愛死−LOVE DEATH−
第二十五章 再会の時
六
午後9時前。
キースは、ジョーンズのフラット前の路上に1人立っていた。建物の多くの窓にはまだ灯りがついており、住人がたてる物音や話し声、テレビの音声などが外に漏れてくる。
ふと目を上げて、彼はジョーンズの部屋の窓を眺めやった。
部屋の主は既に病院を退院していたが、犯人に襲われたショックのために失われた記憶はまだ戻らない。
ジョーンズはもしかしたら犯人と接触した唯一の生き証人かもしれない。だが、精神科のカウンセリングに通いながら警察とも時々連絡を取っているとはいえ、今の時点で何も思い出せない彼ばかりを当てにするわけにはいかなかった。
部屋の明かりが消えている所を見ると、ジョーンズは今夜は外出しているようだ。キースも、別にジョーンズに用があって、ここにいる訳ではなかった。
(ネイサン、あの夜、おまえはここにいた)
キースはトパーズ色の目を鋭く細めた。そこに宿るのは、静かだがふつふつとたぎるような強い決意だ。
(そう、おまえはここから歩き出したんだ。変わり果てた姿で見つかった、あの場所まで―)
キースはフラットに背中を向けると、夜の街を1人、歩き始めた。
ネイサンが殺された夜、彼が辿った足取りをキースはなぞろうとしていた。
そうすることでネイサンの死について何か手がかりが見つかるかもしれない。
既に多くの捜査官によって周辺は調査済みではあったが、キースは彼らとは違う力を持つ。
常人には決して捉えられないものが、彼には見えるのだ。
(理屈で説明できない、こんな怪しげな力でどこまでできるか分からんが―俺がそうすることで、おまえの無念を晴らせるのなら、ネイサン…こんな力に頼るなどと刑事として反則だとか俺はやはり異常なのかとか、つまらないことに拘泥するのはもうやめよう)
まるで常日頃馴染みのある道筋を行くかのようにしっかりとした足取りで暗い街路を進んで行くキースの顔は、迷いを吹っ切ったような力強さを感じさせた。
(ジョーンズのフラットで何か重大な手がかりを見つけたおまえは、その足で署に戻り、俺に報告するつもりだった。おまえは、ジョーンズから受け取った何かを…おそらく事件解決の重大な手がかりとなるものを持っていた。スティーブンのコンピューターから取り出された画像の入ったディスクだ。何者かの顔が映っていたという…おまえもそれを見たんだな、ネイサン)
次第に急ぎ足になっていくキースの足下で石畳の街路は固い音を跳ね返す。
ネイサンもきっと同じようにここを歩いていたのだろう。これはきっと大手柄になるに違いないと逸る心を抱えて、初めはちゃんと地下鉄の駅に向かっていたはずだ。人通りの少ないこの裏通りは、ジョーンズのフラットから地下鉄へ向かう近道になっていた。
その時、キースはふと口笛めいた音が聞こえたような気がして、足を止めた。
何台もの車が路上駐車している道路の向こう側に、キースは訝しげな視線を送る。一瞬、建物の張り出したバルコニーの下の暗い部分に、ほっそりとした人影が立っていたような気がしたのだが、それはすぐに見えなくなった。
キースは体の脇でぎゅっと手を握りしめた。手の平は微かに汗ばんでいる。
(もしかしたら、ネイサン、これもおまえが見た光景だろうか)
自分が今見たものが現実なのか、それとも特殊な力がもたらす『ビジョン』なのか、キース自身にも判断がつかないことはよくある。
一瞬垣間見えた幻が何らかの真実に繋がっていることを祈りながら、彼は更に夜の街の探索を続けた。
(俺には、ずっと引っかかっていることが1つある。ネイサン、おまえを殺した犯人は、しかし、ジョーンズは殺さなかった。同じように犯人と接触し、そうして、事件の真相に繋がるだろう画像を見つけた人間であるにもかかわらず、何故ジョーンズは生かされたのか)
いつの間にか、キースは裏通りの更に入り組んだ細い通りをさ迷っていた。どうしてこんな所を自分が歩いているのか、キースにも分からなかったが、ここで間違いはないのだと彼の中の何かは確信していた。
(俺は、こんな信じられないような猟奇殺人を起こす人間はこの世に1人しか存在しないと思っていた。だが、ネイサンとジョーンズに関しては、犯人がそれぞれ違う考えを持って動いていたような印象がある。まるで犯人は2人いたかのような…)
微かな手がかりでも見逃すまいと神経を尖らせながら細い路地を小走りに進むうちに、キースは次第に、己が馴染みのある異様な感覚に捕らわれていくのを意識した。
カツ、カツ、カツ…。
石畳の狭い通りと左右から迫るように建っているビルの間で反響する足音は、いつの間にかキース自身のものではなくなり、果敢に何者かを追っていた若い部下のそれと重なっていった。
(ネイサン)
キースは喘ぐように息をし、逞しい体を震わせた。彼は張り裂けんばかりに目を見開いた。その瞳には、全速力で街路を駆け抜けていくスーツ姿の男の後ろ姿が映っている。
キースは今、目の前を必死になって走っていく死んだ部下の後を追っているのだった。
ネイサンの亡霊―いや、キースの異常なまでに昂ぶり暴走し出した脳の一部が見せる幻覚だ。
(ネイサン、おまえは一体誰を追いかけているんだ…? まさか、そいつなのか、おまえを殺した奴は…。そいつがこの一連の事件の犯人なのか、それとも…?)
キースは足を速めた。まるで街自体が記憶していたかのように突如として飛び出してきたネイサンの残像は、ともすればキースが見失いそうな速さで通りを走り抜けていく。
当たり前だが、幻のネイサンはキースに気がついて後ろを振り返ることはない。
それが、キースには口惜しかった。
(駄目だ、ネイサン、犯人を深追いなんかするものじゃない。1人で何とかしようなどと思わず、まず応援を呼ぶんだ!)
無駄とは分かってはいても、無謀な部下を止めようと遠ざかる背に手を伸ばし必死なって後を追う自分をキースは止められなかった。
ネイサンの幻影に導かれ、キースはやがて街路の突き当たりの荒れた廃ビルの前によろめくように出て行った。見失ったネイサンを探して近づいてみると、ビルの脇にはさび付いた鉄製の螺旋階段があった。
「ここを…上っていったのか…?」
何故かは知らず、キースには分かった。
犯人を追って、いや、犯人に誘いこまれるように階段を上っていった部下の姿が、キースの脳裏にまざまざと浮かびあがった。
《意を決して、ネイサンは階段を登り始めた。ポケットの中の画像ディスクだけでなく、この男まで捕まえることが出来たら、新人のネイサンとしては快挙といえるくらいの大手柄だ。》
キースは震える両手で頭を押さえた。激しい頭痛に襲われて、キースの顔は汗びっしょりとなっていた。
しかし、ここでやめるわけにはいかなかった。
(ネイサン、おまえはどこに行った?)
キースはしっかりと手すりを掴み、微かにきしむ螺旋階段をゆっくりと上っていった。
やがてビルの屋上に立つと、キースは探るような目を周囲に向けながら、四方を囲む壁の方に近づいていった。腰の高さくらいしかない壁の前に立って向こうを覗き込むと、隣の建物からせり出した傾斜のきつい屋根が下方にあった。
キースは大きく胸を上下させた。
屋根の上を何とかバランスを取りながら懸命に伝っていく、ネイサンの姿がまたしてもキースには見えた。
キースは唇を噛み締めた。意を決し、彼もまた壁を乗り越えて、隣の建物の屋根の上、また別の家のテラスや窓を伝い、不安定な足場と悪戦苦闘しながら、ネイサンの足取りを辿っていった。
諦めることを知らないネイサンは、ついには追跡し続けた相手に肉薄したはずだ。
《どこかで引っ掛けたのかコートには裂け目ができ、手や顔に擦り傷まで作って、ネイサンは、古い大きな建物の屋根の端に拳銃を構え、立った。》
キースの意識は朦朧としていた。彼が今体験しているこれは、果たして夢か現実か。
ネイサンは謎の犯人を追い続けている。そんな彼の後をキースはつけている。
とっさに足を滑らせ、危うくバランスを崩しそうになったキースははっと我に返った。
「ここは…?」
キースは頭をはっきりさせようと激しく振りたてると、首を巡らせて辺りを確認した。
彼の視線の行き着く先に、2つの影が向き合っていた。
キースは息を飲んだ。
「ネイサン」
頭上から降り注ぐ月明かりを反射して黒々とした屋根はぬめったような光沢を帯びている。
《屋根の一方の端にはネイサンが、もう一方には彼が追い続けた男が立っている。男はネイサンに背を向け、更に逃げる場所はないか探すように頭を巡らせていたが、ついに逃げ場はないと観念したのか、ゆっくりとネイサンを振り返った。》
キースには男の顔形は分からなかったが、男がネイサンと向き直った瞬間、鳥肌が立つのを覚えた。
これは人間ではない。恐るべき力を持った、人を超越した何かだ。本能的に、キースは悟った。
(ネイサン、それ以上そいつに近づくのはやめるんだ。早く、逃げろ!)
キースはネイサンに手を差し伸べながら、訴えた。
しかし、彼の必死の声は届かず、ネイサンは拳銃を男に向けて何事が叫んでいる。
キースは何とかネイサンを止めようと、そちらへとにじり寄っていった。
ネイサンの背中がキースのすぐに近くに迫っていた。キースは手を伸ばし、彼の肩に触れようとした。その瞬間襲った凄まじい衝撃にキースは跳ね飛ばされ、屋根の上を転がった。
ネイサンのものだろうか、数発の銃声を聞きながら、キースは屋根の上を転がり落ちていった。
《馬鹿なことをしたね、ナイト刑事。せっかく、助かるかもしれなかったものを》
わんわんと鳴り響く頭の片隅で、何者かが呟いた。どこか哀しげに―。
次の瞬間、ネイサンの絶叫が張り詰めた冬の空気を切り裂いた。
「やめろ!」
キースは激しく吠え立てると、手を突いて転がり続けようとする体を支えた。
キースは目を見開いた。
頭上には瞬く冬の星空が広がっている。体の下には冷たく固い屋根の感触。ちらっと横目で見ると、キースはほとんど屋根の縁に横たわっていた。際どいところで地面への転落は免れたようだ。
ネイサンと別の人影を見たと思った、屋根の向こう側をキースは見やったが、そこにはもはや誰の姿もなかった。
冷たい月光だけが変わらず、しんしんと天から降り注いでいる。
痛む体を起こして、キースは屋根から下の通りを見下ろした。
キースは鞭打たれたかのようにびくっと震え、僅かに後ずさりした。
一瞬、石畳の上に壊れた人形のように力なく横たわるネイサンの姿が見えたのだ。黒っぽい血溜まりが、彼の体の下にゆっくりと広がっていく。
(ああ、そうか、この場所は…)
キースの顔に初めにうかんだ衝撃は、やがて、悲痛なものに変わった。
(おまえが発見された、あの通りだ。そうか、ネイサン、おまえはここで犯人と対峙し、格闘した末に落とされたのか)
石畳の上に横たわるネイサンの最後の姿は、やがて煙のようにかき消えていった。しかし、キースの心にはしっかりと刻み込まれた。
キースはぺたんと屋根の上に座り込んで、折り曲げた膝の上に頭を垂れた。
(おまえが追い詰め、捕らえようとした男は…一体、何者なのか…?)
通り魔に襲われたにしては当初からキースが不自然さを覚えたスティーブンの死。街角で惨殺された他の犠牲者達。自宅で殺されたバレリーと、そもそもの発端、滞在していたAホテルで殺されヴェルヌという姓の外国人。
(これらが全て同一犯による犯行だと考えたのは間違いだったのかもしれない。少なくとも、ネイサン、おまえを殺したのは男ともう1人別の何者かが、あの夜存在した…)
今は心身ともに疲れきって理論立てて説明できないが、キースはそのことをほとんど確信していた。ジョーンズ宅で見たビジョンの中でキースが捉えた謎の影は、今見た人影とはまた違う感じがした。
(違う感じがするなどと、全く刑事の風上にも置けんようなあいまいさだがな。しかし、そう…『吸血鬼』は1人ではなく少なくとも2人いるのだとしたら、手口が微妙違っていたり、真相に近づいた人間達を片方は殺し片方は殺さなかったり、行動に一貫性がないことも説明がつくんじゃないか…?)
どうやら、『力』を使うことはひどくキースを消耗させるらしい。キースがここまで意識的に力をフル活用したことは初めてでもあり、酷使した脳は頭蓋内で沸騰している。衝撃のあまり、キースはしばし放心したまま静かな夜の街を見るともなく見ていた。
《ブレイク警部》
すぐ傍からかけられた親しげな呼びかけに、キースは瞠目した。ほとんど力を使い果たした気がしていたのだが、幻視はまだ続いているのだろうか。
キースは唇を噛み締めると、ぎこちなくそちらに顔を向けた。
「ネイサン」
冷静になろうと己を必死で制御しながら、キースは錆びた釘で心臓を突かれたような痛みに耐えていた。
そこには、在りし日のネイサンが立っていた。まるで仕事帰りに一緒にパブで一杯飲みませんかと誘う時のような自然な所作をして、だが、やはり幽界のものなのか、半ば透けた姿の後ろには夜景が見える。
「おまえに会ったら、一言、馬鹿者と叱ってやりたいと思っていた。だが、こうしておまえの顔を見たら、そんな気はうせたよ、ネイサン。だが、代わりに、おまえに言いたいことがある」
幻に過ぎないと分かりつつ、キースは青ざめた顔に微苦笑を浮かべ、ネイサンに囁きかけた。
「安心しろ。おまえが命がけで捕まえようとした犯人は、必ず俺が見つけ出す。後のことは俺に任せて、おまえはもう、ゆっくり休め」
ネイサンの若々しい顔に全幅の信頼に満ちた晴れやかな笑みが浮かぶのを、キースは胸がつぶれるような思いで見守った。
《信じていますよ。警部なら、俺ができなかったことでもきっとできるはずです。あなたには、特別な才能がある。警部、それは神様からのギフトなんですよ、きっと。どうか、それから逃げないでください。もっと自信を持ってください。あなたにしか解決できない事件がある、助けられない人達がたくさんいるんです》
キースは思いもよらぬネイサンの言葉に息を吸い込んだ。己の想像力が見せる幻にしては、あまりにも生き生きとして、まるで本物のネイサンに話しかけられている気分だった。
「ギフトか…確かに、俺にはこれまでこの力をそんなふうに考えることはできなかったな。忌々しい事故の後遺症で、できれば、なくしてしまいたいといつも思っていた」
だが、もしも、こんな力を持ってしまったことに何か特別な意味があるのなら―。
いや、意味は自分で作るものだろうか。
ネイサンの無念を晴らすため、他の大勢の人々の命を守るためにこそ、この力は役立てるべきなのだ。
「ああ、そうだな」
キースはネイサンによって救われた気分になりながら、何かを吹っ切った明るい顔で笑った。
満足げな表情を湛えたまま、ネイサンの姿は夜闇に吸収されていく。
それを見送った後、キースはようやく起き上がった。
頭の芯はだるく、体の節々も痛んだが、気持ちは随分楽になっていた。
「さて、署に戻るか」
ちらちらと星が瞬く澄んだ夜空を見上げて呟くキースは、長い間苦しめられていた悩みからやっと解放されて、憑き物が落ちたような晴れやかな顔をしていた。