愛死−LOVE DEATH−

第二十七章 愛すること、生きること


 スルヤはドアを開いて、人気のないフラットの中に入った。

「ああ」

 見覚えのある部屋。

 だが、ここの主がこの世からいなくなって、そろそろふた月になろうとしている。

 ソファの上に脱いだままのコート。テーブルの上のカップ。学校のテキストや資料で散らかったままの机。

 かつての生活の匂いをそのままに残した部屋の状態が、スルヤの胸を苦しくなるほど締め付けた。

「スティーブン」

 すぐに涙がにじんでくる目をこすって、スルヤは気持ちを落ち着けようと息をついた。

 スティーブンの父親は息子のフラットを手放さず、まだそのままの状態にしていた。今でもスティーブンの死が信じられず、彼がある日ひょっこり帰ってくるのではないか、そんな気がしてならないからだという。

 スティーブンの部屋を見たいというスルヤの頼みにも彼は快く頷いてフラットの鍵を貸してくれた。ろくな成果も出せない警察に息子の部屋をこれ以上探りまわられるのには抵抗があるが、親しかったスルヤならば、スティーブンも嫌がらないだろうと言う。

 スルヤはフラットの中を一通り歩き回るとスティーブンがよくグラフィクを作る作業をしていたパソコン用のデスクの前に座った。そこにあったコンピューターは警察が持っていってしまったので、机の上はがらんとしている。

 スルヤは思い出したようにコートのポケットを探り、金色のライターを大事そうに取り出した。

 スティーブンの形見としてもらったライターだ。物思いに浸りながらそれを触ることが、この頃スルヤの癖になっていた。

 カチッ。ライターの火をつけてみる。 

 タバコを吸う姿も格好がよかった、懐かしい親友を思い出して、スルヤは微笑んだ。

「ねえ、スティーブンは、一体どうしてあんな画像を作ったの…?」

 誰かに聞かれることを恐れるかのように声を低めてスルヤは囁き、ライターの火を消した。

「ずっとずっと考えていたんだよ…あれは間違いなくカーイの画像だけれど、実際にカーイを写して作ったものじゃない。ね、スティーブンには誰にも見せないで作り続けていた作品があったよね。色んなモデルの画像をつなぎ合わせて、あるイメージを作っているんだって、そう言えば、俺も聞いたことがあったよ。もしかしたら、あれが…そうなの…?」

 スルヤはまだ熱いライターを震える手の中にぎゅっと握りこんだ。

「スティーブンが作り続けていたイメージって、カーイだったの?」

 スルヤの心臓は胸の中で激しく打ち鳴らされていた。心の底に秘めていた疑念をこうして口にしてみることは、ひどく恐ろしく不吉な感じがした。 

「それって、一体どういうこと…スティーブンはカーイとは初対面だと思っていたけれど、もしかして以前どこかで会ったことがあるの…? 2人とも、そんなことはおくびにも出さなかったのに。カーイは…スティーブンにとって、どういう存在だったの…?」

 スルヤは喉の奥に何かがつかえたかのように黙り込んだ。

「教えて…教えてよ、スティーブン!」

 ふいに、強い口調で叫ぶと、スルヤは堪えきれなくなったかのようにデスクの前の椅子から立ち上がった。

 途方に暮れた顔をして、スルヤはフラットの中をぐるりと見渡した。まるで、どこからかスティーブンの幽霊でも現れて答えを示してはくれぬかと願うかのように。

 だが、スルヤの懇願にも亡き友は姿を現さず、謎を解き明かすための鍵は見つからなかった。

 スルヤは来た時よりも一層深い悲しみを抱えて、スティーブンのフラットを後にした。





「今日はスティーブンのフラットを調べたのか…どうやらカーイの言ったとおり、スルヤは自分で恋人の真実に近づこうとしているようだね」

 スティーブンのフラットから出てきたスルヤを近くの路上から観察しているのは、レギオンとサンティーノだった。

「あのがっかりした様子では、何も分からなかったようだけれど―まあ、手がかりとなるようなものは僕が処分したり警察が持ち帰ったりで、あの子が今更来てみたところで遅すぎるというものさ」

 サンティーノは傍らの友人を振り返った。

「どうする、レギオン。スルヤに声をかけて、少し話をしてみるかい? あの子の方は、きっと君に尋ねたいことが山ほどあるだろうと思うよ?」

 友人の揶揄を含んだ言葉には答えず、レギオンは腕を組んでじっと考えを巡らせながら、肩を落としてとぼとぼと歩いていくスルヤの後ろ姿を目で追っていた。

「予想したよりスルヤの反応は早かったね、レギオン。君が渡したディスク1つを手がかりに、ここまで彼が積極的に動き出したなんて意外だよ。もっとおっとりした子かと思っていたけれど―」

「それだけあの子も追い詰められていたんだろう。スティーブンの突然の死、カーイの不審な態度…いつも屈託なく笑っているようで、実は内心、色々思うところがあったのさ」

 レギオンは一瞬スルヤを呼び止めようとするかのごとく手を上げかけたが、結局、やめた。

「まあ、これも想定内の展開ではあるけれどね」 

 己の心を読み取ろうとするかのようなサンティーノの強い視線を感じ、レギオンは軽い調子で肩をすくめてみせるが、その胸中は複雑だった。

(スルヤは動き出した…こうなってはカーイには彼をとめる術はない。このまま放っておいても、スルヤはじきに自らカーイの秘密にたどり着くだろう。あるいは、恋人の考えや行動が分からず疑心暗鬼に駆られたカーイが、これ以上お互い隠し事をしあう関係に耐えられなくなって、ついには自ら全てを打ち明けるか、どちらかになりそうだな)

 そうなるよう仕向けたのはレギオンではあったが、結果を見ることには、いささか不安と躊躇いを覚えた。

(さて、あの2人、全てが明らかになった時、一体どういう形で終わるのか…それとも、終わらないのか。スルヤは、カーイを恋人として受け入れるのかな。それとも、怪物の素顔に怖気づいて拒否するか…まあ、見ものといえば見ものだが、いずれにせよ、厄介な恋ではあることだ。これだけの騒擾を人間社会に巻き起こし、犠牲者を出して…一昔前なら、カーイめ、一族全員から吊るし上げられていたところだぞ)

 一瞬傍観者を気取って面白がってみたレギオンだが、ふと、そんな自分の心情を振り返ってみて首を捻った。

(それでは、この私は一体どんな結末を見たがっているのかな。まあ、どんな結果になっても、スルヤはカーイに殺されるだろう。その後のことなら私に任せろという気分だが、それにしても…)

 レギオンが気になるのは、スルヤが、カーイの正体を知った時にどんな態度を取るかだ。

(十中八九、スルヤはカーイを拒否するはずだ。生き物の生存本能は、決して捕食者を受け入れはしない…それは自然に逆らうことだ)

 レギオンの経験もそれを裏付けている。だが、心の奥底に、違う結果を見たがっている自分がいる。

 自分を殺す者を愛する人間は、果たしているだろうか。

「ねえ、レギオン」

 サンティーノの低い呼びかけに、レギオンは我に返った。

「うん?」

 見ると、サンティーノは銀灰色の目を妖しく細めて、スルヤの歩き去った方角を物思わしげに眺めている。

「案外、あの子を利用した方が早いかもしれないよ」

 レギオンはいぶかしげに眉をひそめた。

「カーイのスルヤに対する執着ぶりはすさまじいものだ。だから、スルヤを傷つける者を彼は決して許さないだろう。けれど、そんなスルヤだからこそ、うまく使えば、カーイを簡単に僕達に従わせることができるかもしれないよ」

「サンティーノ、あんまりカーイ相手に乱暴な手段は取るなよ。カーイの信頼を失ってしまったら、後で困ることになるぞ。彼は強情で、一端こうと決めたらてこでも動かなくなるからね。搦め手から優しく説得し懐柔していくのが一番さ」 

 友人の物騒な提案をレギオンはやんわりとたしなめるが、サンティーノはまだあきらめなかった。

「君が本気を出してくれれば、僕も納得して、おとなしく待ちもするんだけれどね。実際、君はカーイには甘すぎるんだよ」

 サンティーノは幾分いらだたしげに顔に落ちかかる巻き毛をかきあげた。

「極端な話だけれど、スルヤさえ押さえれば、カーイは僕達の言いなりになるよ。何もそう難しいことじゃない、たかが人間の男の子を1人浚うくらい…むしろ、手間が省けるじゃないか」

「サンティーノ」

 レギオンはうんざりしたように舌打ちをし、サンティーノの腕を強く掴んだ。

「いい加減にしろ」

 レギオンが本気で腹を立てたことを見て取ったサンティーノは、それ以上は何も言わなかった。だが、レギオンから背けられた白い顔には、怒りにも似たピリピリとした感情が感じ取れる。

(全く、単純にカーイに嫉妬しているだけならなだめるのは容易いんだが―こいつはこいつで結構厄介な奴だよ)

 レギオンは溜息をつきたい気分だったが、すぐに態度を和らげて、サンティーノを親しげに引き寄せ抱擁した。

「何を焦っているんだい? 君が真面目に一族の未来を憂えているのはよく分かるけれど、性急過ぎる態度はよくないよ」

「待つのも疲れるものなんだよ、レギオン。僕の気持ちなど、いつも気ままに行動している君には分からないだろうけれどね」

 サンティーノはレギオンの腕の中からそっと抜け出した。サンティーノらしからぬ頑なさに、レギオンは少し不安を覚えた。

「サンティーノ、頼むから、カーイのことはもうしばらく私に任せてくれ。やりにくくなるから、一族にはまだ知らせるな…」

「残念だけれど、レギオン、もう知らせてしまったよ」

 背中を向けたまま語るサンティーノの口調に、いささかの意趣返しめいたものが感じられたのは気のせいか。

「おい。約束を破ったのかい?」

 サンティーノはすまなそうな顔をして、レギオンを振り返った。

「別に言いふらしたわけじゃないよ。今のところ打ち明けたのは1人だけで…一応口止めもしておいたし」

「誰に教えたんだ?」

「エディス」

 レギオンは思わず天を仰いだ。

「それじゃ、皆に触れ回ったのと同然じゃないか。あの女は絶対黙っていないぞ、賭けてもいいね」

「だろうね」

 ふっと微笑するサンティーノをレギオンは恨めしそうに睨み付けた。

「裏切り者」

 サンティーノは澄ました顔をして、レギオンの恨み節を軽く受け流した。

「そんなことよりもね、レギオン、どうやら警察の方にもちょっとした動きがあったみたいだよ」

 先程車の中でサンティーノがノート・パソコンをいじっていたことをレギオンは思い出した。ロンドン警視庁のセキュリティ・システムを潜り抜け、また内部のコンピューターに侵入して捜査状況をチェックしていたのだろう。

「カーイはここしばらく新しい殺しはしていない。今の所、狩りをする時のルールにちゃんと従って、自分の痕跡はうまく隠滅している。我々も影ながらフォローしているしね。そう簡単に警察がカーイの尻尾を捕まえられるとは思わないが…」

「こんな無茶な殺しを続けていたら、いくら用心したって、警察の目をくらまし続けることは不可能だよ。現に、彼らはスルヤに接触までしているんだから…」

「う…む…」

「現状を考えれば、カーイは今のうちにやはりロンドンから離れた方が無難だと思うんだけれどね」

 レギオンは弱り果てたような顔でサンティーノを見やった。

「遠まわしに私をせっつくのはやめてくれないかな。しかし…どうしたものかな…少なくともカーイにこれ以上の殺しはさせない方がいい。警察の目を引かぬよう、おとなしくしてもらわないと…」

「だが、そろそろ彼は飢えてくる頃かもしれないよ」

 レギオンは首筋にくすぐったいような感触を覚えて、手でさすった。

「ああ、そうだな」

 カーイのいかにも情の強そうな顔を思い出して、レギオンは少し意地悪な気分になった。

「うん、それなら、やはり、もう少し待とう。飢えに駆られたらカーイはきっと私のもとにやってくるよ。私の血の味を覚えたら、行きずりの人間達を無差別に殺して奪うなんてぞっとする吸血行為は二度とできるものか」

「おやおや、随分自信があるんだね、レギオン」

 また少し不機嫌そうなサンティーノにレギオンは手をひらひらさせると、近くに路上駐車していた車の方へ先に歩き出した。

(自信なら、あるさ。私はカーイの考えることなら手に取るように分かる)

 カーイはきっとレギオンには頼るまいとぎりぎりまで飢えと戦おうとするだろう。無駄と分かっているくせに、全く、今も変わらず小憎らしいことだ。

 カーイの反抗は可愛らしいものだが、時にはレギオンを残酷な気分にさせる。

(私は、もう以前のように君にわざわざ血をあげに行くような親切なことはしないよ、カーイ。今度は君が、私を求めてやってくるんだ。私の血の誘惑を君は拒めない。私の魅力にも逆らえない。最後には君は必ず私に屈服する)

 その上で、サンティーノの望みどおり、カーイを改めて仲間に引き込むのもいいだろう。

 レギオンは緑色の瞳を妖しく光らせながら、獲物を残酷な前足でなぶる猫のように唇を舌で舐めた。

(だが、それも、その時の私の気分次第だがね)





 その頃、ロンドン警視庁捜査課C1―。

 連続吸血殺人事件を担当する部署は、この日、フランス警察から入った新しい情報ににわかに沸き立った。

「名前はジャン・フランソワ・ヴェルヌ。資産家の息子で、南フランスのニースに在住する絵描きです。旅好きな男で、半年程前からまたふらりと旅行に出かけていたそうです」

 メールで送られてきた資料をプリントアウトしキースに見せながら、ネイサンの後を任された刑事ピートが続ける。

「一旦旅に出ると家族や友人にあまり連絡を入れることは普段からなかったので、彼が本当に行方不明になってしまったということに気がつくのが遅れたようで…クリスマスの時期になっても何の連絡がないことにようやっとおかしいと気づいた家族が警察に捜索願を出したんですね」

 資料の中のヴェルヌという男の写真を見て、キースは重々しく頷いた。

 間違いない。Aホテルで死体となって発見された、最初の犠牲者だ。

「この男がロンドンに入ったのは10月の初め頃だ。消息を経ってからロンドンで遺体となって発見されるまで、どこにいて、どういう経緯でイギリスに入国したのか調べる必要があるな。この男に家族や友人とは違う不審な人物が近づいた形跡はないかもー」

「ニースに人をやって、現地の警察にも協力してもらいヴェルヌの周辺を調査しますか?」

「そうしよう」

 部下の提案にキースは即座に許可を出すと、指示を待ち受けている別の部下に向き直った。

「ヴェルヌの入国記録を空港及び航空会社に問い合わせてくれ。彼は1人でイギリスにやってきたのか…あるいは、その時既に連れがいたか…」

「ヴェルヌ氏はホテルに誰かと一緒に宿泊していた。宿泊名簿が紛失していたため、何者であったのかは分からないけれど、もしロンドンにやってきた時に連れがいたなら、その人物がホテルにも宿泊した可能性は大きいということですね」

 ピートがキースの後を引き受けるように続けた。

「そういうことになるな」

 一瞬活気を帯びた部下達をキースは冷静な態度を崩さず眺め回した。

「ともかく、今まで身元不明だった被害者が何者であったか分かったのは大きな進展だった。だが、肝心の容疑者を突き止めるまでは気を抜くな」

 容疑者。ここまで来てやっと、影も形も見えなかった犯人の切れ端が手の届きそうな場所に現れたようで、仲間を殺され、なかなか進まない捜査に焦りを覚えていた刑事達の顔に明るさが蘇ってきた。

 それへキースは更に檄を飛ばし、細かい指示を幾つか与えた後、ひとまず部下達を解散させた。

(ここに来て、やっと犯人に近づく手がかりが見つかりそうだ)

 短い会議の後、1人デスクに座って手に入れた資料を眺めながら、キースはふと感慨に捕らわれた。

(ネイサン、おまえがここにいたら、さぞかし喜び勇んで仕事に駆け回っていただろうな)

 キースの顔に一抹の寂しさがよぎったが、感傷的になるのはまだ早いと彼はすぐに気持ちを現実に引き戻した。

「ネイサン、おまえをゆっくり悼んでやるのは事件が解決してからだ」

 深い吐息をついて、キースも自身の足で捜査を続けるためにデスクから力強く立ち上がった。


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