愛死−LOVE DEATH− 

第三章 血まみれの初恋



それからも、レギオンのほのめかしにも全く臆することなく、カーイはシャルロットに会い続けた。それは、本当にまだ子供のような少年と少女のすることで、一緒に街を散歩したり、カフェでコーヒーを飲んだり、公園をピクニックをしたりといった、年相応にあどけない、傍で見る者があったら、なんてかわいいカップルなんだろうと目を細めて見守ってしまうような微笑ましいものだった。実際彼らは、そうして付き合っているうちに、次第に仲良く打ち解けてきて、互いのことをよく話すようになり―といってもヴァンパイアであるカーイの方は何でも明らかにするわけにはいかなかったが―無邪気に時折互いの顔を覗き込んで笑いあい、並んで歩いているその様子は、なかなか似合いの幼い恋人同士だった。一方が人間、一方がヴァンパイア、狩る者とその捕食の対象という事実は、どちらも全く気づいていないかほとんど忘れていた。

「ねぇ、君の歌を聞かせてよ」と、よく訪れる公園の気持ちのよい木陰に敷いたブランケットの上に寝そべりながらカーイがねだると、シャルロットは少し恥ずかしそうにしながらも、優しい響きのよい声でカーイのために歌ってくれた。それを子守唄のように聞いていると、いつもとても安らかな気分になって、本当にすやすや眠り込んでしまうことも度々あった。

アヴェ・マリア。その歌の安らかさがカーイは特に気にいったので、シャルロットは、それこそ赤ん坊を寝かしつける若い母親のようにしょっちゅう歌い聞かせた。耳にすっかりついてしまって、シャルロットと離れて一人でいる時でも、ふと口ずさんでみるくらいだったが、彼女の声の響きと歌い方の情感の素晴らしさは到底真似できないと、うぬぼれやのカーイも認めていた。

シャルロットのおとなしやかですなおな気質もカーイは気にいっていた。あまりに優しくか弱いので、一緒にいると自分が守ってあげなくてはならない気分にさせられて、身近な存在といえば、あまりにも偉大な古い血を誇る母と、これまた強烈な力と個性でとても太刀打ちできないようなレギオンで、彼らから子供のように守られ構われる立場でしかなかったカーイにとっては、いきなり自分が強く頼もしい存在になったような気がして、心地よかった。

(シャルロットといると、とても楽しいし、気持ちがいい。ブリジットやレギオンとはできないようなつまらない話でもできて、たわいない冗談を言って、一緒になって笑って…そうか、今まで知らなかったけれど、友達ってやっぱりいいものなんだ。ああ、今までつまらないとばかり思っていた人間でも本当はこんなに素敵で面白くて、僕の友達になることができるんだ)

その発見はカーイをまいあがらせかけたが、そこで、ふと自分が彼女とは違う生き物であることを思い出し、その秘密を知らせることはできないという事実に思い当たって、幾分気持ちが沈んだ。その秘密は人間である彼女には明かせない。知ってしまえば、こんなふうに親しく付き合うことは、もうできないだろう。仕方がない。それだけは黙って、あくまで人間であるふりをしつづけなければ。

「ねえ、カーイ、この頃レギオン様はどうなさっているの?」

もう一つだけ、シャルロットといる幸せな時間に影を落とすのが、その存在だった。実際、彼女の唇からその名がもれるのを聞くのは、耐えがたい気がした。

「あなたを連れて私の家を訪ねてくださったあの日以来、あなたとはこうして会えても、レギオン様は少しも顔を見せてくださらない」

この時も少し寂しそうにこんなことを言うシャルロットに、カーイは、かすかな苛立ちと冷やかな怒りを覚えた。レギオンのことが、そんなに気になって仕方がないというのか。カーイと一緒にいる時でさえ、忘れられないのか。

「よくは知らないけれど、レギオンは、パリに好きな女の人がいるみたいだよ。この間も、恋文を書いてるなんて、自慢げに言ってたもの」

つい意地悪な気持ちもこめてこんなことを言うと、案の定シャルロットは、かわいい顔を少し曇らせた。

「そうよね。あんな素敵な人だもの、付き合っている恋人くらいいて当然だわ」

この娘、レギオンのことが好きなのだろうか。恋しているのだろうか。カーイは、不安になった。

「その…シャルロット、君、レギオンのこと…?」

恐る恐るそう尋ねてみた。これまで怖くてできなかった質問だ。口にしてしまった後、もう逃げられないその答えを待ちうけながら、我知らずカーイの喉がごくりと鳴った。

「そう…たぶん、初恋だったのね」

少しの間うつむいて押し黙った後、シャルロットはぽつりとそうもらした。カーイは、ブランケットの上で半身をシャルロットの方に起こしたまま、じっと固まってしまっていた。その手だけが、僅かに動き、柔らかい厚手の布をぎゅっとつかみしめた。 

「私の本当に両親、売れない舞台役者だったのだけれど…両親が死んで、どこにも行き場がなくて途方にくれている時、お父さんの友人と名乗ったレギオン様が現れて、一緒に来るかいと手を差し伸べてくださった時から、ずっと憧れてて…」

娘の告白に、カーイは、胸の奥がちりちりと焼かれるような気がした。聞くのではなかった。あの華々しくて大人の魅力に溢れるレギオンに、カーイのような子供が勝てるはずなどない。

「あの方は、ずっと私にとって手の届かない神様のような人だったの。あんまりまばゆくて、神々しくて…私は遠くから見とれるだけで、精一杯。それでも、レギオン様に恋人がいると聞いたら、どんなにかショックだろうと思っていたけれど…でも、そうと知っても、それほど、辛いくらいに胸が痛んだりしないのは…たぶん…あなたがこうして傍にいてくれるからかしら…」 

「……………」

カーイは、シャルロットを見上げたまま、ゆっくりと息を吸いこみ、そして、吐いた。

「え…僕……?」

ようやく何を言われたのか少しずつ理解が頭に回ってきて、カーイは、うろたえながらがばと身をおこすと、シャルロットのじっと恥ずかしそうにうつむいている横顔を呆然となって見つめた。

「ええ…」

「レギオンより、僕といっしょにいる方が幸せだと思ってくれてる…?僕を好きだと言ってくれるの…?」

「…………」

娘は黙ったまま、しかし、はっきりと頷いた。

「ああ…」と、カーイは、呟き、それから、なんとも嬉しそうに、晴れやかに笑いかけた。真っ先にその頭にうかんだのは、実は告白をした娘に対する真摯な愛情よりも、レギオンに対する子供じみた勝利感で、たからかに勝利を告げ知らせるラッパの音を聞くように娘の声を聞き、カーイの気持ちは一気に舞い上がるかに見えた。しかし、その時、唐突に別のものが彼の意識を引きつけたのだ。 

それは、カーイの目の前にいるシャルロットの姿。以前から綺麗な娘だとは思っていたが、それがいきなり鮮烈な輝きを放ち出していた。その薔薇のような頬は上ってきた血の色に薄く色づいて、その美しさに一瞬カーイは目を奪われた。気立てのいい、かわいい普通の人間の少女であったものが、ふいにそれ以上の不思議な魅惑をおびた別の生き物に変貌したかのようだ。

「シャルロット」

この娘はなんて愛らしいのだろうと、今更のように思った。そうして、その暖かい脆い体の内側で震える心臓の音、それが体中に押し出す血の奔流がかなでる、何とも言えない素晴らしい音色にうっとり聞き入った。それは、彼女の素晴らしい声と同じか、それ以上にカーイの心を捉えるものだった。

「…好きだよ」

半ば夢心地で、自分のものではないかのようなあまやかな声音で、カーイは囁いていた。

「カーイ、私…」

「そして君も、僕のことを好きだと思ってくれてる」

初心な少女が真っ赤になって黙りこんでしまう様子に、カーイは猫のようにその双眸を僅かに細めた。シャルロットにこの時カーイの方を振り向く勇気があったなら、彼女は、心許せる優しい友人、暴力的な所の一切ない天使のような少年の顔に、何かしら妖しい変化が生じかけていることに気づいて、驚いて、彼から飛びのいていたことだろう。人に慣れた無害で甘えることしか知らない愛玩動物が、目の前に傷ついて血を流している小鳥が舞い降りるのを見てしまったとか、ふとしたきっかけでその野性の血が目覚めてしまったかのような、その変化はあまりに突然で激烈なものだった。 

「ね、もしそうならキスさせてくれる?君の、そのかわいい手に」

どうしてそこで手なんだと、勢いにまかせて唇くらい奪ってしまえとレギオンあたりが見ていたら、じれったくて発破の一つもかけたくなるところだが、そこはまだカーイにしても今回の相手にしても未熟な初心者だった。

シャルロットは、緊張に耐えかねたかのように、ほうっと大きな溜め息をついた。それから、ためらいがちに、その華奢な左の手をカーイの方に差し伸ばした。それをカーイに捕らえられた瞬間、シャルロットはびくりと身を震わせた。理由の分からない、本能的な怯えが娘の身のうちを駆け抜けたが、それは、こんなふうに告白しあって、さらにこんなふうに触れられたせいだろうと自分に言い聞かせた。カーイの手は、氷のように冷たかった。

(シャルロット、君の手はなんて熱いんだろう。僕が本気で力を出せば、花のように簡単に手折られてしまいそうなもろさなのに、その中で流れる血はなんてすごいエネルギーを迸らせていて…その薄い肌から今にも溢れ出してくるような気がするよ)

両手に捕まえた少女の手を広げ、その微かに血の道が透ける陶器のような掌を愛しげになでさすり、カーイは、ゆっくりとそこに顔を近づけた。たちまち、頭の心を痺れさすような、甘く濃厚な香りがその鼻腔をくすぐった。

(シャルロット…何て素晴らしいんだろう、君は何ていい匂いがするんだろう、何て甘くてとろけるような、おいしそうな…ああ、分かった、これは君の血の香りなんだね)

シャルロットの血の香り。瞬間、カーイの中で火花が弾けた。彼は激しい勢いで顔を上げ、シャルロットの手を離し、身をもぎ離すようにして立ちあがると、鋭い鞭の一撃でも食らったかのようによろよろと少女から後じさった。

「カーイ?」

少女は、突然の恋人のこの反応に驚き戸惑いながら、澄んだ目を見開いて、問いかけるかのように首を傾げている。その姿を目にしたカーイの唇から、苦しげな、怯えきったような低いうめきが漏れた。彼の目は、信じがたいものを目の当たりにしたように愕然と大きく見張られている。

(シャルロット…君の血が透けて見える…君の血が爛漫と咲き誇る薔薇の花のように香って…僕を引きつける…)

ともすればその強烈な誘惑に屈してしまいそうな、またしてもぼうっと霞んでくる頭をはっきりさせようと振りたてると、カーイは、さらに数歩シャルロットから身を引いた。

「カーイ、一体、どうしたの?」

カーイの顔にうかんだ、言い知れぬ戦慄と、身の内に突き上げてくる衝動を必死に押し殺している苦痛な表情は、シャルロットをも怯えさせたようだ。その声は不安げに震えていた。カーイの方に伸ばしかけた手を何かしらはっとしたように戻し、胸の前で組み合わせる。

「ごめん…シャルロット…何だか、急に気分が悪くなって…悪いけれど、僕は帰らせてもらうよ。君をちゃんと家に送ってあげられなくて、ごめんね」

カーイのその言い訳にはっと顔を引き締めると、シャルロットは本能的な恐怖も忘れ、素直な心からの気遣いに突き動かされて、立ち上がった。

「カーイ、気分が悪いって…ああ、どうしましょう、本当に真っ青だわ。駄目よ、そんな状態で一人で帰るなんて…」

その優しい声に心揺さぶられながらも、こちらに近づこうとする少女に向けて、

「来るな」と、厳しい声で叫ぶことが、今のカーイの少女に対して示せる精一杯の好意だった。シャルロットは、立ちすくんだ。

「ごめんよ。でも、本当に僕は一人で大丈夫だから…落ちついたら、また連絡するからね…」

やっとの思いでそれだけを言い残し、まだ何か言いたげなシャルロットに背を向けると、カーイはその場から一刻も早く離れたいというかのように、駆け出していた。

カーイの突然のこの異様な振る舞いは、気の弱い少女を怯えさせたかもしれないが、彼はそれ以上に怯えていた。

(嘘だ。こんなふうに、僕がなるはずがない。今まで一度だって、こんな衝動を覚えたことなんかなかったのに、一体どうしてこんな突然に…どうして…?)

シャルロットの若々しい、優しい、たおやかなその体から、突然その香りは匂い立ってきたかに感じられた。今までもそうだったのだろうか。ただ単にカーイが気がつかなかっただけなのだろうか。シャルロットの血の香り。人間の血が、あんなふうな芳醇な抗いがたいほどに誘惑的な香りを放つなんて、信じられない。どうしよう。思い出しただけでも、体が震え出しそうになる。体の中で眠っていた狂暴な血が目覚め、騒ぎ出して、どうしてあれを奪わなかったんだと不平を訴えて暴れだし、抑えがきかなくなる。

どうしよう。カーイは混乱していた。こんなことは、初めてだった。

(ああ、誰か助けて…ブリジット…おかあさん…!)

自分がどこをどうやって駆け抜けてきたのか、すっかり取り乱していたカーイは全く覚えてないが、何とか自分の屋敷にたどり着くと、扉を開け放って中によろめき入り、切迫した悲鳴のような声で、母の姿を探し求めた。

「お母さん…ブリジット、どこです?!」

使用人も今は全員出払っているらしい。しんと静まり帰った広い家の中を、カーイは、すがりつけるものを求めて歩き回った。母がよくゆったりとした寝椅子に身を預けて本を読んでいる庭に面した部屋に飛びこんだカーイは、そこに、母ではなくレギオンの姿を見つけ、はっと息を飲んで足を止めた。

「やあ、坊や、どうしたんだい、そんなふうに血相を変えて?」

母の気に入りの椅子にくつろいだ様子で腰掛け、いつも綺麗に整えているその爪を磨くのに没頭しているらしいレギオンは、ちらりとカーイの顔を見上げただけで、すぐに自分の作業の方に注意を戻した。

「ブリジットは、どこです?」

「ああ、彼女は今出かけているよ。誰かのお茶会に招かれてるとか、言っていたかな」

カーイは落胆のあまり、口の中で小さくうめいた。思わずよろめいて、壁に軽く背中を打ち付けた。そっと頭をもたれさせるようにして仰向き、目を閉じた。

(ブリジット…どうして、こんな時に…ああ、早く帰ってきて。僕は怖い…自分が恐ろしくて、どうしたらいいのか、分からない) 

ふいに何者かの息が微かに顔にかかるのに、はっとなって目を開くと、それはレギオンだった。歩く時、彼はいつもほとんど音をたてない。カーイの両脇に手をつくようにして、何を考えているのか読み取れない仮面めいた無表情で黙って見下ろしていた。一瞬虚をつかれて絶句していたカーイだったが、レギオンの固い体が自分に押し付けられてくるのに身を強張らせ、その胸に手を突いて押し戻そうとした。

「レギオン…!」

カーイもヴァンパイアである以上非力であるはずがなかったが、それ以上にレギオンは強力で、それに今のカーイには本気で彼とやりあうほどの気概も何も残ってはいなかった。背中には壁を、胸と腹にはレギオンの服に包まれていても分かるがっしりとした力強い体がぴったりと押しつけられるのを感じ、カーイは身を震わせ、顔をそむけようとした。そこに、下りてきたレギオンの唇が触れた。触れられたのは唇ではなく頬だったが、カーイには火でも押しつけられたかのような衝撃だった。

「カーイ」

怯えて沈みこもうとするカーイの体をすくいあげるように抱きしめて、レギオンは、唇を少年の頬から耳元に滑らせ、低い声で囁いた。

「あの娘から飲んだのか?」

カーイが大きくあえいで、またぶるっと震えるのに、レギオンはその心をたやすく読み取ったようだった。

「ああ、なるほど…初めて血の欲望を覚えたことに驚いて、逃げ帰ったというところか。何を怖がっているんだ、坊や?恐れることなど、何もないんだよ。自らの自然の声に身を任せればいいんだ。大丈夫、うまくやれるさ…幼くともライオンの子はライオン、我々と同じ獲物を狩るものの血が君の体にも流れている」

そう笑いの含んだ声で呟いて、打ち震えるカーイの体を、その息を求めてあえいでいる胸から腹までをいとおしむようにゆっくりと撫で下ろしながら、柔らかい耳朶を味わうようについばんでいた唇から鋭い牙をむき出した。

「あっ…」

カーイの唇から、小さな悲鳴がもれた。鋭く、固く、濡れたレギオンの凶器が首筋にぐっと食い込んだのだ。それは、彼を傷つけるようなものではなかったが、ごく軽くあまがみのようなものだったが、カーイを充分すくみ上がらせるものだった。

「ここだよ、坊や…する時は、一撃でやるんだな。獲物を不必要に苦しませることはない」

レギオンの腕が離れると同時に、カーイは腰が抜けたように、へなへなとその場に崩れ落ちてしまった。

そのまま、身を引こうとしかけたレギオンが、ふいに思い出したような顔になって、魂をぬかれたかのように呆然となって彼を見上げているカーイに向かって、言った。

「念のために言っておくが…カーイ、君はブリジットや私と同じ、血を吸う神の子だ。あの娘は違う…友達にも恋人にもなれるはずがないんだよ。それを勘違いしてしまってはいけない、カーイ。君は彼女の血に引かれているに過ぎないし、あの娘だって、君の本当の姿を知れば、顔をそむけて逃げ出すだろう。猫の鋭い爪に捕まればたちまち引き裂かれて食い殺されてしまうか弱い小鳥が、猫を好きになったりすると思うかい?いいかい、自分を殺すものを愛する人間なんて、いないんだよ」

言い返す気力もなく、ぐったりとその場にうずくまるカーイの耳は、その時、屋敷の玄関の扉が開く音をきいた。人間の使用人の足音と声に混じって、まぎれようもない母の気配を嗅ぎ取って、彼はうめきながら、力の入らない体を引きずり上げて、立ち上がった。

「カーイ?レギオンもそこにいるの?」

母の優しい姿を見たとたん、涙が堰を切ったようにあふれ出しそうになった。すぐに駆けよって、その体に飛びつき、いい匂いのする胸に顔をうずめて、声をあげて泣きたかった。ああ、レギオンさえここにいなければ。あんなふうに先にレギオンに会って、心の秘密も悩みもすぐにかぎ当てられ、暴き立てられて、あんなふうな聞きたくもない忠告を毒のこもった唇でたっぷり吹きかけられたりしなかったら。

「カーイ」

ブリジットはすぐに息子の異常を感じ取ったのか、綺麗な細い眉をひそめて、まっすぐにカーイのもとにやってこようとした。しかし、その手が触れる前に、カーイはその脇を走りぬけ、文字どおり風の様に階段を駆け登って、自分の部屋まで逃げ去ってしまった。

「レギオン」

カーイの退場した室内で、二人の年長のヴァンパイアは言葉以上に雄弁な眼差しを、しばし交し合っていた。ブリジットの眼差しには、僅かな非難の色がこもっていたかもしれないが、レギオンは冗談めかすように肩をすくめて、それを受け流した。

そんなレギオンから視線を逸らし、カーイの消えていった方に顔を向けて、ブリジットは低い声で呟いた。

「あの子が、心配だわ」

息子そっくりの顔をした、けれど、長い年を経た分だけ圧倒的に深みのある、匂いたつような美貌の吸血女神を、レギオンは、ソファに腰を下ろして考え深げに眺めていたが、やがて、音もなく立ちあがり、その前に立った。

「大丈夫ですよ、あなたの息子じゃありませんか、ブリジット。何かある度にそう赤ん坊扱いして甘やかしていては、カーイはいつまでたっても独り立ちできませんよ」

親しげなその口調にぼんやりと耳を傾けながら、ブリジットはカーイのことを考えているようだった。

「そうね」

「私だって通ってきた道です。今のカーイに負けず劣らず、鼻っ柱だけが強くて、挑戦的で、踏んできた場数の少なさを口先でごまかして、年長のあなた方の失笑をかっていた頃もあった」

ふと思いだしたかのように、ブリジットは、レギオンに向き直った。300年も生きればもう立派な年長のヴァンパイアと言えるのだが、実際レギオンはカーイに対してなどはそのとおりの者だったのだが、彼にも想像のできないほど時を生き続けてきたブリジットの前では少し違っていた。親しみの中にも深い敬慕の情のこめて、いつものように押しつけがましい話し方をすることもなく、その声は低く柔らかい。そして、その瞳は、やんちゃな悪戯っ子のような光を少しだけたたえて、笑っている。

「ええ、あなたは、本当にひどいものだったわ」と、ブリジットはつい微笑みを誘われたかのように唇をほころばせた。その神秘な瞳がふと遠いものになり、夢見るようなゆるやかに瞬きをして、それから、目の前のレギオンの顔を今初めて見るかのようにつくづくと見入った。かつて同じ時を共有した者達の間に束の間慕わしい共感が流れた。そのことが、レギオンを少し大胆にしたようだ。

「あなたがそんなふうに私を見つめてくれたことは、まだほんの小僧っ子の私があなたに求愛することに必死になっていた頃、私達が共に過ごしたローマでの数年以来、絶えてなかった」

ブリジットは、レギオンを見上げたまま、クスリと笑った。

「昔の話よ、レギオン」

「ええ、その通りです。けれど、昔と少しも変わらないあなたとこうして向き合っているとつい昨日のことのように脳裏にあざやかによみがえってきて…」

手を伸ばして、女神の頬に触れた。息子に対してしたような強引さはなく、むしろ、ためらいがちで控えめだった。ブリジットの顔にひたと注がれる眼差しも、普段のもっと自信に満ちた、挑発的で皮肉で常に人をからかうような表情をたたえたものとは違って、真摯でひたむきで、相手の応えをどことなく恐れているかのような気弱げな、ひどく少年めいたものに変わっていた。用心深く、耳を傾けないと聞き取れないような低い声で、彼は囁いた。

「あなたの唇にキスしてもいいですか?昔のように」

ブリジットは、そよとも動じず、レギオンを見つめ返した。見つめられると心に隠したどんな秘密も全て読み取られてしまうかのような不思議な力をたたえた女神の眼差しで、レギオンの僅かに揺らぐ瞳を透かし、その心を見て取ったかのように艶然と笑って、優しくたしなめるような口調で言った。

「馬鹿ね、レギオン…」

それは聞き分けのない子供をなだめるような愛情のこもった、柔らかなものではあったけれど、付け入る隙もないという点では、鞭のように容赦なく厳しかった。

「手を離して」 

果たしてレギオンは降参したように両手を上げ、すぐにブリジットから身を引いた。そうして、ソファに戻り、どさりと腰を下ろして、庭の方を見る形で視線を逸らした。

ブリジットはその様子を何か言いたげに気遣わしげに少しの間見つめていたが、やがて、長いドレスの裾を引き、部屋を出ていった。

ブリジットの衣擦れの音を、それが部屋を出、遠のいていくのを聞きながら、レギオンは怒ったようによく手入れされた庭の咲き誇る色取り取りの薔薇の花を睨みつけていたが、やがてそのくちもとに苦笑めいたものが広がり、ふいに堪えきれなくなったかのように肩を揺らしてひとしきり笑った後、ソファに沈みこんだ。

「全くだ」と、まだ少し笑いの発作に体を震わせながら、手で顔を覆った。

「とんだ大馬鹿者だ、私は…」


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