愛死−LOVE DEATH−

第二十五章 再会の時


「やれやれ、冬の寒空の下、立ちんぼうでいつ出てくるか分からない相手を待ち伏せるなんて趣味じゃないな」

 ちらちらと小雪の舞いだした鉛色の空を不機嫌そうに睨み上げ、レギオンはいらいらと足を踏み鳴らした。

「君が会ってみたいと言い出したんじゃないか、レギオン。第一ここに来てからまだ10分と経っていないよ」

 レギオンの我侭に苦笑混じりに応じたのは、サンティーノだ。彼は腕時計で時間を確認し、付け加えた。

「そろそろ、授業の終わる頃だよ。彼が今日もちゃんと学校に来ているのなら、じきに現れるさ」

 2人が立っているのはスルヤが通う美術学校の門を眺められる、がらんとした公園前の路上だ。カフェでもあれば、その中で待てたのだが、生憎丁度いい場所に適当な店はなかった。

「別に学校前で張り込むなんて面倒なことはせず、いっそ彼らの家に押しかけてやっても、私は一向に構わなかったんだがね」

 くすんだ煉瓦色の校舎を面白くもなさそうに見やりつつ、レギオンはうそぶいた。

「君は構わなくても、向こうはきっと大いに構うと思うよ」

「ふん」

 レギオンは肩にうっすらとつもった雪を指先で払って、退屈そうにあくびをした。

「それで、何という名前だったかな、カーイの恋人は?」

 レギオンが知りたがるようなことは既に調査済みだったらしい、サンティーノは滑らかに答えた。

「スルヤ・ラトナ。インドのデリーから来た留学生だよ。裕福な資産家の子供らしいね。ああ、どうやら授業が終わったようだ、生徒達が出てくる」

 他人を待たせることは多々あっても自分が待つのは我慢ならない、レギオンがこれでようやく不愉快な状況から解放されると、ほっとした目を学校の方に向けると、若さに溢れる学生達が仲間同士でおしゃべりをしながら、ぞろぞろ出てきた。おかげで、薄暗く沈んだ印象の街角がとたんに華やいだ雰囲気に変わった。

 レギオンはすうっと緑色の目を細めた。

(さて、どいつが、『スルヤ』なのかな)

 カーイが人間相手に本気の恋に落ちたという話は、レギオンは穏やかならぬ気持ちにさせていた。

 とうの昔に恋人としての縁は切れたはずであったし、カーイが選んだ相手にけちをつける気はレギオンにも毛頭ないが、ただ理屈では割り切れない感情がある。

 もともとヴァンパイアは嫉妬深い性向を持つ。かつて愛した恋人が現在夢中なっている相手を素直に認め受け入れるには、プライドも高すぎた。

(その点、私は心底ヴァンパイア…まあ、つまり、そういうことにしておこうか)

 ふっと笑って、レギオンは自己を正当化した。

(それに、カーイの心をそこまで捕らえた人間がどんな男なのか、一度この目で見てみないことには、カーイの悲惨な状況を私は自分に納得させることなどできないからね)

 胸の奥で微かな火が揺らめいたような気がした、その時、レギオンの肩をサンティーノが軽く揺さぶった。

「出てきたよ、あの男の子だ」

 レギオンは目を瞬いた。

「ほら、あの紺色のコートを着た、黒髪の…」

「あれが?」

 枯れた蔦の絡まる門から早足で出てきた、背ばかり高くて痩せっぽちの少年を睨みつけながら、レギオンは唖然と呟いた。

「嘘だろう、本当にまだ子供じゃないか。あれで大学生だって? はっ、カーイの趣味は随分変わったものだな! 全く、あんな乳臭い坊やの一体どこにそれほど惚れこんだんだ?」

「おや、随分と不満そうだね、レギオン」

「…イメージと違った」

 レギオンは顔をしかめた。

「確かに可愛い顔はしているが…カーイの恋人とはどうしても思えないな。昔のカーイは、いかにも華があって人目を引く、逞しい大人の男性をいつも相手に選んでいたからね」

「つまり、君に似たタイプだったわけだ」

 サンティーノの棘のある口調にレギオンは少々不愉快さを覚えたが、ようやく目の当たりにしたスルヤに覚えた落胆はそれ以上だった。

 あんなひとたまりもないような少年相手に一瞬でも敵愾心を燃やしたことが、レギオンは馬鹿馬鹿しくなってきた。

「けれど、カーイがあの子にのめりこんでいることは本当だよ。恋は理屈じゃないからね。とにかくカーイはあの子が可愛くてならないのさ、自分を滅ぼしかねないほどにね」

「納得できないな」

 レギオンは長い金髪を乱暴にかき上げながら、苦々しげに呟いた。

「ああ、レギオン、気をつけるんだね。嫉妬は緑色の目をした怪物だと言うよ?」

 レギオンの憤懣やるかたない胸のうちを見透かしたのだろうか、揶揄するように囁くサンティーノをレギオンはむっとして睨みつけた。すると、サンティーノはさり気なく顔を背けた。

 君の方こそやきもちを焼いているんじゃないかとレギオンは言いかけたが、どこか暗い面持ちをした友人を攻撃することはやはりやめた。

(嫉妬などじゃないさ。ただ…釈然としないだけだ)

 人間との辛い恋の経験ならば、レギオンにも身に覚えがないわけではなかった。カーイに話したことはないはずだが、永遠の伴侶とはなりえない、愛しても最後には殺すしかない人間に、レギオンですら幾度か心を奪われた。だから、愛してはならない相手を愛したカーイには同情こそすれ、愚か者と嘲るつもりはない。

(だが、私が惚れた人間達は、それはもう同族相手に見せびらかしても恥ずかしくないような、人格、美貌、才能全てが素晴らしい相手ばかりだったぞ)

 血を吸う神の子である身を堕落させてまで、カーイが執着するだけの美点が、どちらかと言うと平凡そうなあの男の子のどこにあるのか、遠目で見ただけでは、レギオンにはさっぱり分からなかった。

 しかし、きっと何かあるはずだ。あの情のこわい、誇り高く、身勝手なカーイの心を蜜さながらに蕩かせた、秘密が。 

「自分で、確かめてやる」

 レギオンは遠くを歩いていくスルヤを目で追いながら、獰猛に笑った。

「えっ?」

 サンティーノが戸惑いの声をあげた瞬間には、レギオンはもう動いていた。

 ヴァンパイアの速度で瞬く間に移動し、何か約束でもあるのか、1人、急ぎ足で脇目も振らずに学校の壁沿いに歩いているスルヤの前に、彼は立ちはだかった。

「スルヤ・ラトナ君だね」

 遥か後ろの方でサンティーノが頭を抱えて馬鹿とか何とか呻いたような気がしたが、レギオンは頓着しなかった。

 スルヤはとっさに足を止め、顔を上げた。

 空から降ってきたかのごとく突如として目の前に現れた、見知らぬ男を前に、トフィー(砂糖菓子)のように甘く優しい顔に素直な衝撃がうかんだ。しかし、それも一瞬のことだった。

「あ…は、はい」

 スルヤはぱちぱちと瞬きすると、レギオンの顔をまっすぐに恐れ気もなく見つめた。

 レギオンは訳もなく少しぎくりとした。

 スルヤの濡れたように真っ黒な瞳は何の躊躇いも不安もなく、レギオンの瞳を見返している。

 レギオンはふと、容易に底をうかがい知ることのできない、深い泉を覗き込んでいるような気分になった。

 人の手が入ったことのない深い森に住む鹿ならば、天敵である狩人に対してもこんな目を向けてくるだろうか。

「あなたは?」

 スルヤは意外に落ち着いた声で問いかけた。やはり警戒心は感じられない。

「ああ、私は…」

 レギオンは転瞬、何と答えればいいのか分からなくなった。別にスルヤと接触してどうしようという考えがあったわけでもないが、その場の状況に応じていつも滑らかに出てくる言葉は、喉の奥の方に引っかかっている。

(おかしいな、私は何を戸惑っているんだ)

 闇色の鏡めいた黒瞳はレギオンの嘘も秘密も全て映し出してしまいそうなほど、どこまでも澄んでいて、それが五百年以上の時を生き延びてきた老練なヴァンパイアを柄でもなく落ち着かなくさせた。

(?…おや、この感じ、何やら覚えがあるような気もするな…)

 居心地悪げに身じろぎをし、レギオンはついスルヤから顔を背けた。こんなにもか弱く無害な生き物相手に、この世に恐れるものなどない無敵にして不滅の怪物が何ゆえたじろぐのか…。

「俺に何か…?」

 いきなり己の行く手をふさいだまま黙り込んでいる不審な男相手に不安を示すでも苛立つでもなく、スルヤは穏やかに辛抱強く問いかけた。

「ああ、すまない、驚かせてしまったかな」

 レギオンは幾分慌てて、言葉をつないだ。

「私の名はレギオン」

 レギオンはスルヤに向かってにっこり笑いかけた。

 スルヤは困ったように僅かに首を傾げた。

「おや…カーイから私のことは聞いていないのかい?」

 レギオンはさも意外そうに大げさな手振りすると、意味深に片目を瞑って見せた。

 いざ話し始めると、いつもの勘が戻ってきたようだ。スルヤの表情や反応を素早く読み解きながら、レギオンは適当に話をでっちあげていった。

「私は、君についてはカーイからちゃんと報告を受けていたよ、スルヤ君。ロンドンで今、可愛い恋人と一緒に暮らしているんだとね」

 スルヤははっと息を吸い込んだ。

「カーイを知っているんですか?」

 恋人の名前を聞いて、スルヤの滑らかなカラメル色の頬にほんのりと赤みが差した。 

 こうして間近で見るとなかなか美味しそうな子だなとスルヤに対する認識を少し改めながら、レギオンは頷いた。

(だが、それでも私の好みじゃない。せいぜいデザート代わりに一噛みしてもいいかという程度だな。そう、やはり、どこにでもいそうな、ただの子供だ)

 先程覚えた不思議な惑乱も忘れたかのように、レギオンはしげしげとスルヤを眺め下ろしながら、謎めいた微笑を唇にうかべた。

 それをどう受け取ったのか、スルヤはしばし黙りこむと、思い切ったように尋ねてきた。

「もしかして、カーイの…お兄さん…?」

 そう来たかと面白がりつつ、レギオンは片方の眉を軽く跳ね上げた。

「そんなふうに見えるかい? それ程似ているとは思わないんだが」

 レギオンは優しげに目を細めた。

「ううん、顔立ちはそうでもないけれど、でも…やっぱりどこか似ているような…」

 スルヤは自分に確認するかのように呟きながらまたじっと考え込んだが、やがて、眉を開いた。

「ああ、そうだ。似ていると思ったわけだ。つまり、あなたは、まとっている空気がカーイと同じなんです」

「空気?」

 スルヤは何の衒いもなくにっこり笑って言った。

「はい。今はっきり思い出しました。カーイと初めて出会った時と同じ印象なんです。ああ、この人は『人間じゃない』なって」

 危うく、レギオンは何かにむせたように咳込みそうになった。 

(まさか!)

 レギオンは、とっさに牙を隠そうとするかのごとく、唇を手の甲で押さえた。

 もちろん、平常時にある彼の牙は、少々鋭くはあっても人間の犬歯とほとんど変わらず、唇の下に慎ましく隠れている。

 それを初対面の人間にいきなり正体を見破られたのだとしたら、レギオンの五百年以上に渡る長い生の中でも初めての珍事だ。

「人間じゃない…って…?」

 ぼうっとしているようで、この少年、実は只者ではなかったのだろうか。

 微かに早くなった心臓の鼓動を意識しながら、しかし、表面上は見事に取り繕って、レギオンは意味がよく分からないといったごく自然な表情をした。

 スルヤはこれですっかり納得できたというように、レギオンに親しみのこもった無邪気な笑顔を向けた。

「他の人達とはどこか違うって言うのかな…この世のものではない、別の世界から来たような、そう天使や精霊に近い不思議な生き物みたいだなって…」

 いきなり、レギオンは、スルヤがおかしなことを言ったかのようにぷっと吹き出したかと思うと、彼の肩をなれなれしく抱き寄せた。

「この私が天使だって? 私の日頃の素行を知っている友人達が聞いたら、大爆笑するだろうさ。ああ、スルヤ、君は芸術家の卵だと聞いていたけれど、実際大した夢想家のロマンチストなんだね!」

 冗談めかして笑い飛ばしながら、スルヤが別に自分達の正体に気づいている訳ではないと分かって、レギオンは密かに胸を撫で下ろしていた。 

(全く、冷や冷やさせる坊やだな)

 レギオンに荒っぽく頭を撫でられて、スルヤは困ったようにちらちらと周囲に目をやっている。

 下校中の生徒達は、一般人というには目立ちすぎるレギオンがスルヤを親しげ抱擁して振り回している様子をびっくりしたように眺めながら通り過ぎていく。

「ああ、ごめんよ、スルヤ君」

 目を白黒させているスルヤをやっと解放すると、一転、レギオンは態度を礼儀正しく改めた。 

「カーイからのメールで君のことは知っていたんだが、あんまり想像通りだったもので、おかしくなってね」 

 レギオンは魅力的に片目を瞑ってみせた。

「私はカーイの兄という訳ではないが親戚であることは確かだよ。幼馴染の従兄弟のようなものだと思ってくれればいい」

「従兄弟…」

 レギオンの言葉を口の中で反芻すると、スルヤは何か問いたげな顔になった。

 レギオンはすかさず言葉を継いだ。

「スルヤ君、私は君とゆっくり話がしたいんだが…この先に小さなカフェがあったから、そこに行かないか?」

 スルヤは少し迷うような顔をした。

「もしかして、他に約束があったかな?」

「いいえ。ただ、この頃は授業が終わるとまっすぐに帰るようにしていたもので…実はカーイの様子がずっとおかしいので、心配で…彼をあまり長い時間1人にしたくないんです」

 レギオンはよく理解できるというように頷いてみせた。

「そうだろうね、カーイは今、大きな問題を抱え込んでいるから…」

 スルヤはびくっと体を震わせた。レギオンがまさしく、スルヤが胸に秘めている悩みの核心部分に触れたかのように。

「あ、あの…レギオンさん…もしかして、あなたは何か知っているんですか…? カーイがあんなふうになってしまった訳を…」

 スルヤは切迫した顔で、どうしても問わずにはいられないかのようにレギオンに問いかけたかと思うと、哀しそうに俯いた。

「カーイは俺には何も言ってくれなくて…俺、彼を助けたいと思うのに…」

「もちろん、君ならカーイを救うことができるさ」

 言葉の裏に皮肉な意味を込めながら囁くと、レギオンはスルヤを誘うよう、両手を差しのべた。

 その手をちらと見たスルヤは、レギオンの左手の小指が普通とは異なっていることに気がついただろうか。カーイがかつて切り取った指先は、今は黄金の硬く冷たい義指に取り替えられている。

「おいで、スルヤ。カーイを愛し、彼を苦しみから解放してやりたいと思う点で、私達は望みを同じくしている」

 スルヤの黒い瞳に決然とした輝きが灯った。それを確認し、レギオンがくるりと背中を向けて歩いていくと、やはりスルヤは躊躇いなく後をついてくる。

 本当に、危ういほどに素直な少年だ。初めて出会ったレギオンを疑いもせずに。それとも、愛する恋人のためならば、本当に何でもする覚悟なのだろうか。

(ならば、重畳)

 スルヤに見えないところで、レギオンの整った唇に酷薄な冷笑が閃いた。



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