愛死−LOVE DEATH−
第二十七章 愛すること、生きること
四
カーイは息を殺して用心深く玄関の扉を開けた。
(スルヤ…?)
感度の落ちた聴力で捉えられる限り、家の中はしんと静まり返っている。外から窺ってみた時も部屋の灯りは全て消え、スルヤは先に休んでいる様子だった。
緊張のあまりカーイの心臓の鼓動は早くなっている。本当は、ここに戻ってくるべきではなかったのかもしれない。けれど、彼にはどこにも行き場がなかった。
(いや、そうではなくて…いきなり撃たれ、駆けつけた警官に危うく姿を見られそうになって、動転した私は、ここに何とか帰り着くことしか頭に思い浮かばなかった…)
見慣れたスルヤと自分の家の前にやっと立った瞬間カーイは安堵の息をついたが、またすぐに別の不安がこみ上げてきた。
(こんなひどい有様になって…)
後ろ手に扉を閉じ、穴の開いたコートの前をカーイは微かに強張る指でかき合わせる。たった一発の弾痕だけだ。黒いコートは血で汚れていることもすぐには分からない。そう思いたい。
カーイは、スルヤが眠っているだろう、屋根裏の方へ顔を上げた。
(血のついた服は早く始末して、少し休もう。何だか目の前がくらくらしてまともに立っているのも辛い。今はスルヤの傍には行かない方がいいだろう…リビングのソファの上にでもしばらく横になって―落ち着いたら、これからどうするか考えよう。レギオンに助けを求めるか…それとも―)
ひどい疲労がカーイの全身をひしがせていた。
(寒い…体の芯から凍えきっている…それに、ひどく眠くて…)
カーイは息を殺したまま、ふらふらと廊下を歩きリビングの方に向かった。どんな暗闇でも見通す目は重たげに下りてこようとする瞼の下に半ば隠れ、彼はほとんど手探りでリビングの扉を探し当てるとよろめきながら中に入った。
「あっ…」
瞬間、カーイは身震いした。
強烈な香りがカーイの鼻腔に入り込み、その衝撃が停止しかかった脳を直撃した。
このむせ返るように甘く濃厚な香り。乾ききったカーイの喉は反射的に鳴った。
血が匂う。
そして、愕然と見開かれたカーイの目は、灯りを消したリビングのソファに黙然と座っている人影を捉えた。
「ス、スルヤ…?」
人影は静かに頭を傾げると、傍らにある背の高いルームライトのスイッチを入れた。
暖色の柔らかな光が部屋をほんのりと照らし出したが、カーイはまるで強烈なサーチライトでも向けられたかのように手を上げ、とっさに顔を隠した。
「カーイ」
スルヤはカーイを怖がらせないよう賢明に声を抑えているようだった。
「怪我をしたって聞いたよ? 大丈夫なの?」
驚愕のあまり混乱した頭の片隅でなぜスルヤが自分の受けた傷のことを知っているのかいぶかりながら、カーイは空いている方の手で血に濡れたコートの胸辺りを掴みしめた。
「そっちに行ってもいいよね?」
こんな追い詰められた時でもスルヤの優しい声はカーイの心の中に温かく染み透ったが、スルヤがゆっくりと起き上がるのに、カーイは思わず声を荒げた。
「駄目です!」
スルヤは小さく震え、カーイの方に踏み出しかけた足を止めた。
「どうして?」
スルヤの声は葛藤のあまり震えている。カーイに対する気遣いと心配でスルヤの胸も押しつぶされそうになっているに違いない。
「お願いだよ、カーイ。あなたが嫌がることを俺はしたいわけじゃないけれど…せめてあなたの手当てをさせてよ。…あなたが何も聞いて欲しくないのなら、俺は聞かない。今は、あなたの体のことだけが心配だから―」
熱心にそうかきくどくと、スルヤはカーイに向かって手を差し伸べた。
「駄目…どうしても駄目なんです。スルヤ、お願いですから、それ以上私に近づかないでください。さもないと私は…私は―」
スルヤの体から漂ってくる圧倒的な血の香りに、カーイはじりじりと後じさりした。
これ以上スルヤの血の匂いに接していると、カーイをかろうじて支えている理性が吹き飛んでしまうかもしれない。
カーイの中で、あの恐ろしい獣が再び目覚め低い唸り声を発するのが分かる。
あの血をよこせ。飲みたい。飲みたい。
急激に伸びて鋭くなり始めた牙でカーイは唇を噛み締め、食い破った。
「カーイ…!」
痙攣の発作を起こしたようにカーイががくがくと震えだしたのに、スルヤはついに堪えきれなくなったのか彼に駆け寄ろうとした。
「あっ…」
しかし、カーイをかき抱こうとしたスルヤの腕は何もない空をむなしく泳いだ。
スルヤには一瞬何が起こったか分からなかっただろう。
「スルヤ、今すぐ、この家から出て行ってください。私から逃げてください!」
悲鳴のような声でカーイは叫んでいた。
ヴァンパイアの速度でスルヤの抱擁をかわしたカーイはリビングから飛び出し、隠れ場所を求めて、2階へ続く階段を取り乱したまま駆け上った。
(スルヤ、スルヤ…お願いだから、私を追い詰めないでください、私をこれ以上誘惑しないでください)
飢えの発作がカーイを支配しようとしていた。少しでも気を抜くと、スルヤのもとに戻り、彼に襲い掛かってしまいそうだ。だが、もはや自分から外に飛び出してレギオンのもとに行くほどの力はない。
カーイは、ほとんど使われることのないゲスト・ルームに飛び込んだ。この部屋には鍵がついていたことをふいに思い出したからだ。
がくがくと震える手で鍵をかけると、カーイはへなへなとその場に座り込んだ。
これ以上もう動けない。
しかし、階下から慌ててカーイの後を追いかけてきたスルヤの足音にカーイは弾かれたように扉から離れ、部屋の隅にまで逃げると我が身をかき抱きながら扉を見つめた。
「カーイ、カーイ!」
スルヤの声に反応した体がそちらに行こうとするのを必死で押しとどめながら、カーイは両手で耳を塞いだ。
「お願いだから扉を開けて、俺を中に入れて! あなたは怪我をしているんでしょう?」
スルヤの優しさが、この時ばかりはカーイは恨めしかった。
「私のことは、放っておいてください!」
カーイが叩きつけるように叫び返すと、スルヤが息を飲むのが分かった。
「お願いです…早く逃げて…私にあなたを殺させないで…」
胸の奥から搾り出すような懇願はスルヤの耳にまでは届かないだろうが、カーイはスルヤの本能が危険を察してくれることをひたすら祈っていた。
そうするうちにもカーイの体は獲物の血を求めて変化していく。鋭く伸びた牙と爪、爛々と輝いているだろう瞳を意識して、カーイは例え捕食本能に捕らわれていなくても、こんな怪物じみた姿をスルヤに見せるくらいならば死んだ方がいいと思った。
(ああ、せめて、この飢えが一瞬でもおさまってくれれば…自分を制御する力を取り戻すことができたら―)
カーイは、何の足しにもならないと分かっていながらも、自分の手首に噛み付いて血をすすることさえしてみた。
(ああ、スルヤ…)
必死に自分との戦いを続けていたカーイは、やがて、いつの間にか扉の向こうからスルヤの気配が消えていることに気づいた。
もしかしてカーイの警告に従う気になってここから立ち去ってくれたのだろうかと淡い期待を抱いた、その時、彼はこの部屋の窓を外側から何かが引っかく音を聞いた。
まさかと思って振り返った、カーイの頬が強張った。
「ス、スルヤ」
呻くように呟いたカーイが見たものは、物置から引っ張り出したらしい梯子を使って、庭の方からカーイがいるこの部屋によじ登ってきたスルヤの姿だった。
「な、何てことを…」
スルヤは決死の面持ちで部屋の中にいるカーイを確認すると、片手に握り締めていた小振りのハンマーを振り上げた。
窓ガラスが割れる音が響き渡った。
カーイが呆気に取られているうちにスルヤは壊したガラスに手を突っ込んで鍵を外し、窓を押し上げて中に入ってきた。
「あ…」
カーイは目を見開いて、ゆっくりと自分に近づいてくるスルヤを見つめた。
喉がごくりと鳴った。
カーイの意識は、スルヤの右手に集中した。
壊した窓ガラスで傷ついたのだろう、スルヤの手は血を流していた。これまでとは比べ物にならない血の香りがカーイに向かって押し寄せてくる。カーイには今やスルヤが流す赤い血以外何も見えなかった。
カーイはすうっと目を細めた。急速に意識が遠のいていく。
「カーイ?」
カーイの身に起こった異変に気づいたのか、スルヤは足を止めていぶかしげに問いかけた。
その声に引かれ、カーイは猫のようにゆっくりと床を四つんばいになって這いながら立ち尽くすスルヤに近づくと、血に濡れた彼の手を両手で取り上げた。
掌を上にすると流れ続ける血がスルヤの手の中央の窪みに溜まる。
カーイは舌なめずりしてスルヤの手に上に顔を近づけ、乾いた唇をそこに押し当てた。
カーイはスルヤの血を吸い取った。ほんの僅かの量ではあったけれど、その血はカーイの冷え切った体を瞬時に火と燃え上がらせた。
恍惚として口の中に広がる血の味に喉を鳴らすと、カーイはもう一度スルヤの手の上に身を屈め、今度は舌で舐め取った。
こんなにおいしい血を飲んだことなどかつてなかったような気がした。まさに生命の水だ。
「カーイ、あなた…」
しかし、その時耳に飛び込んできたスルヤの掠れ声に、カーイは理性を取り戻した。
はっとなって顔を上げると、驚愕のあまり見開かれたスルヤの黒い瞳がそこにあった。
「あぁぁっ…!」
カーイは悲鳴をあげると、両手で顔を覆って、スルヤから飛び離れた。
ついに、やってしまったのだ。カーイはスルヤの血を飲んでしまった。
「スルヤ、お願いですから、私を見ないでください…!」
これまで死に物狂いで守り続けてきたものが全て粉々に壊れていく、やっと掴んだ幸せが指の間から滑り落ちていくのを意識しながら、カーイは部屋の片隅に逃げてうずくまった。
カーイは、まるで自分を引き裂こうとするかのごとく鋭く伸びた爪で頭や顔をかきむしり、固めた拳で体を叩いた。カーイの中の獣はまだスルヤの血を要求していた。
もっと飲みたい。まだ足りない。
おこりのように体を震わせているカーイは、呆然と己を眺めているスルヤの様子を見ることはなかった。
スルヤは、恋人の異様な行動にしばし魂を飛ばしたようになっていたが、やがて、その顔に理解の色が浮かんできた。人間らしい恐れが黒い瞳の奥によぎったが、それも一瞬のことだった。
スルヤはさっと後ろを振り返り、己が打ち破った窓の周辺に散らばるガラスの欠片を見つけると、迷いのない動きでそこに戻った。
(ああ、もう駄目だ。スルヤはどんなにか私に恐怖しただろう…これで、もう彼との恋も終わり…)
絶望に目の前が真っ暗になった、その瞬間、カーイはスルヤが低いくぐもった苦鳴をあげるのを聞いた。
「スルヤ?」
何が起こったのかと顔を上げたカーイは、窓の傍に恋人を見つけた途端、ぎょっとなった。
「な、何をしているんです?!」
上ずった声でカーイが呼びかけると、スルヤはこちらに顔を向けにっこりと笑いかけた。
その手は握り締めた大きなガラスの破片を己の手首に突き立てている。
「うん」
ガラスの欠片を床に無造作に落とすと、痛みのあまり額に脂汗をうかべながらもスルヤはカーイに近づいてきた。
「やっと分かったよ、カーイ。あなたはこれが欲しかったんだね」
カーイが身動きすることもできずに見守るうちに、スルヤは彼の前に膝をついて自ら切り裂いた手首を差し出した。
「あ…」
カラメル色をした滑らかな肌を流れる赤い血の芳醇な香りに、カーイはまたしても我を失いそうになったが、かろうじて理性を保ったまま、スルヤを問いかけるように見つめた。
「飲んでよ、カーイ」
スルヤは優しい目をして、カーイを促すよう頷いた。
(飲みなさい、カーイ)
懐かしい別の声がスルヤの囁きにだぶった。カーイはぐらぐらと揺れだした頭を押さえ、堪えきれずに目を閉じた。
(ブリジット…?)
子供の頃に母に励まされてそうしたように、カーイは白い牙を剥き出した。
スルヤの手がカーイの頭を抱き導くように引き寄せる。
「つっ…」
カーイの牙が傷口に食い込む痛みにスルヤは小さな声をあげたが、恋人に与えた手を引っ込めようとはしなかった。
「あなたは飢えていたんだね。それで、ずっと苦しかった…でも、もう我慢することはないんだよ。カーイ、あなたが生きるために必要なら、俺の血をあげるよ」
慈しみに溢れた声と愛しげに髪をすいてくれる指の感触の心地よさにうっとりとしながら、カーイは口の中に溢れ出した熱い血をごくごくと飲んだ。
生命の水。これほどまでに完璧にカーイの必要を満たしてくれる、この血は一体誰のものなのか。その熱はカーイの体中に行き渡り衰えかけた細胞の一つ一つを活気付けていく。
「愛しているよ」
スルヤ?
(愛しているわ)
ブリジット?
血の中に込められた無償の愛は、カーイを苦しめてきた飢えだけでなく、孤独さえも癒してくれる。
(気の遠くなるほどの長い時間世界中を放浪して、やっと見つけた…辿りつくことができた。ここが、きっと私の終着地に違いない)
温かなぬくもりに全身を包まれるような安らぎと幸福感。
カーイは、偽りの仮面の下に閉ざされていた心が解放され、生き生きと花開いていくのを覚えた。
「あなたは、もう何も隠すことはない…もう嘘をつかなくてもいいんだよ」
カーイが自分に正直でいられたのは、ブリジットに守られていた何も知らない子供の頃だけだ。ヴァンパイアとして1人、人間達の間で生きるようになって、カーイはずっと別の自分を演じてきた。同族の恋人や友人に対してさえ、素直に本心を打ち明けられなくなってしまった。
(こんなふうに心が軽くなったのは、何年ぶりだろう…ずっと忘れていた、こんな幸せを…)
カーイの固く閉ざした瞼が微かに震えた。
「スル…ヤ…?」
カーイはやっと恋人の手首から口を離した。ヴァンパイアではないスルヤの傷口はふさがらず、依然として血を流している。
カーイの眉が不安に翳った、その時、今までしっかりとカーイを支えていたスルヤの体が大きくかしいだ。
「ス、スルヤ?!」
声もなく、スルヤは床に崩れ落ちた。
カーイは取り乱した声をあげて、意識をなくした恋人にすがりついた。
「スルヤ、スルヤ…しっかりしてください!」
多くの血を失ったスルヤは青い顔をして、カーイの呼びかけにも応えずぐったりと横たわっている。それなのに、深く切り裂かれた彼の手首から溢れる血はまだ止まらない。
この血を止めなければ。
カーイは動転した眼差しで辺りを見渡したが、こんな時にどうすればよいのか、人間ではない不死の身である彼には分からなかった。
その瞬間、カーイの頭の中に閃いたものがあった。
直感というのだろうか。後になっても、自分がどうしてあんなことをしたのかカーイには説明がつかないのだが、彼はとっさに自らの手首を鋭い爪で切り裂くと、溢れ出した血をスルヤの傷の上に注いだのだ。
不死の神の血が定命の人の子の血に混じり、その傷に染み込んでいく。そこに一体どんな奇跡が、それとも魔法が生じたのか、スルヤの裂けた手首はまるでヴァンパイアのようにゆっくりとふさがっていった。
やがてスルヤの傷は綺麗になくなった。彼の血もとまった。おそらく、カーイの不死の血はいくらか彼の中に取り込まれ、血管を通じて体の奥深くに流れていっただろう。
「ああ…スルヤ…スルヤ…」
それを見守るカーイの双眸から血ではない別の液体が溢れ出した。
「目を覚ましてください。お願いです…私をもう1人にしないでください…!」
本当の涙などカーイは流さなくなって久しかった。だが、今、子供のように泣き喚きながら、彼は気を失ったままの恋人の体を揺さぶっていた。
カーイは、動かないスルヤの胸の上に顔を押し当てて、泣いた。
「行かないで…行かないで…」
かつて消え行くブリジットを見守るしかなかった時のように、カーイは心の底から懇願し祈った。
(ブリジット…あなたのように私の全てを受け入れ愛してくれる人をやっと見つけた。もう二度となくしたくない…)
怯えるカーイの頭を、その時、優しい手が撫でた。
「泣かないで…カーイ…」
カーイは頭を上げた。
「ね…大丈夫、俺はちゃんと…生きているよ…?」
憔悴しきった顔をして、それでもスルヤは強い光を放つ瞳をカーイの顔に当てて、にっこりと微笑んだ。
「スルヤ」
カーイは顔をくしゃくしゃにして、また泣いた。もう自分ではとめられなかった。堰を切ったように後から後から溢れ出す涙の奔流に呆然と身を任せながら、彼はスルヤの顔ばかり見ていた。
「泣き虫の吸血鬼なんて…聞いてことがないよ」
柔らかに囁いて、スルヤはカーイの涙を指先でぬぐった。
「すみません…でも…」
カーイはしゃくりあげながら、スルヤの傍らに寄り添うように横たわった。
「これは、たぶん二百年分の涙ですから…」
泣き笑いのような顔で囁いて、カーイはスルヤの唇にキスをした。
「ブリジットを失って…あなたに巡り合うまでの、本当になんて長い年月だったのだろう」
スルヤの腕がカーイの体に回される。カーイもまた、恋人を腕の中に包み込んで―。
「愛しています」
うっとりと囁いて、カーイは目を閉じた。
まるで殺し合いでもしたかのように互いの血に汚れた2人の格好はきっとすさまじいものだろう。
しかし、お互いの心はかつてないほど近くにあって、安らかだ。
体の中に取り込まれたスルヤの血の囁きを聞きながら、カーイは幸せの涙を流し続けた。
私はあなたを愛している。あなたは私を愛している。
そのあなたの血で私は生かされている。愛によって生かされている。
あなたは、私の命なのです。
それから、夜が明けるまでの数時間を2人はそのまま寄り添い合って過ごした。
カーイは取りとめもなくスルヤに向かって様々な話をした。
もう何も秘密にする必要はなかった。
自分が生きてきた長い年月のこと。
経てきた数多くの恋がもたらした喜びと痛み。
ブリジットのこと。
もっぱらカーイの話に静かに耳を傾けていたスルヤだが、1つだけ、こんな話をしてくれた。
以前カーイが聞いたことのある、幼くして死んだスルヤの妹の話だった。
「…俺と妹の2人は同時に溺れて、でも、助かったのは俺だけだった。俺にはレヌを救うこともできなければ、彼女の代わりに溺れ死ぬこともできなかった」
「スルヤ、でも、それはあなたのせいではなかったんですよ」
「そうだね。仕方のないことではあったんだ。でもね、あの時…1人だけ助かった俺が家に戻ると、出迎えに現れた母さんが、ほんの一瞬残念そうな顔をしたんだよ。たぶん、子供達のうち1人だけが見つかったという話は予め聞いていたんだけれど、それがどちらなのか分からなかったんだろうね。帰ってきたのがレヌじゃなかったことが、母さんには辛かったんだ」
「そんな―」
「誤解しないでね。別に母さんが俺を嫌っていたわけじゃないんだよ。俺のことも愛してくれていたけど、ただレヌの方がもっと好きだったというだけなんだ。でも、そんな母さんを見て、俺は自分が母さんを苦しめていると思った。そうして、自分だけが生き残こるなんてひどく罪深いことのような気がしたんだ」
「………」
「そんな俺の気持ちに気づいてくれたのは叔父さんだった。そうして、俺にこんなことを言ってくれたんだ。レヌは俺の犠牲になったわけではなくて、俺のことが好きだから、自分の命を俺にくれたんだよ。だから俺は、もらったレヌの命の分まで一生懸命生きなければならないんだって」
「大切な人からもらった命の分まで…」
「うん。そんな慰めを俺がすぐに受け入れられたわけじゃないけれどね。でも…気晴らしにと叔父さんの写真撮影に付き合って、撮影場所に使われた廃屋の中で幻めいた人影を見た時―人間ではない、あなたによく似た雰囲気の人だったと俺は話したことがあったよね―その人を見た瞬間、俺はこの世ではない別の世界があることを感じたんだ。それなら、きっと死んでしまったレヌが今でも存在し続ける別の世界だってあるかもしれない。いつか再び会うこともできるかもしれない。それなら俺は、その時レヌに向かって『ほら、俺はお前にもらった命でこれだけのことをしたんだよ』ってちゃんと胸を張って答えられるように生きたい。そう思ったんだ」
「それは、つまりあなたが死んだ時にということ…?」
「人が死んだらどうなるかなんて実際誰も見て帰ってきたわけじゃないけれどね。でも、その人の全てが消えてなくなるわけではないと思うんだよ。別の形で続いていくような気がする…愛も命も…」
「それは…私にもよく分からないことです。不死の身であれば、余計に縁のない話で…ただ、ブリジットは、例え肉体は消えても私のことは永遠に愛し続けると言い残しました。今までのように触れ合うことはできなくなっても、私達はずっと共にあるのだと」
「お母さんの存在を感じることはない?」
「…分かりません」
「俺は…レヌの存在を身近に感じることがあるよ。レヌが好きだった花や鳥を見て懐かしい気持ちになる俺自身の中に見つけることもあるし、擦れ違った見知らぬ人の中にもよく見てみれば、よく似た部分が1つくらい見つかる…。もしかしたら、別の世界だなんてそれほど遠いものじゃなくて、もっと近くに形を変えて命は存在し続けるのかもしれないね」
「すみません、私は疑り深くて…それに、自分で実感したことのないことを鵜呑みにして信じることはできないんです。ただ、あなたが、そうして妹さんから受け取った命を大切にしていることは分かりました。でも、その命を…あなたは私と一緒にいることで危うくしているんですよ。いいんですか、それで…?」
「うん。レヌから譲ってもらった命だから俺は大切にしたいけれど、でも、同時にこうも思ってきたんだ。もしも―いつか本当に愛する人を見つけたら…俺の命をその人のために使おう。レヌが俺にしてくれたように、今度は俺がその人に命をあげよう、その人に俺の分まで生きてもらおうって」
「ス、スルヤ…」
「だから、俺にとって、あなたに血を分けてあげることくらいなんでもないことなんだよ。それにね、俺は健康で丈夫だから、すぐに元気になる。一度にあんまりたくさんはあげられないけれど、少しずつなら平気だから。心配しないで、カーイ」
「スルヤ、でも―」
迷いのない口調で愛や命のことを語るスルヤになぜか心をかき乱されながらも、心配しないでと抱きよせられた胸に顔を埋める時、カーイはやはり胸の奥によぎった微かな不安を忘れるのだった。
夜明け前の静まり返った通りをスルヤは1人歩いていた。
家に残してきたカーイは、恋人が外出したことに気づかないほど安心しきってぐっすりと眠っている。
スルヤが目指したのは家の近くを流れる川だった。
早朝の冷たい空気がちくちくと頬を刺すように感じられる。
背の高い街路樹に囲まれた人通りのない通りを歩きながら、スルヤはコートのポケットの中を確かめるよう手で探った。堅いものが指にあたる。
川の周囲は靄がかかったようにぼんやりとして見えた。休日の早朝であり、散歩するにもまだ暗すぎる、今ならば、誰もスルヤの不審な様子を見咎めることはないだろう。
スルヤは川の上にかかる古びた橋の真ん中に立って、足下を流れる水を凝然と見下ろした。
結構水深はありそうだ。それに、おとついの大雨のせいか、いつもより流れも速い。
スルヤはポケットから一枚のプラスチック・ケースを取り出した。レギオンからもらったものだ。スティーブンがスルヤに残した画像、彼が伝えようとしたカーイの秘密が入っている。
「ありがとう、スティーブン。俺は、もうよく分かったよ。スティーブンの悩みも苦しみも…俺を必死に守ろうとしてくれていたことも…でも―」
スルヤは一瞬遠い目になって、亡くしてしまった大切な親友に思いをはせた後、手にしたディスクを川の上に落とした。
小さな水音がして、ディスクは影も形もなくなった。
「ごめん…ごめんね、スティーブン」
スルヤはふとこみ上げてくるものを抑えかねたかのように声を詰まらせうつむいた。しかし、彼は泣かなかった。
そのまま橋の上を離れようとしたスルヤだが、ふと何かを思い出しように足を止めた。
スルヤはポケットをもう一度探り、いつも大事に持ち歩いている、スティーブンの形見のライターを取り出した。
スルヤはしばらくそのライターを食い入るように熱心に見下ろしていたが、やがて全てを吹っ切ったような顔で橋の欄干の前に立った。
「さよなら」
スルヤは大きく腕を振りかぶり、ライターを遠くに投げ捨てた。
ライターが川に落ちた音はスルヤの耳には届かなかった。
スルヤは、肩で大きく息をすると、今度こそ橋の上から立ち去った。
「早く戻ろう。カーイが目を覚ました時に俺がいないことに気づいたら、きっと不安がる」
自分に向かって言い聞かせるように呟いて、スルヤは頭をしゃんと上げると、もと来た道を急ぎ足で引き返した。
この世で一番大切な人の面影を求めて歩きながら、スルヤは1人、胸の奥から果てしなくこみ上げてくる深い感慨をじっと噛み締めていた。
愛すること、生きること、そのために、他の何かを犠牲にしなければならないということ―。