愛死−LOVE DEATH−
第二十五章 再会の時
五
「…私がロンドンにやってきたことは、実はカーイにはまだ内緒なんだよ」
こぢんまりとした、なかなかしゃれたカフェの一番奥の席に陣取ると、レギオンはスルヤに親しげに語りかけた。
「知らせても、今の彼は私に会いたがらないかもしれない。もしかしたら、どうして来たんだと怒り出すかもしれない。だから、君の家を訪ねる代わりに、まずここに来たんだよ。カーイといずれ対面するにせよ、その前に君と是非一度話をしたくてね」
「あの…」
先程からじっと黙り込んでいたスルヤが、ふいに、意を決したような顔で口を開いた。
「さっき…カーイは今大きな問題を抱えているって、あなたは言ったけれど…分かるんですか? どうしてカーイがあんなに苦しげで、いつも不安そうな顔をしているのか。俺に何も言わず、ある時ふいといなくなってしまうのか。帰ってきても、どこで何をしてきたのか決して話してくれないのか。俺、本当に心配なんです。だって、この所の彼は体の具合もよくないみたいで…顔色も悪いし、段々痩せてきて…」
「君には、何も?」
少し意地悪な気分で、レギオンは囁いた。
スルヤはしょげかえった。
「はい。カーイに悩みを打ち明けて欲しいと頼んだことはありました。けれど、カーイは何だか俺に聞いて欲しくないみたいなんです。俺に追及されることをひどく恐がっていて…まるで俺が彼を傷つけようとしているみたいに、どうして、あんなに追い詰められた目をするんだろう…? カーイが俺を信頼して話してくれる気持ちになるまで待とうと考えたこともありました。けれど、今のカーイを見ていると、このまま放っておいていいはずがない、何とかしないと、カーイは壊れてしまうんじゃないかって気がして―」
「カーイの懊悩が何なのか、私は分かっていると思うよ」
スルヤはしょんぼりとうなだれていた頭を上げた。
「レギオンさん、知っているんですか、本当に…カーイの悩みが何なのか、どうして、あそこまで俺に隠そうとするのか…? もし、そうなら―」
スルヤは舌先まで出かかった言葉を、しかし、とっさに飲み下した。苦しげに唇を噛み締めた。
「ああ、君に話すことは簡単だが、たぶん、それは私から伝えるべきことじゃないだろうね」
スルヤの思いを鋭く読み取って、レギオンは言った。
「そうですよね…やっぱり…カーイ自身が俺を信じて俺が必要だからと全てを打ち明けてくれないと…本当に彼の助けや支えになることなんかできないですよね」
スルヤは再びジレンマに陥って、可愛い顔をしかめた。
「俺、どうすれば、カーイに信じてもらえるのかな。俺はカーイをかけがえのない大切な人だと思っているけれど、まだ愛し方が足りないのかな…? 頼りがいのない子供だと思われているんだろうか。でも、俺はカーイのためなら、俺の持っているもの皆あげてもいいって思っている」
「カーイは、たぶん、君に嫌われることが恐いんだと思うよ」
余計なことかもしれなかったが、レギオンはついスルヤを慰めるような言葉を口走っていた。
「秘密を知られれば、君が自分から離れていくのでないかと不安なんだよ」
これも真実の一端には違いないだろう。実際には、もっとおぞましい現実が隠されているが―。
「俺がカーイを嫌って離れていくだなんて…どうして…?」
スルヤはもどかしげに唇を震わせた。
少年の葛藤を味わうよう、レギオンは腕を組んでじっと黙り込んでいたが、唐突に口を開いた。
「カーイを愛している?」
いきなりレギオンに問われて、スルヤは改めて彼の存在を思い出したかのようにはっと正面を見た。
「そうなのかい?」
するとスルヤは悲しみに沈んでいたのが一転、黒い瞳を生き生きと輝かせ、揺ぎない確信のこもった声で言った。
「はい」
レギオンにまっすぐに向けられた、微かな微笑を浮かべたスルヤの顔は強く、どこか誇らしげでさえあった。
そこにあるのは一点の曇りもない無私の愛情だ。若者特有の熱っぽさよりむしろ親が我が子に与える愛にも似て、あたりまえのことのようにスルヤはカーイを愛していると答えた。
レギオンは胸の奥底に小さな火がくすぶるのを覚えずにはいられなかった。
(カーイの正体を知って尚も同じ顔で同じことを言えるのか、ちょっと確かめてやりたい気分だな。ロンドンの街中で殺人を続けている、血を飲む怪物がカーイなのだと知ったら、さて、君はどうするか)
だが、もしかしたら、それでもスルヤは変わらないかも知れない。そんな気もした。
「不思議だね。君はまだカーイと出会って日も浅い。彼の過去も何も知らないのだろう? それなのに?」
揶揄するような口調でレギオンは言ったが、スルヤは別に怯みも怒りもしなかった。
「そうですよね、同じようなことは、以前スティーブンなんかにも言われたかな」
スルヤはまた顔を曇らせた。殺された親友のことを思い出したのだろう。
カーイがはまった陥穽の深さに、今更ながら、レギオンは溜め息をつきたくなった。何よりスティーブンを手にかけてしまったことが、カーイには痛かっただろう。
スルヤならば、ヴァンパイアである自分を受け入れてくれるかもしれないとは、カーイも考えたはずだ。だが、親友殺しの罪さえも許してもらえるのか、確信を持てないのだ。
(仮に、それでもスルヤの愛が揺るがぬものであったとしよう―カーイが人間でなくとも構わない、親友を殺したことさえ許せたとしても、最後に突きつけられる非情な現実がある。カーイはどうしてもスルヤの血を奪わずにはいられない、他に選択の余地はない。そんな恐ろしい恋の結末を知って、スルヤが尚もカーイを愛せるならば、それは1つの奇跡と言えるだろうな。ふん、それはさすがにあり得ないか…世間知らずの若いヴァンパイアならば惑わされることもある夢だが…そう、自分を殺す者を愛せる人間などいるはずがない)
ほんの一瞬自らの若い時代の記憶が蘇って、レギオンはほろ苦い気分になったが、すぐに邪魔な感傷は脇に押しやった。
「君のことを知りたいな、スルヤ」
レギオンは、ピラミッドの形に組み合わせた指先に軽く顎を添えるようにして、スルヤの顔を覗き込みながら柔らかく語りかけた。
「私は、カーイが愛した人間をよく分かりたいんだ」
スルヤは戸惑うよう、レギオンを仰ぎ見た。
この少年を理解するために、レギオンはここにいるのだ。初めは衝動的な気持ちだったが、今はつくづくそう思う。
カーイが愛した、人間の恋人。
「君の叔父さんは、有名な写真家だそうだね。その影響で、君も写真を始めたのかい?」
レギオンはサンティーノから仕入れていたスルヤに関する情報を思い起こしながら、無邪気な好奇心を装って尋ねた。
「はい、影響はあると思います。俺にカメラをくれたのが叔父さんで、子供の頃、撮影旅行に連れて行ってもらったこともあったし」
「作風も似ている?」
「それもよく聞かれるけれど…似ているとはあまり思わないな。ただ、以前は俺は人物は全く撮らなかったのが、今はカーイというモデルがいて、彼を撮ることに夢中になっていて―そう、彼に出会って、俺が本当に撮りたいものが分かってきたような気がしているんです。もしかしたら、今は俺の作品が変わっていってる時期なのかもしれない」
獲物である人間に写真をたくさん撮らせるなんてうかつだなと、レギオンはカーイをたしなめたくなった。
「カーイは、いいモデルかい?」
スルヤは大きく頷いた。その表情はいつの間にか晴れやかなものになっている。
「被写体としても、あんなに魅力的な人はいません。…子供の頃叔父さんの写真を見て不思議に思っていた…こんな夢のような場所がどこにあるんだろうって。叔父さんのカメラを通すと、ありふれた風景は見たこともない異界になり、ただの人間のモデル達もこの世のものではない神秘的な生き物に変わるんです。カメラを通してカーイを見ていると、俺はかつて叔父さんの作品を見て感じた胸のときめきや憧れを思い出します。普段は目に見ることも触れて確かめることもできなくても、近くに存在している、別の世界を感じられるんです」
「カーイはまるで人間ではないようだとさっきも言ったね…違う世界からさ迷い出てきた未知の何かのように、君の目には見えるということかい?」
「そう…ただ、違うのは、カーイは写真家の技巧が作りだした幻じゃなくて、ちゃんと生きて存在しているってことです。ふとした時に見せるカーイの表情や仕草が俺は好きです。初めの頃はファインダーを向けるとカーイはぎこちなくなってしまったのが、この頃は慣れてきて…すると、時々はっとするような顔を見せてくれるんです。真っ白な花がほころぶような綺麗な笑顔をするかと思ったら、深い悲しみに沈んだり、不機嫌そうにふてくされたり、時々途方に暮れた子供のようになったり…あんなに超然として見えるのに実はとても感情が豊かなんですよ。生身を備えた天使…被写体としてのカーイを一言で言い表すなら、こうなるかな」
レギオンはしばし何も言わず、唇に薄い笑みを貼り付けたまま、スルヤの語る言葉に耳を傾けていた。
意外に鋭い所があるのは、カメラを通して対象の本質を見抜く写真家の優れた感性のゆえだろうか。
「君が撮ったカーイの写真をいつか見てみたいね」
嘘偽りなく、レギオンはそう思っていた。
(私も昔、カーイをモデルによく絵を描いていたんだよ。子供時代のカーイの豊かな感情に魅せられて…だが、大人になった彼には、もうあんな無防備な瞬間はないだろうと思っていた。だが、スルヤ、君の前では違うのかな?)
レギオンは声には出さず、胸のうちでだけ呟いた。スルヤからさり気なく目を逸らすと、話題を変えた。
「スルヤ、君の…ご両親は健在なのかな。可愛い子供を1人で異国にやって、心配しているんじゃないかい。それに君の友人が被害にあった例の殺人事件のこともある…帰ってこいとは言われないのかい?」
「それは、やっぱり心配みたいですよ。特にスティーブンのことがあってからは、とにかく帰ってこいと父親から何度も電話があったし…母さんも…心配しているからって…でも、何もかもが中途半端なままで帰ることはできないって説得したんです。学校が一段落したら、父さん達を安心させるためにも、カーイを連れて里帰りをしようと思っているんですが」
「ああ、それがいいだろうね。ところで、カーイを連れて行ったら、その…ちゃんと紹介するつもりなのかい、つまり、恋人として…?」
「そのつもりにはしていますよ。そりゃ、きっと驚かれると思うし、もしかしたら反対されるかもしれないけれど、隠してどうなるものでもないから。それに、叔父さんが同性の恋人も持つ人だから、父さんにも全く免疫がない話とは思わないし。時間をかけて、認めてもらいます」
「おやおや…」
そんな他愛のない会話を交わしながら、父親とはまめに連絡を取っている様子のスルヤだが、母親の影がなぜか薄いことにレギオンはふと気がついた。普通は母親の方が息子をより愛するものだが、もしかして、継母だとか?
レギオンはスルヤの話に熱中するあまり、飲むのをすっかり忘れていた紅茶のカップに口をつけ、すっかり冷めたダージリンを一口飲んだ。
「君は、もしかして一人っ子だろう? ご両親の愛を一身に受けて大切に育てられたって感じがするよ?」
レギオンは更に探りを入れた。
「そう見えますか…? 確かに今は一人っ子みたいなものですね。でも…妹が1人、本当はいたんですよ…」
スルヤの顔によぎった微妙な翳をレギオンは見咎めた。
「いたって…もしかして、亡くなったのかな…?」
レギオンは眉根を寄せて、気遣わしげに囁いた。
「ずっと昔…俺がまだ10才の頃です」
スルヤは大きな瞳を微かに揺らせた。
「随分と小さい時に亡くなったんだね、君の妹は。どうしてと…尋ねてもいいだろうか…?」
「毎年家族で避暑に訪れている別荘にいた時のことです。…川遊びの最中の事故でした。前日の大雨のせいで増水していたんですね。その時3才だった妹と俺は一緒に遊んでいたんだけど、誤って2人とも川に落ちて…流されて…俺はすぐに助けてもらったんだけれど、小さすぎた妹は…」
スルヤはふと遠い眼差しになって、言葉を切った。
「それは哀しい出来事だったね」
しんみりとした口調で、レギオンは慰めるように語りかけた。
「だが、君だけでも無事でよかった。もしも子供達が2人とも助からなかったら、残されたご両親があまりに気の毒だ」
すると、スルヤはあらゆる表情を消して、レギオンの顔を凝然と見つめた。
レギオンは軽い戸惑いを覚えた。
「…そう思いますか?」
スルヤは透きとおるように微笑した。この無邪気な少年らしからぬ達観した、どこか突き抜けてしまったような、不思議な落ち着きに彼の顔は満ちていた。
「時々考えることがあるんです。もしも助かったのが俺じゃなくて妹だったら、どうなっていたのかなって」
「それは、どういう意味なのかな?」
レギオンは眉根を寄せた。
「だって、俺の救助に皆が気を取られている間に妹は流されてしまったわけだから…けれど、あの場合、どちらが最初に助けられてもおかしくなかった。だから…もしかして、その逆もありえたのかもしれないって―」
穏やかに語るスルヤに、レギオンは一瞬返す言葉を失った。
「つまり、俺の今の命は妹の犠牲よって得られたものなんです」
スルヤはしばらく黙り込み、何かを振り払おうとするかのごとく頭を振ると、迷いもわだかまりもないはっきりとした口調で言った。
「俺がレヌの代わりに死んであげられたら、色々変わっていたんだろうなと思うことがあります。妹はどんなふうに成長していたんだろう、どんな夢や希望を持っていたんだろう。レヌがいることで、今より幸せになれた人もいるだろう…母さんはたぶんそうかな、父さんは…? でも、現実は今更変わりようがない。だから、俺は、せめて妹からもらった命を彼女の分まで一生懸命生きなきゃと思うんです。2人分の人生を最後まで精一杯生きて、いつか…遠い別の場所でレヌに会えたなら、その時俺がこの世界で経験したあれこれを彼女への贈り物として持っていけるように」
優しさの中にも揺ぎない強さを潜めた声で語りきったスルヤの澄んだ眼差しには、残酷な運命さえも受け入れた上での世界への愛、ここで出会い共に生きる人々に対する慈しみが溢れている。
「スルヤ…」
レギオンは、何だか今初めてスルヤを見るような気分だった。まさか、こんな言葉を、まだ人生の苦労も痛みも何も知らない幼げな顔をした相手から聞かされるとは夢想だにしなかった。
「死んだ大切な人の命を受け取って、その分まで強く生きるか…君の気持ちは、私にも分からないでもないけれどね」
この人間の少年はまるでヴァンパイアのようなことを言う。それはまさに、愛する者を結局奪わなければならない宿命を呪いながら、長い苦悩の果てに血を吸う神の子らが辿り着く心情と同じだ。
(ただ、我々の場合、殺した愛人達と別の地で再会するなどという夢は見られないがね。死にたくとも死ねない不死の身では、仕方がない)
スルヤの意外な言葉はレギオンの胸に複雑な波紋を作り出していた。会えるものなら会いたい懐かしい者が、レギオンにもいないわけではない。
スルヤの前だということも忘れて、レギオンは深い物思いに捕らわれていた。
「あの…」
スルヤの躊躇いがちな呼びかけに、レギオンは我に返った。
「あ、ああ…すまない、ちょっとぼんやりしてしまって…」
レギオンは苦笑した。
柄にもなくレギオンは感傷的になっているようだ。長い間忘れていた古い記憶が、固く閉ざされた胸の扉の奥で生き生きと蠢きだしていた。
「俺も、あなたに質問してもいいですか?」
レギオンは鷹揚に頷き返した。
「ああ。でも、まさかカーイが君に知られたくないと思っている秘密を、私からやっぱり聞き出そうというわけじゃないだろうね」
もとの屈託のなさを取り戻してスルヤが笑うと、滑らかなカラメル色の頬に可愛らしいえくぼができた。
「いいえ。ただあなたはカーイとは幼馴染だと言ったから、ちょっと聞いてみたくなって。レギオンさん、子供の頃のカーイって、どんなふうだったんです?」
スルヤの無邪気な問いかけに、レギオンは目を細めた。
「いい質問だね」
スルヤは、素直な期待感を顔に浮かべてじっと待ち受けている。
「私達が初めて出会ったのは、子供時代カーイが暮らしたパリの街でだったよ」
レギオンは古い記憶を掘り起こしながら、ゆっくりと語りだした。もちろん、それが200年も前の時代だと言うことはできず、その辺りは適当に脚色しながら、スルヤに聞かせても差しつかえのない少年期のカーイのエピソードをレギオンは教えてやった。
こんな昔話をスルヤに聞かせてやるつもりなど、レギオンには夢さらなかった。だが、今は、それが案外楽しいことに、彼自身気がついていた。
カーイやブリジットと過ごしたパリ時代は、レギオンにとっても懐かしく、久しぶりの思い出語りも悪くない。
(ブリジットは無理でも、ここにカーイがいれば、古い記憶を共に確かめ合うのは楽しかっただろうな。だが、何も知らないこの少年に語り聞かせてやるのも、それはそれで面白い)
まずは子供の頃のカーイがどんなに可愛かったか、本人が聞けば赤面しそうなありったけの美辞麗句でレギオンは表現し、スルヤをうっとりさせてやった。
だが、褒めちぎるだけではつまらない。カーイの伝説的な我侭や癇癪、過激な悪戯についてばらしてやると、スルヤは大きな目をぐるぐる回して、へえを連発していた。
「ふうん…今でもちょっと我侭だし、きついことも平気でぽんぽん言う人だなぁとは思うことはあるけれど、あれでも昔に比べたらまるくなった方かもしれないですね」
「ふふ…根っこの部分はそう簡単に変わらないと思うけれどね。君が見かけによらず鷹揚な人でよかったよ。細かいことにうじうじ悩むタイプの人だと、カーイとはとても一緒に暮らせないだろうからね」
紅茶はすっかり冷めてしまったので更にお代わりを頼み、スルヤにはお腹がすいただろうとスコーンを注文してやりながら、レギオンはいつの間やら彼にすっかり打ち解けている自分に少し唖然としていた。
(ふむ…客観的に考えると何やら妙な状況だな…私がカーイの想い人相手に、お茶を飲みながら楽しげにおしゃべりとはね。この様子をカーイが見たら、どんな反応をするだろうか)
想像し、レギオンは危うく吹き出しそうになった。
「レギオンさん?」
肩を小刻みに震わせながら笑いを堪えているレギオンに、スルヤが不思議そうに呼びかけた。
「ああ、いや、何でもないんだよ。今、ちょっとカーイのことを考えてね…」
するとスルヤは思い出したように瞬きし、腕時計を確認した。
「もう、こんな時間か…」
レギオンもちらっと壁の時計を眺めやり、呟いた。
「ほんの少しだけと思いながら、君と話すことが思いのほか楽しくて、ついつい長い間引き止めてしまったようだ」
レギオンは、そろそろ家に残してきたカーイのことが気になっているらしいスルヤを安心させるよう、頷いた。
「そろそろ出ようか。地下鉄の駅まで一緒にぶらぶら歩いていこう」
カフェの外に出ると、冬のイギリスの日はとっくに暮れていた。
幸い雪はやんでいたが、太陽が沈んで一層下がった気温に耐えかねたように、スルヤはコートの前をあわせ、ぶるっと身を震わせた。
「寒そうだね」
「ええ、カーイにも寒がりだってよく言われます。あ、そう言えば、また帽子を忘れちゃったな。せっかくカーイが買ってくれたのに…。やっぱり…南の国の生まれだからでしょうね。こっちの人は真冬でも平気な顔で薄着をしたりしているけれど、体のつくりからして違うのかなぁ」
白い息を吐きながら、スルヤは傍らのレギオンを見上げた。
「あなたは、どこの生まれなんです?」
「イタリアのベネツィアだよ」
「いい所らしいですね。ご家族は?」
レギオンは曖昧に微笑んだ。
「とっくに亡くなったよ。…たぶんね」
オレンジがかった光を放つ街灯の下を2人は並んで歩いていった。
しばらく途切れていた会話は、スルヤの問いかけで再び繋がった。
「どうしてカーイより先に俺に会おうと思ったんです?」
「君の存在が、それだけ私には気になったからだよ」
「えっ?」
「カーイは君を愛しているんだよ、スルヤ。たぶん、彼がここまで人間にのめりこんだことは初めてではないだろうか。あんまり君を愛しすぎて、自分を追い詰めているようで…危うく思えるほどなんだ」
「レギオンさん、それって、どういう意味なんです?」
スルヤは真剣に問いかけたが、レギオンはさらりと受け流した。
「さて、それをカーイからではなく私の口から言ってもいいものか、迷うな」
スルヤは追求したそうだったが、カーイの秘密を彼に隠れて他の人間から聞き出すことにやはり抵抗があるのだろう、必死に堪えていた。
「もう少し時間をくれないかな、スルヤ。私もこれからどう動くか検討したい。君に実際会って言葉を交わし、考えが少し変わった部分もあるしね」
レギオンは複雑な面持ちで黙り込んでいるスルヤに向けて、ゆったりと頷きかけた。
「それから、私が今日君と会っていたことはカーイには内緒だよ」
「どうして?」
「カーイは今私に会いたがっていない。自分が抱え込んだ問題は自分の手で始末をつけたいと思っている。それを一方的に押しかけてきた私としては、彼の顔を見る前に色々と準備したり片付けたりしたいこともあるのさ」
「それは…カーイを助けるために必要だから…ですか…?」
「ああ、そうだよ。スルヤ、君と同じで私もカーイを愛している。だから、何としても彼をあの苦しみから解放してやりたい。私の行動は君にとっては釈然としないものかもしれないが、何もかもカーイのためを一番に思ってのことなんだよ」
「分かりました」
カーイのためだと言われると、スルヤは訝しく思いながらも承知するしかなかったようだ。
「でも、俺はカーイに秘密を持ったり、嘘をついたりしたくない。だから、こんなふうに隠れていないで、なるべく早くカーイと会ってあげてください」
スルヤはまっすぐにレギオンの顔を見、幾分強い口調で念を押すよう言った。
「もちろん、そのつもりだよ、スルヤ。まあ、黙っていろとは言っても、たぶん数日間のことさ。私もカーイを救う方策を考えたら、すぐに会いに行くつもりだよ。実際、私の方は彼に会いたくてたまらないんだからね」
レギオンは戸惑うスルヤに向けて、茶目っ気たっぷりのウインクをしてみせた。
やがて周辺にパブや商店の立ち並ぶ地下鉄の駅に2人は着いた。
「さて、私はタクシー乗り場でブラック・キャブを捕まえてホテルに戻るよ。本当は君を家まで送ってあげたい所だけれど、目ざといカーイに見つかったら、ことだからね」
「本当に秘密にしたいんですね」
スルヤはまだすっきりしない顔で溜め息をついた。
「うかぬ顔をするんじゃないよ、スルヤ。私がこうしてここに来たからには、カーイを楽にしてあげることはそう難しくないからね」
スルヤははっと息を飲んだ。
「それって…つまり、あなたには何か手立てがあるんですか?」
「ああ」
レギオンは自信ありげに胸を叩いた。
「君に会って話を交わすうちに思いついたことがあるんだ」
「そ、それは何です…?」
「ふふ、まだ言えないな。ただ、スルヤ、いずれにせよ、君にも協力してもらわなければならないことだよ。いや、実際君が必要なんだ」
意味深に囁いたかと思うと、レギオンは戸惑うスルヤに手を伸ばし、冬の冷気のために赤味を帯びた頬に触れた。
スルヤは瞬きをし、レギオンに問いかけるような目を向けたが、レギオンの手をとっさに振り払おうとも驚いて逃げようともしなかった。
レギオンはスルヤの頬にあてた左手をさり気なくずらし、固く鋭い作り物の指先で、血の飲み口である首筋のくぼみをそっと押さえた。
(本当に、取って食ってやろうか、こいつ)
不安の小波一つたたないスルヤの黒く澄んだ瞳をもう一度確かめるよう覗き込み、レギオンは手を離した。
「君にも近いうちにまた会いに行くよ」
そう告げると、レギオンはスルヤに背中を向けた。
「レ、レギオンさん」
後ろからスルヤの声が追ってきたが、レギオンは振り返らず、手をひらひらさせただけだった。丁度地下鉄が着いたのだろう、階段から上がってきた人々の流れに紛れるように足早にスルヤから遠ざかる。
「さて、どうしたものかな」
素早くスルヤの視界から離れたレギオンは、遠目に少年の様子を観察しながら独りごちた。
スルヤは未練ありげにしばらく階段の傍に立ち尽くしてレギオンの姿を探していたが、やがて諦めたのだろう、駅の構内に姿を消した。
「レギオン」
丁度駅前のパブの陰に佇んでいたレギオンの背後に、馴染みのある声がかけられた。
「全く、君には冷や冷やするな。カーイの恋人にいきなり接触するなんて」
ちらと斜め横を見やると、いつの間にか、そこには疲れた顔をしたサンティーノがいた。
「それで、スルヤに会って、君は納得できたのかい? カーイがあの子を愛した、その訳は分かったのかな?」
「さあ…」
レギオンは顎の辺りを手で触れながら、スルヤの消えた方角を目で追っていた。
「確かに、会って話さなければあの子の魅力は分からなかっただろうな…いや、私は果たして理解したと言えるのだろうか…?」
レギオンは首を傾げた。
「なぜかな、スルヤと話していると…私は何だか無性に懐かしいような不思議な気分になったんだ。おかしいな…別に誰かに似ているという心当たりはないんだが…」
眉間に皺を寄せて、レギオンはしばし古い記憶の中を探ったが、やはりスルヤに似た特定の友人なり恋人を思い出すことはできなかった。
「ふうん、懐かしいね…そんなことを言って、君はつまりスルヤが気に入ったということじゃないのかい?」
「まさか。それはないだろう」
レギオンは口をへの字に曲げて、どこか冷たい目をしたサンティーノを振り返った。
「私はそこまで節操なしじゃないよ」
「どうだか」
不機嫌そうに額に落ちかかる巻き毛をかき上げるサンティーノの手を、レギオンは掴んだ。
「冷え切っているね」
戸惑うよう瞬きをする淡い色の瞳を、レギオンは親しげに覗き込んだ。
サンティーノはふてくされている。ここに来てからカーイのことばかりで、色々とお膳立てをしてくれたサンティーノの気遣いに感謝も見せないレギオンに、忍耐強い彼もさすがに段々腹が立ってきたのだろう。
いつも、こうなのだ。サンティーノが寄せてくれる好意をレギオンは身勝手に利用している。
好きになってくれるのは構わないが私に何も期待するなと言わんばかりのレギオンに、それでもサンティーノはついてくる。
だが、本当はレギオンも分かっている。一方的に愛情を搾取し続けるのはフェアではない。だから、たまには返してやろう。サンティーノがいなくなれば、困るのはレギオン自身だ。
「どこか暖かい場所で食事でもしよう。それから落ち着いた雰囲気のバーを探して、ゆっくり飲もうか。考えてみれば…君と過ごすのも久しぶりだったんだ。せっかくだから、ロンドンの夜を一緒に楽しもう」
有無を言わせず、レギオンはサンティーノを引き寄せて、その耳元でとびきり甘い声で囁いた。捕まえた彼の手は、自分のコートのポケットの中に一緒に突っ込んでやった。
「レギオン…分かったから、その手を離してくれないか…恥ずかしいよ…」
傍らを歩きすぎていく人間達がちらちらと奇妙な顔で自分達を眺めていくのを気にしながら、サンティーノはぎこちなく、レギオンに引っ張られていった。
「それにしても、さて、どうしようかな」
レギオンは、しかし、サンティーノの抗議はあまり気にも留めず、他のことを考え込んでいた。
「何が?」
「いや、スルヤをどうするか迷っているんだ…ううん、あの子に会って、色々考えなおす部分はあるんだが、結論自体はそう変わらないかな…」
他愛のない世間話をするような調子で語る、レギオンの輝くように美しい顔に、一瞬人間離れした残酷なものがよぎった。
「つまり、私はスルヤを殺すべきか、それとも、しばらく生かしておいてやるべきか」
サンティーノは黙り込んだ。
「ベストなのは、カーイ自身がヴァンパイアの流儀に従って獲物であるスルヤを奪うことなんだが、自ら手を下すことが不可能なほどあの子に溺れてしまったのなら…ねえ、サンティーノ、飢えに捕らわれたヴァンパイアを苦しみから解放する手段は他にもある。そう、実に単純なことさ」
レギオンは白く張り詰めたサンティーノの顔を振り返って、無邪気に見えるだけに一層恐ろしい笑顔でこともなげに言い放った。
「つまり、他の誰かがあの子を殺せばいいのさ」
笑みの形につりあがったレギオンの端正な唇から、夜目にも鮮やかに真白く光る牙が微かに覗いた。