愛死−LOVE DEATH−

第二十七章 愛すること、生きること


 冷たく張り詰めた朝の空気の中に出て行ったスルヤは、瞬間小さく身震いをしてコートの襟を詰めた。

 その様子を窓から目を細めるようにしてカーイが見下ろしているうちに、恋人は家から離れていく。

 振り向いてくれるかと少しは期待したのだが、スルヤはカーイの視線には結局気づかなかった。

 2人の心が以前のように通い合わなくなった証拠とまでは、神経質になっているカーイもさすがに考えなかったが、何となく寂しかった。

 遠ざかっていく愛しい人の背中を切ない眼差しで追いながら、カーイは喉の奥にざらついた渇きを覚えて唇を舐めた。

(ああ、やっぱり、飢えは戻ってきてしまった)

 レギオンの血の効力はカーイに束の間生気を取り戻させてくれたが、彼の予言どおり、それも期待したほど長続きはしなかった。

(最後に行きずりの犠牲者から奪って、そろそろ一月…これまで、あのぞっとする狩りをしないですんだのは、それでも、レギオンのおかげと言えるけれど…)

 このまま飢えがつのれば、スルヤの身代わりに、また他の誰かを殺さなければならなくなる。

(もう、あんな悲惨な殺しはしたくない…生きるために必要と思えば狩りも続けられるけれど、本来ならば殺さずにすむ命まで奪って…しかも、それが飢えを一瞬紛らわせるに過ぎず、結局私の体を傷つけ弱らせていくだけとあれば―)

 カーイは怖気づいたように微かに身を震わせた。

(ブリジットは、決してこんな殺しを許さないだろう。彼女はちゃんと狩りの意味をわきまえていた。それは、他の生き物の命を我が身に取り込んで、犠牲になったものの分まで強く生きるということなのだ。私がしているのは、意味のない、ただの殺戮にすぎない)

 ヴァンパイアとしての力に酔っていた子供の頃ならば、殺し自体をゲームとして楽しむこともできたが、そうするにはカーイは年をとりすぎ、おそらくサンティーノの言うとおり人間に近くなりすぎた。

(どうすればいい…これ以上の犠牲者を出したくないのなら、やはり…私が今飲むことのできる血といえば、他にはレギオンの血しかない…)

 カーイの麗貌が葛藤のあまり歪んだ。

また血が欲しくなったら、いつでも私のところに来るといい。愛は惜しみなく与う―君が求めるだけ、私はあげるつもりだよ』

 いつかカーイが再び自分のもとに戻ってくることを確信しているかのようなレギオンの口ぶりを思い出して、カーイは激しい抵抗を覚えた。

「駄目です…レギオンのもとになど、私は行かない…彼には頼らない」

 飢えを覚える度にレギオンに血をもらい、それに慣らされていくうちに、気がつけば身も心も彼に取り込まれているなどということになりかねない。レギオンは、やはり危険な男だ。

 それに、誇大妄想気味なサンティーノが語った計画とやらにも、カーイは係わり合いになりたくなかった。あの話には彼が明かさなかった裏がまだありそうで何やら胡散臭い。やはり、あの2人とはこれからも距離を置いて付き合った方がよさそうだ。

「スルヤ」

 この飢えをどう処理するか考えるのはひとまず置いて、カーイは再び恋人の上に思いを戻した。

 スルヤとの間は相変わらずぎくしゃくしていた。

 お互いが相手を気遣いすぎるあまり、言葉を交わすにも接し方にもどこか不自然さが出てしまい、2人で過ごす大切なひと時を気詰まりなものにしてしまった。

 夜、2人のベッドで寄り添いあって眠る時も、互いの肌が触れ合う程に近くに体はあるのに心は遠い恋人に、カーイは寂しさをつのらせるばかりだった。

(こんな状態には私は耐えられない…必死で守り続けた恋をこんな形でなくしてしまうくらいならば、いっそ何にもかもスルヤに打ち明けてしまった方がまだましかもしれない)

 カーイは一瞬、ほとんどその気になりかけた。

 しかし、抱え込んだ秘密の深さ、罪の大きさを思う時、スルヤにどんなふうに話せばよいのか、どうすれば分かってもらえるのか、カーイは上手な言葉も態度も思いつかず、思考停止してしまうのだ。

(いいや、こんな忌まわしい秘密を打ち明けて、スルヤが私を許し愛し続けてくれるなどと期待してはいけない。真実を知らせた時私はスルヤを失うのだと覚悟しなければ―)

 そこまで突き詰めて考えると、カーイは頭がぐらぐらと揺れ始めるのを覚え、恐怖に足がすくんだ。

(ああ、でも、もしかしたら、それが全てを解決する唯一の方法かもしれない。私は、いっそスルヤに憎まれた方がいいのかもしれない。スルヤをだまして近づいた怪物、彼の親友ばかりか他の多くの人を殺した恐ろしい殺人犯…そうして彼が私を憎むようになれば…そう、ヴァンパイアは自分を愛する者からしか飲めない…スルヤが私をもはや愛さなくなれば、私はスルヤの血への渇望からもたぶん解放されるのではないだろうか…。ああ、そうなればスルヤは救われる。私の餌食になることもなくずっと安全に生きていられる…)

 カーイの混乱した頭に一瞬希望の光が差した。しかし、それはすぐに寒々とした暗い雲に覆いつくされた。

(それでは、スルヤを失った後、私には一体何が残るのだろう…孤独と絶望に満ちた無限の時間だけ。せっかく見つけた私の家なのに…またしてもなくして、私はどこに行けばいいのだろう…)

 サンティーノが提供してくれる安易な避難場所になど素直に身を預ける気にはカーイはなれない。それほどに、スルヤとの生活にカーイは依存してしまっている。

(ここに、いたい…)

 考えることに疲れ果ててしまったカーイは、悄然とうなだれたまま真っ白な百合の花が至る所にふんだんに活けられた屋根裏部屋を横切ると、スルヤと一緒に使っているベッド代わりの大きなマットレスに倒れこんだ。

「私の家」

 カーイは目を閉じた。 

「せっかく掴んだ幸せなのに、またしても私の指の間からすり抜けていってしまうのか」

 はかなくもろい微笑がカーイの唇に浮かんだ。

「ブリジットがいなくなってしまった時のように…」

 その名前を口にしただけで蘇ってくる甘く優しい幸福感にカーイの胸は塞がれ、そして、引き裂かれる。

(一体何年生きれば、どこまで行けば、もう一度貴女の所に辿りつけるのだろう…そう、永遠に私は探し続ける、私をどこかで待つ、あの安らぎに満ちた、家…)

 カーイはいつの間にか眠り込んでしまったようだ。浅い夢の波間に漂いながら、彼はいつしか探し求める者の懐かしい姿を蘇らせていた。

(ああ、ブリジット…お母さん…)

 カーイは、これが夢だということを意識していたが、それでも彼女の姿を見ることができて嬉しかった。

 ブリジットは、飾り気のない青いドレスの上に波打つ銀色の髪を自然のままに垂らして、暖炉の傍の揺り椅子に座って胸に抱いた赤ん坊をあやしている。

 幼い頃の自分だとカーイはすぐに悟った。

 赤ん坊を見下ろすブリジットの顔は、温かな幸福と安らぎに満たされ、至上の愛に照り輝いている。自分と同じ顔であるはずだが、今のカーイには及びもつかない、こんなにも美しいものを見たことがないとさえカーイは思った。 

(ブリジット、あなたはどうして…そんなふうに幸福に笑っていられたんですか…私と同じ…いいえ、もっとずっと長い時を経てきて、その分だけ絶望も苦悩も経験してきたはずなのに、私が覚えているのは、幸せだというあなたの言葉と、それが嘘じゃないとすぐに分かる温かな微笑み…)

 カーイは、ふいに、ブリジットが残した最後の言葉をまざまざと思い出した。

(幸せよ…愛しているわ…)

 たちまち噴き出した悲しみの奔流にカーイは圧倒されたが、それでも、そこから語りかけてくるブリジットの言葉は彼を優しく抱きしめてくれた。

(私は、愛という贈り物をあなたに与えました。例えどんなに長く生きても、どれほどの力を持っていても、何も愛さず生み出さず、石のようにただそこに存在するだけであったなら、私の生はどんなにか空しいものだったでしょう。けれど、私は愛した。そして、あなたを造った。カーイ、そして、あなたも私に、あなたという最高の贈り物をくれたのよ)

 では、ブリジットをかくも愛に満たした存在にしたのは、他ならぬ自分の存在であったのか。彼女が長い生の最後に手に入れた最高の贈り物が、ただ1人の我が子カーイだったのか。

(私はあなたがうらやましい、ブリジット…あなたは、ちゃんとあなたの家を見つけていた。そこで最期を迎えることができた)

 彼女は、カーイの知る限り、ヴァンパイアに付きまとうあらゆる業を超越していた。彼女は飢えることさえなかった。血を絶つことに成功したがゆえに最後には滅んだブリジットではあったが、それは死というよりも、ただ肉体のくびきを離れて別のステージに昇っていったような印象さえあった。

 そうして、殺すものと殺されるもの、命あるすべての存在に等しく向けられた愛が彼女を超然とした生ける女神としていた。

 何もかもが、カーイにはとても太刀打ちできなかった。彼女の到達した高みに登ることなど、どれほどの時間を重ねても不可能な気がした。

(いや、私はそもそも生き方を間違えているから、こうなったのかもしれない…)

 しかし、それではどうすればいいのかなど、やはりカーイには分からない。

(何のために永遠を生きるのか、一体どこをどう目指していけば、ブリジットが見つけたような終着地にたどり着けるのか…)

 単純にブリジットの生き方をまねようとしても、それこそカーイには全く意味がない。カーイは自分自身が手に入れようとあがき悩みぬいた末に辿りついた答えでなければ、納得できない性質だ。

 親子ではあっても、カーイはブリジットとはこれほどに違う。きっと、そんなカーイが見つける終着地は、ブリジットとはまた違ったものになるはずだ。

(第一、男性である私にはブリジットのように我が子を産んでそれを愛することなど逆立ちしたってできない…ただ、あんなふうに心を向けられる対象が私にもあれば―)

 カーイは再びスルヤのことを思った。

(もしも、私がいつかスルヤを失うとしたら―彼が命に限りのある人間であれば、それは避けられない運命で…考えてみれば大差ないことなのかもしれない。今ここでスルヤに別れを告げられるのも、何十年か先にスルヤに先立たれてしまうのも―結局、私は1人になるしかないのか) 

 カーイは夢の波間から我が身を無理やり引き上げると強烈な寒気を覚えたように激しく身震いした。

(スルヤをただ失って独りきりで取り残されたくはない…私はもうそんな孤独に耐えられるほど強くはない。どうしても永続させる術などないのなら、せめて何か、この恋の形見となるものが欲しい…)

 急に、焦燥感にも似た思いにカーイは駆られ、募ってくる恋しさから、震える声でここにはいない恋人を呼んだ。

「スルヤ」

 何と言うことだろう。

 カーイの恋人は人間であったのに、彼との恋にいつか終わりがくることにすらカーイは思い至らなかった。同じ時間をずっと一緒に歩いていけると漠然と感じていた。

(やっと見つけた家…スルヤとの恋を私の終着地にしてしまいたいのに―それも束の間の避難場所に過ぎず、この上私はまだ探し続けなければならないのか…一体いつまで―?)

 終わりのない夜などないと言い切ったのはレギオンだったが、果たしてそれは本当だろうか。この苦しみが晴れる時などくるのだろうか。

 ブリジットが最後に見出したような安らぎとは縁がなく、スルヤとの恋の先行きにも希望を見出せず、カーイを捕らえこんだ闇はまだあまりにも深かった。



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