愛死−LOVE DEATH−
第二十七章 愛すること、生きること
三
「う…うう…っ…?」
今日も帰りの遅いスルヤをぼんやりとテレビを見ながら待っていたカーイは、コーヒーでも淹れようとリビングのソファから立ち上がった瞬間、ふいに激しい眩暈に襲われて床に転倒した。
一瞬目の前が暗くなる。
力の入らない体をやっとの思いで引きずり起こし、カーイはソファにすがりつきながら荒い息をついた。
体の奥底から馴染みのある震えが込み上げてくる。
カーイは唇を噛み締め、頭をしゃんとさせようと頬を平手で軽く打った。
(ああ、やっぱり…逃げることはできない)
発作的な貧血状態をどうにかやり過ごし、ようやっと起き上がると、カーイはふらふらとバスルームに向かった。
途中、スルヤの白い猫がキッチンの扉の陰から様子を窺っているのを見かけたが、カーイが顔を向けると怯えたように逃げていった。もともとあまりカーイにはなついていなかったのだが、この頃は特に避けられているようだ。小さいながらも獣の本能で、今のカーイがどれほど危険な存在か分かるのだろう。もしかしたら、いつか飢えに駆られたカーイが無意識のままスルヤを襲おうとしたことを覚えているのかもしれない。
そんなことを思いながら、カーイがバスルームによろめき入り洗面台の鏡を覗き込むと異様に蒼白い己の顔がそこにあった。
頬はこけ目の下には濃い隈を作って、誰が見ても立派な病人だ。ブリジットによく似た美貌も、さすがにこの頃は衰えが目立ってきた。
(私は、飢えている)
カーイは冷たい水で顔を洗うとすぐに外出の支度をした。そろそろスルヤが帰ってくるかもしれないが、できれば、顔を合わせる前に出て行きたい。彼に、どこに行くのか何をするつもりなのかと尋ねられたくない。
何よりも、飢えが高まった状態でスルヤに会うのは怖い。彼の甘い血の匂いをかいで理性が保てるか、この頃のカーイはもう自信が持てなくなっていた。
(すぐにでも血を飲まなければならない…これ以上意地を張らずに、やはりレギオンのもとに行くか―それとも、また見知らぬ誰かを襲って奪うかしなければ)
カーイは苦い敗北感を噛み締めながら、夜の街にさ迷い出て行った。
この飢えには波があるようで、一時は耐えがたかった吸血衝動が、冷たい外の空気に触れがやがやと騒がしい地下鉄に乗り込んで中心街に向かううちに大分落ち着いてきた。
(けれど、いつまた堪えきれなくなるか分からない。自分を制御できる今のうちに、何とかしなければ…)
まだ宵の口のこの時刻、地下鉄に乗り合わせた大勢の乗客達をちらちら見ながら、その血の味をカーイは想像したが、どこか人通りの少ない裏通りを探すにせよ、殺しをするにはまだ時間が早すぎる。
仕方なく、カーイはレギオン達が宿泊しているホテルに向かうことにした。
(結局は血を飲ませて欲しいとレギオンに頼むしかないなんて…いつの間にか彼にしっかり弱みを掴まれてしまったようで不安だ―)
それでも、レギオンの血の味を思い出すと、カーイの喉はごくりと鳴った。
そんな自分をカーイは憎んだ。
(あさましい…!)
最初にレギオンに血をもらった時の己の酩酊振りを思い出すと、カーイは恥ずかしさのあまり身悶えしそうになる。
レギオンの血を飲めば、またあんな無防備な状態に陥ってしまうのだろうか。
あの時レギオンが前後不覚に陥ったカーイに仕掛けた悪戯を思い出すとまた余計に不安になった。
昔の恋人と今更おかしなことになるのは困るという単純な警戒心だけではない。
血をもらっておいて疑うのもレギオンに悪いかもしれないが、カーイは自分がうまく罠にかけられたよう気がしてならなかった。本当にただの親切心だけでレギオンはカーイの前で己の喉を切り裂くまねをしたのだろうか。
『愛しているよ』
レギオンの血に酔いしれ夢うつつの状態で聞いた甘い囁きを思い出してカーイはぞくりとした。
カーイの中に取り込まれ、体の一部になった彼の血を強烈に意識し、カーイは頭を激しく振った。
(レギオンは今のところ私に優しく紳士的に接してくれているけれど、天邪鬼な彼をあんまり信じすぎると…手ひどく裏切られる。私も昔はそれで何度も泣いたのだし、用心しなければ…)
カーイは重い足取りのまま、レギオン達の泊まるホテルに着いた。
もう面倒だったので、カーイは、フロントも通さず、外から一気に彼らの部屋めがけて跳躍し壁を抜けて中に侵入した。
「いない…」
がらんとした暗いリビングに立った瞬間、カーイは舌打ちをした。
ホテルが近づくにつれ、何となく嫌な予感はしていたのだ。先に電話を入れておけば、レギオンを捕まえられただろうか。だが、衝動的に家を飛びだした時には、そこまで考えが回らなかった。
カーイはがっくりと肩を落として、ソファに力なく沈み込んだ。
「レギオンの馬鹿。私が迷惑がっている時には勝手に押しかけてくるくせに、肝腎な時には捕まらないなんて…この役立たず」
つい先程まであれほどレギオンに血をもらうことに抵抗を覚えていた自分を綺麗に忘れて理不尽な恨み言を呟くと、カーイはしばらくソファの上に突っ伏したまま、これからどうするか悩んだ。
サンティーノもいないところを見ると、おそらく2人は連れ立って夜遊びに出かけたのだろう。最も近しい友人同士だか恋人未満だか知らないが仲のいいことだ。そうなると、レギオンのことだから、深夜までここに戻りそうもない。
こんなことになるのならば、携帯電話の番号なり緊急連絡先をちゃんと聞いておけばよかった。くだらない意地を張った自分こそ、馬鹿だったのだ。
(どうしよう…このまま2人が帰るのを待とうか…それとも、探しに行った方が早いだろうか…)
迷った挙句、カーイはレギオンを探しに行くことにした。じっとしていると余計に飢えを意識して辛かったのだ。
それに、同族であり、カーイとは深いつながりのあるレギオンの気配ならば探して見つけることもそれほど難しくはないことに思われた。
念のため、帰りはちゃんとホテルのフロントに寄って、レギオンに至急会いたいとのメッセージも残しておいた。
そうして、カーイは再び、きらびやかな灯りに飾られた、人のざわめきと車のクラクション、街角のそこかしこから聞こえてくる音楽でにぎわう都会の夜に溶け込んでいった。
カーイは焦っていた。
身の内から、またしても凶暴な飢渇が頭をもたげようとしている。
(レギオン、レギオン、どこにいるんです? お願いです、私の呼ぶ声に応えてください…!)
カーイは意識を澄ませてレギオンの発する強い気のようなものを探し、彼が自分に気づいてくれぬかと心の中で呼びかけた。しかし、飢えのために集中力が続かないせいか、感応する精神の力そのものにも衰えが生じているのか、以前はもっと容易かった探索がひどく困難なものとなっていた。
(渇きが…ますますひどくなっていく…レギオン、助けてください)
もしここにレギオンが現れて血と引き換えにどんなことを要求してきても、今ならカーイは容易く受け入れてしまいそうだ。
一体どのくらい街を歩きまわったのか、自分が今どこにいるのか、カーイにはもう分からなくなっていた。ただ1つの強烈な欲求以外、ほとんど何も考えられなくなっていた。
(飲みたい)
ついに、カーイはレギオンを見つけることを諦めた。
(仕方がない…これも気が進まないけれど、今夜は他の獲物を見つけて奪うしかない…)
自嘲するような笑いに色味を失った唇を歪め、カーイは光の多すぎる表通りを避けて、暗い路地や脇道を、そこに入り込んだ不運な人間がいないか探した。
まだ街に人は多い。殺しは手際よくやらなければならない。抵抗でもされたり悲鳴をあげられたりすると、たちまち他の人間達が駆けつけてくるかもしれない。それに、カーイが引き起こした連続殺人事件のために、市内には増員された警官が至る所でパトロールをしている。彼らの目につくと、それこそことだ。
(大丈夫、私の速度で一気に獲物を捕らえ、意識を失わせて、人気のない路地やビルの中にでも引き込めば…必要な血を何とか飲むくらいはできるだろう)
夜を徘徊するぞっとする獣のような己の姿を想像してカーイは落ち込んだが、もうそれしか、この飢えをしのぐ方法が見つからなかった。
(ああ、私はなすすべもなく堕ちていく…こんな惨めな姿を私は他の同族の目にさらしたくはない…女神の残した『最後の子供』カーイなどと、今の私にはとても名乗れない)
自己嫌悪。
カーイが皮肉な笑いに顔を歪めた、その時、彼の聴力はそう遠くない所に人の争う気配と怯えた女の声を捕らえた。
亡霊のように暗い裏通りをさ迷っていたカーイはふと足を止めた。
首を微かに傾けて一瞬考え込むと、彼は男女の争う気配の方へヴァンパイアの速度で一気に駆けた。
やがて、カーイが人気のないさびれたバーの傍で見つけたのは、皮のコートの下に安っぽく派手なドレスを着た女が物取りらしい男ともみあっている場面だった。
「やめなさい」
カーイが冷たい声で呼びかけたのは、別に女に対する親切心からでもなければ正義感からでもなかった。
突然のカーイの登場に、強盗は弾かれたように彼を振り返った。
「その人を離しなさい」
カーイは、もう一度男に命じた。
一瞬緊張に身を堅くした男は、目の前に現れたのがほっそりと華奢な青年であったことに安堵したのだろう、すぐにもとの獰猛さを取り戻した。
「うるさい。おまえには関係ないだろう、怪我したくなけりゃ、向こうに行きな!」
いかにも荒っぽいことに慣れていそうなどすのきいた声ですごむ男にカーイはすっと目を細め、無言のまままっすぐ近づいていった。
男が発する汗の匂いに混じって、その強烈な血を感じる。
(どうせ殺しをしなければならないのなら、こんなごろつきを犠牲にした方が、いっそ世の中のためになるということで私の良心もいくらか痛まないだろう。偽善的と言ってしまえば、それまでではあるけれど―)
狩りをする時は己の美意識と舌を満足させる最上の血を常に求めてきたカーイが、本来ならば食欲をそそりそうもない、こんなおぞましい犯罪者を獲物にするのか。
(けれど、今の私には、いっそ似つかわしい相手かもしれないな)
この男から飲もうと、カーイは決めた。
怯むことなく歩み寄ってくるカーイをにらみつける男の凶暴な顔が、怒りのせいか、赤黒く染まった。女を突き飛ばし、男はカーイに殴りかかった。
カーイは軽々と男の拳をかわし、呆然と立ちすくむ女に向けて素早く言った。
「逃げなさい」
殺しをするところをこの女に見られては困る。
続けざまに手を振り下ろしてくる男を軽くあしらいつつ時間を稼ぎながら、カーイはなおもぐずぐずしている女を苛立たしげに叱りつけた。
「何をしているんです…早く行きなさい!」
女はびくっと震え上がって、足元に落ちたバッグを拾い上げ、そのまま後じさりしようとした。
それを睨み付けるカーイの顔に迷いがよぎった。
(いや…ついでと言っては何だけれど、この女も殺してしまうべきだろうか…強盗から救ってくれた命の恩人と今は私に感謝をしているかもしれないけれど、その強盗が血を取られて死んだことを知れば、この女は警察に通報するかもしれない…)
このまま女を行かせるべきかどうか逡巡した、時間にしてほんの数秒、カーイは強盗から注意を逸らした。ただの人間に過ぎない相手を実際かなり甘く見ていたのだ。しかし―。
「野郎…!」
突然、強盗はジャケットの内側から取り出した拳銃をカーイに向けた。
都会の夜の一角を凶暴な銃声が引き裂いた。
「キャアァッ!」
悲鳴をあげたのは、一発の銃弾に腹部を打ち抜かれたカーイではなく、傍らで全てを見ていた女だった。
(銃で撃たれるのは二度とごめんだと思っていたのに、またしても、こんな目に合うなんて―)
カーイは顔をしかめて火がついたように熱く感じられる脇腹を押さえた。弾痕から流れ出した血に手がぬるりと濡れた。
至近距離から被弾したせいか、傷を塞ぐ力も弱っているせいか、思ったよりも出血が多い。
かっとなったカーイは瞬時に強盗に掴みかかった。
「よくも…!」
カーイは、目にも留まらぬ速さで銃を弾き飛ばし、男の胸倉を掴んで激しく揺さぶった。
まともに銃弾を食らったカーイがまさか反撃してくるとは強盗は思っていなかったろう。
「うわぁぁっ?!」
カーイの怪力に男がたまらず恐怖に駆られた悲鳴をあげる。
「な…一体、何だ、おまえ…?!」
顔を引きつらせる男の体を高々と持ち上げ、カーイは低く唸った。
肉食獣のように。
カーイは、男の首をそのまま一気にへし折って血を奪おうと牙を剥きかけた。
だが、その時、この騒ぎを聞きつけたのだろう、通りの向こうから数人の人間達が呼びかける声がした。
「ど、どうした?!」
「警察だ、そこに誰かいるのか?」
どうやら、カーイにとっては間が悪いことに、周辺を巡回中の警官だったらしい。
銃声に腰をぬかしたように地面にへたり込んでいた女が俄然勢いを取り戻して、助けを求め、叫んだ。
「た、助けて…! ひ、人が撃たれたの」
カーイは捕まえていた男の体を地面に投げ出した。気を失った強盗は、もうぴくりとも動かない。
殺しにも吸血行為にもまだ及んではいなかったが、今ここで警察に出くわして、あれこれ質問されては厄介だ。
カーイは近づいてくる足音に背中を向けて脱兎のごとく逃げ出した。
必要とする血を奪うどころか、予想外の怪我を負って己の貴重な血を失ったまま―。
(やれやれ)
その様子を、近くのビルの屋上に黒い不吉な鳥のようにとまって見下ろしている者がいた。
(全く、無様なことをして―あんなに追い詰められた状態になるまで飢えを我慢した挙句、見境なく狩りをしようとして失敗するなんて、仲間として見るに耐えないよ)
血のように鮮やかに赤い唇を半月形に吊り上げて、サンティーノはどこか楽しげに独りごちた。
レギオンと2人ホテルに戻ると、カーイが自分達を訪れていたことを、緊急に助けが必要だとのメッセージを残して立ち去ったことを知った。
それで、レギオンと手分けをして、ここまでカーイを探しにきたのだ。
(どうせ他に方法はないものを、初めから素直にレギオンに頭を下げて血をもらっておけば、こんな目には合わなかったのに。馬鹿だね、カーイ)
生憎と先にカーイを見つけたのはレギオンではなくサンティーノだったが、今すぐレギオンに連絡をつけてここに呼べば、カーイを助けることはできる。
サンティーノも最初はそのつもりでコートのポケットから携帯電話を取り出し、レギオンに知らせようとした。
だが、ふいに悪魔的な閃きを覚え、彼はダイヤルしかけた番号を消した。
下の路上では警官が興奮状態の女をなだめ、気を失っていた強盗を引きずり起こしている。
サンティーノは人間達の捕り物にはすぐに興味をなくして目を上げ、カーイが消えていった深い夜の帳の向こうを眺めやった。
サンティーノは携帯に登録していた別の電話番号をダイヤルした。
呼び出し音がしばらく鳴った後、伸びやかな少年の声が応対に出た。
「スルヤ・ラトナ君だね」
サンティーノは電話の向こうの相手の様子を想像するよう目を閉じた。
「実は、今カーイが大変なことになっているんだ。ああ、僕は彼の友人でね…それが、街でちょっとした騒動に巻き込まれて、怪我をしてしまったんだ。いや、大丈夫だよ。病院に行ったりするほどのものじゃない。ただ、彼は少々取り乱していてね」
あの可愛らしい少年の喫驚を味わい、サンティーノはひっそりとほくそ笑んだ。
「いや、君にここまでカーイを迎えに来てもらう必要はないよ。彼は今からそっちに戻るから、後の面倒を看てやってくれないか。ただカーイはとても気が立っているから気をつけて―」
まるで予め台詞を用意していたかのように、サンティーノは少しも詰まることなく滑らかに説明した。
一瞬言葉を切り、スルヤが話を飲み込むのを待った後、サンティーノは意味ありげな響きを帯びた柔らかな声で付け加えた。
「それにね、これを言ってもいいかどうか迷うんだけれど、カーイは自分が怪我をしたことを君に黙っていたい様子なんだ。全くそこまで無理をすることはないと思うのだけれど、彼の秘密主義には困ったものだよ。だから、スルヤ君―部屋の明かりを消して、眠ってふりをして、カーイの帰りを待っておいで。そうすれば彼も家に戻りやすいだろうから」
悪戯を誘いかけるかのごとき楽しげな含みを残して、サンティーノはスルヤに問い返す間も与えずすぐに通話を切った。
耳の奥には、怪我をしたというカーイを案じて動揺するスルヤの上ずった声が残っている。
(さて、人間とヴァンパイア、自然に逆らった恋人達がどんなドラマを展開してくれるか。ふふ…楽しみだよ)
ふいに、サンティーノは建物の上から空に向かって見えぬ翼を広げて飛び立った。
地上で展開する些事には何の関心も持たぬげに立ち去るサンティーノの美貌には、非人間的なまでに静かな微笑がたたえられていた。