愛死−LOVE DEATH−

第二十五章 再会の時


「街中でフェラーリを我が物顔に走らせるなんて、派手好きで目立ちたがり屋なあなたらしいですね」

 お世辞にも広いとは言えないシートに身を預けながら、カーイはいらいらと足を組みかえた。

「一体、こんな車のどこがいいのか…格好ばかりで、狭いし、乗り心地は悪い。おまけのこのエンジン音ときたら…ああ、うるさい。ドライブするには最悪ですね、そう、最悪」

 先程からずっと不機嫌で文句ばかり垂れ流しているカーイを、レギオンはちらっと横目で見た。こちらは対照的に実にくつろいで、隣にカーイがいることを心から楽しんでいるようだ。

「そう言えば、君はボルボを乗り回しているらしいね、スルヤ君から聞いたよ。派手なスポーツカーは嫌いだとよく分かったけれど、でも、どうしてボルボなんだい?」

「…私の運転は荒いんです」

 カーイは仏頂面で正面を睨み付けたまま、素っ気無く言った。

「万が一にも事故を起こしてスルヤに怪我などさせたくないですからね。少々のことではあたり負けしないような丈夫な車を選んだだけですよ」

 レギオンは上品に首を傾げてみせた。

「それは…冗談のつもりなのかな?」

 カーイはますます機嫌を悪くして唇を引き結んだ。

 どこに行くつもりだとカーイは尋ねなかったが、どうやら車はロンドンの中心に向かっているようだ。

 仕事帰りの人々の車で反対車線の道路はそろそろ混み始めている。

「どういうつもりだったんです?」 

 ついに、カーイは口火を切った。

「私に隠れてスルヤに会いに行くなんて―反則ですよ、レギオン」

「いけなかったかな? だって、私は君からの連絡をじりじりしながら待っていたんだよ。空港にも現れなかったし、サンティーノから私の泊まるホテルを教えられたはずなのに、電話も一向にかかってこない…よほど私に会いたくないのかなとかんぐったよ」

「だからと言って、スルヤにちょっかいを出すことはないでしょう! いいですか、レギオン、例えあなたでもスルヤに何かしたら、許しませんからね!」

「サンティーノに対しても同じようにすごんだらしいね、カーイ。あんまり彼を苛めるものではないよ。気の優しい男なんだから…そう、私と違ってね」

 カーイは細い眉を吊り上げた。

「レギオン、あなたは一体どういうつもりで―」

 カーイは助手席から身を乗り出してレギオンを問い詰めにかかった。瞬間、レギオンはカーブで鋭くハンドルを切る。とっさに、カーイはレギオンの肩に手を置いて体を支えた。

 布越しに感じられた、レギオンの逞しい体の感触。慌てて手を引っ込めたものの、カーイは何となくきまりが悪かった。

「それにしても…この目で見るまで信じられなかったけれど、カーイ、君は心底あの坊やに惚れこんでいるんだ。認めたくはないが、私は少し妬いてしまったよ。あれほど君に大事にされているなんてね」

 ヴァンパイアの嫉妬深さはカーイも我がこととしてよく知っているだけに、答える声は固く、威嚇するような響きを帯びた。

「レギオン、今更恋人面などするつもりじゃないでしょうね。私達の蜜月なんてもう200年も昔のことです。スルヤに関して、あなたにとやかく言われる筋合いなどありませんよ」

 いまや氷塊そのものと化したカーイにも、しかし、レギオンは余裕の態度を崩そうとしない。体に響くフェラーリのエンジンの振動を楽しむよう、機嫌よさげに鼻歌を歌っている。

 全く、相も変わらず憎らしい。カーイは密かに舌打ちした。

 ふいに、レギオンが語りかけてきた。

「恋人面などしないよ。ただ君のことは今も変わらず愛しているけれどね」

 世間話をするかのようなさらりとした口調だったので、カーイは危うく聞き流しそうになった。

「私が私である限り永遠に愛している。遠い昔に告げた、そんな他愛のない言葉など、君はもう覚えていないだろうが」

「レギオン…」

 カーイは胸の奥底で何かかざわめきたつのを覚えた。

 レギオンが昔、恋人であった若いカーイにそんな言葉をかき口説いたことをカーイもまだ覚えていた。何と言ってもカーイにとっては大切な初恋だ。レギオンの方こそ、そんな誓いなど、どうせその場限りの戯言として忘れ果てているに違いないと思っていたのに、意外だった。

 カーイの胸に張り詰めた氷は、案外簡単に溶け出してしまいそうだ。何だか毒気を抜かれて、カーイは黙り込んでしまった。

「君が人間との恋に溺れるあまりヴァンパイアの掟から外れた行為に及んでいると知った時は、さすがに私も動揺した。恋人であってもなくても、君は私にとって大切な人だ。君のことはいつも気にかけているし、君が苦しんでいるのなら何としても助けてやりたい」

 思わぬ真摯な態度で訴えるレギオンに、カーイはつい動揺した。用心深くよろっていた心の間隙を突かれ、彼は居たたまれなくなって、レギオンから顔を背けた。

「君はスルヤを殺したくない。気持ちは分からないでもないよ…飢えが紛れるならと他の血を求めるようになったんだね。でも、どうやっても渇きは癒されず、身代わりの犠牲者を何人屠っても君の体は弱っていく…。カーイ、こんなことをいつまでも続けられるはずはないと、君も知ってはいるんだろう?」

「レギオン…黙ってください、お願いです…。あなたの言うことなら、私は身をもって感じているし…気が遠くなるほど考えました、この飢えを封じるために、他に何か手立てはないだろうかと…」

「ないよ、カーイ、残念だけれどね」

 にべもなく答えるレギオンの声に苦いものが混じっていたように感じたのは、カーイの気のせいだろうか。 

 カーイはレギオンにおずおずと目を向けた。彼に追及されたくないがために張り巡らせていた氷の障壁はあっさり消えてなくなってしまった。

 レギオンに無防備な自分をさらけだすことは、カーイは何としても避けたかったのだが―。

 しかし、レギオンの次の言葉は、別の意味でカーイの胸を芯から凍りつかせた。

「スルヤの血を奪え、カーイ。君はそうするべきなんだ。君が仕掛け、あの子が受け入れた、恋の始末は君達が2人でつけらなければならない。何の関係もない他の人間達を巻き込むな」

 カーイは唇を戦慄かせた。一瞬とまったかと思った心臓は、どくどくと激しく打ち始めた。

「レギオン…あなたの言うことは正しい…とても正しいとは分かっています…でも―」

 カーイは、まるで自分がものの分からぬ幼い子供になって、決して敵わない父親相手に駄々をこねているような気分だった。

「君ができないのなら、私が代わりに始末をつけてもいいんだよ、カーイ」

 レギオンの声音が微妙に変わったのに、カーイははっと息を飲んだ。

「人間とヴァンパイアが共に幸せに生きられる方法がどこかにあるなどというたわ言で君を誤魔化すつもりはないよ、カーイ。でも、飢えに狂ったヴァンパイアを苦しみから解放してやる術なら、私も知っている」

 穏やかに響く美しい声に隠された凶器のような残酷さに、カーイは髪の毛がそそけだつのを覚えた。

「私を飢えから解放する…レギオン、あなた、まさか―?」

「君の代わりに私がスルヤを殺してやるよ、カーイ。サロメのように銀の大皿に乗せて、君に恋人の首をあげようか」

 ぷつっとカーイの中で何かが音をたててちぎれとんだ。心細げに揺れていた青い瞳が一転、憤怒の炎を噴き出す。

「レギオン…!」

「うわっ!」

 カーイの怒声とレギオンの悲鳴はほとんど同時に迸った。

 レギオンの一言に逆上したカーイは、何を思ったか、いきなりレギオンが操るハンドルに飛びつくと右方向に大きく切ったのだ。

 転瞬、勢いよく反対車線に滑り込んだフェラーリのフロントガラスの向こうから、一台のバンが突っ込んできた。

 レギオンは死に物狂いでカーイを押しのけハンドルを奪い返すと左方向に切り返し、もとの車線に戻った。際どいところで正面衝突を免れたバンがよろよろと脇を走り抜けていく。

「何を考えているんだ!」

 怒鳴りつけるレギオンの声には本気の焦りが滲み出ている。

 それへ、助手席で乱れた髪を直しながらカーイは冷たい声で言い返した。

「この車が事故を起こして爆発炎上しようが、私達は死にはしませんよ。500年も生きているくせに、人間のように取り乱すのはおよしなさい、みっともない」

 レギオンは苦々しげに舌打ちをした。

「久しぶりの再会だというのに、とんだ挨拶だな! 一体こんな行儀をどこで覚えたんだい、カーイ? ブリジットが知ったら、泣くぞ」

 レギオンの真剣な抗議をカーイは鼻先でせせら笑った。レギオンはカーイを昔と同じ世間知らずの若者と思いたいようだが、こちらも伊達に200年を生きてきたわけではない。

「あなたの方こそ、口のきき方を改めるべきですよ。せっかく手に入れた自慢の車を廃車にされたくないのならね」

「私を脅すのかい?」 

 今度は半ば呆れたように、半ば情けなそうにレギオンは問い返した。

 カーイが石と化したかのごとく黙り込んでいると、やがてレギオンは降参したように片手を上げた。

「分かったよ、カーイ。スルヤには手は出さない。少なくともしばらくの間は、君達2人の問題についてとやかく言うのもよそう」

 カーイは疑い深げにレギオンを睨みつけた。

「私は折れてやったんだから、そろそろ機嫌を直してくれないかな、意地っ張りのカーイ」

 レギオンは溜め息をついた。そうして、道路わきに車を寄せると一時停車した。

「何?」

 レギオンはシートベルトを外して、カーイの方に身を乗り出してきた。カーイは警戒心も露に眉根を寄せて、レギオンを振り仰いだ。

「顔をよく見せてくれないか?」

 カーイを見下ろすレギオンの瞳は、記憶にあるのと同じ鮮やかな若葉の色をしていた。最も輝いていた時代のレギオンと少しも変わらない姿をして、彼は今、カーイに優しく微笑みかけている。

 この瞬間、不覚にも、カーイは心臓の鼓動が微かに早くなるのを覚えた。あれから200年も経っているというのに、まだカーイの胸の奥底に、かつてレギオンを夢中で慕っていた少年の心が残っていたようだ。

 ここがどこなのかをカーイは忘れそうになった。カーイを懐かしげに見下ろすレギオンの瞳の奥には、確かに、共に過ごしたあのパリの街の思い出がほのかな陽炎のように揺らめいている。

「やつれたね…」

 幾分哀しげに呟いて、レギオンはカーイの頬に指先でそっと触れた。

 数分前なら素っ気無く振り払っただろうが、今はレギオンを拒絶することなど、カーイには思い浮かばなかった。

「それでも、カーイ、現実の君は、私が君と別れて世界をさ迷った長い年月、繰り返し見たどの夢よりもずっとずっと美しいよ」

 カーイは少し照れくさかったが、いかにもレギオンらしい気障な言葉や態度が妙に嬉しかった。何だか昔に帰ったような気がして、胸がときめいた。

「馬鹿…」

 結局、己にはこの男を心底嫌ったり憎んだりすることはできないし、無関心を通すことも無理なのだとカーイは悟った。

「私に会いたかったのなら、あんな曲がりくねったやり方をせず、初めからまっすぐに私のもとにやって来て、そう言ってくれればよかったんですよ」

 カーイは込み上げてくる懐かしさと慕わしさに唇を震わせ、何だか泣き笑いのような顔になって、囁いた。

「黄金色のレギオン、あなたが生きていてくれて本当に嬉しい…」

 カーイの中で、あの無邪気な少年の心が跳ねた。

 昔、レギオンの姿が少しでも見えないと不安で館中を探し回った。やっと彼を見つけると、まっすぐに駆け寄って躊躇いもなく抱きついた…。

「私も会いたかった」

 カーイは子供のような大胆さでかつての恋人の体を引き寄せると、万感の思いを込めて抱きしめた。





 レギオンは油断ならない男だからくれぐれも用心しなければならないとは、カーイも考えていた。

 カーイの聖域であるスルヤにレギオンが密かに近づいていたと知った時の目もくらむような憤怒を忘れた訳でもない。

 だが、同時に、カーイがレギオンとの再会を喜んでいたことも確かだった。

(初恋はどうしても忘れられないものなのか…200年も生きて、それなりに経験を積んだいっぱしの色事師でもいたつもりだったけれど、案外私も甘い…)

 核心の部分には触れぬままなし崩し的にレギオンと和解してしまった後、カーイはロンドンの中心街にある高級レストランに連れてこられた。

 こうなることをちゃんと見越していたのだろう、予めテーブルを予約していたレギオンの手際のよさには、今更ながらはめられたような気もしたが、そんな些事に目くじらを立てないほどにはカーイは機嫌を直していた。

 夜景を眺めながらのディナーの席で、カーイがレギオンと交わしたのは、お互いの近況だとか今までどこでどんなふうに過ごしてきたかなど、いくら時間をかけて語り合っても興味の尽きない、総じて楽しい話ばかりだった。永生に付きまとう艱難はお互い承知していたが、せっかくの再会の序盤は心浮き立つものにしたいと、きっとカーイだけでなくレギオンも考えていたのだろう。

「何だ、それじゃあ本当にここ数年の私の活動については全く知らなかったのかい。雑誌で見たこくらいはあるんじゃないかと期待していたんだが…」

「すみません。現代アートには疎くて…もしかしたらどこかでポスターくらい見かけたことはあったのかもしれませんが、それにしたって、あなたと結びつけることはなかったと思います。だって、昔と全然作風が変わっているじゃないですか」

 昔から絵心のあったレギオンは、今は絵だけでなくCGやホノグラムを使った立体的な作品まで手がけるアーチストであり、同時に舞台演出家としてもそれなりに成功しているのだと言う。

 カーイが興味を示すと、レギオンは食事の後に近くの大型書店に立ち寄って、彼に自分の作品が紹介されている雑誌を見せてくれた。が、古典的な芸術が好きなカーイには、それら前衛的な作品は何が何だかよく分からないものだった。

「たぶん、この絵なんか、逆さにされても間違っているのかどうか分からないでしょうね、私は…。こういうのが今は好きなんですか? 昔のような叙情的な風景画や人物画はもう描かない…?」

「描けなくなった訳じゃないけれど、そんなものを今描いても刺激を求める現代人にはうけないからね。どうせやるなら世間の注目を集め、大衆をあっと驚かせてやりたいのさ、私は…もともとこれも洒落で始めたようなものだからね。そう、人間社会に隠れ潜んで生きてきたヴァンパイア一族の私が、人間相手に自分を売りこんで、高く買わせる…そのためには彼らが欲しがるものを作ってやるんだ。人間の心の奥底に潜む無意識の願望や欲望を抉り出すのは我々の得意とするところだが、実際、なかなか面白い遊びだよ。本当に大当たりしてしまったしね。ところが、かくして顔と名前が人間たちの間で知れ渡っても、私の正体がばれることはまずない。ありえないことに対する現代人の思い込みが、どんなに巧妙に作り上げた仮面よりも私の真実を隠してくれる。そうやって、今の時代だからこそ得られる自由を私は謳歌しているんだよ」 

 昔よりも更に図々しく、よく言えば逞しくなったレギオンを、カーイは眩しげに見つめた。

 長すぎる命を持て余し疲弊しきった末、全てに絶望したことがレギオンにもかつてあったはずだが、今の彼は気鬱も倦怠感も見事に振り払っていた。鮮やかな緑色の瞳は、どこか皮肉げでありながら、今を楽しみ、そして未来をまっすぐに見据えている。

「今の時代が好きか嫌いかと問われれば、私は愛していると答えるだろうな。人間達も含めてね。彼らは大切な友人さ。私に、いつも尽きない興味と関心の種を与えてくれる、実に刺激に満ちた生き物だよ。私はまだまだ生きるが、人間達がこの先どこに向かうか、この先も見守ってやるつもりだ。そうだ、後百年も経てば、きっと人間達は、かつては夢物語だった宇宙を旅することさえ当たり前にしてしまっているだろう。その時は、是非、私もあの前人未踏の世界を体験してみたいものだね。さて、本当に映画のようなことになっているのかな、想像するとわくわくするじゃないか」

 もしかしたら、今のカーイよりもレギオンの方がずっと若く生き生きとして見えるのではないだろうか。

 閉店間際の書店をすぐに出ると、レギオンは次にカーイをロンドンの最新スポットの1つだというモダンなバーに連れて行った。

 週末でもないのに、黒と赤に統一された店内は流行のファッションで身を包んだ粋な男女で混みあい、紫煙で薄っすらと霞んだ席の合間を、隙のない身のこなしのボーイ達が色とりどりのカクテルグラスを盆の上に捧げ持ち忙しげに動き回っている。

「この店は、ロンドンをいつか訪れることがあれば立ち寄ってみようと思っていたんだ。オーナーが私の作品の熱心なコレクターらしくてね、是非一度訪ねて欲しいと手紙をもらっていたんだよ」

 レギオンの顔のおかげか、混んでいるにも関わらず一番いい席に2人は通された。挨拶に出てきたなかなか美人のオーナーに、レギオンはたっぷり愛嬌を振りまくと店の取って置きのワインを聞き出し、カーイとの再会を祝してと1982年ビンテージのクリュッグを頼んだ。

 微かにナッツやキャラメルの風味を感じさせる、濃厚な味わいでありながら繊細で爽やかなシャンパンを祝杯として傾けながら、カーイは目の前に坐っているレギオンの様子を窺った。彼は実に楽しげに、壁の絵やオブジェとして飾られている自分の作品を眺め回している。

「何だか、今のあなたが羨ましいです」 

 思わずポツリと漏らしたカーイの本音に、レギオンは問いかけるように微笑んで、首を傾げた。

「覚えていますか? 私が最後にロンドンで出会ったあなたは…そう、あの時、あなたは夢破れて新大陸から戻ってきていたんです。ひどく傷つき打ちひしがれて、ヴァンパイアとしての自信も誇りも失い、自暴自棄になっているように見えました。狩りの仕方も忘れてしまったようなあなたに…私はひどい暴言を吐いてしまった…私はあなたに助けの手を差し伸べるべきだったのに、私がしたことといえば、あなたの傷を抉るような残酷な言葉を叩きつけ、血を飲ませて欲しいと懇願するあなたを殴りつけて、逃げ出すことでした。今更謝ってどうなるものでもないけれど、レギオン、私は後悔しています」

「もう、すんだことだよ、カーイ。気にするな」

 レギオンはテーブルの上で固く握りしめられたカーイの手の上にそっと己の手を重ねると、なだめるように優しくさすった。 

 その左手の小指に目をとめてカーイは懐かしげに微笑んだ。これも変わっていない。カーイがレギオンとの別離の記念として喰いちぎってやった指は、美しい黄金の義指となって、今、彼に触れている。

「でも、本当によく生き延びていましたね、レギオン。私は、まさか今のようなあなたと再会できるなんて夢にも思っていませんでした。何もかも元通り、私が覚えている、かつての輝くような姿を取り戻して…」 

 言いさして、カーイの顔に微かな惑いと怯えがよぎった。最後にレギオンを見たのがいつどこでだったのか、正確な所を思い出してしまったのだ。

 カーイの顔色が変わったのにレギオンも気づいたようだ。

「確かに、私は一度死んだようなものだね」

 レギオンは恐ろしげに首をすくめてみせた。

「君があそこで見たのは私の死体だ。死にたくても死ねない、不死のヴァンパイアが行き着いた1つの終末…我ながら、よくあそこまで堕ちられたものだと思うよ。とは言っても、実は、あの頃のことはよく覚えていないんだが…正直、思い出したくもないね」

 グラスのシャンパンを一息で空けると、レギオンはしばし黙り込んだ。

「レギオン?」

 カーイが躊躇いがちに呼びかけると、レギオンは何かしら吹っ切れた顔で笑い返してきた。

「何があろうとも私達は生き続ける。時間はたゆまず流れ、一旦没した太陽も次の日になればまた昇る。底の底まで落ちてしまった後に始まるのは緩やかな上り坂だ。留まることも終わることもできないのなら、ゆっくりと一歩一歩踏みしめるようにして登って行くしかないのさ…もう一度、遥かな高みを目差して」

 穏やかに語るレギオンにカーイは何かしら胸を突かれた。同時に激しい羨望も覚えた。

 かつて地獄を見たレギオンは、今はこんなにも穏やかで、かつてと同じ、いやそれ以上の光輝に包まれている。

 我が身を苛む現実と引き比べて、カーイは、いつか自分もこんなふうに穏やかに微笑むことができるようになるのだろうかと考えずにはいられなかった。

「カーイ、君もいつかまた本来の自分を取り戻すことができるさ」

 カーイの気持ちを読み取ったかのように、レギオンが優しく囁きかけてきた。

「終わりのない夜などない。君の苦しみもやがて晴れ、明るい朝の光の中で目が覚めたような気分で世界を見ることが出来るようになる。私が保証するよ」

 太陽のような微笑みに胸が熱くなるのを覚え、カーイは思わず俯いた。

 レギオンと一緒にいるとつい楽観的になって、いつか自分にも明るい未来が開けるような気がしてくる。

「ありがとう、レギオン」

 これまでにないほど素直な気持ちで、カーイは言った。

「あなたと話していると随分気持ちが楽になりました。何だか肩の力が抜けて、ほっとできる…不思議なくらい安心できて―」

「それは、君のことをよく理解している私相手なら変に取り繕う必要もなく、自然に振舞えるからじゃないかい。人間ばかり相手にして暮らしていると自分が芝居をしていることもうっかり忘れそうになるが、どこかで無理をしているのさ。誰かに本音で話せるというのは、心地いいものだろう?」

「おや、同族相手でも必ずしも心を開いて打ち溶け合えるとは限らなかったじゃないですか。私達がうまくいかなかったのは、そもそもあなたが私に対して心を閉ざし、私もそれに腹を立てて心を閉ざしてしまったからでしょう。でも―」

 つい意地悪な口調で言い返したカーイだが、すぐに、言葉を和らげた。

「私が血の味を覚え始めたばかりの子供だった時は、あなたの傍にいて、確かに私はとても安心できました。何があってもあなたは私を裏切らないし、必ず守ってくれると、無条件に信頼していた…何だか、あの頃に返ったような気分が少しします」

「ああ…そうだね」

 ゆったりと頷き返すレギオンの背後に、カーイは今、華やかに装った客達の笑いさざめく声で満たされた現代的なバーではなく、過ぎ去った遠い時代の幻を見ていた。

「知っていますか、私達が暮らしたパリの館があった場所は、今は小さなホテルになっているんですよ。泊まったことはありませんが…」

「私が隠れ家にしていた、森の中の塔を覚えているかい? 2人きりになりたいと言う君をよく連れて行って、そこでのんびりと絵を描いたりして過ごした」

「ええ、ええ、もちろん。それじゃあ、時々コーヒーを飲みにいった、あのカフェは…?」

 いきなり、2人は『覚えている?』の発作に駆られて、古い記憶を隅々まで突付きまわしながら、互いに問いかけあい、思い出してクスクス笑ったりしんみりと追憶に浸ったりした。

 カーイの心は、彼が一番幸せだったパリの時代に完全に引き戻されていた。

 日頃の憂悶も身のうちに潜む飢えさえも忘れて楽しげな笑い声をあげるカーイを、レギオンもまた実に満足そうに眺めている。

 2人がもう1本ワインを空け、ようやくバーを出た時には、日付は変わっていた。

「久しぶりに楽しいお酒でした…スルヤはほとんど飲めないから、バーに連れて行くこともあまりなくて―」

「少し酔ったんじゃないのかい?」

「ふふ、そうかもしれませんね。足元がふわふわして浮かんでいるような気分ですよ」

 悪戯っけを出して、カーイが本当にふわりと浮かんでみせるとレギオンは慌ててその体を捕まえて、地面に引き戻した。

「こらこら、通行人は私達だけじゃないんだよ?」

「誰も見やしませんよ」

 カーイは甘えかかるようにレギオンの肩に手を置いて、クスクス笑った。

 レギオンを困らせるのは、楽しい。

 2人は人通りの少なくなった街をぼんやりと歩いていった。しばらくしてテムズ河の川岸に出ると、それに沿ってそぞろ歩きを続けた。

 カーイが対岸をぼんやり眺めやると、鉄道橋の向こうの対岸に今は静かに眠るシティの灯りとぼんやりと浮かび上がるセント・ポール寺院の丸い屋根が見える。

 そろそろ帰らなければならない時間だ。こんなに遅くなってしまって、スルヤはきっと心配しているだろう。だが、カーイは何だか名残惜しくなっていた。

「カーイ」

 ふいに、肩を並べて歩いていたレギオンが立ち止まった。

「はい?」

 カーイも足を止め、レギオンに向かって問いかけるかのごとく眉を上げた。

「このまま、私と一緒に来ないかい?」

 コートのポケットに両手を入れてごく自然に佇んだまま、レギオンはまるでもう一件バーをはしごしようと誘うような口調で言い、片目を瞑ってみせた。

「私は君を帰したくない。昔のように、一緒に暮らさないか?」

 あまりに突然な申し出にカーイがとっさに答えられないでいると、レギオンは滑らかに動いて、カーイのすぐ前に立った。カーイを見下ろすレギオンの瞳は、暗がりの中、静かな熱情を湛えて輝いている。

「いきなりよりを戻そうとまでは言わないよ。ただ、私は君を守ってやりたいんだ。最初の狩りの衝撃を引きずっていた頃、君は私の傍だと安心して眠れると言って、よくベッドにもぐりこんできたね。今の君はよるべない子供に戻ったかのように弱くもろくなっている。君には、支えてくれる誰かが必要だ。私のもとで傷ついた心と体を癒せばいい。そう、いつか君が本来の自分を取り戻すまで―」

 真摯で真率な訴えに、カーイは思わず心がぐらつくのを覚えた。

 レギオンの手が伸ばされ、カーイの頬を両側から優しく挟んだ。

「私達が共に覚えている、あの懐かしいパリの時代…2人でもう一度、あの頃の幸せを取り戻そう」

 レギオンの口調はいつしか激しい熱のこもったものとなって、カーイを圧倒し揺り動かした。

「ああ、もしもあの頃に本当に帰れたら、どんなにかいいでしょうね…

 込み上げてくる憧憬と切望にカーイは声を震わせた。

「200年生きてきたけれど、やっぱり、私が一番幸せだったのはパリで過ごした少年時代ですから」

 うっとりと夢見るような表情を浮かべ、カーイはレギオンに引き寄せられるがまま、彼の胸に頭を預けた。

 確かにこうしていると、とても安心できる。もうずっと苦しいことばかりだったけれど、レギオンについていけば、今度こそ楽になれるだろうか。

 魔が差したように、カーイはそう思った。それ程に、レギオンを手がかりとして甦った過去の記憶は幸福と安らぎに満ちていた。

「無邪気な子供だった私がいて、その傍には輝く太陽のようなあなた、そして―」

 カーイはふいに身を強張らせた。青い目を見開いた。

「ブリジットが…いた…」

 カーイの述懐は途切れた。

 いきなり直面した現実に、カーイはしばし呆然とした。

 ブリジット。今はもうどこにもいない、愛する貴女―。

「カーイ?」

 黙りこんでしまったカーイの髪をレギオンは指先で梳きながら、訝しげに問いかけた。

「駄目です」

 カーイは哀しみに沈んだ声で囁いた。

「あの頃に戻ることなどできません、レギオン。それは夢です」

 カーイはレギオンの胸に手をつき、そっと押し返した。

「あれからもう200年も経っているんですよ。私達が過ごしたあの館もなくなってしまった。私達自身だって、お互い随分変わったじゃないですか。それに…子供だった私をあやすように抱きしめてくれたブリジットは…この世のどこにもいないんです」

 カーイは、神妙な表情を浮かべているレギオンを見上げて淡く微笑むと、しかし、意外とはっきりとした口調で言った。

「私のかつての家はブリジットが消えた時に、なくなってしまったんです。あなたとのことも、だから、今はもう思い出…それは再び現実になることはありません」

「カーイ」

 手を捕らえようとするレギオンからするりと逃げて、カーイは一歩離れた所に立った。

「私は、今、この街で新しい家を見つけたんです。だから、もう帰ります、レギオン。今頃スルヤは待ちくたびれているでしょうから」

 レギオンは、カーイに引っぱたかれたかのように顔をしかめた。

「結局、そうなるのか」

 がっくりと肩を落とすレギオンにカーイは慰めるような声をかけた。

「でも、レギオン、私を力づけ慰めてくれた、あなたの気持ちはとても嬉しかった。ありがとう、今夜は本当に楽しかったです。あ、私はタクシーを拾って帰りますから、別に送らなくてもいいですよ」

「カーイ…ちょっと待ちたまえ」

 くるりと背中を向けてそのまま立ち去ろうとするカーイを、レギオンは呼び止めた。

「君の強情なことは私もよく知っているよ。私の助けなど欲しくないと言いはるのなら、無理強いはしない。でもね、愛する君のためにせめてこのくらいはさせてもらえないかな」

 怪訝そうに足を止めて振り返るカーイの見る前で、レギオンは首に巻いていたシルクのスカーフを外し、シャツの襟をくつろげた。

「レギオン?!」

 剥きだされたレギオンの首筋の魅力的な窪みについカーイが目を奪われた、次の瞬間、レギオンは鋭い爪でそこをかき切った。

 夜目にも鮮やかな深紅色の血の色彩、瞬く間に広がった圧倒的な匂いが、カーイを襲い、理性を吹き飛ばすほどの強烈な一撃を脳髄に与えた。

 カーイの顔つきが瞬く間に変貌する。

 血。血。飲みたい。

「これが、私にできる精一杯の―うわっ?」 

 レギオンが言い終えるより先に、カーイは彼に飛び掛っていた。

 飢えを満たす衝動以外、カーイの中にはもはや存在しなかった。めくれた唇から鋭い牙を突き出し、ぎらぎらと輝く獣の目をした、今の彼をまともに受け止めるのは、同族であってもなかなか勇気のいることだったろう。

 反射的に後じさりするレギオンを逃がさぬよう押さえ込むと、カーイはその喉に一気に牙をたてた。

 さすがのレギオンも死の口付けの衝撃に身を震わせ不安定によろめいたが、それでも、何とかその場に踏みとどまった。

「カーイ…カーイ…」

 凄まじい力で己を捕らえこみ、首の傷口にぴったりと口を押し付けて喉を鳴らせながら血を飲んでいる、かつての恋人にレギオンは腕を回した。

「飲むといい、カーイ…私の血は君をしばしの間飢えから救い、君に力を与えてくれるだろう。その渇きから真に逃れることなどできはしないが、それでも―」

 なだめるよう、唄うよう、囁きかける低い声をカーイは真っ赤に染まった意識の片隅で聞いていた。今の彼にとって、それは意味をなさない音でしかなかったが、体の中に流れ込んでくる血から伝わる『声』と重なり合って、五感を震わす心地よい旋律として感じられた。

(この血は甘い、この血は熱い、私のからからに干からびた喉に舌に心地よく流れ込み、冷え切った体を隅々まで温めてくれる)

 カーイはレギオンの首に腕を巻きつけたまま無我夢中で飲んでいた。初めの凶暴な捕食本能が落ち着いた今、カーイは久しぶりに味わう最上の血に陶然となっていた。

 レギオンが優しいが有無を言わさぬ力強い手で引き離さなければ、カーイは彼の血が尽きるまでいつまでも飲み続けていただろう。

「あっ」

 豪勢な食餌をいきなり取り上げられて、カーイは不満げに鼻を鳴らした。半眼になった瞳は酒に酔ったかのようにぼんやりと霞んで、何も映してはいない。

 血の滴るカーイの唇を、レギオンの指先がそっと拭った。

「愛しているよ」

 あまやかな囁きにカーイはうっとりと目を閉じた。カーイの中に取り込まれた熱い血は同じ歌を唄っていた。全身が炎の舌で愛撫されゆっくりと蕩かされていくようだ。

「私の…永遠の恋人…」

 レギオンの腕が再びカーイを取り囲み、下りてきた唇がカーイの額に優しく押し付けられた。

 カーイはびくっと身を震わせた。花開いた官能に切なげに眉を寄せて、腕や背を滑る力強い手の感触、頬をくすぐる情熱的な唇にほっと熱い吐息をもらした。

「う…ん…?」

 カーイは薄っすらと目を開けた。金色に輝く豪奢な髪が帳のように顔の周りにかかっている。

 優しい指先がカーイの顎にかかり、芳しい吐息を漏らす唇がカーイのそれを求めて滑り降りてきた―。

 瞬間、カーイは我に返った。

 拳を固め、怒りの唸り声と共に、カーイはレギオンの横っ面を力いっぱい殴り付けた。

 ヴァンパイアの手加減なしの攻撃は、人間なら確実に顎の骨を砕いていただろう。まとも喰らったレギオンは、さすがにひとたまりもなく、地面がへこみそうな勢いでカーイの足下に叩き伏せられた。 

「油断も隙もならない男…!」

 怒りと羞恥心にわなわなと震えながら、カーイはまだ殴り足りないというように、痛そうに頬を押さえてうずくまっているレギオンにじりっと迫った。

「ひどいな、せっかく血を飲ませてやったのに、そのお返しがこれかい?」

 レギオンは、顎がどうもなっていないか不安そうにちょっと動かしてみた後、恨めしげにカーイを見上げ、ひょいと飛び起きた。

「あなたが悪いんですよ、レギオン…私が前後不覚に陥っているのをいいことに、あんな破廉恥なまねをするから…」

 カーイは顔から火が出るような思いだった。

「おや、君だって、まんざらでもなかった様子だけれどね。私の血は素晴らしくよかったんだろう? あんなに感じて、欲しがって…」

 服についた汚れを払いながら気のない口調で言うレギオンに、怒り心頭に発したカーイは鋭い爪を振りかざした。しかし、彼が疲れたような吐息をついて、服についた血の染みをハンカチで拭い取るのを見て戦意を喪失した。

 レギオンの顔は心なしか青ざめている。動きも少し鈍い。どうやらカーイはかなり大量の血を彼から奪ってしまったようだ。

「その…私に仕掛けた悪戯はさておき、血をくれたことには感謝します。あなたのおかげで、私はかなり力を取り戻せたようです。ありがとう、レギオン」

 カーイは一瞬言いにくそうに口ごもったものの、やはり、礼を言わない訳にはいかなかった。レギオンの血は、確かにカーイを楽にしてくれたのだ。

 それに、ヴァンパイアは己を愛する者の血しか飲めない。レギオンの血がカーイを酔わせたのは、つまり、それだけ深い想いがたっぷりと血にこめられていたからだ。

 体に取り込まれた血の声を聞かずとも、レギオンが今でもどれ程カーイを大切に思っているかは彼にも痛いほどに分かる。しかし―。

「最初から素直にそう言ってくれればいいのさ、カーイ」

 レギオンは苦笑しながら乱れた襟を直した。

「だが、私の血の効力もそれほど長く続くと期待しない方がいいよ。これは、君が本当に必要とする『恋人』の血ではないからね」

 カーイの内心の動揺を見透かすよう緑の目を妖しく細めながら、レギオンは蜜のような声で誘惑した。

「それでも、また血が欲しくなったら、いつでも私のところに来るといい。愛は惜しみなく与う―君が求めるだけ、私はあげるつもりだよ」

 カーイは甘美な罠にも似た申し出をとっさにはねつけようとしたが、あの飢えの恐ろしさは身に染みているだけに拒否しきれず、レギオンから顔を背けるよう俯いた。

さて、君はスルヤのところに戻るんだろう? まあ、よろしく言っておいてくれ。そうだな、今度は3人で一緒に食事にでも行くかい?」

 レギオンは軽い調子で言いながら、カーイの肩に馴れ馴れしく手を置いた。カーイは思わずその手を払いのけ、レギオンを威嚇するように睨み付ける。

「それにしてもね、カーイ、真面目な話、あの痩せっぽちの小雀の一体どこがそんなによかったんだい?」

 自慢の金髪をこれ見よがしにかき上げて、揶揄するようにウインクを投げるレギオンに、カーイはまた一瞬切れそうになったが、寸でのところで怒りを押さえ込んだ。

「余計なお世話ですよ。私にとっては、この世で一番可愛い、大事な人なんですから。けたたましく鳴く派手なばかりの極楽鳥より、一緒にいてずっと心が安らいで、癒されるんです」

 お生憎様というように牙を剥いて言い返すと、カーイはくるりと踵を返して、早足で歩き出した。

 背中にレギオンの楽しげな笑い声が聞こえた。記憶にあるのと変わらない華やかな哄笑にカーイの胸はまた少し騒いだが、今度は立ち止まらなかった。


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