愛死−LOVE DEATH−
第二十六章 すれ違う心
一
「あの…ロバート・ブランチャードさんの病室はどちらでしょうか?」
スティーブンの父親から教えてもらったロンドン市内の総合病院を、今、スルヤは訪れていた。
「ミスター・ブランチャードですね。3階の301号室になります。そちらの廊下の奥にエレベーターがありますので―」
受付の事務員に教えてもらって、スルヤはロバートの病室のある3階へとエレベーターで上がっていった。
スティーブンの叔父であるロバートとは、スルヤも一度か二度会ったことがある。雑誌の編集長をしているという知的で落ち着いた雰囲気の人だった。
(そのロバートさんが大怪我をしたって、取り乱したスティーブンから聞いたのは…ああ、あれはあの大雪の日だった。カーイが一晩帰ってこなくて心配で俺はずっと起きて待っていた。そこにスティーブンから電話がかかってきたんだ。あの時のスティーブンは様子がおかしかった。すごく取り乱していて…ロバートさんが死ぬほどの目にあったのは自分のせいだなんて言ってた。俺は詳しい事情はスティーブンに尋ねなかった。だって、あんまり彼は動転していて…たぶんロバートさんのことだけじゃない、皆が知らないところで、何か大変なトラブルをあの時のスティーブンは抱えていたんだ。スティーブンはしばらく学校に来なかったり、隠しごとがあるふうだったり、ずっと様子がおかしかった。俺にちゃんと説明したいんだけれど、気持ちの整理がつくまで待って欲しいと言ってた。だから、俺はスティーブンが打ち明けてくれるまで待とうと思ったんだ)
突然に逝ってしまった親友を思い出す、スルヤの顔は、ふと悔やんでも悔やみ切れない気持ちに暗く翳った。
(けれど、結局、スティーブンは俺に何も言わずに死んでしまった。ねえ、スティーブンは一体どんな悩みを抱えていたの? 俺に話したいことがたくさんあるって…一体、何を伝えたかったの? それは、もしかして、スティーブンが残してくれたあの画像に関係のあることなんだろうか…?)
脳裏に閃いた禍々しくも美しいイメージをスルヤは慌てて打ち消した。
あれが本当にスティーブンが作った画像だという確証はなかったが、直感的にそうなのだと信じている自分をスルヤは意識していた。
(あれはカーイだ…ううん、違う、本当のカーイじゃない…)
あの画像を見てしまって以来、スルヤの心は混乱の渦に巻き込まれ、どうしても抜け出せないでいる。
(スティーブンは、どうして、あんな画像を作ったんだろう。実際のカーイを撮影したものじゃない、あれは、スティーブンが得意だったグラフィックだ。撮影した色んな画像をコンピュータでつなぎあわせ加工して作った)
友人が残した謎めいたメッセージをそこから読み取ろうとしても、スルヤには分からなかった。いや、知ることが恐いのかもしれない。しかし、今更見て見ぬふりをすることなどできはしない。
(レギオンさんがどういう経緯であのディスクを手に入れたのかも怪しいけれど、彼はあれを謎解きのための鍵だと言っていた。カーイの秘密に近づいて、解き明かすための―)
スルヤの胸には不安が亡霊のように取り付いていたが、ここまで来て怖気づいて逃げ出そうとは思わなかった。
(俺に話すことのできないトラブルを抱えていたスティーブンは、何も言わないまま死んでしまった。今のカーイは、あの時のスティーブンにも似ている。もし、カーイまで俺の前から突然いなくなってしまったら―。それだけは絶対に嫌だ。俺はもう大切な人を失いたくない。レギオンさんがほのめかしたように、俺が自分からカーイに近づいて彼を理解しようとすれば、秘密にがんじがらめになって身動きの取れなくなっている今のカーイを自由にしてあげられるだろうか…?)
カーイを思う時、スルヤの顔にはやるせない哀しみが漂う。
スルヤを残しレギオンと共にどこかに行ってしまった、あの日、カーイは深夜に帰ってきたが、レギオンとどんな話をしたのか、スルヤには教えてくれなかった。心なしか顔色がよく元気そうに見えたので、レギオンに相談することでカーイの抱えている懊悩を解決する糸口でも見つかったのかもしれない。それなら、スルヤももちろん嬉しいのだが、何も語ろうとしないカーイの頑なさには釈然としなかった。
カーイは、彼の遠い親戚だというレギオンについてもスルヤに多くを語りたがらなかった。それどころか、スルヤとレギオンをなるべく近づけたくないようで、こっそり会っていたことを咎められただけでなく、レギオンが何を言ってきても信じるな、二度と2人きりで会うなとまで釘を刺されてしまった。
(どうして、あそこまで秘密にしておきたがるんだろう、カーイ…それほど俺に知られたくないことなんだろうか…知られたら俺に嫌われるかもしれないって、恐がっている…?)
青白く発光する、コンピューター・スクリーンの中の画像を、スルヤはまた思い出した。唇をきつく噛み締めた。
(俺は…あのディスクのことを、カーイに打ち明けられなかった…。初めは素直に話して、どういうことなのか直接カーイに聞いてみようと思っていたのに…カーイとの間にわだかまりなんか作りたくない…いつでも正直で誠実でいたい。でも―)
レギオンの揶揄するような緑色の瞳がスルヤの頭の中で瞬いた。
(俺は、確かに何も知らない。このままでは、やっぱりカーイを理解することはできないし、助けることもたぶんできない…だから―)
はからずも恋人に秘密を抱え込んでしまったことで、スルヤの胸は重くなっていた。
(カーイ、あなたに隠れてこんなことをして、ごめんね。でも、俺、あなたを分かりたい…あなたが隠そうとしている秘密がどんなものでも、俺はきっとあなたから離れたりしないよ。ただ、あなたのために俺ができることがあるなら、それは何なのか知りたいんだ。もうこれ以上、あなたが苦しんでいるのをただ手をこまねいて見ているだけなんて、我慢できないよ)
ロバートは手がかりになるかもしれない。死の少し前からスティーブンの様子がおかしかったのは何故なのか、彼ならば知っているかもしれない。そして、スティーブンの死の真相が分かれば、カーイの秘密もおのずと明らかになるのではないか。スルヤはそう考えていた。
もっとも、さすがに親友の死そのものをカーイと直接結びつけることは、スルヤは慎重に避けていたけれども―。
(ロバートさんは未だに意識を取り戻していないんだと、スティーブンのお父さんは言っていた。そこまで重傷を負っていたなんて…てっきり、もう退院したものとばかり俺は思っていた)
本当に意識不明のままなら、ロバートから直接話を聞くなど無理だが、それでもスルヤは諦め切れなかった。
「ロバートさん?」
ドアをノックしてみたが応えがなかったので、スルヤは躊躇いがちに病室に入った。ロバートの介護をしているスティーブンの父親が仕事帰りに来ているかと思ったが、まだのようだ。
薄暗い個室の窓際には、シンプルなベッドが1つ。白いシーツと掛布に包まれた痩せた男が誰なのか、スルヤにはしばらく分からなかった。
「ロバート…さん…」
スルヤはドアの前で立ち尽くしたまま、呆然と呟いた。
ロバートが事故にあったという話をスティーブンから聞いたのは、もうかれこれ二ヶ月前だ。
スルヤは気持ちを静めようと深呼吸して、ベッドに近づいていった。
ロバートは頭に大怪我を負って手術をしたとスティーブンの父から聞いたが、今は頭髪も生えており傷跡は分からない。だが、半植物状態となって、この二ヶ月というもの病床にあった彼の肉体の衰えは顕著だった。げっそりとこけた頬と落ち窪んだ眼窩、痩せて一回り小さくなった体、実年齢よりも十も年を取って見える、今のロバートにかつてのやり手の編集者の面影はない。
見る影もなくなってしまったロバートの姿にスルヤは何だか胸が詰まって、彼の枕もとに悄然と佇んでいた。
「ロバートさん、一体、どうして、こんな―何があったんです…?」
震える声で、スルヤは眠り続ける男に囁きかけた。
「スティーブンのことも…今のあなたには分かりようがないんですよね。あんなに可愛がっていた甥っ子が突然に死んでしまったことも知らずに…ずっと、こんな状態で―」
感じやすいスルヤは、ロバートにとつとつと語りかけるうちに、つい泣きべそをかきそうになった。涙の滲んだ目の周りを手で擦り、スルヤはシーツの上に力なく置かれた、ロバートの骨ばった手をそっと握りしめた。
「あなたが早く回復されることを祈っています。早く元のあなたに戻って、そして、スティーブンの分まで生きて欲しい…」
スルヤがここに来たのは、スティーブンの死の謎を突き止めるためだった。だが、今のロバートの状態を一目見れば、何も聞きだせそうにないことは分かる。
「スティーブンはあなたのことをよく話していました。人になかなか心を開かない所のあるスティーブンだったけれど、あなたのことは、すごく信頼しているんだなって、俺にも分かって…」
その代わり、スルヤはロバートの手を取りながら、優しい声で語りかけた。スルヤ自身もロバートと話したかったのだ。お互いとても愛していた、今はこの世にいない若者のことを。
懐かしさと慕わしさ、一抹の寂しさを込めて、スルヤはスティーブンとの思い出を語った。そうして、殺される直前の彼の不思議な行動と彼を襲った悲劇について触れると、スルヤの声はどうしても震えた。
「…スティーブンは何も言わず、突然に死んでしまいました。人の死はとても突然にやって来るものだとは分かってるつもりだったけれど、どうして彼があんな死に方をしなくちゃならなかったのか、俺にはやっぱり分からない。もしかしたら、とめられたかもしれない、そんなふうにさえ思うんです。そう、俺が―」
スルヤの俯いた顔に、後悔と呼ぶにはあまりに深い陰りが浮かんだ。
「もし、俺がスティーブンを苦しめている悩みをちゃんと聞いてあげられたら、あんなことにならなかったかもしれない…スティーブンの残した画像にこめられた、彼の心の叫びをもう少し早くに気がついてあげられたら―」
自らの言葉に慄いたかのごとく、スルヤは口元を震わせると、ぎゅっと握りしめていたロバートの手をシーツの上に戻した。
「ああ」
スルヤは夢から覚めたように瞬きをし、目の前でやはりいつ覚めるとも知れない眠りに捕らわれている男を凝然と眺めた。
「ロバートさん…ごめんなさい…」
どうして謝ってしまったのか自分でも分からぬまま呟くと、スルヤはベッドから離れた。
「また…来ます…」
肩を落としてそう言い残すと、スルヤは病室を出た。
後ろ手にドアを閉じ、しばらくそこにもたれかかったまま、スルヤはぼんやりした。
「どうして―」
いわくつきの患者の病室の前でうなだれている可愛らしい男の子が気になるのか、年配の看護婦が気遣わしげな視線を送りながら通り過ぎていく。
スルヤはほっと息をつくと、何事もなかったような態度を取り繕って、その場を離れた。
(ロバートさんのお見舞いはこれからも時々しよう。意識がなくても、人が来て話しかけてあげたら、それが刺激になるかもしれないし…)
じっと考えに沈みながら、スルヤはエレベーターの方へ歩いていく。すると、そのエレベーターからトレンチ・コートを着たがっしりと逞しい1人の男が降り、こちらに近づいてきた。
厳しい面持ちをした、その男の黄色い目がふと動き、スルヤの顔の上にとまった。訝しげな表情が精悍な貌に浮かび上がった。
「待ってくれ」
何気なく傍らを通り過ぎようとしたスルヤの腕を、その男が捕らえた。
「えっ…?」
スルヤは反射的に身を固くして、己の腕をしっかりと掴んでいる男の顔を見上げた。
「俺に何か?」
この男にスルヤは見覚えはなかったが、向こうはどうやらスルヤを知っているようだ。スルヤに向けられた男の鋭い眼差しには、確信がこもっている。
何だか、この頃、こんなふうに見知らぬ人に呼び止められることが多いなぁと、レギオンのことをふと思い出して、スルヤは微笑した。
その人懐っこい笑みを見て、男の固い表情も和らいだ。一瞬とっつき難く感じられた強面だが、優しげに細められた目は温かな光を湛えている。
「君は確か…スティーブン・ジャクソンの友人だね?」
警戒心を解きかけたスルヤだが、男の思いがけない問いかけにびくっと身を震わせた。
「そう、スティーブンの葬儀に出席していた君を、俺は見かけた。スルヤ・ラトナ…そうだ、スティーブンの親友で、彼が例のディスクを死の前に渡そうとしていた少年だ」
「あ、あなたは…?」
スティーブンの名前だけでなく、あのディスクのことまで持ち出されて、スルヤは動揺のあまり、とっさにうまく声が出なくなった。
「俺はキース・ブレイク」
コートのポケットから取り出したIDをスルヤに見せながら、男は少年の緊張を和らげるよう、穏やかな声で語りかけた。
「ロンドン警視庁捜査科の警部だ。君と面識のあったネイサン・ナイト刑事の上司だよ」
ネイサンの死後、キースは捜査の方針を若干変えて、スティーブンの周辺をもう一度洗いなおすことにした。
それまでは直接事件と繋がりがあるとは認めにくかったスティーブンの不審な行動、特に彼が死の直前に残した画像は事件解決の大きな手がかりになるはずだ。ネイサンの直感が正しかったことは、結局、彼自身の死によって証明されたことになる。
そうして、一連の事件が起き始める直前、スティーブンの叔父であるロバート・ブランチャードが何らかの『事故』に巻き込まれて重傷を負い、入院中であることにキースは注目した。
事故というのはおそらく方便だろう。そのような形跡はどこにも残っていない。スティーブン自身も同じ事故だか事件に巻き込まれたとのことだが、実際、それがどんなものであったのか真相は闇の中だ。肝心のロバートは意識を回復せず、スティーブンも誰にも何も語らぬままに死んでしまった。
(ロバートは何か重要な手がかりを握っているかもしれない。スティーブンが何故あんな死に方をしなければならなかったのか…スティーブンが抱え込んでいた秘密に彼もまた関わって…巻き込まれた挙句にあんな怪我を負ったのだとすれば―)
ロバートの怪我を、スティーブンが自分のせいだと言い残したということをキースは彼の父親から聞いていた。だが、その父親も、疎遠であった息子の秘密には首を横に振るばかりだった。
そうして、キースはロバートの入院する病院にやってきたのだ。
ロバートの病状について医師に説明を受けた後、キースは病室に向かった。今の状態のロバートから直接話を聞くことは諦めていたが、それでも、キースは自分が見ることで何か謎解きの手がかりが捕まえられることを期待していた。
(力を使うことに以前のような抵抗がなくなったのは、確かに気持ちとしても楽だな。だが、それゆえに一層冷静に慎重に捜査をしなければならないが…俺だけが分かることのできる幻など、現実には何の証拠にもならんだからな)
そんなことを考えて、ロバートの病室のあるフロアを歩いていた時だ。キースがこちらに向かってくる黒髪の少年に気がついたのは。
一目見た瞬間、キースの脳裏に幾つかのイメージが弾けた。
《大勢の参列者が集まる教会の前、取り乱した少女が黒髪の少年の頬を思い切り引っぱたいた。
少女は、まるで敵に対するような激しい目で相手を睨みつけた。少女の剣幕に、南アジア系らしい、カラメル色の肌をした少年は、打たれた頬を押さえ、呆然と突っ立っている。》
そうだ、あれはスティーブン・ジャクソンの葬儀でのことだ。あの少年は、あそこにいた。今目の前にいる少年が誰なのか瞬間的に認識した、キースの脳裏に、今度は全く違う場面が浮かび上がった。
《祭壇の前に安置された棺の傍に立ち尽くす、長い銀の髪の青年。
この世のものとは思えぬほどに美しい。
彼は胸に一輪の百合の花を胸に抱いている。
震える手が、その花を黒い棺の上にそっと置いた―》
鼻腔をくすぐる、芳しい花の香りにキースはむせそうになった。
(ああ、今思い出した、あの青年が誰なのか俺は妙に気になったんだ。結局分からずじまいで、俺もじきに忘れてしまったが…)
訳もない胸騒ぎを覚えとっさに足を止めるキースの脇を、黒髪の少年が足早に通り過ぎようとした。
「待ってくれ」
反射的に、キースは少年の腕を捕らえていた。
愛くるしい小動物を思わせるくりくりとした瞳、ほんのりと赤味の差したまろやかな頬、まだあどけなさの残る顔が人懐っこい笑みを浮かべるのに、キースはふと気持ちが和んで口元をほころばせた。
この少年の名は何と言ったか。
ネイサンが残した報告書の山の中から、一枚の書類がキースの頭の中で翻
った。
「…スルヤ・ラトナ…そうだ、スティーブンの親友で、彼が例のディスクを
死の前に渡そうとしていた少年だ」
無邪気そのものの少年の顔が衝撃に震え、さっと青ざめた。
キースは少年を脅かしてしまった非礼をわびると、彼を病院の地下にあるカフェに誘った。スルヤは一瞬迷ったようだが、話を聞きたいというキースの頼みに最後は頷いてくれた。
「あの…ネイサン・ナイト刑事が亡くなられたとはニュースで知りました」
夕方のこの時間はがらんとした病院のカフェのテーブルにつくなり、スルヤは悲しげな面持ちでキースに告げた。
「何と言っていいのか分からないけれど…残念です。会ったのはほんの数回だったけれど、ナイト刑事は気さくで、仕事熱心な、とてもいい人でしたから―」
哀悼するかのように、唇をきゅっと引き結んで俯いているスルヤの顔を眺め、キースも少ししんみりとした気分になったが、それを表に出すことはなかった
「ああ、とても残念だった。ネイサン自身もそう思っただろう。そんなネイサンのために残された者ができることは、その遺志を継いで、事件の真相の究明に全力で取り組むことだと、俺は思っている」
キースは、スルヤ相手にどう話をするか考え込むよう、一瞬言葉を切った。
「ネイサンは、事件の被害者達の中でもとりわけスティーブンの死に注目し
ていたんだ」
スルヤの黒い瞳が不安そうに揺れ動いた。
「スティーブンの死に何か特別な意味があると思って、警察は捜査をしているんですか…?」
しばらくの間黙り込み、キースの言葉を斟酌した後、スルヤは意外と落ち着いた態度で問い返した。
「ブレイク警部が今日ここを訪れたのは、ロバートさんの様子を確かめるためですよね。それって、つまり、ロバートさんが…スティーブンがあんなことになってしまった、その訳を知っているかもしれないと考えたからなんですか?」
静かだが熱のこもった口調で追求するスルヤをキースは用心深く眺めた。
「いや、そこまで確信があるわけではないよ、スルヤ君。だが、スティーブンがこの一連の事件の鍵を握っていたことはおそらく確かだと思う。だから、そのスティーブンの行動に…不審な点の多い死の直前に彼に深く関わっていたらしいブランチャード氏の証言が得られたらとは期待している」
スルヤは恐れ気もなくキースの目を正面から覗き込みながら、その考えを一生懸命に読み解こうとしている。
キースは、こんなふうに誰かからまっすぐに目を見つめられたことなど久しくなかったことをふいに思い出した。この異能を身につけてから、それまで親しかった者も含めて、皆、キースに見つめられることに訳もない恐れを覚えるようになった。
(不思議だな。この子には、心を見透かされるようだと人に不安や居心地の悪さを覚えさせる、俺の力が及ばないかのようだ。突然刑事に声をかけられて話をすることになって、それについては幾分緊張しているようだが、俺自身を恐れている訳ではない)
スルヤと話していると、厄介な力を授かる以前の自分に戻ったかのような安らいだ気分にキースはなった。だからと言って、捜査中は例え小さな引っ掛かりでも見過ごさない、刑事の習性を忘れた訳ではない。
キースはスルヤに鋭い眼差しを当てたまま、しかし、口調はなるべく優しく問いかけた。
「まあ、俺がブランチャード氏に会いに来たのは、そういう事情からなんだが、スルヤ君、君の方は一体何故?」
いきなり水を向けられて、スルヤは一瞬たじろいだようだ。
「俺がここに来たのは…ロバートさんとはスティーブンを通じて面識があったんです。事故にあって大怪我をしたってことも、それこそ、スティーブンから聞いて、知っていて…だから一度お見舞いに来たいとは思っていたんですが、ずっと機会がなくて…。昨日、スティーブンのお父さんに久しぶりに電話をしたら、ロバートさんがまだ入院していると知りました。まさか、今でも意識が戻っていないなんてと驚いて、それで、随分遅くなったけれど今日初めてここに来たんです」
もっともな理由をごく自然に答えるスルヤにキースは無言で耳を傾け、よく分かるというように鷹揚に頷いた。
「ブランチャード氏の意識は戻るのか戻らないのか、今の状態では医者にも分からないそうだ。明日目覚めるかもしれないし、何年もこのままということもありうると」
「そんな…」
キースの言葉に、スルヤは絶句した。
「彼が大怪我を負った原因について、スルヤ君、君には本当に心当たりはないのだろうか」
スルヤは意外そうに目を見開いた。大きく首を横に振った。
「分かりません」
「君は、スティーブンとはとても親しかった。こんなことを聞いて気を悪くしたらすまない。スルヤ君、もしかして君は、生前のスティーブンから何か悩みを打ち明けられたり、あるいは何かを受け取ったりしたことはないだろうか…?」
スルヤはさすがに少し顔を強張らせた。
「刑事さん、それって、どういう意味なんですか…?」
呆然と尋ねるスルヤに、キースは一瞬迷った後、静かに告げた。
「スティーブンが残したというディスクを我々は今必死で探しているんだが、どうやら、バレリー・レシアスが所持していたオリジナルもネイサンが手に入れたコピーもどうやら犯人が持ち去ったらしい。スティーブンのコンピューターは修復不可能なまでに破壊されてしまったし、他にコピーが存在する可能性もあるが、今のところ見つかっていない」
キースの語ることを、スルヤは全身耳と化したかのように神経を集中して聞いている。
キースは、スルヤの内心を推し測ろうと少年の様子を観察した。随分と深い関心をこの事件に覚えているらしい。親しかった友人達が巻き込まれたのだから、当然かもしれない。この病院に現れた理由も別に不自然なものではないが、それでも、何か引っかかる。
「君はスティーブンからそれらしい画像を見せられたことはないか」
スルヤは虚を突かれて、はっと息を吸い込んだ。瞬間、キースに向けられた黒く澄んだ瞳には微かな怯えが漂っている。
「画像…どんな画像だったと、刑事さんは考えているんですか?」
声を低めて、スルヤは問いかけた。
「人の顔だったらしいということは分かっている」
「それが…今回の事件とどんな関わりがあるんです?」
「それは、まだ分からない。犯人は何やらその画像に執着があるようだが…とすれば、犯人に繋がる可能性のある画像なのだろう。だが、何が映っているのか実際見てみないことには、結論は出せないな」
スルヤは再び俯き、可愛い顔をしかめて考え込んでいる。
「スティーブンはどうして…何のために、そんな画像を俺に残して―?」
キースに答えを求めるように、半ばは自分自身に向かって問いかけるように、スルヤは途方に暮れた面持ちで呟いた。
スルヤの手は、不安を押さえつけようとするかのごとく、テーブルの上で固く握りしめられている。
「スルヤ君」
キースは、ほとんど直感的に、スルヤに問いかけた。
「君は、本当に、スティーブンの作った画像を見たことはないのか?」
スルヤはキースにいきなり肩を掴んで揺さぶられたかのように、びくっと身を震わせた。
「スルヤ…?」
訝しげに眉を寄せ、再び問いかけようとするキースの前で、スルヤの顔が上げられ、濡れたような黒瞳が意外なほど強い光を帯びて彼を見返した。
「いいえ」
スルヤはきっぱりと否定した。
「たくさんの人がスティーブンの作った画像について俺に尋ねました。けれど、本当に俺は何も知らないんです。自分が深く関わっているはずのことなのに、何も答えられないのは辛いです。スティーブンは俺の親友でした。それなのに、彼の抱えていた不安や悩みを、あんなことになる前にちゃんと聞いてあげられなかったことを俺はとても後悔しています。スティーブンの様子がおかしいと思った時にもっと深く彼を追求していたら…秘密にしないで教えて欲しい、俺は何を言われても驚かないし、彼のことを必ず助けると言ってあげたらよかった…どうして、俺はそうしなかったんだろう。それを思うと、悔しくて、悲しくて…」
語るうちに気持ちが昂ぶってきたのだろう、スルヤの感じやすそうな大きな瞳が見る間に潤んできたのに、キースは慌ててポケットの中のハンカチを探した。
「だから、俺、もう二度と同じ過ちは繰り返さない…」
半ば涙声と化した最後の呟きは、キースには聞き取れなかった。彼は綺麗にアイロンのかかったハンカチを無言でスルヤの前に差し出した。
「ありがとう…ございます…」
はにかむようにスルヤは微笑んで、キースのハンカチを受け取り、ぽろぽろと溢れ出した涙を拭った。
「その…スルヤ君、いきなり君を呼び止めて、君を動揺させる質問を色々したり、辛い話を君にさせてしまったりして、すまなかった」
キースは弱ったように金茶の頭をかいて、小声でスルヤにわびた。
「刑事というのは実際人に嫌われる因果な仕事だな。だが、全ては、殺された君の親友や他の罪のない人達の無念を晴らすため…これ以上の犠牲者を出さないために必要なことなんだ。犯人が何者なのか俺は知らないが、そいつにもこれ以上罪を犯させたくはない。理由は分からないが、犯人は自ら殺しをとめることができないのだと思う…捕らえることが犯人自身も救うことになると俺は信じている」
キースの真摯な言葉に、スルヤは涙を押さえていた手を止め、顔を上げた。
「犯人は…苦しんでいると思いますか…?」
「ああ、そう思うよ」
キースが穏やかに微笑んで頷くと、スルヤはまた黙り込んでしばらく何事が考え込んでいた。
キースが冷めてしまった紅茶のカップに口をつけて一口すすると、カフェのウエイトレスがやってきて、閉店時間を告げた。
「何か俺に知らせたいことがあれば連絡をくれ」
カフェを出た所で、キースは自分の携帯電話番号などの書かれたカードをスルヤに手渡した。
「はい…」
スルヤはカードを見つめながらぼんやりと答えた。
「その…もう落ち着いたかな。さっきは君に泣かれて驚いた…あまり気を悪くしないでくれ、スルヤ君」
柄にもなく困惑の面持ちで頭をかいているキースをスルヤは今初めて気がついたように見上げると、にこっと笑い返した。
「俺は大丈夫です。こちらこそ、急に取り乱したりしてすみませんでした」
スルヤは背中にリュックサックを背負いなおすと、改めてキースに手を差し出して握手を求めた。肉の薄い少年の手をキースはしっかりと握り返した。
「事件の捜査の方、がんばってください。それじゃ、また」
「スルヤ君―」
屈託のない笑顔を残してくるりと背を向けるスルヤを、キースはとっさに呼び止めようとした。理由などない。ただ、何となく、このまま彼を家に帰してはならないような奇妙な胸騒ぎがしたのだ。
訝しげに振り返るスルヤに、キースは戸惑いつつ手を振った。
「いや―何でもない」
スルヤは一瞬妙な顔をしたが、すぐに後ろを向いて歩き出した。
キースは少年を見送った後、溜め息をついて、逆方向にあるエスカレーターの方に向かった。
その後、キースはロバートの病室を訪れ、彼の容態を確認した。だが、これもスルヤの場合と同じだった。キースの異能も今度ばかりは働かず、深い眠りに捕らわれた彼からはスティーブンを襲った不幸についての何の手がかりも得られなかったのだ。
キースは程なくして諦めて、ロバートの病室を去ることにした。聡い彼が何の手がかりも見つけられなかったのは、思わぬ時に出会い言葉を交わしたスルヤの様子に気がかりを覚えていたからかも知れない。
あるいは、もう少し長い時間ロバートの傍に留まっていたら、何かが変わっていただろうか。
キースがこの後予定されている会議の時間を気にしつつ、足早に立ち去った後の病室は、早くも下りた夜の帳に覆い隠されていた。
外からの微かな灯りにうっすらと浮かび上がる白いベッドの中に横たわる痩せた男には、最前から何の変化も見られない。
だが、次の瞬間―。
微かな兆しが生じた。
シーツの上に力なく置かれた手、スルヤが切々と語りながらしっかりと握りしめていた、ロバートの手がほんの僅かに動いたのだ。
まるで、閉ざされた闇の中、見失った外の光を探し求めようとするかのごとく―。