愛死−LOVE DEATH−

第二十五章 再会の時


「おい、すごい車が止まってるぞ。あれ、フェラーリじゃないかな」

 授業を終えて校舎から出てきたスルヤは、門の辺りで大勢の生徒達が集まって、外の通りを窺いながら落ち着かなげにざわめいている場面に出くわした。

「どうしたの?」

 その中に友人のアニーがいたので、スルヤは彼女に声をかけながら人垣の間から向こうを覗き見た。

「ああ、スルヤ…見てよ、あのスポーツカー」

 スルヤは大きな目をぐるっと回して、アニーが指差す所に停車している、真っ赤なスポーツカーを眺めやった。灰色にくすんだ冬の街角を背景にして、自己主張の激しい鮮やかな車体は少々浮いていた。

「あ、あれ、たぶんフェラーリF40だよ。叔父さんが以前欲しがって、買うかどうかかなり迷っていたんだ」 

 見た目はかっこよくてもそう簡単に乗り回せるような車じゃないからねと言いかけて、スルヤははっと息を吸い込んだ。

 注目の的になっている超スーパーカーのドアが開いたかと思うと、派手な車に負けず劣らず目立つ風体の男がしなやかな身のこなしで外に出てきたのだ。

 瞬間、スルヤの周りの生徒達がどこかの芸能人だと色めき立つ。

「レギオンさん?!」

 頓狂な声をあげるスルヤを、アニーがびっくりしたように振り返った。

「何、スルヤ…? あの人を知ってるの?」

 年頃の女の子の瞳には、早くも嫉妬と羨望がうかんでいる。

 人垣の後ろの方にいるスルヤを、道路を挟んだ向こう側からでもどういうわけかすぐに見つけたらしい、レギオンは右手を軽く上げて笑いかけてきた。

 すると、アニーだけでなく他の学生達も胡乱げな視線を向けてきたので、スルヤは何だか恥ずかしくなった。

「知っている…といえばそうだけれど…」

 意味ありげな微笑をうかべたまま、真紅の車体にもたれかかり、腕を組んでスルヤを待ち受ける構えのレギオンに、スルヤはしばし逡巡したが、これは行かない訳にはいかなそうだ。

 それに、確かにレギオンは近いうちに再びスルヤの前に現れると言い残していた。スルヤもレギオンのことは気になっていたのだ。

 スルヤは意を決した。生徒達をかき分けるようにして門から出ると、背の高い金髪の男に近づいていった。

 固唾を呑んで見守る生徒達の視線が背中に痛い。きっと、明日は皆に色々問い詰められるだろうなとスルヤは想像した。

「やあ、スルヤ」

 まるで親友にでも向けるかのような親愛に満ちた顔で呼びかけるレギオンに、スルヤはにこっと笑いかけた。

「こんにちは」

 レギオンはどことなく自慢げにピカピカの車体に手を滑らせている。

「よく手に入れましたね。それ、フェラーリの限定モデルでしょう? なかなか運転しづらい難物だと聞きましたよ」

「じゃじゃ馬をなだめすかしながら乗りこなすのが醍醐味なんだよ」

 悪戯っ子のような顔で軽く片目を瞑ってみせると、レギオンは恭しく車のドアを開いて、スルヤを差し招いた。

「乗りなさい。この間は失礼したけれど、今日は家まで送ってあげるよ、スルヤ」

「え?」

 スルヤは問いかけるかのようにレギオンを振り仰いだ

「カーイは家にいるのかな? もしそうなら、今日こそは彼に会おうと思うんだ。君には私のことはカーイに内緒にしろと口止めしていたけれど、もうその必要はないからね、スルヤ」

 猫のように輝く緑眼を細めゆったりと頷くレギオンの顔を、スルヤはまっすぐ見つめ返した。

「3日前に会った時は、あなたはまだカーイには会えないと言っていましたね。彼と対面する前に準備をしたいからと…カーイを助けるために何が必要か考えたい、そういうことだったと思うんですが…」

「ああ、言ったよ」

「今日はカーイに会って話をできるようになった…それは、つまり解決策が見つかったということなんですか? カーイに会って、そのことで相談したいと…レギオンさん、もし、そうなら俺も―」

 期待に顔を輝かせて詰め寄るスルヤを、レギオンはなだめるように手を上げた。

「そう話を急かすものではないよ、スルヤ…。カーイが私の言葉を素直に聞いてくれればいいのだけれどね。さあ、こんな所でいつまでも立ち話をしていても始まらないから、まずは君を送らせてくれないかな」

 軽く肩を竦めて運転席側に回りこみシートに滑り込むレギオンに、スルヤはもどかしげに唇を噛み締めた。

 レギオンの思わせぶりな態度や言葉にはともすれば振り回されてしまう。大体、スルヤが必要だと言いながら、彼は決して肝心なことを教えようとはしない。人のいいスルヤでさえ胡散臭さを覚えないでもなかったが、レギオンがカーイについて語る口調に込められた愛情には真実らしさが感じられて、その点については彼を信じてもいいような気がしていた。

「…君が昼間学校にいる間、カーイはいつもどうやって過ごしているのかな? 退屈しているんじゃないかい?」

「近頃は体調がよくないからかあまり外出しなくなったけれど、以前はよく1人で美術館や街角の小さなギャラリーを巡ったり、気に入りのカフェで本を読んだりしていたみたいですよ。それと、意外とまめに家事をする人で…おかげで家の中はいつもピカピカだし…どっさり買い込んだ料理本片手にパイやケーキを作ってくれて、俺が帰ってくると一緒にお茶をしたり…」

 フェラーリ史上最も過激なロードカーを危なげないハンドルさばきで滑らかに走らせながらのんびりと話しかけてくるレギオン相手に受け答えしながら、スルヤはやはり少し落ち着かない気分だった。

 この3日間、スルヤは結構じりじりした気分で待ち続けたのだ。カーイにレギオンのことを黙っているのも辛かった。何より、あんなふうに期待を持たせる言葉を残して去られた後では、今度こそカーイを助けてあげられるのか、そのために自分に何ができるのか、これまで以上に意識せずにはいられなかった。

「ふうん…カーイの手作りのお菓子や料理を毎日食べられるなんて、羨ましいな」

「きっと、家に着いたら何かご馳走してくれると思いますよ」

 何やら物欲しげなレギオンにスルヤはふと微笑を誘われたが、やはり胸の奥の引っかかりを忘れることはできなかった。全くこんな悠長な会話を交わしている場合ではないのだが―。

「ああ、スルヤ、忘れる前に言っておくけれど、今日は君にもちょっとしたプレゼントがあるんだよ。後で渡すつもりだから、覚えておいてくれ」

「プレゼント…ですか…?」

 思いがけないレギオンの言葉に、スルヤはぱちぱちと瞬きをした。

「そうだ、カーイは、運転はしないのかい?」

 問い返そうとしたらまた突然にレギオンに話題を変えられて、スルヤは戸惑った。

「え…ああ、車ならカーイは黒のボルボに乗っていますよ。気候のいい時は、休日によくドライブに行ったりしました」

「おや、ボルボとはカーイにしては随分無骨なイメージだね」

 装甲車並みに丈夫だと定評のある車種が意外だったのか、レギオンはスルヤの方に顔を向けて目をまるくした。

 他愛のないおしゃべりをしているうちに、いつの間にか車はスルヤの家の近くに差し掛かった。

「そろそろ君の家だね」

「ええ、あの角を曲がって…そう言えば、ここまでの道筋、俺は教えなかったけれど…俺の家の場所を知っていたんですか?」

「ふふ…」

 スルヤの素朴な問いかけに、レギオンは薄く笑っただけだった。

 もしかして下調べしていたのだろうか。いきなりスルヤの学校に現れたことといい、やはり、レギオンには不審な点が多い。

「君を取って食ったりなどしないから、安心しなさい、スルヤ」

 我知らず心細げな面持ちになっていたのだろうか、内心の不安を見透かすようなレギオンの囁きに、スルヤはシートベルトを直す振りをしてごまかした。

「あ、レギオンさん、あの家です」

 窓の外に見えた我が家をスルヤが指差すと、レギオンは心得たように家の前で車を止めた。

「あなたの顔を見たら、カーイはどんなにかびっくりするでしょうね。何なら、俺が先に行って、話してきましょうか?」

 この頃随分神経過敏になっている恋人を思い出し、スルヤはシートベルトを外してドアに手をかけた。

 その肩を伸びてきたレギオンの手がそっと押さえた。

「スルヤ、君へのプレゼントを忘れているよ」

「えっ?」

 スルヤは首をねじってレギオンを見やった。

「君に渡すべきかどうか迷ったんだが、やはり、これは君が持つべきだと思ってね」

 レギオンはスルヤの肩に触れた手を更に伸ばすと、ドアのロックにかかっている彼の手の上に重ねた。自然と間近に迫ってきたレギオンの顔を、スルヤは不思議に思いながらじっと見返した。

 やはりカーイと血が近いだけあってすごく綺麗な人だなと感心しつつ見惚れるスルヤの目前で、凄艶なまでの美貌に謎めいた微笑がうかんだ。

「その前に、スルヤ、君に1つ聞いておきたいんだが…君はカーイのためなら君が持てるだけの全てをあげられると言っていたけれど、今もその気持ちに変わりはないかい?」

「えっ…ああ、カーイのためなら…確かに俺はそう言いましたよね。もちろん、いつも、そう思っています」

「命さえも惜しくはない?」

 スルヤは目を僅かに見開いた。

 どうしてレギオンはこんな試すようなことを言うのだろう。疑問に思いながらも、スルヤは、レギオンの優しげな微笑みを湛えてはいるが本心の見えてこない美しい顔をまっすぐに見据えた。

「はい。別に命が惜しくないわけじゃないけれど…カーイになら、きっとあげても惜しくないかなって思うんです」

 何の衒いもなく答えるスルヤに、レギオンは軽く頷いた。

「君なら、きっとそう答えてくれると思っていたよ、スルヤ」

 満足げに目を細めると、何を思ったか、レギオンはふいにスルヤの上に身を屈めてきた。

 びっくりしたスルヤはとっさに息を飲んだ。その胸にレギオンの手が置かれた。

「君ほど純粋に深くカーイを愛している人間はいない。私もそれは認めよう」

 身を固くしているスルヤの上に覆い被さるような格好で、レギオンは彼の耳に唇を寄せた。

「でもね、君は無垢であるよう大事に守られすぎていて、そのままではカーイを理解することも救うこともできはしない。だからね、スルヤ、君に謎解きのための鍵をあげるよ。カーイの暗い秘密に近づいて、彼が君のために背負った罪を知り、君も一緒にまみれるんだ。その上で、今と同じ台詞をもう一度君の口から聞けるかどうか…私も楽しみにしているよ」

 スルヤの体を押さえるレギオンの手にぐっと力がこもった。圧迫感にスルヤは息をつまらせ、反射的にレギオンを押し返そうとした。 

「レ、レギオンさん…苦しいです…」

 首にかかったレギオンの手をスルヤは引き剥がそうと試みるが、それは万力のようにびくともしない。息苦しさに喘ぎ涙目になりながらシートの上でもがくスルヤの耳朶をレギオンの吐息が柔らかく撫でた。

「受け取りたまえ、スルヤ。スティーブンが君に残したものだ」

 スルヤは身を強張らせた。スティーブン?!

 コートのポケットに何か固いものが押し込まれるのをスルヤは感じた。同時に胸を押さえつけるレギオンの重みも退いた。

「レギオンさん…一体、どういう…」

 喉もとを押さえ真っ赤な顔で訴えるスルヤを、レギオンは何事もなかったかのように涼しげな風情で見下ろしている。

「スティーブンからって…あなたは…何を…?」 

 スルヤが混乱した頭を何とかまとめてレギオンを追及しようとした、まさにその時、何かが物凄い勢いでスルヤが坐る助手席側のドアにぶつかってきた。衝撃音と共にフェラーリの車体が横揺れした。

 バイクでも突っ込んできたのかとスルヤはぎょっとして窓の外を振り返った。

 瞬間、スルヤは思わず叫んでいた。

「カーイ?!」

 スルヤがうわずった声で呼んだ相手は確かにカーイに違いなかったが、それでも、スルヤは我が目を疑った。こんなカーイを見るのは初めてだ。

 窓に手をついて車内を覗き込んでいるカーイはまさに怒りの形相をしていた。柳眉を逆立て、鼻をしわめて、スルヤの頭越しに奥の運転席でふんぞり返っているレギオンを睨みつけている。爛々と輝く青い瞳は今にも火を噴きそうだ。気のせいか、めくれ上がった唇の間からやけに鋭い歯が覗いたような…。

「スルヤ!」

 カーイの様子に、自分の縄張り内に闖入してきた野良猫を発見した時の愛猫をふと思い出していたスルヤは、いきなり鋭く名を呼ばれて思わず助手席の上で小さく跳ねた。

「何をぼんやりしているんですか! さっさとそこから出てきなさい!」

 怒りの矛先を突然向けられて、スルヤはおろおろしながらカーイを見返し、それから、隣のレギオンを振り返った。すると、レギオンはスルヤに向けてふざけたウインクを投げてきた。

「そのろくでなしから離れなさいと私は言っているんです。早く!」

 今にも窓を叩き破らんばかりの剣幕のカーイに恐れをなして、スルヤは慌ててドアのロックを解除した。

 転瞬、ドアが勢いよく開かれた。カーイの手が伸びてきたかと思うと、スルヤは腕を掴まれて、無理矢理外に引っ張り出された。

「カーイ、痛い…痛いよ!」

 カーイの細い指が腕に食い込むのに、スルヤはたまらず悲鳴をあげた。

 何が何だか訳が分からないが、とにかく自分はカーイの逆鱗に触れることをしたらしいと、泣きそうな気分でスルヤは身を縮める。

 次の瞬間には、しかし、スルヤはカーイにしっかりと抱きしめられていた。

「カーイ…?」

 息苦しいほどの抱擁に自分も応えようと、スルヤはおずおずとカーイの体に腕を回した。

「スルヤ」

 すると、カーイは、今度はスルヤの顔を両手で挟むようにして覗き込んできた。

「大丈夫ですか…何もされませんでしたか…?」

 カーイの青い瞳は不安げに揺れ動いている。

「う…うん…大丈夫だよ…」

 先程レギオンに押さえ込まれたことをスルヤはふと思い出したが、カーイの動揺振りを目の当たりにして、とても口にはできなかった。

「その…レギオンさんは、あなたに会いに来るついでに俺を学校からここまで送ってくれたんだ。えっと…彼はカーイの従兄弟だって聞いたよ…どうして、そんなに怒っているの?」

 恋人が本当に怪我などしていないと確認するとやっと安堵の息をつくカーイに、スルヤは躊躇いがちに尋ねた。

「従兄弟ですって?」

 カーイはまた眉を吊り上げた。車の中でこのやり取りを面白そうに眺めている男を睨み付け、まずいものを無理矢理飲み下そうとするかのような顔をした。

「そう…成る程、この男はそう言って人のいいあなたに近づきたぶらかそうとした訳ですか」

 心底憎々しげに吐き捨てて、カーイは落ち着かなげにスルヤの頭を何度も撫でた。

「カーイ…?」

 厳しい面持ちでレギオンを見据えたまま何事か考え込んでいるカーイを、スルヤは心配そうに呼んだ。

「俺は、何か間違ったことをしてしまったのかな…? でも、レギオンさんはあなたのことを本当に心配しているみたいで…初めて会った人だけれど、その点については俺はこの人を信用してもいいような気がしたんだ。実は彼とは3日前にも一度会ったんだ。今まで黙っていたのは、やっぱり悪かったと思うけれど、今日あなたにこの人を会わせたら、そのことも謝るつもりだった。それにね、実際、あなたが心配するようなことは、彼は俺に何もしなかったと思うよ…?」 

 自分の最後の言葉については幾分心許なさを覚えたが、それは一触即発のこの場の空気を和らげたいがためにとっさに口から出た方便だった。

「ああ、スルヤ…分かっていますよ、あなたは何も悪くない」

 優しくかき口説くスルヤを、カーイはふっと和んだ表情で振り返った。ようやく頭が冷えてきたらしいカーイの顔には、スルヤの見慣れた、恋人に対するあまやかな笑みが浮かんできていた。

「それに…そうですね、確かにレギオンは私の親戚には違いないですよ…そう認めるのは癪にさわりますがね。すみません、買い物から帰ってきたら、あなたがレギオンと一緒にいるのを見つけて…あんまり驚いて、つい取り乱してしまいました」

 カーイはちょっと恥ずかしそうに微笑んで、スルヤの頬に軽く唇を押し付けた。

「あなたは先に家に戻って下さい。あ、この荷物を適当に片付けておいてくださいね。もしかしたら、中でタマゴが全壊しているかもしれませんが…」

 思い出したようにカーイは路上に放り出していたスーパーの袋を拾い上げ、軽く手で払うと、スルヤの胸の前に差し出した。

「カーイは?」

「私は…レギオンと出かけてきます。もしかしたら少し遅くなるかもしれないので、夕食は先にすませてください。オーブンにチキンをセットしていますし、スープもあるし…」

「3人で一緒に食べたらいいんじゃない?」

「それは、また今度にしましょう。私は、まず彼と2人きりで話す必要があるんです」

 車内でじっと待ち構える様子の男にちらっと目を向けると、カーイの頬は微かに強張った。

「そうなんだ…」

 スルヤは少し寂しい気分になったが、カーイの切迫した面持ちを見て、これ以上食い下がるのを諦めた。

「私のことは心配しないで下さい」

 スルヤの瞳に漂う憂いをどう受け取ったのか、カーイは励ますよう囁いた。

「できるだけ早く戻ってきますよ。それに、レギオンは私にとってただの従兄弟なんですからね…今回の訪問の仕方についてちょっと腹に据えかねることもあるので、問いただして、説教してやろうと思うだけです」

 そんなことを心配しているのではない。カーイがひた隠しにしている大きな問題をスルヤは気にしているのだ。レギオンが助けになってくれるのならもちろんありがたいが、スルヤもカーイのために何かしたいのだ。それなのに、やはりカーイはレギオンとの話し合いにさえスルヤを締め出そうとする。

「愛していますよ…」

 もどかしげに唇を震わせるスルヤの気持ちに、しかし、今のカーイは気づく様子はない。よほどレギオンの存在が気にかかるようだ。

 スルヤの頬に愛情のこもったキスを1つ残して、カーイはさっと身を翻し、スルヤが先程まで坐っていた助手席に乗り込んだ。

「車を出して下さい」

 冷たく言うカーイにレギオンは肩をすくめ何事か返したが、かかったエンジンの音にかき消されてスルヤの耳には届かなかった。

 スルヤは邪魔にならないよう家の扉の前まで退くと、夕闇の濃くなっていく中唸るようなエンジン音と共に走り去っていく赤い車を見送った。

「子供扱い…しないでよ…」

 フェラーリが見えなくなった途端、スルヤはがくりと肩を落として哀しそうに呟いた。

 2人が立ち去った後もスルヤはしばらく憂鬱な面持ちのままそこに立ち尽くしていた。やがて、気持ちを切り替えようと空を振り仰いで息をつくと、くるりと後ろを向いて、家の中に入ろうとした。

「あっ」

 その時、スルヤはコートのポケットの中の固い感触に気がついた。レギオンが強引に押し込んだ『プレゼント』だ。

 あの騒ぎのおかげでしばらく忘れていた、それをスルヤはポケットから引っ張り出した。

「CD? スティーブンからだって言ってたけれど…どういう意味だろ…?」

 スルヤの顔色が、次の瞬間、変わった。

(あのね、実は、私、スティーブンからあなた宛のあるものを預かっているんだ)

 殺される数日前バレリーが言った言葉を、スルヤはまざまざと思い出した。

(パソコンの保存用のディスクなんだけれど…)

 あれが、スルヤが生きたバレリーの姿を見た最後だった。

(スルヤ君、君は、バレリーから、画像を保存したディスクのことを聞いていないか。スティーブンが、死ぬ前に、君に渡そうとしていたものらしいんだが)

 バレリーの死の知らせをスルヤに伝えに来たネイサン・ナイト刑事も、そのディスクについて言っていた。彼もまた捜査中に犯人に襲われて命を落としたと、スルヤもニュースで知っている。

 スルヤは呆然として、今目の前あるプラスチックのケースを睨み付けていた。

 スティーブンがスルヤに何かを伝えるために残したディスク。スティーブンや他の大勢に死をもたらした事件の謎を解明する手がかりになるかもしれない画像。

「まさか…まさか…これが…?」

 謎賭けをするかのごときレギオンの低い声がスルヤの脳裏に甦った。

(スルヤ、君に謎解きのための鍵をあげるよ)

 スルヤは震える手でリュックから鍵を取り出すと、扉を開け、家の中に転がり込んだ。

 スルヤの頭の中はかっと熱くなっていた。

 階段を一気に駆け上り自分の部屋に飛び込むと、デスク上のパソコンに駆け寄った。

(一体、何が…この中にあるんだろう…)

 パソコンが立ち上がるのをじりじりしながら待つ間も、スルヤは混乱する頭をまとめるのに必死だった。

(もし、このディスクが本当にスティーブンが死の前に俺に送ろうとしていたものなら、それをレギオンさんが持っていたなんておかしいじゃないか。あの人は、ロンドンに着いたばかりだと言ってたし…やっぱり全く関係のない別のディスクじゃないんだろうか)

 自分の胸の奥で激しく打ち震えている心臓の鼓動を聞きながら、スルヤはディスクをパソコンに挿入した。

 ブーンという音がして、自動的に立ち上がったソフトがディスクを読み取っている。

(でも、もしもこれがそうなら…スティーブン、スティーブン…俺に何を伝えたかったのか、今度こそ、教えてよ!)

 瞬間、パソコンの画面が青白い光に満たされた。

 目の前に現れた画像を、スルヤは身を乗り出すようにして見つめた。

「えっ?」

 スルヤは眉根を寄せ、当惑の声をあげた。

 どうして、この顔が今ここに映し出されているのか、スルヤにはしばらく理解できなかった。

 それは、スルヤがよく知っている顔に似ていた。そのものだと言ってもよかったが、醸し出す雰囲気は全く違っていた。

 光に対する影、スルヤが見慣れたあの顔とは別にある、もう1つのペルソナ―。

「カーイ…」

 画像に向かって呼びかけるスルヤの声は掠れた。

 抗いがたい死の誘惑をはらんで輝く冷たい青い瞳を呆然と見返しながら、まるで石と化したかのように、スルヤはその場からしばらく動くことができなかった。


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