愛死−LOVE DEATH− 

第三章 血まみれの初恋



一方、自分の部屋に駆け上がったカーイの方も、こちらは激しい混乱と恐慌に襲われて、身を震わせていた。

(どうしよう…ああ、どうすればいいんだろう)

あの人間の娘に安易に近づいて恋などしかけたことが、こんな結果を生むなんて、まさか夢にも思っていなかった。こんなふうに自分の体と精神が、今までの自分とは違う、制御しがたい怪物めいたものに変じてしまうなんて、考えてもみなかった。自分がヴァンパイアであることは一時も忘れたことはなかったが、では、これまでのその自覚はただ頭でそう理解していただけのものに過ぎなくて、この身の内を突き上げてくる野蛮で根源的な衝動、暴力的で甘美な飢えこそが、その本質だったのだろうか。

血に対する欲望が急に目覚めた理由も、今では理解できる。ヴァンパイアは自分を愛する者の血しか飲まない。かわいいシャルロットは、カーイのしかけた罠にあっけなく落ちて、彼を慕うようになったからだ。彼女がカーイに向けるまぶしいものを見るような眼差しやはにかんだ微笑みを見るまでもなく、その血が雄弁に物語っている。人間の血は、その感情によって性質も味わいも大きく変えてしまう。血を最も素晴らしいものとするのは愛。彼ら血を吸うものの命の源だ。

(こんなはずじゃなかった…シャルロット、僕は君の血が飲みたくて近づいたわけじゃないのに…)

レギオンに対する子供じみた報復など企んだばかりに、こんな恐ろしい葛藤を招いてしまった。シャルロットの血が飲みたい。あの白鳥みたいに白いほっそりとした首を抱きしめ、この手の中でへし折って、引き裂いた血の道から迸る真っ赤な血を啜り飲み干したい。自らの血に紅く染まった彼女は、どんなにか綺麗だろう。そんな凄惨な幻影を追い求め、陶然となったすぐ後に、ぞっとなって身を震わせ、胃の底からせり上がってくる吐き気に身を折ってあえいだ。

(駄目だ。シャルロットに会うのはもうよさないと。あんなふうな血の香りをかいでいたら、僕は絶対に我慢し切れなくなって、彼女を襲ってしまう)

では、会うのをやめたら、この恐るべき飢えから解放されるのか。その希望は、何だかとても頼りなかった。

それでも、カーイは、続く数日間、家に閉じこもって決してシャルロットに会いに行こうとはしなかった。外に出ることさえ、偶然にでも街で彼女と出会ったり、その血の香りをどこかでかいでしまうことを恐れて、避け続けた。この血に対する渇望さえ静まってくれたらと、祈るような思いで飢えと戦う地獄のような数日を過ごし、そうして、やはり恐れていたとおり一度目覚めてしまった本能は決して彼の中から消えなかった。

その間、レギオンも、ブリジットすら、カーイの閉じこもったままの部屋の扉を叩いて、出てくるよう促したり、話し合いを持ちかけたり、狩りをほのめかすことも、どうすればその欲望を鎮められるのか助言を与えに来ることもなかった。結局、選択肢は一つしかなく、カーイが苦しい思いを経て自分でそれを認め受け入れるより他に解決方法はなかったということだったのだろう。カーイはヴァンパイア、人間の血を糧として生きるのが自然の不滅の生き物だった。

そんな日々の終わり、自分との戦いに疲れ切ったカーイの嗅覚は、半ば開いた窓から流れこんでくる空気に混じった、あまやかな血の香りを捕らえた。我知らず、喉の渇きを訴えたように小さくあえぎ、舌で唇を示した。シャルロット。耳を澄ませてみると、下の大通りで行き交う人々の雑踏に混じって、娘の息遣いが伝わってくる。そう言えば、カーイの家の場所を以前教えたことがあったかもしれない。気分が悪いと帰ったきり、いつまでたっても連絡をよこさない恋人を心配して、勇気を出して、ここまで訪ねてきたのだろう。

「ああ…」

途方にくれたような呟きが、寝台の中に力なく横たわったカーイの唇から漏れた。

「ああ、シャルロット…」



たぶんここがそうだとは思うが、確たる自信はなく、それにこんな立派な屋敷の扉を叩く勇気もなかなか奮い起こせないでいたシャルロットは、どうしようと迷うようにその家の前を行ったり来たりしていたが、そうこうしているうちに扉が開いて、彼女がこの数日ずっと待ちわびていた想い人の、まだ少し調子が悪いのか、青ざめた、けれど相変わらず天使のように美しい顔が現れた。彼女は、安堵のため息をつき、目にはうっすらと涙さえうかべて、そちらへと駆け寄った。

「カーイ!」

しかし、そう呼びかけた彼女に向けられたカーイの眼差しの暗さ、冷たさに、一瞬シャルロットはひるんだ。カーイは、一体どうしたというのだろう。まるで、彼女にもう会いたくないとでもいうかのようだ。何かカーイを怒らせるようなことを、気づかないうちにしてしまったのだろうか。それとも、本当に何か悪い病気に彼は取り付かれてしまったのだろうか。

しかし、彼女に心に垂れ込めたそんな不安の暗雲は、数瞬遅れてカーイの顔にゆっくりとうかびあがってきた親しげな笑い、会えて嬉しいという喜びの表情を目にして、簡単に晴れてしまった。

「ごめんね、連絡するって言ってたのに、遅れてしまって。君には随分心配をかけてしまったみたいだね」

少女を館の中に導き入れ、その小さな手を取って奥の客間に導きながら、カーイの目は、館の豪華な内装に心奪われているその顔を、眼差しの執拗さな気づかれないよう用心深くじっと観察した。シャルロットの姿は、逃げるようにして別れたあの日から少しも変わらず魅力的だった。その肌に透ける血の色と香り立つ血の匂いに負けず劣らぬほどに。カーイの血の飢えはおさまってはいなかった。だから、少女に接するのも、これまでのように心からの素直な親愛の思いを抱いて、打ち解けて、くつろいだ気持ちでするわけにはいかない。少女は気づいていないようだが、カーイにとっては、彼女との関係がこんなふうにいきなり冷たくよそよそしいものに変じてしまったことが、そうせざるを得ないことが、哀しくて残念で仕方なかった。

(せっかく、君とは友達になれると思ったのにね…シャルロット)

使用人の運んできた紅茶のカップとお菓子の盛られた銀皿を載せたテーブルを挟んで向かい合って座りながら、シャルロットはカーイに会えたのがよほど嬉しかったのか、内気な彼女にしては珍しくよくしゃべった。彼女の声の響きがカーイはとても好きで、聞くといつも心が静まるのだが、この時は、耳を傾けていても彼女の体から伝わってくる別の音に引き付けられてしまう自分を強く意識して、余計に辛くなるだけだった。

「かーイ…まだ、体が辛いのではないのかしら?何だかさっきからずっと黙りこんで、それに顔色だって…」

カーイの様子がどこかおかしいことにシャルロットも気づいたようだ。それへ、カーイは、唇の端を少し持ち上げるようにして笑って見せた。

「うん、まだ、少し辛いんだけれど、でも、君の顔を見たら、それも大分楽になったよ」

こんな嘘をつかなければならない自分に心底嫌気が差してきた。

「カーイ…あのね、これ、おかあさんが行き付けの薬屋でよく買い求める薬草なんだけれど、風邪にも痛みにも熱にも、それからおなかを壊した時にもよく効くんですって。あんまり、飲みやすい味ではないのだけれど、よけれど試してみて…」

そう言って、大事そうに持っていた小さな布袋を差し出す。

「ああ、ありがとう、シャルロット。後で早速試してみるよ。煎じて飲んだらいいのかな」

「あのね、あまり味がひどいと思ったら、蜂蜜をたらしてみて」

カーイは微笑し、ソファの背に背中をもたせかけるようにして、シャルロットをつくづくと眺めた。その眼差しのからみついてくるような熱心さに、何かしら息苦しさを覚えて、シャルロットは口をつぐんだ。

「君はいい子だね、シャルロット」

そうして、カーイは視線を彼女からふいと逸らし、しばし何事が考えをめぐらせるかのように、部屋の中をさまよわせ、やがて、ぽつりと言った。

「昨日ね、ちょっと興味深い本を読んだよ。おもに東欧の田舎に伝わる伝説や伝承を集めたものだったんだけれどね。その地域には、昔から血を吸う悪霊の伝説があって、そいつに血を取られて死んだ人間は、再び生き返ってまた別の人間を襲い、その血を飲むというんだ」

いきなりカーイがこんな話をし始めて理由がわからなくて、シャルロットは戸惑った。

「血を吸う悪霊…嫌だわ…」

「原因不明の使者が何人も出た村では、墓を暴いてみて、異様に血色のいい死体が出てくると、そいつが生ける死者になって村人を襲い血を吸った犯人だから、今度こそちゃんと死ねるように心臓と頭を体から切り取るんだ」

ちらりとシャルロットの方に目を向けると、娘の細い指先は胸元に小さな十字架に神経質に触れている。

「遠い外国のまだひらけていない野蛮な土地での言い伝えだよ、シャルロット。ここは文明の進んだパリで、闇に属する生き物が潜める暗がりもそんなに多いとは思えない。それでも、怖いの?」

「怖いわ」

「怖い?こんな話は、やめてほしい?」

「ええ、お願い、カーイ。人の血を吸うなんて、ぞっとするわ」

カーイは、しばし黙して、シャルロットが寒気を覚えたように両腕で己の体を抱きしめる様を見守り、そっとその目を伏せた。

「そうだね、シャルロット。ごめん、こんな気味の悪い、ぞっとするような話を聞かせてしまって」

体調がすぐれないのでと、使用人の一人にシャルロットを送らせると、カーイは、自室に再び戻って、しばらく眠った。幾つか夢を見たが、寝覚めた時には記憶の中にはとどまっていなかった。いずれにせよ、あまり心地のいい夢ではなかったようだ。それどころか、以前のように、罪のない楽しい夢と安らかで健康的な眠りが自分に戻ってくることは二度とないような気さえしていた。

既に夜になっていて、家にはレギオンはいなかったが、母の気配は感じられた。寝台から滑り下り、部屋を出ると、カーイはまっすぐに母の部屋に向かって、その扉を叩いた。

「おかあさん…」 

カーイの姿を認めると、ブリジットは、読みでいた本をテーブルの上に置き、いつもと何も変わらない穏やかな愛情のこもった目をして、彼を傍らにいざなった。

カーイは黙って、母の隣に腰を下ろし、行儀よく膝の上に揃えた己の手を睨みつけながら、しばらくの間、じっと押し黙っていた。

「ブリジット…」

ついに堪えきれなくなったかのように、母に向き直り、いつもどおりの甘ったれた子供の声で囁きかけ、彼女の腕に触れ、そっと手を滑らせた。

「飲みたいの?」と、ブリジットは優しく問い返す。カーイは、母の顔を今にも泣き出しそうな目で見つめ、こくりと頷いた。

「では、お飲みなさい」 

ブリジットの応えにはいつも迷いはない。愛する子供が望むものを与え、その喜びと満足こそが彼女を幸福にするのだというように。カーイが生まれた時からずっと、いつも傍にいて彼を守り、愛しんでくれた、決して裏切ることのない、心許せる唯一の絶対的な存在。その血が、これまでのカーイを、細胞の一つ一つにいたるまでを育んできた。母の慈愛に満ちた血以上にカーイの必要を完璧に満たしてくれるものは、この世には存在しない。母の血の味を思えば、人間の血に引かれることなどありえない。今でも、そう思っている。 

「僕のブリジット」

差し出されたほっそりとした花のような白い手を取り、両手に包み込むようにして撫でさすり、その傷一つない手首を自分のほうに向けると、陶器のような肌にうっすら透ける、この世で最高の飲み物が流れる道にうっとりと見入った。それから、こんな時に使う、いつも母の手元に置かれている銀のナイフを探してテーブルの上に視線を走らせたが、どこにも見当たらなかった。

するとブリジットが、穏やかな声で励ますように囁いた。

「噛み裂いて、カーイ」

当惑して母を見上げた。彼女は、微笑みながら頷き返すが、カーイはまだ躊躇していた。

「そのための牙をあなたは持っているのよ。あなたがいつまでも私の子供でいてくれたら、何も知らない私だけの天使でいてくれたらとは思うけれど、それをすることはできないわ。あなたは、どんどん成長して、強力な大人のヴァンパイアになっていく…あなたが望むならいくらでもあげるけれど、実際私の血だけであなたを養うことは、もう難しいのよ」

カーイは、息を飲んだ。

「お、おかあさん…」

そんなふうに考えてみたことはなかった。母の血は、その偉大な力と命と同じように無尽蔵だとばかり思っていたのだ。衝撃に大きく見開いた目を瞬く間に涙で一杯にするカーイの頭を、ブリジットは慰めるように抱き寄せながら言った。

「あなたに今まで血をあげてきたことが私の体の負担になったわけではないのよ、カーイ。そんなふうな心配はしないでいいの。人間だって、赤ん坊のうちは母親のミルクを飲んで育つでしょう。あれは血と同じなのよ。けれど、やがて食べ物を噛み裂いて咀嚼できる機能が備わってきたら、母親の血もミルクも必要じゃなくなるの。成長したあなたには、もっとふさわしい飲み物があるわ」

そうして、再びその白い手首をカーイに押しつけるようにした。それを、カーイはひるんだように見つめた。

「さあ、やってごらんなさい。銀のナイフで切り裂いた傷は、私にただの痛みしかもたらさないけれど、カーイ、あなたの牙で裂かれれば、その傷の痛みも甘美な喜びとなるでしょう」

その声にとんと背中を押されたように、カーイは牙をむいた。ブリジットに見られているかと思うと何だか恥ずかしかったが、何度か深呼吸した後、母の顔を見ないようにして、思いきってその滑らかな肌に牙を突きたてた。たちまち母の濃厚で芳醇な血が口の中に溢れ出す。よかった、失敗しなくて。それは、いつもどおりたまらなくおいしかったけれど、一口、二口飲んだだけで、カーイは口を離した。

「もう、いいの?」

「はい」

瞬く間にカーイの噛んだ傷はふさがり、血はとまった。名残惜しげにこぼれた血を舌で舐め取ると、ブリジットの手を離した。それから、母の体にぴったりと引っ付いて、頭を軽くもたれさせた。

「あなたの言うとおり、これは、僕が今必要としているものではないから…」

ブリジットの指が髪をそっとすいているのを心地よく感じながら、カーイは目を閉じた。

「どうしても、僕たちは殺さずにはいられないものなんでしょうか?」

この所ずっとカーイの心を占め、悩ませつづけてきた根源的な問いを投げかけてみた。

「ああ、カーイ…」

ブリジットは、吐息混じりにそう呟いた。

「レギオンも言っていたけれど、僕たちは獲物を狩る捕食者なんですね。間違っていたのは僕の方だったんだ…友達になれるなんて。自分を殺すものを愛する人間なんて、いるはずがない」

「そう…。レギオンは、あなたにそう言ったのね」

ブリジットは、失望し傷ついている息子に向けて何か言いたげに唇を震わせたが、結局それは言葉にはせず、代わりに別のことを言った。

「私達は殺さずにはいられない。そのことについてのあなたの悩みには、私はそうよと答えるしかないわ。人間が、野に住む獣を撃ち殺してその肉を食べ、育てた家畜から本来ならその子供を養うためのミルクを奪い、パンを得るために穀物を刈り取るように、私達は生きるために人間を殺すの。ただ、それだけのことなのよ。人間にとっては、恐ろしくもあれば、罪でも悪でもあるでしょうけれど、私達にとっては、それが自然であるというだけ。遥か昔、私達と同じ生き物がもっとたくさん生きていた野蛮で単純な時代には、そんな悩みを抱えることもなかったけれど、人間のふりをし、人間を捕食の対象としてだけではなく隣人として暮らさなければならない今の時代では、時折そんなふうに混乱するのも仕方ないわ。本当に、何て生きにくくなったこと」

「……………」

ブリジットの腕の中で、カーイは、黙りこんだままじっと思いを巡らせていた。母は正しい。人間のふりをしていることにあまりにも慣れていたから、そこから逸脱したヴァンパイアの本能に、恐れとためらいを覚えたのだ。シャルロットが血を吸う悪霊を恐れたのは彼女が人間だからで、その悪霊そのものであるカーイにとっては、その姿こそが自然なのだ。水と油のように、初めから混ざり合うことのない、別の生き物同士だったのだ。

「雨が降ってきたようね…」

母の低い呟きに、微かにうなずいて、身を起こした。

「大丈夫なの、カーイ?」

まだしょんぼりとうなだれている子供の様子に、ブリジットは案ずるようにそう声をかけるが、カーイはこくりと頷いて、少し笑った。

「ええ、もう平気です。僕は、あなたの子ですから、古き血のブリジット」

母の首に抱きついて、その頬に軽く唇を押し付けると、カーイは、彼女の部屋を後しにた。夜はもうずいぶん更けてきたし、外の雨は激しいもののようだったが、彼にはまだしなければならないことがあった。



雨は真夜中になって、ますます激しさを増し、ちょっとした嵐のようになった。

灯りをおとした寝室で、シャルロットは一人、あまりにすごい雨の音と遠くから近づいてくる低い不吉な響くような音に、不安げに耳をすませていた。父も母もとうに寝室に引きもって、ぐっすりと眠っているようだ。どのみちこの雨と風音のせいで、階下で彼らが起きて歩き回ったとしても、その音が聞き取れるはずもなさそうだった。闇の中で、一人息を殺していることが、娘の心臓を不安感で満たしていた。こんな気分では、とても眠れそうにはない。それに、今日やっと会えたカーイのことがとても気になって、彼のことを考えているせいで、余計に眠気を誘う安らかな気分からは程遠かった。

シャルロットの心に影を落としているのは、カーイの、これまでとはどこか違う、何かに怯えているようなその暗い顔、しかし、悩みを打ち明けてとこちらから頼むことさえできないようなよそよそしく冷たい態度だった。その輝くように美しい顔を見た時は、再会の喜びに彼の中の微妙な変化にも思い至らなかったが、家に帰る道すがら、少しずつその重苦しい気分は娘の胸を満たし始めた。思い返してみれば、カーイは、あの短い逢瀬の間ずっと娘の目を見ることを避けつづけていた。たまにその目を捕らえたかと思ったら、そのにうかぶ何かしら妖しいかぎろいに満ちた表情は、これまで彼の中に見たこともないようなたぐいのもので、娘にも一体それが何であったのは判然とはしない、それゆえ何とも心乱されるものだった。あの強烈な眼差し、娘のすべてを食らい尽くそうとするかのような貪婪さ。とてもあの気品のある、優しい貴公子然としたカーイのものとは思えない。

(それに、まるで私を怖がらせるためみたいに、あんな気味の悪い話をして…血を吸う悪霊とカーイは言った。ああ、駄目、こんないかにも悪魔が好みそうなひどい嵐の夜に思いだしたりしたら)

ぶるっと身震いして、そこで何処かで鳴り響いた遠雷の音に耳を押さえて、布団の中にもぐりこんだ。

(わざと私を怯えさせて…?ああ、でもカーイはそんな意地悪なことをするような人じゃない。もしかしたら、私のような低い身分の、貧しい舞台役者の子供などと会うことでお母様にお叱りを受けたのかしら?)

その考えはシャルロットの頭の片隅に常にあったので、あのカーイの不審な振る舞いになぞに対する真実らしい答えのように思えた。

(どうしよう…カーイはそもそも私のような娘が近づけるような人ではないのよ。私だって、それはずっと分かっていた…でも、カーイと一緒にいられる時間が好き、ずっとこのままでいられたらって…も、もし、このままカーイと二度と会えないようなことになったら、私…ああ、そんなの嫌…)

突き上げる感情のままに目に熱いものがあふれるのを覚え、枕に顔を押し付けた、その時、シャルロットの耳に、聞き覚えのある慕わしい声が響いた。

(シャルロット)

はっと顔を上げ、辺りを見渡す。もちろん、誰もいない。カーイの声と聞こえた、あれはでは風が窓を叩く音か、彼を恋しがる気持ちが招いた幻聴なのだろうか。

(シャルロット)

またしても、名を呼ぶ声が聞こえ、娘は、寝台の中で慌てて上体を起こした。

「カ、カーイなの?どこ?」

耳を澄ませば、こつこつと何かがガラス窓を叩く音がする。風の悪戯ではない。まさか。

シャルロットは、ベットから飛びおり、窓にひかれたカーテンを払いのけた。

「カーイ!」

思わず、小さな驚愕の悲鳴が、娘の唇から迸った。それへ、一体どうやってこんな所まで上ったのか、窓の外に張り付くようにして佇んでいるカーイは、シッと口元を抑える仕草をして、彼女を黙らせた。

(騒がないで。君のご両親が目を覚ましてしまったら、僕は大事なお嬢さんにの部屋にこんなふうにしのんできたことで、どんなにかひどいお叱りを受けるか知れない)

シャルロットは、すっかり混乱して、両手を胸の前で揉み絞るようにして、おろおろとカーイを見つめることしかできないでいた。その娘の様子に、彼はうっすらと笑ったようだ。

(ね、シャルロット、窓を開けて。僕を中に入れてよ。外はひどい雨で、僕はびしょぬれで震え上がっている。君に会うために、この真夜中に屋敷を脱け出して、真っ暗な街を一人で歩き、こんな高い所にまで上ってきたんだよ)

シャルロットは、大きくあえいだ。一瞬、その瞳に何かおかしいと嗅ぎ取りかける理性の輝きを認めて、カーイはさらに言葉を継いだ。

(寒いよ)と、悲しそうに彼は言った。

(ここは、足元が悪いし…)

ぐらりと不安定に揺れるカーイの姿に、シャルロットは、弾かれたようになって、窓の鍵に手をかけ、それを大きく開いた。

「カーイ…!」

すぐさま部屋に飛びこんできた少年の腕に体を引き寄せられ、きつく抱きしめられて、シャルロットは息が止まるかと思った。それ程にカーイの抱擁は強く、その腕の鉄のよう固く冷たかった。

「シャルロット」

本能的に逃げようともがくシャルロットは、しかし、見下ろすカーイの雨に濡れそぼって青ざめた、ひどく哀しげで打ちひしがれた顔に、動きを止めた。

「君のことが好きだったよ」

娘は再び引き寄せられ、問いかけようとするその唇をカーイの唇が覆い、吸った。唇もまた氷のようだったが、与えられる口付けはとろけるように甘美なものだった。怯えてカーイの胸をついていた娘の手もそのうち抵抗をやめ、じっとおとなしくなった。震える口に舌を差し入れられ、息を求めて苦しげにあえぐ、力の抜けた娘の体をカーイは手で探り、夜着の結び紐をつかんで引き千切った。

「カーイ…?!」

娘の体を、ほとんど重みなど感じないかのように軽々と抱えあげ、彼を招き入れるために起き出してきたベッドに連れ戻し、その上に押し倒した。娘は、信じられないというようにカーイを見上げ、震える手で乱れかけた夜着の前を合わせようとした。

「僕のものになって、シャロット…」

娘の答えを待たず、カーイは、その上にのしかかった。怯えたか弱い獲物は彼女なりの抵抗を試みたようだが、そんなものがカーイに通用するはずもなく、簡単にその体を明け渡すことになった。しかし、どこまで本気がカーイを拒むつもりであったのか。この唐突で乱暴な求愛に驚き、惑い、混乱はしていたけれど、結局は許してしまったのかもしれない。娘は、階下の養父母に向けて助けを求める叫びをあげはしなかった。そう、彼女が本気でカーイを拒否し、その抱擁から逃げようとしたのは、最後のその瞬間だけだった。

娘の暖かい震える体を抱きすくめ、その胸に顔をうずめると、すぐ下で鳴り響く心臓の鼓動とそれが押し出す血の発する甘美な香りに、カーイの頭の芯はしびれた。解き放てと、身の内から何かが叫ぶ。娘の姿を見、心に描く度にカーイの中で突き上げてきた、抑えがたい原始的な衝動だ。身を任せることを恐れ、こらえてきたが、この御に及んで迷う理由などなかった。

「ああ…カーイ…」

動転し、取り乱しながら、娘はそれがすがれる唯一のものであるかのように恋人にしがみついたが、息もできないほどにきつく彼女を抱きしめ蹂躙するこの相手が、とても彼女の知っている無邪気な少年と同じ人物だとは思えずに、ほとんど恐怖しながら、その貪欲な手の愛撫に、喉元を焼く熱い息に呆然と応えていた。

「本当にあなたなの…?」

弾んだ息の中、涙に濡れた目を開いて、そう問いかける。その囁きに応えるかのように見下ろす恋人の双眸に光る凄まじい光に、瞬間、燃えあがりかけた体も一気に冷え、娘の心臓さえもとまったかに思われた。解き放たれたものは欲望。娘がそこに見出したのは、獲物の心も体も魂もすべて食い尽くさずにはおかない、獰猛な肉食獣の素顔。娘は、今にも食い殺されようとしているものが出す死に物狂いの力を発揮して暴れ、金切り声をあげて助けを求めようとしたが、その声は覆い被さってきた手のうちに、体の抵抗はびくともしない怪物の体に押さえ封じこまれた。

「シャルロット」と、最後に自分がその名を呼んだのかさえ、カーイには分からなかった。その時には、もうこの相手が誰であったかなどどうでもよかったのだ。必死に起き上がろうとする頭を横にそらして、絡みつく髪を払いのけ、あらわになった血の飲み口を見た瞬間に自分の中で張り詰められていたものが一気に切られたような気がした。一撃でやれ。獣めいた呻き声をたてて、カーイは、そこに牙を突き立てた。ほとんど同時に、もう一方の凶器も娘の中に分け入らせた。彼女の体が跳ね上がるように痙攣する。待ち望んだ、たぎるように熱い血が口の中にどっとあふれ出し、その強烈さに頭を鈍器で殴られたような衝撃さえ覚え、一瞬目がくらんだが、しかし、すぐに夢中になってがつがつと飲み始めた。

(ああ、すごい…何て熱くて、何てすごい命に満ちて、沸き立つような…君の中にこんな激しさがあるなんて思ってもみなかったよ、シャルロット)

カーイに恋した娘の血は、夢に思い描いた以上だった。若々しい愛情に満たされていて、甘く、優しい、シャルロットそのもののような味がした。まさしく、その通りだった。血と一緒に、カーイの中にどっと流れこんできたものがある。シャルロットの記憶、その感情、思い、それらすべてが極彩色の色彩の氾濫とわんわんと鳴り響く大音響となって一気にカーイに押し寄せてきて、彼を飲みこみ、押し流した。

(あ…ああ…!)

夢うつつにカーイは何者かの悲鳴を聞いたが、果たしてそれは彼のものであったのか、それとも、腕の中で死につつあるシャルロットのものであったのか。

頭の中で幾つものシャルロットの記憶が火花となって散った。いや、娘のものではなく、今やカーイ自身の体験でもあった。

小さな劇場の舞台裏、色あせ、よく見ればあちこちにつぎあてのある舞台衣装が吊るされている狭い部屋の中をぼんやりと眺めていると、小麦色の髪をした若い女が微笑みながら近づいて来て、体に触れ、抱き上げてくれた。打ちひしがれ、寂しく途方にくれたこの感情は、優しかった両親が死んだ時のものだ。世界は暗く沈みこむかに思われた。しかし、それを再び照らし出したものがある。黄金色の太陽のような、信じがたい美貌の男が手を差し伸ばして、囁いた。一緒においで。男は、めったに会いに来てくれなかったが、寂しい心は、歌が慰めてくれた。歌。そう、彼女の夢、未来への希望。ああ、君は何て素晴らしい声をしているんだろう。やがて、その声をそうほめてくれる少年が現れた。

(あの人は、私に歌ってとしきりに頼んだ。私の歌を聞きながら、子供のように安心してすやすや眠りこんでしまうその顔は、とてもかわいらしくて。私は、彼のために歌ってあげることが、好きになった。アヴェ・マリア。あの人が、特に好きだと言ってくれたから、心をこめて、歌ってあげる。大好きな、あの人のために)

娘の歌声が、どこからともなく響いてきた。

アヴェ・マリア。 

カーイが好きだった、その歌、その声。そこにこめられた、優しいシャルロットの思い。

アヴェ・マリア。

清き処女。

私達がこの岩の上で眠る間。

あなたの御加護があるならば。

固い岩も柔らかでしょう。

その歌声は、カーイを取り巻く世界の全てを満たし、彼を圧倒した。

(ああ、君は何て素晴らしいんだろう)と、うっとりと聞き入った。

(歌うために生まれてきた、歌うことで人を幸せにする、本物の小鳥のようだね)

目から涙があふれるのを感じ、両手で覆った。

「シャルロット…?」

娘の名を呼びかけた。応えは返ってこなかった。

(どこにいるんだい、かわいい君。でも、僕の近くにいることは間違いない。だって、ほら、君の歌が聞こえる…)

微笑みをくださるならばこの湿った洞窟も。

薔薇の香りで満たされます。

母よ、子の願いをお聞きください。

アヴェ・マリア。

シャルロットの歌。だが、それが溢れ出しているのは、娘の喉からではなく、カーイ自身の唇からだった。おかしい。一体どうなっているんだろうと、のろのろと手を上げて、喉を押さえた。自分のものではないかのように勝手に動く唇を結び合わせた。それでも、歌はやまなかった。カーイの耳の中で、決して鳴り止まない鐘の音のように鳴り響いている。どうしよう、頭が割れそうだ。

「シャルロット…」

涙が止まらない。訳も分からずに、無性に悲しくて、辛くて、後から後から溢れ出してくる涙に目がかすんで、周りがよく見えない。

「どこにいるの?」

自分のものではないかのように、現実感のない、自由のきかない体を起きあがらせて、あたりを探りながら、這い回ってみた。すぐに何かぐにゃりとしたものに手があたった。それはカーイの体の下にあって、彼はびっくりして飛び起き、じりじりと後じさりした。

「あ…?」

自分が見ているものが何なのか、カーイは、しばらく理解できなかった。それから、ひっと叫んで、ベッドから転がり落ちるように逃げだし、すぐ下の床にぺたんと座りこんだ。

「あ…ああ…」

カーイは、頭を両手で押さえこみ、爪をたててかきむしった。またしても、滂沱の涙が溢れ出した。シャルロットの血の味が口の中に残っている。甘くとろけるようだったその味は、苦く、今やさびた釘となって舌を突き刺した。

(どうして、どうして…?)

死にゆく娘の混乱と、恐怖と絶望の味。カーイが殺したのだ。娘の責めたてるような悲しみの奔流から逃れようと、空しく頭を振るが、それは彼の体の中にしっかりと取り込まれていて、彼を逃がしてはくれなかった。そして、耳をふさいでも聞こえてくる、あの歌。 

アヴェ・マリア。

清き処女。

地や天の悪魔は

あなた様の恩恵に包まれた 

私達の傍には近づけません

「あっ…ああっ…シャルロット…。お願い、もう僕から離れて…。嫌だ、君の歌なんか、もう聞きたくない」

恐慌状態に陥りかけたカーイが、ついにそう泣き叫んだ時、外の激しい風のせいか窓が開いて、冷たい雨と共に突風が吹きこんだ。雷雲はかなり近くまでやって来たようだ。ごろごろと鳴り響くような音が、地獄の底からの恐ろしい怪物吠え声のめいて微かな震動となって空気を震わせている。

吹きこんだ風は、しかし、すぐにやんだ。一旦開いた窓が、またすぐに閉じられたのだ。 

と、窓の外で閃光が光った。そして、続く雷鳴。瞬間、床に向けられていたカーイの目は、そこに黒々とうかびあがった人影を捕らえた。

涙に濡れた目をおずおずと上げるカーイ。

再び稲妻が走り、窓のすぐ前に立つ人物を照らし出した。まばゆく輝く黄金の炎のような髪、完璧に刻まれた大理石の彫像めいたその顔は表情らしい表情をうかべてはいないが、見開かれた瞳の中できらめく緑色の双眸は、地獄の底で燃え盛る業火をうつしとった鏡のよう、恐ろしく、無慈悲で、抗いがたい力を発して、カーイを射すくめた。人間であろうはずがない。ヴァンパイアだ。

「レギオン…?」

魂をどこかに飛ばしてしまったかのようなカーイの力ない囁きに、レギオンは唇の両端をつり上げて、にっと笑った。

「首尾はどうだい、坊や?その様子だと、一人でも何とかやり遂げたようだな」

そうして、ためらいのない足取りで、カーイの傍らを歩きすぎ、乱れた寝台の中をひょいと覗き込んだ。一瞬、その中に残されたものが目に入ってしまい、カーイは、激しい吐き気を覚えながら、顔をそむけた。娘の顔は幸い向こうを向いてはいたが、ほとんど色味を失って白くぐにゃりとしたその体には、生きていた時の面影は既にない。首の傷口とそれから投げ出された腿のあたりに僅かについた血の色彩だけが、異様に生々しく鮮烈だった。

「ふん、これはまた随分とがっついてものだな。それほどおなかがすいていたのかい?この娘、からからになるまで吸い取られて、中には何も残っていないよ」

まるで天気の話でもするかのような軽い調子で言うレギオンの存在が耐えがたくて、カーイは遮るように叫んだ。

「それをどこかにやって!僕の目に見えないようにして!」

レギオンは、おやおやというように軽く眉をあげてカーイを眺めやった後、言われた通りに布団を引き上げて娘の遺体を隠した。

「初めて仕留めた獲物だというのに、これでやっと一人前になれたのに、その態度はないだろう、カーイ。せっかく、ほめてあげようと思っていたのに、これでは満点はあげられないな」

カーイは、憎しみに火を吹くような目を上げ、レギオンを睨みつけた。激しくののしろうとしたが、体の奥から突き上げてくる別の声、死んだシャルロットの声に邪魔をされて、口を開くことができなかった。ああ、目で人を殺せたら。

駄目よ、人を殺すなんて、そんな恐ろしいこと。

またしても優しい声がそう囁きかけ、カーイは、うめきながら、震える手で握った拳で己の頭を殴りつけた。出ていけ、出ていけ!またしても、涙が流れ出す。レギオンがいることも、忘れそうになった。

「カーイ」

その手を捕らえられ、はっと目を見開くと、レギオンが覗き込んでいる。

「馬鹿なまねはやめるんだ、カーイ。死んだ獲物の感情に取り込まれてどうする。別にそれは幽霊でもなんでもなくて、じきに消え去る獲物の最後の悲鳴のようなものに過ぎないんだ。錯覚だよ、カーイ。慣れないうちはぞっとするがね、そのうちに、味をしめるようになるさ。決して世界を共有することも理解し合うこともない、人間の愛人達を唯一身近に感じ、彼らと交じり合うかに思える一時だからね」

そうして、放心したようにレギオンの顔を見るばかりのカーイの手に、床に散らばっていた服を集めて押しつけた。

「服を着なさい。殺しの現場に、そういつまでもぐずぐずしているものじゃない。もし、下で何も知らずに眠っている彼女の両親が、君のたてる物音やめそめそ泣いている声を聞きとりあやしんで部屋の様子を見にきたら、する必要のない殺しまでしなくてはならなくなるんだよ」

その声に弾かれたようになって、寒いわけでもないのにがくがく震える手で、脱ぎ捨てた絹のシャツを取り上げ袖を通そうと試みるが、手元が狂ってどうにもうまくいかない。 

見ているうちに痺れを切らしたらしいレギオンがつかつかと歩み寄ると、シャツをやっとはおったばかりの少年の体を軽々と肩に担ぎ上げた。それから、床の上のズボンや外套などもまとめていっしょに抱える。カーイは抗わなかった。

「おっと、危ない、忘れそうになった」

片方ずつ、別々の場所に転がっていた靴もつまみあげると、もうここに用はないというように、振り帰りもせず、窓に近づいてそれを開け放つと、激しい嵐の夜の中に腕に抱いた少年と共に身を躍らせ、舞い上がった。

 

NEXT

BACK

INDEX