想の伴侶だと思っていたのに…」

レギオンは、一瞬黙りこんだ。それから、責めると言うにはあまりに静かで哀しげな、己の向かってまっすぐに注がれる眼差しから、僅かに顔を背けた。

「カーイ、私は…違うんだよ、君を欺こうとしてきたわけじゃないし、ましてや、人間の獲物に対する様な偽の恋を演じているわけでもない。だが、私には…私にだって、どうすればいいのか分からない…どうしようもないことだってあるんだよ…」

雄弁なレギオンが口篭もる事などめったに見られるものではなかったが、この瞬間の彼は、本当に自分の思いをどう言葉にしたらいいか分からず途方にくれている、不器用なただの男のように見えた。

「愛しているよ、カーイ。最後の子供…私にとっても、君こそが永遠の伴侶だと思っている…」

苦しげに喘ぐようにそう言った後、レギオンは、それ以上言葉をつぐのがもどかしくなったかのようにカーイの体を衝動的に抱きすくめ、そのまま、寝台の柔らかなクッションの上に押し倒した。

「レギオン、ねえ、一つ聞いてもいいですか?」

荒々しくのしかかられ、衣服の前を広げられても、カーイは、無抵抗のまま、石さながらに冷たく横たわっていた。

「束の間の孤独と自由を楽しんで、取りあえずはそれで満足して帰って来たあなただけれど、では、もう二度と出て行ったりはしないと約束できるの?」

カーイの上で、レギオンが唐突に動きをやめた。思いも寄らない鋭い問いかけに、とっさに答えられないというように凝然とカーイの冷めた顔を見下ろした。

「いや…」

舌で唇を湿しながら、じっと考えをめぐらせ、答えるのに躊躇するかのように何度か口を開きかけては、やめた後、あきらめたように率直に答えた。

「私は、しばらくすれば、また出かけてしまうだろうね。ここに、ずっといつづけることは、私にはできない。数日か、数週間か…あるいは数ヶ月になるかもしれないが、旅はやめられないだろう。必ず帰って来るつもりではあるけれど。すまないが、どうしようもないんだ…君からもブリジットからも離れた、一人の時間を持たなければ、私は自分自身を見失っていきそうで、心の平穏が保てないからだ」

カーイは、やっぱりとでもいうかのような深い溜め息をついただけで、言葉にしては何も言わなかった。

そんなカーイを、レギオンは、しばし、何かしら妙に哀しげな表情で見下ろしていたが、やがて、あきらめのような苦笑をうかべて頭を左右に振ると、そっと身を引いた。

「私が恐れていると…このところ私の胸を占めている不安は、じきに君を失うかもしれないという予感なのだと、今更告白しても、きっと信じてはもらえないのだろうね、カーイ」

カーイは、目をつぶり、唇だけで微かに笑った。

「言葉と行動が矛盾しているんですよ、あなたは」

それから、半ばはだけられた雪白の胸に手を置き、僅かに喉をのけぞらすような挑発的な仕草をして、薄目をあけて、傍らのレギオンを見やった。

「僕を抱かないの?夢で見るほどに欲しかったんでしょう?」

レギオンは、哀しげに頭を振った。

「もう、そんな気にはなれないよ。君が私を望んでいないというのに、抱く気にはなれないな」

「僕も、あなたのことは、何度も夢で見るほどに恋しかった。あなたのキスや抱擁が欲しかった。帰って来たあなたを見て、胸が高鳴らなかったと言えば、嘘になる。抱きしめられた時は、嬉しかったし、あなたの肌に触れてその匂いや体温をもっと感じたいとも思ったけれど、何だか急に気持ちが冷めてしまった。レギオン、お願い、僕をしばらく一人にして。もう、あなたがいなかった時みたいに、部屋に篭城して馬鹿みたいにめそめそ泣くことはしないから。ただ、何だかとても疲れてしまって、少し眠りたいんです」

レギオンは、本当に憔悴しきってしまったようなカーイの青ざめた小さな顔を見下ろし、ためらいがちに伸ばした手で、頬にそっと触れたかと思うと、慄いた様にすぐに離した。

「分かったよ、カーイ。しばらく、お休み。眠って、元気を取り戻したら、そうだね、また、二人の狩りの話でもしよう」

カーイは、早くもとろとろとし始めて、立ち去るレギオンを見はしなかったが、もし、見ていたら、いつも自信に満ちて、堂々たる物腰のこの男が肩を落として歩く姿に、仰天していたかもしれない。燦然と輝く金色の頭も俯けられ、とても悄然として、急にその力と魅惑をなくしたかのようだった。



それからのカーイとレギオンの関係は、一見平和を取り戻したかのように見えたが、実際には、完全にもとに戻ることはなかった。

カーイにとっても、ひたすら恋に溺れ夢中になっていた時期は、ついに過ぎ去ってしまったようだ。前よりもずっと冷静に、移り気なレギオンを見られるようになった分、気持ちは楽になったかもしれない。以前と同じような付き合いは続け、相変わらず二人だけの夜を過ごすこともあったし、狩りのゲームの続きも再開していた。今では、カーイの勝率もかなり上がってきていて、勝ち誇ったように笑いながら、彼が「あなたのこの金髪が欲しかった」と囁いてレギオンのに輝かしい頭にキスをするといった結末も度々あった。確かに、カーイは、そんなふうにレギオンとの恋を楽しんではいたが、そこに何かしら期待や望みを託すことは決してしなくなった。虚脱感にも似た諦めは、カーイの胸にじわじわと広がり、やがて、薄い氷のように心を包み込んで、徐々に冷えさせていった。

だから、案の定レギオンが、再び一人だけの小旅行に出かけた時も、前回のように取り乱すことはなく、しばしの別れを告げる抱擁とキスを受けても、それ程辛くはなかった。レギオンが、帰ってくることは分かっていたし、性懲りもなく、同じ逃亡をこの先繰り返すだろうことも予想できた。もう、何も言うまい。彼の好きなようにさせればいいのだ。そう思いきることで、心は解放されたが、同時に何かしらしんと冷たい澱が胸の奥にたまっていくのを覚えた。

束の間の旅、数日、あるいは数週間に及ぶ逃亡から戻ってくると、レギオンは、そこに再会する度に冷たく頑なになっていく恋人を見出すことになった。レギオンへの態度が特に変わったわけではないが、その心は、人間に対する時のようにかたく閉ざされていた。美しく、魅力的な、非の打ち所のない恋人を、カーイは、今や演じるようになっていた。ほとんど意識もせずに自分の役所を演じる、見る者だけでなく自分自身さえも欺いてしまう、一流の役者、同じヴァンパイアの顔と、レギオンはいつしか向き合うようになったのだ。



「…この街は、人間が多すぎる。どこに行っても、彼らの汗と血の匂いがして、心が休まる場所がない、そう思わないか」

それは、パレ・ロワイヤルでの舞踏会での一場面だった。人々に混じって、ひとしきり踊りを楽しんだカーイが、どこにいても目立つレギオンの姿が何時の間にか消えていることに気づいて、探しまわると、彼は、笑いさんざめく人間達と彼らを照らし出すこうこうたる灯りを避けるように、一人、物陰に退いて、うんざりしたように込み合うホールを見やりながら、そんなことを呟いたのだ。

「いや、どこに行っても、同じだがね。パリだろうが、私のロンドンだろうが、他のもっと小さな街や村、森の中に分け入ったって、人間の痕跡は必ずあるものだ。彼らの手に汚されていない、無垢なる処女地は、この世界にはもう残っていないのだろうね」

一瞬、カーイは、レギオンが、酒に酔ってでもいるのだろうかと思った。

「急におかしなことを言い出すものですね、レギオン。あなたは、華やかな都会が大好きなはずじゃないですか?大勢の人間達の中で、その注目を浴びることが、たまらなく刺激的で、いいんでしょう?第一、これだけ、人間が増えてしまった今、人跡未踏の地など、まずありませんよ。あったとしても、そんな場所では狩りもできなくて、私達のような者は、長く留まることは無理でしょうね」

冗談めかして、相手をからかうようにカーイは笑ったが、レギオンは、それを疲れたような目で眺めるのだった。

「ああ、私は確かに愛してきたよ。ベネツィアも、ローマも、ロンドンやこのパリもね。そこにいる人間達も、私の永遠の無聊を慰めてくれる、いい相手だったさ。だが、この頃は、それに少し倦んできたようだ。脆く、弱いくせに、数だけは増えて、この世界を我が物顔に所有する彼らの存在が、疎ましくて仕方がないんだよ」

どうやら、レギオンが本気で言っているらしいことに気づいて、カーイは、当惑した。

「レギオン、一体、どうしたというんです。不平を言った所で、どうなるようなものでもないじゃないですか。彼らは私達よりも力で劣るが、その分、数が多い、それだけのことですよ。それに、まさか本当に彼らから離れたいというわけではないのでしょう?」

「吸血の欲求から逃れられない限りは、無理な話だからね」

皮肉な微笑を唇に刻んで、カーイから視線を逸らすと、レギオンは、心ここにあらずといった遠い目で、ホールで踊る人間達の上を眺めた。カーイは、いぶかしみ、何かしら不安にもなって、レギオンの注意を取り戻そうと、歩み寄って、その腕に手を置いた。

「レギオン、しっかりして下さい。今夜のあなたは、全くあなたらしくない。人間をまるで恐れてでもいるかのようで、そんな態度は、同じ血族として、私は見ていて少しも楽しいものじゃないですよ。気まぐれにしても、どうか、そんな馬鹿なことは言わないでください」

「馬鹿なこと、か」

レギオンは、再びカーイを、改めて相手が何者であったかに気づいたかのように、つくづくと見つめた。

「君は、そう思うんだね、カーイ。そう言えば、まだ君はとても若い、ヴァンパイアの長い生のほんの入り口に立ったばかりの子供なのだったね。実にうらやましいことだよ。そんなふうに未来に何の恐れも不安も抱かずにいられる、何の迷いも疑いもなく血を吸う神の子としての誇りに満ちていられるなんて。だが、君も私くらいに時を重ねれば、永生が必ずしもいいことづくめとは限らないと知るだろうさ」

そう言えば、出会ったばかりに頃も、レギオンは、こんな意外に気弱な考えをもらして、カーイの反発を買ったのだった。カーイは、確かに生まれたばかりの幼いヴァンパイアだったかもしれないが、永遠の命という賜物を、そんなふうに否定されるのは、母から継いだ古い誇り高い血にかけて許せなかった。

「たかが三百年じゃないですか。ブリジットをご覧なさい。彼女に比べれば、あなたも僕と大差のない、若造の部類に入ってしまうでしょう。何をまたそんな気弱な事を言い出すんですか。あなたは自分がまるでこの世界の秘密など全て知り尽くして、もうするべきことは何も残ってはいない老人のような気分に浸っているけれど、三百年など、僕達が生きる永遠の時間を思えば、全く大したことはないはずですよ。それに、世界はどんどん変わってきている。生きることに飽きたり、退屈している暇などないと思いませんか。世界が変わるにあわせて、その新しいエネルギーをもらって、僕達も変わっていくでしょう。そうやって永遠に成長していく生き物なんですよ、僕達は」

カーイは、熱心に訴えたが、レギオンは、少しも感銘を受けたようには見えなかった。まぶしいものでも見るかのように、カーイに向けた目を僅かに細め、ぼんやりとした微笑を浮かべる顔は、その造作は若々しく美麗なことこの上ない青年のものであるにもかかわらず、何かしらひどく老人めいていた。

「永遠に成長を続けるなんて幻想に浸っていられるのは、君が若いという証拠さ、カーイ」と、反論しようとするカーイを手で制して、レギオンは言った。

「実際はそううまくはいかないものさ。永遠を生きる精神力を保つようどんなに自らを鍛えていようと、いつかは停滞というものを迎える。永生というのは、淀んで動かざる淵の底の水のようなものだ。女神ブリジットは、特別な存在なんだよ。実際、彼女の後に生まれた血族は、世代を重ねるごとにどんどん弱くなっているんだ。今残っている血族にもうかつての神のような力はふるえない…使う必要がない能力はどんどん退化していくと前にも言っただろう。人間に擬態して生きてきた私達は、どんどん彼らに近づいて、か弱くなっている。精神だってそうだよ。永遠を生きる肉体につりあう不滅の心が、今の私達からは枯渇しつつあるようだ」

レギオンの思わぬ告白に一瞬のまれてしまったカーイは、その声にこもる、切迫した響きを聞きとることが、とっさにできなかった。ヴァンパイアとしての誇りに満ち、人間をさげずみながら、堂々と生きているかに見えた、レギオンが、一体どうしてしまったのだろうというような、衝撃と戸惑いに心を捕らわれていた。

「時々、自分が何なのかわからなくなって、混乱する…人間のように装い、飲み食いし、彼らの建てた家に住み、彼らの書いた本を読んで、時に新しい思想について彼らと友人のように討論を戦わせながら、同時に生きるために彼らを殺し血を飲まねばならない自分は、一体何者なのかとね。アイデンティティの危機という奴さ。自分がヴァンパイアなのだと再確認するために、ゲームのような残忍な殺しを繰り返してきたが、殺しを重ねるごとに、日頃自分が演じている人間としての顔とのずれ、矛盾はますます深刻なものになってきて、混乱はますますひどくなる。どうすればいい?

まくし立てるように、そんなことを一気に言いきったレギオンに、カーイは、しばしひるんだように押し黙るしかなかったが、やがて、激しい反発心がむくむくと沸きあがってきた。

「あなたの言ってることは、全く信じられない」と、怒りに満ちたカーイは、レギオンの言ったことをみな、はねつけた。

「あなたは、自分の心の問題を、僕達一族みんなの問題にすりかえているだけだ。あなたが、そんなに気の弱い、情けない人だとは夢にも思っていなかった。見そこないましたよ、レギオン」

カーイは、冷たい憤りに青い瞳を燃えあがらせて、落ちたる偶像と化した恋人を軽蔑したように睨みつけた。

「いつもいつも周り中に嘘をついて、誰に対しても本気の態度で接して来なかったことの報いですよ、その混乱とやらは」

かつては理想のヴァンパイアとして崇拝していた相手の思わぬ堕落ぶりに、カーイは裏切られたような気分になって、なお一層残酷になって、容赦なく責めたてた。

「人間のみならず、同族の相手にさえ心を開けなくなってしまった、あなたの自業自得なんですよ、レギオン」

しかし、レギオンが何も言い返さず哀しげに見つめ返したのに、カーイは、さすがに言いすぎたと後悔して、口をつぐんだ。

「そうだね。全く、君の言う通りだよ、カーイ」

いつものレギオンなら、カーイのこんな皮肉も憎まれ口にも平気な顔をして、手ひどいしっぺ返しをしてくるはずなのに、この時の彼は、カーイに攻撃されたまま、黙って背を向けてしまった。

「レギオン…」

そのまま、明るいホールの方へ、カーイから離れて立ち去っていくレギオンの背中を、ふいに突き上げてくる後悔と迷いに揺れ動く瞳で追いかけた。その時になって、ようやくカーイは気がついた。

怒りにかられて、とっさに分からなかったが、あれはレギオンが珍しくもカーイにその本音をもらした一瞬ではなかっただろうか。いつもは決して弱音など吐かない恋人がその悩みを打ち明けてくれたというのに、応えるどころか、全く取り合いもせずに、無情にもはねつけてしまった。

「待って」

どんどん遠くなっていく恋人を見送っていたカーイは、幾分うろたえながら、手をさし伸ばし、その名を呼んで追っていこうと歩き出しかけた。が、その足は、躊躇したようにすぐに止まってしまった。

少し前なら、迷わずに追っていけた。レギオンに駆けよって、その腕を取り、抱きついて、自分の冷たい態度の許しを乞うた。それから、弱音だろうがなんだろうが、あんなふうに初めて心を打ち明けてくれて嬉しいと言っていただろう。

「レギオン」

どんどん離れて、ついには見えなくなってしまった恋人と自分との距離が、これほどまでに今は遠いものだということを実感しながら、カーイは寂しさをつのらせて、一人、いつまでも立ち尽くしていた。 

 

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