愛死−LOVE DEATH−
第二十六章 すれ違う心
二
「スルヤ」
スルヤが家に帰ってくるや、ずっと彼を待ちかねていたカーイは、素早くキッチンから飛び出していった。すると、彼の恋人は、妙に浮かない顔をして玄関に立っていた。
「お帰りなさい。…今日も遅くなりましたね。そんなに今度の課題は難しいものなんですか?」
せっかくスルヤの好きなキャロット・ケーキを焼いてお茶の準備もしていたのに、夕食にも少々遅いこんな時間まで帰宅しない恋人に対し、カーイは直前までかなりいらいらしていた。しかし、実際、スルヤを出迎えてみると、むしろ無事に帰ってきてくれたことが嬉しくて、その口調も甘いものになっている。
「外は寒かったでしょう? リビングは暖かいですよ。さあ、早く着替えて。…お腹が空いたでしょうけれど、食事の準備ができるまで、少し待ってくださいね。ケーキは食後のデザートに出しますから」
「うん…」
コートを脱ぐのを手伝ったり重そうなリュックを持ってやろうとしたり、何くれと世話を焼きたがるカーイにスルヤは微笑んだが、いつもの彼らしい屈託のなさはそこにはなかった。
「どうしたんですか、そんなに暗い顔をして…課題のことでそれほど煮詰まっているんですか…?」
カーイは心配そうにスルヤの顔を覗き込んだ。
「えっ…ううん、そういう訳じゃないよ。ごめんなさい、ぼうっとしちゃって…」
カーイは眉根を寄せた。
「スルヤ、やっぱり、あなた、このごろ様子がおかしいですよ」
カーイが少し強い調子で追求すると、スルヤは肩を小さく震わせた。
「私に…何か隠しているんじゃないですか…? 毎日帰りが遅いのも…これまでは締め切りが迫っているからといって学校に残ってまで作品の製作をすることなんてなかったのに…どこか不自然で…」
不安に駆られるがまま、ついスルヤをなじるような口ぶりになってしまい、カーイは後悔して口を閉ざした。
「すみません、口うるさくて…でも、私は、あなたのことが心配で―」
カーイはしょんぼりと頭を垂れた。
もしかしたら、スルヤはまたカーイに隠れてレギオンと会っているのではないだろうか。そんな疑心暗鬼に、この頃のカーイは捕らわれている。
(だって、スルヤの様子がおかしくなったのはレギオンが現れてからだ。スルヤには何もしないと誓ったレギオンだけれど、あの口先男の言葉など当てになるものか。私が知らないところで、性懲りもなくスルヤに近づいて、何か吹き込んでいるのかも―)
スルヤはカーイに何か大切なことを黙っている。もともと嘘などつけないスルヤの顔を見れば、そんなことはすぐに分かる。
(まさか、私の正体をスルヤに教えたわけではないでしょうね、レギオン!)
いや、いくら悪党のレギオンでも、そこまでのルール違反はしないだろう。それならば、スルヤが黙ってカーイとの暮らしを続けているのもおかしい。
(どうしよう、スルヤが私によそよそしくなってしまった…スルヤは、きっと口を開くと下手な言い訳をし嘘をつかなくてはいけないから、どうしても黙っているしかないし、態度の不自然さを見抜かれないよう、私と一緒にいる時間も減らさなくてはいけない…)
スルヤの頑なさに傷つき動揺するばかりのカーイだが、嘘つきは彼も同じだった。いや、カーイの方が、その点、罪は重い。
スルヤよりもずっと長い時間、彼をだまし、嘘をつき続けた。スルヤがどんなにもどかしく悲しい思いを味わっていたか、今ならカーイにもよく分かる。
(ああ、どうすればいいのだろう。このまま、スルヤとの仲がうまくいかなくなったら、スルヤが私のことを嫌いになってしまったら、わ、私なんか、もう、道端に落ちている石ころほどにもこの世に存在している価値などない…)
悲観的な思考の泥沼にずぶずぶと沈み込んでいくカーイの長い髪を、その時、優しい手が軽く引っ張った。
「カーイ、心細い思いをさせて、ごめんね」
はっと顔を上げるカーイをスルヤは抱き寄せた。
「ス、スルヤ」
カーイは、まだまだ逞しいとは言えない、自分とさほど背丈も変わらない、少年の体にひしとすがり付いた。
「ね、俺、カーイのことが好きだよ。この世で一番好き。生まれた時からもう俺の魂にあなたの名前が書かれていたみたいに、あなたを愛しているといつだって普通に言えるよ」
気の利かないスルヤにしては上出来の口説き文句にカーイは猫のように喉を鳴らして、スルヤの額に頬に唇に、夢中でキスをした。
「私もあなたが…好き…スルヤ…」
スルヤが口付けに応えてくれるのにカーイはうっとりと目を閉じ、彼に甘えかかった。
「でも、カーイ、あなたは俺を信じては…くれないよね」
寂しげな囁きに、恋人の腕に抱かれて夢見心地のカーイは一気に目を覚ました。
「スルヤ?」
カーイは胸騒ぎを覚えつつ、顔を上げた。
深い悲しみを湛えた真っ黒な瞳が、カーイの動揺する顔を映し出していた。
「カーイは、いつもとても辛そうで、そんなに追い詰められているに、俺に肝心なことは何も打ち明けてくれない…ねえ、あなたのために俺ができることなんてないと思ってる?」
スルヤの声にはカーイを責める響きはなく、むしろ、恋人への純粋な愛情と気遣いが溢れていたが、それゆえに一層カーイをいたたまれなくさせた。
「ス、スルヤ…違うんです。私は、あなたを信じていないわけじゃない…。ただ私は―」
カーイは激しく頭を振って、彼の抱擁から慎重に身を引くスルヤを引きとめようとするかのごとく手を伸ばした。
「カーイ、それなら、怖がらないで」
カーイはスルヤの体を捕まえようとした手をとっさに引っ込めた。愕然と目を見開いて、喘ぐよう肩で息をしながら、何か言おうと唇を震わせる。
だが、カーイは、スルヤの望むたった一言さえどうしても言うことができなかった。
「無理をしないでいいよ、カーイ」
スルヤは切なげに目を細めると、顔色をなくし葛藤のあまり小刻みに身を震わせているカーイを慰めるように囁いた。
「俺、あなたの信頼を得るために一生懸命努力をするから。あなたに心を開いてもらえるよう、1人で背負い込んでいる重荷を俺にも分けてもらえるよう…」
スルヤは何かを振り切ろうとするかのごとく、頭を振った。
「俺、着替えてくるね。俺も手伝うから、早く食事にしようよ」
スルヤは一転、いつもと同じ明るい態度を取り繕うと、コートを腕に引っ掛けたまま階段をばたばたと駆け上っていった。
カーイはやるせない思いで胸をいっぱいにしながら、急に遠いものになってしまった、大切な人の背中を無言で見送っていた。
(夕べは、カーイに可哀想なことをしちゃったな…ただでさえ心配事で頭がいっぱいなのに、俺があんな態度を取ったら余計に悩ませることになってしまう。でも、今は何も言えない…カーイに向かって俺が上手な嘘なんてつけるわけないし、それに、うっかり口を開いてしまったら…胸のうちにしまい込んでいる色んな疑いや不安が一気に迸って、言ってはいけないことまでカーイにぶつけてしまいそうで、彼を追い詰めてしまいそうで…恐い…)
スルヤは、学校帰り、いつも使う地下鉄ではなくバスに揺られて、ぼんやりと窓の外を通り過ぎていく街を眺めながら物思いにふけっていた。
(そう、俺も…恐い)
スルヤは急に不安に駆られたように手の内にあるメモを握りつぶした。
(カーイは俺を愛してくれているけれど、信じてはいない。哀しいけれど、そういうことなんだ。結局、俺はカーイにとって守るべき存在でしかない。だから、カーイはいつも俺を巻き込むまい傷つけまいとしてみんな自分1人で抱え込んでしまう)
あのディスクを受け取った日、レギオンに組み敷かれながら囁かれた意味ありげな言葉はスルヤの胸の深いところにこびりついている。
(でもね、君は無垢であるよう大事に守られすぎていて、そのままではカーイを理解することも救うこともできはしない)
スルヤは小さく嘆息した。
(レギオンさんが何をどこまで知って、俺にあんなことを言ったり、あんなものを俺に渡したりしたのか分からないけれど…彼のあの言葉はとても正しいような気がするよ。俺はずっとカーイに守られるだけだった。カーイの今の苦しみは、もしかしたら、そこから来ているのかもしれない。だから、俺は、もうこれ以上カーイに一方的に守ってもらいたくない。それって、第一フェアじゃないよね…恋人同士のどちら片方だけが重荷を負うなんて…)
スルヤは知らず知らずのうちにうなだれていた頭をしゃんと上げると、バスの窓にぼんやりと映る己の影を叱咤するよう睨み付けた。
(俺、強くなろう。今度は俺がカーイをちゃんと守ってあげられるくらい強く…カーイが背負っているものを一緒に抱えてあげられるよう、彼の秘密も苦しみも、犯したかも知れない罪も―)
スルヤの瞳は一瞬戦いたかのように揺れたが、すぐに、もとの強い輝きを取り戻した。
(そのためには、俺が自分から、俺の知らないカーイの暗い影の部分に入り込んでいかないと…そう、カーイの秘密…)
スルヤの脳裏に、スクリーンに映し出された禍々しくも美しい顔が浮かび上がった。光に対する影。スルヤが知らない、もう1人のカーイがそこにいた。
(勝手にこんなことをして、ごめんね、カーイ。でも、俺は、たとえどんな真実を知っても、あなたから逃げたりしないから―)
バスが停留所に止まったのに、スルヤは我に返った。気がつけば、目指していた場所だ。
スルヤは慌ててリュック・サックを引っつかみ、降りていく他の乗客達の後ろを追いかけた。
スティーブンの父親から教えてもらった住所の書かれたメモを頼りに、スルヤは程なくしてロバート・ブランチャードが勤める出版社を見つけた。
「…それじゃ、ロバートさんが何かのトラブルに巻き込まれていたような話は誰も聞かれていなかったんですね。彼が一体どんな事故にあったのか、心当たりもない…」
記者達が仕事に追われているオフィスの片隅に通されたスルヤを、若い1人の記者が親切に応対してくれた。
「編集長が突然あんなことになって、俺達も困惑したくらいなんだよ。まあ、記者暦も長い人だから、もしかしたら取材中にどこかで人の恨みを買うようなことがあって、それが原因でトラブルに巻き込まれたって可能性もないわけじゃないって言う奴もいるけれど、その辺りの三流記者ならともかく、あの実直なロバートに限って、そんなことはありえないと俺は思うな」
スルヤからロバートの容態を知らされた記者は、神妙な顔になって黙り込んだ。
「あの…それじゃあ、ロバートさんが事故に遭う前、彼の様子にいつもと違う点はなかったですか?」
スルヤの問いかけに、記者は夢から覚めたように瞬きをした。
「あ、ああ…そうだなぁ、おかしな点といっても…特にこれというのは…」
記者は腕を組んでしばらく唸った後、ぽんと手を叩いた。
「そう言えば、ロバートと吸血鬼の話をしたのは…事故の少し前だったな」
「えっ?」
スルヤの胸にひんやりと冷たいものがよぎった。
「吸血鬼、ですか?」
「ああ、いきなり何を思ったか、吸血鬼…実際にはヘマトフィリアって血液依存症を扱った、うちの昔の記事を探してくれってロバートに頼まれたんだ。それから、ついでだと思って、丁度その時一部の新聞や雑誌をにぎわしていた吸血鬼事件の記事も一緒に渡したんだよ」
記者はふと複雑な顔になった。
「Aホテルで身元不明の外国人が血を奪われて死んだって奴だ。『クランレイの吸血鬼』…今思えば、あれが、今ロンドン市民を震え上がらせている連続殺人事件の始まりだったんだな。あの時は、まさか、そんな大事件に発展するとは予想していなかったが…」
記者がロバートのデスクから持ってきてくれた新聞や雑誌をスルヤはむさぼるようにして読んだ。
特に、タブロイド紙のけばけばしい見出しに飾られた、去年の秋に起こった謎の失血死事件の記事にスルヤは釘付けになった。テレビでも度々取り上げられた事件だが、今、当時の記事を読んで初めて気がついた。
この被害者が殺されたのは、まさにスルヤがカーイと出会った日ではないのか。
(あの朝、カーイはロンドンを発ってエジンバラ行きのフライトに乗るはずだったんだ。それが、俺と出会って話し込んでいるうちにフライトを逃して、結局、そのままずっと―)
記事を目の間に広げたまま呆然となっているスルヤに、その時、コーヒーを手に戻ってきた記者が、思い出したように告げた。
「それにしても、坊やといい、今週はやけにロバートの件で社を訪ねてくる人間が多いな。まあ、連中もなかなか捜査が進まないから、スティーブンの事件をもう一度洗いなおしているのかな…?」
「連中?」
「ああ、3日前にロンドン警視庁の刑事達がここにやってきたんだよ。俺の先輩記者が応対したんだが、やっぱり、今の坊やと同じように、事故に会う前のロバートの行動について尋ねられたようだな」
スルヤは大きく息を吸い込んだ。
(刑事が…も、もしかして、あの人だろうか…?)
キース・ブレイク。ロバートが入院する病院で偶然出会った、頼もしげな雰囲気の刑事をスルヤは思い出した。
犯人を一刻も早く捕まえることが犠牲者の無念を晴らすだけでなく、殺人衝動をとめることができない犯人自身も救うことになると彼は言っていた。
無骨な外見に似ない意外に優しく温かな内面を覗かせたキースだが、同時に、すごく勘の鋭い人だった。
こんな時期にロバートの見舞いに訪れたスルヤを不審に思ってはいないだろうか。スルヤがスティーブンの残したディスクを所持していると、もしや疑っているわけではないだろうか。
「それにしても、親友の敵討ちなんて考えないで、やっぱり捜査は警察に任せた方がいいよ、坊や」
同情的な記者の呼びかけに、スルヤは我に返った。
「この事件の犯人は、とても危険な奴だ。人をただ殺すだけじゃなく、その血を飲むなんて…ぞっとするよ。おそらく頭がいかれているんだろう。そんな凶悪犯に君のような普通の子が近づこうとしちゃ駄目だ」
ここに来てロバートについて尋ねるのはスティーブンの死の真相を突き止めて犯人を捕まえるためだというスルヤの言い訳を、記者は鵜呑みにしたらしい。親切な忠告に、しかし、スルヤは強い反発を覚えた。
「犯人が血も涙もない凶悪な人間だなんて、そんなこと、どうして分かるんです?」
とっさに、スルヤはぴしゃりとはねつけるような声を発してしまった。
「え?」
いぶかしげに問い返す記者に、スルヤは慌てて首を横に振った。
「いいえ、何でもありません」
そうして、これ以上ここにいてはぼろが出そうだと、おもむろに来客用のソファから立ち上がった。
「色々と話を聞かせてくださって、どうもありがとうございました」
屈託のない笑顔で礼を述べるスルヤに、記者も一瞬覚えた違和感を忘れ去ったようだ。
「ああ。君も気をつけて、あまりうろうろせずに早く家にお帰り。日が暮れるとやはり街中であっても物騒だからね」
記者はにこやかに手を振って、オフィスの奥に戻っていった。
(吸血鬼…か…。ロバートさんは、一体、どうして急にそんなものに興味を覚えたんだろう…? それに、あの記事…)
記者に見せてもらった古い記事を思い出した途端、強烈な寒気がスルヤを襲った。
(カーイ、カーイ…俺達が出会った、あの朝がすべての始まりだったんだ…)
早朝の澄み切った光の中、透ける長い髪を翼のようになびかせて現れたカーイは、空から舞い降りてきた天使のようだった。
とても人間とは思えない。スルヤは本能的にそう感じたのではなかったか。
「違う!」
いきなり叫ぶスルヤに、傍を通りかかった通行人がうろんげな眼差しを投げかけた。
スルヤは今出てきたビルをふと見上げた。それから、家路に着く人々で溢れた、すっかり夜の帳の下りた通りを茫洋と眺めた。
無性に、スルヤは心細くなった。
「俺も…帰ろう…」
夜の街の向こうに待つ大切な人の面影に向かって、スルヤは恋しさに胸を詰まらせながら呼びかけた。
「カーイ」
スルヤの前に広がる闇は、この夜よりもずっと濃く果てしなく、深まりはすれど一向に晴れる気配はなかった。