愛死−LOVE DEATH− 

第四章 最後の子供


パリに戻ったカーイを、母ブリジットは黙って抱きしめ、その帰還を喜んだ。無断で外泊などして、怒られるのではないかとびくびくしていたカーイだったが、ブリジットには彼がレギオンと一緒にいたこともどうやらお見通しのようで、普通の母親のように感情的になって取り乱すということは、どうやら彼女に限ってないらしかった。ただ、レギオンに対しては、カーイを三日に渡って連れ出した、そのゆきすぎた勝手な行動について、静かながら凄みのある声でたしなめて、いつもの颯爽とした姿とは別人のように子供のようにしょげ返っている彼の様子に、カーイは、思わず吹き出してしまった。

あの最初の狩りからとまっていたかのような時が、再び流れ出した。パリの館での生活も、表面上はこれまでどおりだった。カーイは、今や血の味を覚えることでヴァンパイアとして根本的な変化をとげており、レギオンとの関係も恋人にまで発展していて、その生活が以前と同じであるはずはなかったのだが、母親の前では、カーイはやはり彼女の子供でありたかったので、あくまで何も変わっていないふりをし続けたのだ。

けれど、実際、レギオンが傍にいるのに好きなように抱きついたりキスしたりできないのは非常に欲求不満なことで、母と恋人の間にはさまれて、カーイなりに苦しいジレンマに陥って、頭を悩ませていた。

「レギオン、レギオン」

母がいない時、広い屋敷の中を、カーイは恋人の姿を求めて探しまわり、ようやく見つけると、ほっとしたようにその胸に飛び込んでいった。

あの恐ろしくも甘美な嵐の一夜を経て、レギオンの恋人となったカーイは、それまで彼に対して覚えていた反発も敵愾心もきれいに忘れ去って、この新しい恋に夢中になっていた。淡い初恋の相手だった人間の少女のことなど、彼女の両親に白々しくも哀しみに暮れているふうを装って会いに行き、墓に花を手向けた時はさすがに後ろめたさを覚え、彼らに怪しまれてはいないかとびくびくしていたが、終わってしまえば案外あっけなく、今ではあれは本当に恋であったのかとと疑う程に、思い出すのもまれになっていた。それには、多分にレギオンの存在の大きさが影響していたのだろう。カーイを照らし出す太陽の微笑み、その腕に夜毎抱かれて眠りにつけば、どんな悪夢が入りこむ隙もない。彼の隠れ家で過ごした最初の数日は無論、パリ市内の館に帰ってからも、一人寝の不安に耐えかねれば、こっそりその部屋に忍んでいって、彼が眠っていようがまだ起きていて本を読んでいようがおかまいなしにそのベッドにもぐりこみ、その広い胸に頭を預けて初めて安全な隠れ場所を見つけたように、すやすやと眠りに落ちていった。

「…天使の羽跡」

大抵いつもはレギオンより先に寝ついて、目が覚めるも後のことが多いカーイが、珍しく早く寝覚めて、傍らで気持ちよさそうに寝息をたてている恋人の姿を、うっとりと見惚れていた時のことである。枕の上に光背をなす金髪を広げ、同じ金の長い睫毛そっと伏せて休む姿は、眠れる太陽神そのもの。カーイの熱っぽい視線を感じ取ったかのように身じろぎをして、寝返りを打つと、剥き出しの肩と背中が目の前に提示される形となった。そっと手を伸ばして、波打つ金髪に触れ、それを引きのけて顕にしたうなじから背骨に沿って下に滑らせ、貝殻骨の周りをぐるりと半円を描くようになぞった。その辺りの皮膚は奇妙な痣か疵のような幾つかの小さな印が、他の滑らかな皮膚と違って堅く盛りあがっている。カーイにも同じ疵があって、ブリジットは天使の羽跡と呼んで、カーイが小さかったころはよくそこに口付けしたものだった。

「ふう…カーイ…?」

カーイの悪戯な手の感触に、レギオンは目を覚ましたらしい。あくびを手で押さえながら、肩越しにカーイの方を振りかえった。

「ね、レギオン、あなたもこんな所に疵があるんですね」

「疵?ああ、これのことか。私達、血を吸う者の印、私の母は血の首飾りと呼んでいたが…」 

「ブリジットは天使の羽跡と」

「ああ…うまいことを言うな。確かにちょっと羽がついてた跡みたいだね」

それから、ふと何かを思いついたような顔になって、カーイの方に向き直った。枕に肘ついて、カーイを覗き込むと、古い記憶を探るように時折沈黙を交えながら、ゆっくりと語り出した。 

「そう言えば、子供の頃、こんな話を聞いたことがあるよ。誰だったかな…母親だったかもしれないが、よく覚えてはいない。カーイ、旧約聖書は読んだことはあるかい?」

「ええ、一応は。別に信仰があるわけではないけれど」

「その中の一節にこんなくだりがあるんだが…神に仕える天使達が、ある日見下ろした地上に暮らす人間の美しい娘達に恋をした。それで、その娘たちと一緒になるために肉の体をまとって天を下った。そうして、そのもと天使と人間の娘達の間に子供が生まれるわけだが、それは異様に体が大きく力が強かったりと、とにかく天使の血が混じってるだけあって普通の人間ではなかった。世界はそれからほどなく神の起こした洪水で滅び、天使たちは肉の体を手放すことで難を逃れたが、人間や、天使と人間の混血の怪物たちも大半は死に絶えてしまった。だが、中には生き残った怪物もいて、それらは空を飛ぶことはできたから多分助かったんだが、だからと言ってその父達のように霊体になって天に昇れるほどの力はなかった。それら、天から降りた神の子の末裔が、我々のようなものになったというんだよ。この疵が、その血の名残だというんだね。そうして、我々が人間の血を飲まねばならないのは、人間そっくりに擬態し、この地上で生きられる肉の体を維持するためなんだ。もし、血を飲むのをやめたら…想像はつかないが、この体は消滅し、天使たちがそうだったような霊体に戻ってしまうだろう。…この話、どう思う」

「うん、面白いと思うな。僕達は、それじゃあ天使の子孫というわけ?別の物語も、幾つか聞いたことがありますよ。ね、これは知ってる?」

こんな具合に、彼らはいつも、二人きりのベッドの中では、めったにできない、相手が同族だからこそできるような話に花を咲かせ、親密な一時を過ごすのだった。

レギオンと二人で出かけることもよくあった。以前は、ブリジットと手に手を取り合って外出する彼を嫉妬と羨望のこもった眼差しで見送るだけのカーイだったが、今やレギオンの横に並んでいるのは彼自身だった。ありきたりの観劇や舞踏会に乗りこんで、人間達の感嘆の眼差しを受けながら、しかし、互いにだけ分かる親愛のこもった視線を交し合う時、カーイの胸は、人間の女達が皆夢中になるこの素晴らしい男は自分のものなのだという喜びと誇らしさにはちきれそうになる。人間達に混じっての社交に倦むと、今度は真夜中にやはり二人でさ迷い出、寝静まったパリの街を翼のない鳥と化して舞い 上がり、国王家族の住まう王宮のひっそりとした庭園に降りたって、月明かりの下、互いの手を取り合って、咲き誇る薔薇の花々の上を掠めるようにしながら、地の重力を離れた軽やかさで、見事な円舞を踊った。どんな門も扉も行く手をさえぎることのできない彼らにとっては、王宮の内部に忍び込むことさえ容易かった。めったに拝めるものもいない、財宝や見事な絵のコレクションを眺めたり、悪戯っ気を出して霧のように忍びこんだのは多分王女の部屋で、すやすやと眠っている愛くるしい少女の胸に庭園でつんだ瑞々しい薔薇の一枝を置いて帰ったこともあった。人間の掟に縛られることなどない、この世のものならぬ恋人同士だった。

彼らは頻繁に愛し合った。さすがにパリの屋敷では、ブリジットの存在を意識して今までと変わらない教師と生徒の関係を装い、彼女の前ではカーイはレギオンに馴れ馴れしく接することを許さなかったが、本当はカーイの方こそもっと彼に甘えたかったので、母の目を盗んでのキスや抱擁に満足できなくなると、レギオンの絵のモデルになるとの口実で彼のアトリエに出かけて行って、時にはそこで数日を二人きりで過ごし、今度こそ誰の目をはばかることもなく、眠ったり食事をしたりする時以外はひたすらに抱き合い、愛し合った。

「何をしているの?」

乱れた寝台の中で、カーイが束の間の気だるい眠りからふと目覚めると、傍らに座りこんだレギオンが、彼の姿を手馴れた様子で紙にスケッチを取っていることがしばしばあった。

「君を描いているんだよ、カーイ。君の今の姿、二度とは戻らない貴重な子供時代の君、無邪気で屈託のないその表情や仕草をできる限りとどめておけるように」

カーイは、小さなあくびをして、あまりレギオンの言葉には感銘を受けずに、言った。

「あなたは僕の子供っぽさが好きみたいだけれど、僕は早く大人になりたい。あなたみたいな一人前のヴァンパイアになって、狩りもうまくなりたいし、自分の力にももっと自信が持てるようになりたい」

「そんなに急ぐものではないよ、カーイ。いずれは嫌でも大人になるんだ。もう5年もすれば、君はそれ以上年をとることもなくなって、後は百年でも二百年でも変わらない自分をいつも鏡の中に見出すことになるのだからね。しかし、いいかい、少年の君には今しか会えないんだ」

そう言われても、カーイにはやはりピンと来なかった。ただ別の興味を引かれ、好奇心に目を輝かせて起き上がり、レギオンのスケッチをひったくって、しかめ面をするその顔を覗き込むと、屈託なく問いかけた。

「ねえ、では、あなたはどんな少年だったの、レギオン?僕と同じくらいの時のあなたって、一体どんなふうだったのだろう?」

レギオンはちょっと眉根を寄せ、カーイから目を逸らして、唇を引きむすんでしばし考えこんでいたが、やがて考えあぐねたように軽く肩をすくめ、うそぶくように言った。

「それは君、格好よかったさ、もちろん」

「ふうん」と、カーイは冷たく目を細めた。

「そう、では、今度ブリジットに聞いてみます。彼女は昔のあなたのことをよく知っているふうだから」

レギオンをやりこめるつもりで言った自分の言葉に、カーイの胸は、なぜかちくりと痛んだ。ブリジット。カーイの知らないレギオンを知っている、彼が今でもこの世で一番愛していることには変わらない母親。しかし、この頃は彼女のことを思う時、カーイの心には、説明しがたい様々な複雑な思いが錯綜する。

体を交わし、時には互いの血を飲みあうようになった今、レギオンの存在は以前とは比べ物にならないくらいに身近なものとなり、その感情も心も簡単に伝わってくるようになっていた。レギオンはカーイを愛している。それは間違いない。自分を愛する者の血しか飲まないヴァンパイアのカーイに、その点に関して嘘をつくことはできないのだが、分かり合えるようになった分、かつては知りようもなかった意外な事柄が明るみに出てきて、それは必ずしもカーイの心を安らかにしてくれるものではなく、むしろ幸福の絶頂にある心に一抹の影をおとした。時折、激しい不安感を覚えて、レギオンの胸を引っつかんで、問いただしてやりたい衝動に狩られそうになるが、いつも寸前の所で心が挫けて、やめてしまう。一体何を問えばいいのか。


あなたは、僕を愛している?

無論、愛しているとも。

それとも、こう問いかけるべきだろうか。

あなたにとって、僕は一体何?


「君は、本当に何から何までブリジットに生き写しだ。彼女のような存在はこの世に二人と存在しないと思っていたけれど、同じ血の作り出す奇跡には全く驚嘆するばかりだよ」

二人きりの寝床で交し合う睦言の中でも、レギオンは、カーイの小さな顔を両手にはさみこむようにして愛しげに見下ろし、よくそんなことを言った。

「この肌も髪も唇も全て彼女と同じのもの…なのに、瞳の色だけが違うんだね、カーイ。彼女の瞳は夜明けの空を思わせる煙るようなスミレ色だが、君のそれは北国の空のように冴え冴えと冷たく青い」

母に似ていることはずっとカーイの自慢だったのだが、レギオンにそう言われると、急に胸が苦しく詰まったようになった。無性に腹が立って、悲しくて、そんな時は、この無神経男の手に思いきり噛みつくか、固めた拳で横っ面を殴るかしてやるのだが、そうするとその時だけはレギオンも自分のうかつさを悟るようなのだが、それでも、根本的に改まる気配はなかった。レギオンのカーイに向けられる眼差しに、いつもとは微妙に違うまぶしげな憧憬がこもることがあれば、それは彼がカーイではなく別の誰かを見ている時なのだ。

ある時、パリの屋敷でのことだ。母の姿を求めて、その気配がする居間に足を踏み入れた、カーイは、そこで立ちすくんでしまった。中庭に面した大窓から差し込む日差しが明るい部屋にいたのは、ブリジットとレギオンだった。二人は窓辺に佇み、親しげに何事かを話しこんでいるふうで、それは、別に何もおかしな所のない、以前ならばカーイもさして気にもとめなかったような当たり前の情景だったのだが、ブリジットの方に僅かに長身の身を屈めて熱心に話しかけているレギオンと、それに穏やかに耳を傾けているブリジットの間に流れる親密な空気に、カーイは、まるでは許されない場所に闖入したかのような抵抗を覚え、見てはならないものから目を逸らすようにそっと顔を背け、黙って部屋を後にしたのだった。

問いかけたいのは、それとも、こういうことなのだろうか。


僕の母は、あなたにとってどんな存在なのですか?

僕の知らない遠い昔、あなた方の間に何があったの?


レギオンとの恋を通じて、カーイは、ブリジットと二人だけの優しい愛情に満たされた世界で暮らしていた子供時代では、想像もしなかったような様々なことを学んだが、カーイの胸をちりちりと焼き焦がすこの感情もその一つだった。レギオンは、教師としては、やはり失格者だったのだろう。彼に教わったもので、誉められるようなものは何一つなかったような気がする。緑色の目をした悪魔。彼のせいで、こんな嫌な気持ちをよりにもよって母ブリジットに抱いてしまう。


どうしよう。あなたに嫉妬してしまうなんて。

ごめんなさい、僕はとても悪い子になってしまいました。

あなたのことは、今でも変わらずに愛しているけれど、それとも、こう言うべきなのでしょうか。 

お母さん、僕は、あなたになりたいのです。

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