愛死−LOVE DEATH−

第二十六章 すれ違う心


 硬質なまでに白く滑らかな首筋を指先でなぞり拍動に合わせて震える血の飲み口を押さえると、触れた箇所から熱い血の囁きが伝わってくる。

 飲み干して欲しい。

 レギオンは渇きを抑えかねたかのように唇を舌で舐めると、目の前におとなしく差し出された首に優しげな口付けを落とした。

「サンティーノ?」

 念のために、レギオンは確認をするが、相手はレギオンに感情を見せることを厭うかのごとく頑なに顔を背けている。

 レギオンは少しむっとした。

(それなら、勝手にしろ)

 レギオンはやにわに白い牙を剥き出すと、一思いにサンティーノの首に噛み付いた。

「つっ…」

 反射的に跳ねる体をレギオンは捕まえ、大きなソファに上に押し付けた。

 どっと口の中にあふれ出した芳醇な血。その甘く濃密な味と香りに恍惚となりながら、レギオンはようやくありつけた最高のご馳走をがつがつとむさぼった。

 カーイに気前よく血を与えすぎたせいで、当然のごとくレギオンは貧血状態に陥った。仕方なく、当座のしのぎにとバーで誘惑し瞬く間に虜にした女から奪ったが、レギオンの必要を満たすにはまだ足りなかった。

(あんまり時間が足りなかったからな…本当なら最低一月は可愛がって血の味わいが増したころに奪うんだが、今回ばかりは―)

 無計画な狩りをして、それではカーイと大差ないとサンティーノに叱られたが、レギオンはあれについては後悔していない。

『あんまり可哀想だったんだから仕方がないじゃないか。私の可愛いカーイがあんなにげっそりとやつれているのを見たら、優しいもと恋人としては放っておけないよ』

 いけしゃあしゃあと主張するレギオンをサンティーノは初めはただ冷たい目で見ていたが、そのとばっちりが自分に回ってきたと分かると、さすがに顔色を変えた。

『飲ませてくれだって?! どうして僕が君に血をあげなくてはならないんだ?』

 それでも、結局『まだ食い足りない』レギオンに拝み倒されて、サンティーノは彼に血を提供する羽目になっている。

 レギオンの頼みは、たとえどんなに理不尽なものでも、サンティーノは断りきれない。昔からそうなのだ。

(やはり、サンティーノの血は最高だな…昨夜奪った女などとは比べ物にならない、芳醇の極みだ。何しろ500年も熟成された血だからね)

 サンティーノは持ち前の忍耐強さでレギオンの死の抱擁を受け止めていた。だが、レギオンが一向に己の上から退こうとしないことに、ついには控えめな抗議の声をあげた。

「レギオン、時間切れだ。約束の3分は過ぎたよ。もう、どいてくれ」

 飲んでもいいが3分だけ。そんな条件を、サンティーノは確かに言っていた。

 腕時計を指し示し、サンティーノは己の上にのしかかるレギオンを軽く揺さぶったが、レギオンは聞こえない振りをした。

(うるさい、時間のことを言うなんて無粋な奴め…)

 レギオンはしつこくサンティーノの肌に牙を食い込ませようとしたが、その瞬間、頭を何か硬いもので殴られた。

「いい加減にしてくれ、レギオン」

 テーブルの上にあったずっしり重いクリスタルの置物を振り上げたまま、サンティーノは冷めた口調で言って、もう片方の手で襟元を直した。

「けちけちするなよ」

 殴られた頭を痛そうに押さえながら不満げに唇を尖らせるレギオンを押しのけて、サンティーノはソファから起き上がった。

「あのね、君に血をあげすぎると今度は僕が飢えて不必要な狩りをしなくてはならなくなるんだよ。僕が君のようにあれをすることを好んではいないことを知っているくせに、無責任な奴」

 レギオンに背中を向けたまま、サンティーノは疲れたような吐息をついた。細い肩越しに微かに見えた頬は吸血行為がもたらした昂揚のためうっすらと色づいている。

 サンティーノは誰かに聞かれることを恐れるようにふと声を低めて付け加えた。

「それに、いざ血を奪うために犠牲者を殺す段になると、僕の心の隙をついてまたあいつが出てくる可能性がある。あいつは殺しなど平気なばかりか、好きだからね。せっかくここしばらくは鳴りを潜めてくれているのに、あいつが一端活動し始めたら、僕には抑えられる自信などないよ」

 サンティーノがほのめかした彼に付きまとう不吉な影を思い出して、レギオンは神妙な面持ちになった。

「そう言えば、ロンドンで君と再会してから、いつあいつが出てくるかとしばらく構えていたんだが、一向にそんな気配は感じられないな。実際、最後に見たのはいつだったか…もうずいぶん長い間、私はもう1人の君とは会っていないよ」

 レギオンは鮮やかな緑色の瞳を物思わしげに翳らせながら、じっと俯いて考え込んだ。

「でも、君の代わりにバレリーという少女を殺したのはあいつなんだな。それに、危うくカーイとも衝突しかかった…」

 サンティーノはテーブルを挟んでレギオンの向かい側のソファに腰を下ろすと、ふと優しい目になってレギオンを見つめた。

「僕もなるべくあいつにこの体を乗っ取られないよう用心しているからね。それに、あいつは君が苦手なんだよ、レギオン。君の放つ光の前では、僕の中の暗黒も力を失うのかな」

 サンティーノの静かな声にこもった憧憬。

 レギオンは思わず顔を上げたが、サンティーノは彼の視線を避けるように頭を傾け、リビングの広い窓を眺めやった。

 今日は朝からぐずついた天気で、冷たい小雨が降る街に出かける気にもなれず、レギオンとサンティーノはそれぞれ本を読んだりインターネットで遊んだりして、時間をつぶしていた。

「レギオン、そう言えば、僕が渡したカーイの画像が入ったディスクはどうしたんだい?」

 雨に曇った窓をぼんやりと見やりながらつぶやくサンティーノに、レギオンはあっさりと答えた。

「ああ、あれか。スルヤにあげたよ」

 サンティーノは弾かれたようにレギオンを振り返った。

「スルヤに? また、随分と思い切ったことをしたものだね」

 呆れ返るサンティーノにレギオンは軽く肩をすくめてみせた。

「私が持っていても仕方がないからね。それに、作った人間の意向を考えれば、やはりあれはスルヤが持つべきだ」

「でも、カーイが知ったら、きっと怒り狂うよ。彼としては、スルヤの手には決して渡らせたくなかっただろうに。あれを見れば、スルヤは、カーイとスティーブンの間に何かあったのだと感づくだろう。必死になって取り繕っていた嘘をこんなに簡単に壊されて…気の毒に―」

「おや、君は私がこうするだろうと予想していたんだろう? 私ばかりを悪者にするなよ、ずるいぞ」

 すると、サンティーノは猫のように銀灰色の目を細め、赤い唇の端を吊り上げた。

「カーイのためを思ってのことさ。君という劇薬が彼の病気には一番効果があるんじゃないかと気を回しただけだよ」

 レギオンも端正な唇に皮肉っぽい笑みをうかべた。ソファの肘掛に肘をつき、顎の辺りを黄金の義指で撫でながら、まだ口の中に残る甘い味に喉を上下させた。

「カーイも早く我々がたどり着いたステージにまで上ってこられればいいのだが。苦しいのは今のうちだけで、あの熱病もいつかは冷めるに決まっている。そう、いずれカーイが落ち着いたら、君も入れて3人で、しばらく旅をしてもいいな。昔のように気に入った街が見つかればしばらくそこに滞在し、共に狩りをして―」

「3人だけじゃなくて、他の同族の存在も考慮に入れてくれよ、レギオン。君はすぐに忘れてしまうんだね」

「ああ」

 たしなめるような口ぶりのサンティーノに、レギオンはあまり気のなさそうに答えた。

「他の仲間か…そうだったね…」

「レギオン…」

 サンティーノが続けて何か言いかけた、その時、電話が鳴った。

「僕が出るよ」

 レギオンはすぐに興味をなくして、思い出したようにテーブルの上から読みかけの本を取り上げた。

「…ああ、構わないよ、取り次いでくれ―」

 誰からだろうと思う間もなく、ホテルのフロントから電話をかけてきた相手に通話は切り替わった。瞬間、レギオンにも聞き覚えのある怒鳴り声が受話器の向こうから聞こえてきた。

 サンティーノは一瞬顔をしかめて受話器を耳から遠ざけた。

「カーイか?」

 ちょっと驚いて身を起こしかけるレギオンを手で制し、サンティーノはあくまで穏やかに、興奮気味の相手に話しかけた。

「やあ、カーイ。どうしたんだい、いきなりそんなに声を荒げたりして…何を言ってるか分からないよ。頼むから、少し落ち着いてくれないかな…えっ、今から…?」

 サンティーノは少しひるんだようだ。

『電話で言って分からないなら、今すぐにそっちに行ってやりますとも。あのろくでなしには、どこにも逃げ隠れなどせずにそこで待っていろと言っておきなさい!』

 カーイの罵声を漏れ聞いたレギオンの眉間に深いしわが寄った。

「カーイ、ちょっ、ちょっと…」

 戸惑うサンティーノが重ねて問い返そうとする間もあらばこそ、カーイは受話器を叩き付けるようにして一方的に通話を断ち切ったようだ。

「カーイが、ここに来るのかい?」

 ソファに座りなおしてうきうきした口調で尋ねるレギオンに、サンティーノは不機嫌そうな仏頂面を向けた。

「どうして君の代わりにこの僕が怒鳴りつけられなければならないのかな、ろくでなしのレギオン?」

 反省の色もなくにやにやと笑っているレギオンを見て、サンティーノは溜め息をついた。

「スルヤにディスクを渡したことが早くもばれたんじゃないのかい? 全く、あんなにカーイを怒らせるなんて…やっぱり君は少しやりすぎたんだよ。カーイがこれきり、僕達に対する信頼を全て失ってしまったら、彼を僕達の計画に引き入れることなど、とてもできなくなってしまうよ。せっかく、ブリジットの忘れ形見を見つけたというのに…」

 レギオンはサンティーノの抗議を無視して立ち上がると、こちらに近づいてくる彼の脇をすり抜け受話器を取りあげた。

「カーイがやって来るなら、せっかくだから、ここで楽しくパーティーをしようじゃないか。ルームサービスで上等のシャンパンや料理を準備させて…ああ、彼にあげる薔薇の花束を花屋に注文しようかな」

「カーイが振り回して暴れても大丈夫なように棘は取っておいてもらうんだね、レギオン」

 赤い唇に揶揄するような笑みをうかべてレギオンの前に回りこむと、サンティーノは、うるさそうに手を振るレギオンの顔を間近に覗き込んだ。

「何しろカーイは大層な癇癪持ちだ。失われた我らが女神とは、その点大きな違いだよね」

 レギオンは苛立たしげに眉根を寄せると、まだ何か言いたげなサンティーノの胸に指を突きつけた。

「カーイはブリジットではないのだから、そんな比較をしても仕方ないじゃないか」

 サンティーノは我に返ったように瞬きし、それから少し寂しげな顔になった。

「そうだね」

 レギオンは邪険にしてしまったことを後悔して、サンティーノの肩に手を置こうとした。

 しかし、サンティーノはその手をそっと払いのけてレギオンから逃れるように身を離すと、広い窓の前に立って、霧のような細かい雨に煙る街を眺めるふりを装った。

 レギオンは、そんな親友の固く閉ざされた背中を、彼らしくもない迷いと躊躇いに揺れ動く瞳でじっと眺めていた。





 専用のエレベーターで二人が宿泊しているスイートまで上がってきたカーイを出迎えたのは、レギオンの明るく無責任な笑顔ではなく憂鬱そうなサンティーノだった。

 これがレギオンなら、顔を見たら即、胸倉を掴んで振り回してやらんばかりに頭に血が上っていたカーイも、冷ややかなサンティーノの応対にむしろ出鼻をくじかれた。

「さっきはわざわざ電話をありがとう、カーイ。ああ、やっぱり以前に会った時よりも顔色がよくて元気そうだね。あんまり空腹なのを我慢しすぎるものではないよ。他人に迷惑をかけることになるからね。実際、君があんまり意地汚くレギオンの血をがっついたものだから、そのとばっちりが回り回って僕のところに来てしまったよ」

 目の下に薄っすらと隈を作ってどことなく億劫そうなサンティーノに、カーイはとっさに何と言えばいいのか分からなくなった。

 それに、部屋の中に微かに残っている、この香りは血ではないか。

「サンティーノ…あなた、まさか…?」

 ピンときたカーイが追求しようとした時、サンティーノの後ろから晴れやかで上機嫌そのものの声が聞こえた。

「サンティーノ、何をしているんだ、早くカーイを奥に通してやれよ」

 瞬間顔を強張らせるカーイにサンティーノは素早く釘を刺した。

「レギオンがああいう男だとは、君も僅かとはいえ付き合ったことがあるのなら知っているはずだろう。いちいち真剣に相手をしていたら、自分が疲れるだけだ。いいかい、君も大人なら、ここで癇癪を爆発させて暴れるなんてみっともないことはやめてくれよ」

 カーイはぐっと詰まった。サンティーノの言葉にはいちいち棘がある。

「分かっています…」

 自殺未遂にまで追い込んだことのあるサンティーノに対する諸々の後ろめたさも手伝って、カーイはおとなしくならざるをえなかった。

(やっぱり、私はこの男は苦手だ…。何を考えているのか、よく分からないし…私のことは色々あってたぶん嫌っているのだろうけれど、それなのに、私の去就を随分気にして、何かと関わってこようとする…一体どういうつもりなのか)

 洒落たデザインの広々としたリビングにカーイが足を踏み入れると、部屋の隅のオーディオ・セットから流れるピアノ曲の音量を調節していたレギオンが彼を振り返った。

「思ったよりも早くついたね、カーイ」

 親愛の情のこもった笑顔をカーイに向けてくるレギオンには、悪びれる気配など微塵もない。

 カーイは込み上げてくるものを抑えかねて、ぎりっと歯を食いしばった。

「どうしたのかな、そんな怖い顔をして、せっかくの美貌が台無しだよ」

「白々しい言葉を…!」

 サンティーノの警告など瞬間的に忘れ去って、カーイは目にもとまらぬ速さでレギオンに掴みかかった。

「あなた、一体スルヤに何を言ったんです?!」

 その辺りにあった椅子や小卓を蹴散らしながら、カーイは、自分よりも長身の相手を紙でできた人形のように振り回し、物凄い勢いで壁に打ち付けた。

 これが人間なら背骨を粉砕されていたかもしれない。カーイの細腕によってピンでとめられたような格好のレギオンはといえば、軽い咳を1つしただけだ。その後ろで壁がみしと不穏な音をたてる。

「落ち着きたまえ、カーイ」

 カーイの激昂振りを目の当たりにしても、レギオンにはまだまだ余裕があった。

「一方的に責められても私には答えようがないよ。何があったのか、まずはちゃんと話してくれないか」

「よくも、そんな…空とぼけるのはやめなさい…!」

 怒りのあまり声を震わせるカーイの肩に、その時誰かが手を置いた。

「サンティーノ」

 肩越しにカーイが振り返ると、一瞬その存在を失念していた、黒髪のヴァンパイアが影のように静かに立っていた。

「そこまでだよ、カーイ」

 サンティーノの物腰は非の打ち所のない優雅さだが、その煙るような銀灰色の瞳には何やら物騒な光が灯っている。

「いいかい、ここには君よりも遥かに年経たヴァンパイアが2人いる。レギオンが君に甘いのは、彼が君に好意を抱いているからであって、そんなしがらみのない僕までも本気で怒らせるのは懸命ではないよ」

 この挑発にカーイは眉を逆立てたが、サンティーノの手がなだめるような素振りでさり気なく頭に置かれたのに、言いようのない不安を覚えて瞬きをした。

「サンティーノ、よせ…!」

 レギオンが何やら切迫した声で囁いた。サンティーノはちらっとそちらを眺めやった。

「…とにかく、レギオンと僕と君、せっかく3人がそろう機会を持てたんだから、お互いもう少し建設的な話をしよう。カーイ、君は少し頭を冷やせ。それからレギオンも、人の真剣な話を茶化すのは年長者として誉められた態度ではないよ」

 サンティーノに場を仕切られるのは何となく癪に障ったが、仕方なく、カーイはレギオンを締め上げていた手を下ろした。

 苦しげに胸を押さえて息をついているレギオンからカーイが離れると、サンティーノが入れ替わるように彼に近づいて心配そうに何事か囁きかけた。その様子を、カーイはいぶかしげにじっと観察した。

 レギオンとサンティーノは彼らがごく若い頃から付き合いのある友人同士だと聞いていたが、ただの友達にしては幾分親密すぎないか。

 頭をかすめたそんな疑念を、しかし、カーイは取りあえず脇に押しやった。

「あなたが現れてからというもの、スルヤの様子が変なんです。私に何かを隠している…けれど、もともと嘘のつけない性質のスルヤのことですから、うっかり秘密を漏らしてしまわないようするためには、どうしても私に対して余所余所しくするしかなくて、ああいう態度を取っているのだろうと思うんです」

 パーティーのように盛り花で飾り付けられたリビングのテーブルに身を落ち着けて、ようやくカーイはとつとつと語りだした。雪華石膏のごとき指先は、レギオンからもらった赤い薔薇の花びらを手慰みにむしっている。

「私は、つい我慢できなくなって、スルヤを問い詰めました。そうしたら、スルヤは…あの人は私を愛していると言ってくれました。でも、私の方はあの人を信じてはいないと。…スルヤは私に心を開いて欲しかったんです…あの人にだけは言えない暗い秘密を抱えた私に…。そう、やっぱり私は何も告げることができませんでした。いっそ打ち明けてしまったら楽になれたかもしれない、ああ、でも、駄目なんです。スルヤは、それなら私に信頼してもらえるよう努力するからとだけ言って、後は何事もなかったかのように振舞うばかり…無理をして明るく話をしようとするスルヤが、私には痛々しくて―」

 目の前のクリスタルのグラスになみなみと注がれたシャンパンの泡を眺めながら、カーイは肩を落として悲しげな吐息をついた。

「君の信頼を勝ち取るよう努力する、か…スルヤらしい言葉だね」  

 レギオンはシャンパンのグラスを手に考えに沈みながら呟いた。

「けれど、結局スルヤは、その隠し事について君に肝心なことは何も話してはくれなかったんだね」

 カーイが力なくうなずくのを確認し、レギオンは首を巡らせて傍らのサンティーノを見やった。

 2人がさり気なく目配せしあったのを、己の想念に深く捕らわれたカーイは気がつかなかった。

「それで、スルヤの態度の突然の変化の理由について私が何か知っているに違いないと、ここに乗り込んできた訳だ」

 レギオンは真面目な顔をして、おもむろにカーイに向き直った。

「でもね、こんなことを言いたくはないけれど、一番の原因はといえば君自身だよ、カーイ」

 カーイは顔を上げて反抗的な目でレギオンをにらみつけたが、一瞬後には力をなくしてしおしおと打ちしおれた。

「君のスルヤに対する今までの態度を思い出せ。これまでよく彼が我慢していたものだと思わないか?」

 カーイが一番避けて通りたかった事実をレギオンは的確に指摘した。

 そう、スルヤのよそよそしさに取り乱す前に、カーイは、自分がどれだけ長く彼に対して不実であり続けたのか自覚するべきなのだ。

「私と会っていた時も、スルヤが気にかけているのは君のことばかりだったよ、カーイ。君を責めさいなんでいる苦しみは、彼をも苦しめている。悩みを打ち明けて欲しいと望んでも、それをひどく怖がって、追い詰められた目をするばかりの恋人に、スルヤはずっと途方にくれていたんだよ。スルヤはでも、正直で誠実な子だ。私から君の秘密を聞き出すことは簡単だが、実際彼はそうしなかった。君が自分を信じて全てを話してくれるのでなければ、本当に君の助けなり支えになることなどできはしない。だからこそ、彼は今、君の信頼を勝ち取るために必死なんだよ」

 スルヤの擁護などしてカーイの彼に対する仕打ちをなじる構えのレギオンを、サンティーノは何やら唖然として見ている。

 いつの間にか話をすりかえられていることになど、しかし、レギオンの鋭い追求に痛いところを突かれたカーイは気がつかなかった。

「それは…確かに、その通りです、でも…私には他にどうすることもできなかったんです。たとえ嘘を嘘で塗り固め続けなければならなくても…スルヤの愛情を失うよりかは―」

 守ろうとするかのごとく我が身に腕を回して、自分自身に言い聞かせるような口ぶりで言い訳をするカーイを、レギオンは容赦のない言葉の鞭で打擲した。

「君とスルヤの絆はそんなにあっけなく打ち砕かれてしまうような脆いものなのかい。君が、あんなに多くの犠牲を払っても守り抜こうする恋は、所詮その程度のものか。巻き添えをくらって死んだ人間達が浮かばれないぞ。埒もないことをぐちゃぐちゃ言うためだけにここに来たのなら、私はもう知らん、さっさと君の大事な家とやらに帰りたまえ」

 邪険に手を振って見せるレギオンを、カーイは、親に見捨てられ今にも泣き出さんばかりの子供のような風情で、顔を真っ赤にして見つめた。

 レギオンを締め上げてスルヤに何をしたのか白状させるつもりで来たのに、こんなふうに拒絶されたことにひどい落胆と衝撃を受けている自分に、とっさにカーイは気づいた。

(何ということだろう、これでは本当に子供の甘えのようではないか)

 カーイはひそかに臍をかんだ。

「カーイ、君は目先の悩みに深く捕らわれすぎるあまり、今自分が置かれている状況を冷静に眺めることができなくなっているんだよ。どこかに突破口を見つけないことには、君もスルヤも2人とも救われない」

 硬直状態の2人の間に、やんわりとサンティーノが割って入った。

「僕達は、仲間として君の助けになってあげたいけれど、君が今のような状態ではどうしようもない。とにかく、スルヤと君の問題に僕らは当面立ち入らないことにしたんだ。それは、君らの間のごたごたも含めて全て2人で始末をつけろということでもある。だから、今日のように怒鳴り込んでくるのは、もう、なしだよ」

 レギオンにやりこめられてすっかり毒気を抜かれたカーイは、サンティーノを凝然と見返すばかりだった。

 テーブルの上に置いた手を彼はぎゅっと握り締めた。

「確かに、私は取り乱すばかりでした…私達のことには口出しするなと言ったのは自分なのに、都合のいい時にあなた方を頼ろうとした…何て情けない…」

 自分の弱さに心底嫌気を覚えながら、花びらをほとんどむしられた薔薇の花束を脇に押しやると、カーイは手元にあったグラスを持ち上げ、一気にシャンパンを飲み干した。

「もう一杯下さい」

 空になったグラスを差し出すカーイにサンティーノは薄く微笑し、氷の詰められたワインクーラーからシャンパンのボトルを取り出して、グラスに注いでやった。

「君が大変なのは、僕もレギオンも分かっているよ、カーイ」

 慰めるようなサンティーノの優しげな声にカーイは気持ちを引かれた。

「あなたは昔から人の痛みには敏感な人でしたね、サンティーノ…狩人にしては繊細すぎると私は馬鹿にしていましたが…」

 語りながら過去の記憶を振り返って、カーイは昔のサンティーノが実際どんな人物だったのか思い出そうとしたが、なぜか確かなイメージがうかんでこなかった。

 今向き合って話をしている彼と似た、内気で控えめな印象を覚えたこともあるが、全く違う強烈で行動的な男との印象もある。どちらも同じ人物であるはずなのに、それらは奇妙なほどに異なっていて、己の記憶が混乱しているのか、昔のサンティーノは躁鬱の気があったからかとカーイは首を傾げた。

「カーイ、この間会った時に僕が話したことを覚えているかい? 僕達の仲間に君も加わって欲しいと僕は君を誘った」

 サンティーノはカーイの方に微かに身を乗り出すようにして切り出した。

「そう言えば、そんな話をあなたはしていましたね。私はスルヤを置いて他のどこにも行く気はないとすぐに断りましたが…」

「今すぐにとは言わないけれど、真剣に考えてくれないか、カーイ。やはり、同族である僕達と一緒にいる方が、人間との恋におぼれて自分を見失っている君が立ち直るにはいいと思うんだ。それに、僕達もせっかく見つけた君をそう簡単にあきらめることはできない」

 サンティーノの思わぬ熱心さに、カーイは戸惑った。

「そんなことを急に言われても…困ります。私はブリジットとレギオン以外の同族と共同生活をしたことなど、ほとんどないんです。だから、それがいいものかどうかも分からない。正直言って気が進みません…大体、何のためにそうまで強く私を誘うんです…?」

 不得要領に答え、カーイは助けを求めるようにレギオンに目を向けたが、彼はこの話には興味がないのか、腕を組んで天井を見上げたまま、何も言おうとはしない。

「確かに、若い君には想像もつかないかもしれないね。でも、はるかな昔には、この地上にもっと大勢のヴァンパイア達がいたんだよ。僕やレギオンは覚えている。500年前のローマには我々血を吸う者らの集う宮廷があったんだ。世界中からやってきたヴァンパイアが、そこで交流し、血を吸う神の子としての自分を認識して、再び人間世界の中へと散っていった」

 サンティーノの語る昔話にカーイは引き込まれた。かつてローマに存在したヴァンパイアの宮廷の話ならば、幼い頃に聞いたことがあった。その宮廷でブリジットが女神として君臨していたのだと知って、子供心に誇らしく思ったものだ。

 だが、それは現実とは程遠い御伽噺だった。今は余計にそう感じる。

「現代に生き残ったヴァンパイアはあまりに数も少なくて、他の仲間を見つける術も断たれ、長い間一匹狼として世界をさ迷うしかなかった。けれど、この高度に発展した情報社会のおかげで、ようやっと各地に分散した仲間と繋がりあい、1つに結束できるようになった」

 次第にサンティーノの語ることについていけなくなってきたカーイは、落ちつかなげな指先で己の長い髪をしきりにいらった。

「そんな夢物語が、この私とどんな関係があるというんです?」

 苛立ちも露に、カーイは硬い声で問いかけた。

「僕達はこの時代に再び我々堕ちた神の子らの楽園を取り戻したいと思っている。君の言う、家のような場所だね、カーイ」

 サンティーノは美しい瞳を輝かせると、いつも憂鬱そうな彼らしくもない、希望に満ちた口調で言った。

「昔の宮廷のような場所を実際にどこかに定める必要はないと思うよ。いまや世界はとても狭くなった。互いに連絡を取り合うことも行き来をすることも実際簡単でしかも時間がかからない。同族間の強固なネットワークを作れば、ばらばらに暮らしていようとも、それはそれで組織として立派に成り立つ―」

 カーイはついに降参して、手を上げた。

「すみません。あなたが何を言いたいのか、よく分からないんですが」

 話の腰を折られて、サンティーノは少しむっとしたようだ。

「それじゃあ、子供にも分かるように説明するよ。我々一族は、人間が栄えるのとは逆にどんどん数を減らしていくばかりだ。特にここ200年がひどかった。カーイ、君は『最後の子供』だと仲間の間で呼ばれているけれど、実際そのとおりなんだよ。女神ブリジットが生んだ子供カーイの後には、新しいヴァンパイアは誕生していない」

「そうなんですか?」

 カーイはびっくりして、思わず問い返した。自分よりも若い同族と出会ったことはなく、もしかしたら自分がヴァンパイア一族の最後の生き残りではないかと疑ったこともあったが、他の同族から事実として告げられると何やら重みがあった。

「ああ、だからこそ、君は面識のない同族の間でも結構有名なのさ」

 カーイはふいに言いようのない居心地の悪さを覚えて、身じろぎした。急に肩の辺りが重くなったような気がする。これをプレッシャーというのだろうか。

「僕達が同族間の結束を今になって強めようというのは、それが我々の存続をかけた自己防衛の手段だからだよ。不死のヴァンパイアが緩やかな滅びに向かったのは、精神がもはや己の不滅性に耐えられなくなったからだ。…おそらく、あまりに数が増えすぎた人間の影響を強烈に受けてしまったのだろうね。君にも、この辺りの事情は感覚として分かるだろう? 人間社会のただ中で人間に擬態しながら生きるしか、僕達が平穏無事に生きる術はない。だが、その生活そのものが僕らの精神を混乱させ、脆弱にしてしまった。ヴァンパイアは地上に落とされた天使の末裔という伝承が我々の間にはあるけれど、それが示すように、我々の本質は霊体…肉体を供えた人間とは違う精神の生き物なんだと思う。その精神が弱るとどうなるか―」

「それは、私にも何となく分かると思います。人間のように生き、考えながら、彼らを糧として殺さなくてはならない。人間社会の中のただ1人の異端として永遠に生き続けることは、時としてあまりに辛く、寂しさに狂いそうな夜は数えきれないほどありました。そんな迷いに捕らわれる以前、驕慢な若者だった頃の私の方が、そう言われてみれば、今の私よりおそらくヴァンパイアとしての力も強かったような気がします」 

 カーイからやっと共感の言葉を聞けて、サンティーノはほっとした顔を見せた。

「カーイ、君だって、心が弱くなった時に仲間の助けが欲しいと思ったことはあるだろう? 逃げ込むことのできる避難場所、安心して心の傷を癒すことのできる、そう君の家だよ」

 畳み掛けるように訴えるサンティーノにカーイはあいまいに頷いた。

 『家』という言葉には、今でもつい気持ちがぐらつくのは確かだが、レギオンにも言ったように、カーイは既にスルヤという新しい家を見つけたのだ。

「簡単に言うと、生き残った仲間同士、困った時にはお互い助け合い支えあおうということだよ。例え遠く離れて暮らしていても、自分は1人ではない、帰属する一族があり、いざとなれば仲間が助けてくれる。帰ることのできる場所がある。それは永生と向き合う気持ちを随分楽にしてくれるんじゃないかな」

「サンティーノ、あなたの言いたいことは分かったような気がします。要するに、世界を放浪する不死の一族の精神的な支えとなるものを作りたいということですね。でも…」

 カーイの言葉を最後まで聞かず、サンティーノは更に続けた。

「そう、それによって、我々が失いつつある精神の力、あるいは種としての力を取り戻すことができたなら、そのうち、何も我々のための小さな楽園に閉じこもってばかりいる必要もなくなるかもしれない。生き延びるためだけに必死だなんて、あまりにも夢がないからね。けれど、もし我々にまだ未来があるのなら…何千年も昔、我々が人間達の神であった頃のように、この世界を再び支配することも不可能ではなくなるかもしれない、そう、いつか―」

 カーイは眉根を寄せた。戸惑いつつも同じ痛みを抱えた仲間としての共感をたたえていた美貌が、再び凍結する。

「サンティーノ、やっぱり、あなたの語るビジョンには、私はついていかれません」

 理解しようという努力をついに放棄して、カーイはサンティーノに反論した。

「一体何を言い出すかと思ったら、この世界を支配ですって? そんなことが今更私達一族にできるわけがないでしょう」

「はなから無理だと決め付けることはないと思うけれどね。やっぱり、かつての栄華を知らない坊やは一族の力を過小評価しているな。いいかい、僕達は無限の時間を持っているんだよ。大体人間達がこの先永遠に栄え続けるとも思えない。未来がどうなるかは神のみぞ知るだ。いや、その神こそ、僕達ではなかったのかな?」

 カーイの反抗に、サンティーノは苛立ちを隠さなかった。赤い唇の間から鋭く伸びた牙が覗いた。

「人間にだって、できたことだよ。約束の地を追われ迫害されながら世界中をさ迷い続けたかの民族が今どれだけ世界に影響力を持っているか。僕達だって人間世界にうまく溶け込んだまま、この世界を裏から牛耳ることくらい、その気になれば難しくはないはずだよ。現に、ローマにあった宮廷もそうやってうまく人間達を利用することによって栄華を極めていたんだ」

 カーイは辟易したように顔をしかめ、忌々しげに舌打ちをした。

「500年も昔と今とでは事情が違うでしょう。世界を支配だなんて陳腐な話、今時三流映画にだって出てきませんよ。それに、私達はユダヤ人でもなければ人間ですらありません。あなたの言うことは妄想です。サンティーノ、仮想現実の世界で遊んでばかりいるからそうなるんですよ、もっと現実を見なさい」

 温和なはずのサンティーノの顔が憎々しげに歪むのを、カーイは憮然とした面持ちで眺めていた。

「話の前半は結構興味深かったんですけれどね」

 身も蓋もなくサンティーノを斬って捨てると、カーイは素っ気なく肩をすくめた。

「それで…あなた方が私を執拗に求めるのは、結局、その新しい組織作りに私が必要だからなんですか? もともと束縛されることの嫌いなヴァンパイアを1つにまとめるには、ローマの時代の宮廷におけるブリジットのような強力な象徴がいる…まさか、それで私を担ぎ出そうというわけじゃ―」

「うぬぼれるんじゃないよ、カ−イ」

 敵意の篭った声が、カーイの自尊心をしたたかに打った。

「君が偉大な女神ブリジットのような存在になれるなんて、まさか夢にも思っているわけじゃないだろうね? 実際、君と彼女は似ても似つかない。初めに会った瞬間は君の姿に感動するかもしれないけれど、一言二言言葉を交わせばぼろが出る」

 カーイの頬が朱の色に染まった。彼は椅子を後ろに倒すようにして荒々しく立ち上がった。

「あなた、私に喧嘩を売っているんですか?」

「別に」

 軽蔑しきったような冷たい瞳が、激昂するカーイの上に置かれた。

「ただ、改めてがっかりしただけだよ。ブリジットに生き写しの顔をして、その性格だなんて―」

 ふっと溜息をついて、サンティーノは横を向いた。

「詐欺みたいなものだね」

 カーイはぎりっと唇を噛み締めた。鋭く伸びた牙が唇に食い込んだが、怒りのあまり気にならなかった。

「こらこら、2人とも馬鹿げた争いはやめるんだ」

 今の今まで傍観者に徹していたレギオンが、さすがに堪りかねたように、一触即発の2人をなだめにかかった。

「あなたは黙ってなさい!」

「君には関係のない話だよ、レギオン」

 取り付くしまもない応えと共に自分を睨みつける蒼と銀の瞳にさすがのレギオンも一瞬たじろいだが、その後の判断は早かった。

「サンティーノ」

 レギオンは即座にカーイのことは諦めて、一見カーイと同じほど手強そうな友人の後ろに回り、その怒らせた肩に手を置いて優しく話しかけた。

「今日はもう、その辺りにしておけよ、サンティーノ。だから、私はカーイを説得するなんて無理だと言ったんだ。いずれにせよ、いつもは穏やかで冷静な話をする君がそんなふうに喧嘩腰になってしまっては、これ以上の話し合いなど無意味だよ」

 黒髪の巻き毛を指先で弄びながら親しげに顔を覗き込むレギオンをサンティーノはためらいがちに見上げた。

 サンティーノの怒りはすぐに収まったようだ。自らの憤激を恥じるかのごとく淡い色の瞳を揺らしながら、彼は俯いた。

「さあ、君はもう自分の部屋に戻れよ。後は、私がうまくやるからさ」

 励ますように肩を叩くレギオンに、サンティーノは小さく頷いた。

「分かったよ」

 サンティーノが立ち上がるのに、カーイはとっさに身構えた。しかし、サンティーノはもう完全に戦意を喪失しており、カーイの方を見ようともせずに、このリビングに接する己の部屋に入っていった。

「悪かったね、カーイ」

 半ば呆然としてサンティーノを見送ったカーイは、レギオンの呼びかけに慌てて注意を戻した。

「サンティーノは、君に関することになると、ついむきになってしまうようなんだ。別に君自身に悪意や敵意があるわけではないんだよ。ただ、彼は…ブリジットをとても慕っていたんだ。若い頃の彼は、ブリジットのお気に入りの楽師でね、彼女にとても可愛がられていたんだよ。だから、君は彼女とは違うのだと頭では分かっていても、君の顔を見ながら話をしているとつい心がかき乱されてしまうのさ」

 カーイは頭痛を覚えたかのようにこめかみの辺りを指先で押さえた。

「ブリジットと比較されても…困るのに…」

「でも、それは君が生まれた時からの宿命だよ、カーイ。君はブリジットの忘れ形見であり、一族の、文字通り『最後の子供』でもある」

 カーイが不安そうな顔を向けるのに、レギオンは茶目っ気のあるウインクで応えた。

「だが、こんな疲れる話はもうよそうね」

 カーイは首を巡らせてサンティーノが閉じこもった部屋の扉を複雑な気分でしばし眺めた。それから、思い出したように、レギオンを振りかえった。

「レギオン」

「うん?」

 カーイは疑惑の塊を見るような目つきでレギオンを睨んだ。

「サンティーノのことは、あなたの親友だと私は聞いていましたよ?」

「それが、どうかしたのかい?」

「ただの友達だなんて嘘でしょう。少なくともサンティーノはあなたが好きなんですよ。あなたに接する態度を見れば分かります。馬鹿にしないでください」

 カーイは怒ったように腰に手をついて、レギオンを鋭く追求した。

「おかしいとおかしいと前から思っていました。サンティーノが私に対してやけに嫌味なのも、もしかして、ブリジットがどうのというより、あなたのせいじゃないんですか? よもや私とサンティーノを二股にかけていたわけじゃないでしょうね。もしそうなら、私はあなたをこの場で八つ裂きにしますよ」

 鋭い爪をかざして身構えるカーイに、レギオンは大げさに両手を振ってみせた。

「付き合いの長いサンティーノだが、私の恋人であったことは一度もないよ。最も近しい友人ではあるが、それ以上の関係にはお互い踏み込めなくてね。なまじ傍にいる時間が長すぎるときっかけが見つからなくて駄目だね。実際、長く続いた関係を別の形に発展させるのはなかなか勇気のいることなんだ。いや、どちらかというと、私が彼を待たせてしまっているのかな…?」

「待たせてって…どのくらい?」

 レギオンはふとばつの悪い顔になって、口ごもった。

「そうだな…もうかれこれ…500年になるのかな…」

「呆れた!!」

 一瞬目の前のテーブルをひっくり返して、レギオンに投げつけてやりたいような衝動をカーイは覚えたが、それより何よりもう呆れ果ててしまった。

「それでよくもぬけぬけと…私のことを永遠の恋人などと…ああっ、もう、腹が立つ…!」

 こんな男との再会に一瞬でも胸をときめかせたことが許せなくて、カーイはいらいらと頭をかきむしった。

「おや、腹を立てるということは、やっぱり君は私のことがまだ好きだったね。嬉しいよ、カーイ」

 カーイはもう怒鳴りつける気力もなくして、椅子の背につかまるようにして体を支えた。

「さあ、そろそろ出かけようか?」

「出かける?」

「いいタイミングで、ミュージカルのチケットが2枚取れたんだ。今から出かけたら丁度いい時間だよ。気分転換だよ、カーイ、日頃の憂さを晴らすんだ」

 こんなふうに自由奔放に生きられたら、さぞかし気分がいいだろう。

 ついそんなことを思いながら、カーイは、浮き浮きと身支度を整えるレギオンを呆然と見守っていた。

 その顔に、やがて降参したような、それでも、ある意味楽しげな微笑がうかんだ。

 ここに来た目的がそもそもなんであったのか、カーイはもう半ば忘れていた。

 粋に装ったレギオンに強引に引っ張られて外に連れ出されながら、カーイは確かに、己にずっと取り付いた憂悶を晴らすことに束の間とはいえ成功したのだ。





 一方、ホテルの部屋に取り残されたサンティーノは―。

(ああ、2人はどうやら出かけたようだな)

 リビングの方ではしばらくレギオンとカーイのたてる物音や話し声がしていたが、やがてそれも聞こえなくなり、サンティーノは自分が1人になったことを意識した。

(別に、いいけれど―レギオンなら、何のかんの言っても、僕よりずっとうまくカーイをなだめすかして従わせることもできる。さっきだって、スルヤのことであんなに怒り狂っていたカーイを子供のように扱って、注意を別の所に向けるのに成功していたし…。全く、レギオンが本気を出してくれたら、カーイを引っ張り込むのもそれほど難しくはないはずなのに、あいつもこの期に及んで、あまり計画には乗り気でない態度を取るからな。いや、レギオンのあれは、ただの天邪鬼の虫なんだろう。人に期待されれば、どうしてもそれを裏切りたくなる…それで何度も失敗しているくせに、懲りない男だよ)

 レギオンとカーイが2人きりでいることを考えるとやはり胸は騒いだが、こんな気持ちには、もうサンティーノは慣れっこだったので、他のことに意識を向けて適当に紛らわせた。

 照明を落とした暗い寝室。

 ベッドの上にしばらく横になっていたサンティーノは、思い出したように机の上のノート・パソコンに目をやった。

「他の仲間にはまだ知らせるな、か」

 ここに到着したばかり頃、レギオンは、カーイの発見とその現状について一族の他の者には伝えるなとサンティーノに口止めした。

 カーイの気持ちを慮って、また、知らせることで一族の関心が彼に集まることをレギオンは危惧したのだろう。

「レギオン、君はやっぱりカーイにだけは甘いね」 

 サンティーノは気だるげに身を起こすと机の方に近づいた。

「でも、さすがに僕もそろそろ焦れてきたよ」

 サンティーノは椅子に腰を落ち着けると、愛用のパソコンを起動し、すぐにメール・ソフトを立ち上げた。

「さて」

 ふと悪戯っぽい顔になって、サンティーノは細い指先で顎を撫でながら考えを巡らせた。

「取り敢えず、彼女にくらいは知らせてやろうかな。お喋り好きの1人に僕がうっかり秘密を漏らしてしまった。その後は、皆に知れ渡るのも時間の問題だ。けれど、そこまでは僕の責任じゃないよ」

 明るいパソコンの画面を見ながら微笑すると、サンティーノは慣れた手つきでキーボードの上に指を滑らせた。

(カーイ、君が望もうが望むまいが一族は君を欲するんだ)

 薄明かりに照らし出されたサンティーノの白面に妖しく深いかぎろいに満ちた笑みがうかびあがった。




『親愛なる友エディス、ロンドンで仲間を1人見つけたよ。

君もよく知っている人物だ。

誰だと思う?

ヒントをあげよう、君が昔大事にしていた、あの髪飾りをくれた人だよ。

そう、カーイだ。

懐かしいだろう?』




 サンティーノはふと指を休め、何もない虚空を凝然と眺めた。

 これから先何が起こるかについて、サンティーノはふと一抹の不安と心もとなさを覚えた。

「かくして、堕ちた神の子らはこの地に集うか…けれど、肝心の女神がまだ―」

 淡い色の瞳に束の間頼りなげな翳りがよぎったが、サンティーノは己の躊躇いを振り切るように頭を振ると、改めて明るい液晶画面を見据えた。

「僕は、もうこれ以上、運命に流されるがままいつ訪れるか知れない救いをじっと待ち続けるのは嫌なんだ」

 サンティーノの指先がキーを幾分強く叩いた。




 メールは送信された。 


NEXT

BACK

INDEX