愛死−LOVE DEATH−
第二十五章 再会の時
三
それは、遠い昔に紡がれた、古い愛の唄だ。
(忘れた訳ではない。私はまだ覚えている…)
カーイは、屋根裏部屋の窓の傍に佇んで、寒々とした冬の夕暮れに沈んだ通りをぼんやりと見下ろしながら、深い物思いに捕らわれていた。
(まだほんの子供だった私が初めて恋をしたレギオン…ああ、あの頃のパリでの暮らしは今でも鮮やかに思い描ける。私が何の苦労も悩みも知らず、一番幸せだった頃…そう、ブリジットもまだ生きていて、ヴァンパイアが3人、我が物顔に華やかなパリの街を闊歩した、それはそれは夢のような毎日で―)
実際は、あの頃のカーイを悩ます問題が全くなかったわけではないのだが、今となっては、それら全てをひっくるめていとおしい日々だった。
子供時代の記憶を追っているカーイの顔からは、ここしばらくの深い憂悶も苦痛もきれいに拭い去さられ、楽しげな微笑が代わりにうかんでいた。
(レギオン、私は、あなたのことが本当に好きだった。初恋に夢中だった私は、他の誰よりも一番あなたに愛してもらいたくて、少しでも長くあなたを私のもとに引き止めたくて、随分と無理をして背伸びをしていたっけ)
カーイはくすぐったそうに笑った。
(それなのに、あなたときたら自分の都合で一方的に私を捨てて、アメリカなぞに逃げていってしまった。何て身勝手なひどい男だろうと私はあなたを恨んだものだけれど、それでも、あなたがあなたなりに私を愛してくれていたということだけは、最後に分かることができた)
ふいに、口の中に甘い血の味を覚えて、カーイは思わず喉を鳴らした。
別れる時、どうしても行くのなら形見を残していけと迫るカーイに、レギオンは彼が望むものをくれた。
(レギオン、あなたの左手の小指を私はもらった。あなたの血と肉は飲み下されて、永遠に私のものになった)
例えどこにいても、どれほどの時間が過ぎても、カーイが噛み切った指を見る度、レギオンはかつての恋人を思い出さずにはいられなかっただろう。
無限の時間を生きるヴァンパイアであれば、いつの日か再び出会うこともあると、カーイも密かに夢見ていた。
(でも、時間というものは残酷なもので、やがて訪れた私達の再会はお互いにとって幸せなものではなかった…)
カーイの顔が曇り、薄い唇の間からやりきれなさそうな吐息が漏れた。
最初の別れからおよそ70年後、新大陸から戻っていたレギオンとカーイはロンドンで巡りあった。
しかし、未開の地にまで押し寄せてくる人間達がもたらす悲惨な現実の前に挫折し、自信も誇りも喪失したレギオンから、かつての魅力は消えていた。
そんなレギオンにカーイは同情よりも怒りを覚えて、救いを求めてすがってくる彼を残酷に突き放してしまったのだ。
(あの頃の私にとって血を吸う神の末裔としての矜持は何より大切なものだったから、レギオンの零落ぶりが許せなかった…今の私ならば、レギオンの苦悩がよく分かるから、きっとあんなひどい仕打ちをしないだろうに…彼を慰め、救うこともできたかもしれないのに…今更言っても詮無いことだけれど…)
カーイはふいに強烈な寒気を覚えたかのように我が身に腕を巻きつけ、微かに身震いした。
カリカリ…。
湿った壁を爪で引っかく耳障りな音が、記憶の奥底に封じ込めた悪夢の中から漏れ出した。
(ああ…思い出した、レギオン…あなたとの本当に最後の別れもまた、このロンドンでだったのだ。私はどうしても、あの時見たおぞましい怪物をあなたと結びつけることを拒否してしまう…)
20世紀の初頭、カーイが最後に出会ったレギオンは完全に正気を失い、生まれもつかぬ身と成り果てて、精神病院の暗い病室に閉じ込められていた。カーイを認識することもできず、己が何者であるかさえ忘れ果てた、かつての恋人を前に、カーイは悲しみと恐怖で胸をいっぱいにして逃げ出すことしかできなかった。
その病院はやがて戦禍に巻き込まれて破壊され、レギオンの行方はそれきり分からなくなった。
おそらく彼は滅びてしまったのだと、カーイはほとんど信じていたのだ。それが―。
(あなたが、生きていたなんて…)
あの夜、サンティーノから告げられた、思いもよらぬ知らせを思い出すにつけ、カーイの胸には一言では言い表せぬ感情が湧き起こる。
(レギオンは生きているよ、カーイ。君が覚えている彼の最後の姿がどんなものであれ、今は元気でぴんぴんしているさ。現代の人間社会に見事に溶け込んで、彼らと一緒に仕事までしてね…ここしばらくはニューヨークにいたんだけれど、君の事を教えたら、すぐに会いたいと言ってね。早速こちらに向かっているところだよ。あの刑事を片付けたら、その足で空港まで迎えに行くつもりだったんだ。よかったら、君も一緒に来ないかい?)
レギオンがこの時代に生きていた。嬉しくないはずがない。会いたくないはずがない。
(でも、私はサンティーノの誘いを断ってしまった。だって、あまりに突然で…)
カーイは不安を紛らわせようとするかのように己の長い髪を神経質な指で弄んだ。
(一体、どんな顔をして会えばいいのだろう…レギオン、かつてあなたを見捨てたことが何だか後ろめたくて…)
レギオンの滞在先だと、サンティーノはホテルの電話番号のメモをくれた。会いたければ、いつでもそこに連絡を入れればいいのだが、カーイはずっと躊躇い続けている。
(サンティーノはああ言ったけれど、今のあなたが実際どんなふうに変わったのか、知るのが恐いような気もする。それに―)
自らの心の揺らぎを戒めるように、カーイは唇を噛み締めた。
(レギオンに会って、言葉を交わした時、私は一体何を感じ、どんな反応をするのだろう。もしも私が恋に落ちた時と同じ、輝くような黄金色のレギオン、あの懐かしい姿を目の前にしたら―)
カーイが己を捕らえこんだ煩悶の核心の部分に触れた、その時、下の階で物音がした。
「カーイ、ただいま」
スルヤが学校から帰ってきたのだ。
優しい声が、心細げに震えるカーイの心臓をそっと撫でた。カーイは夢から覚めたように瞬きをし、窓辺から身をもぎ離した。
「スルヤ」
カーイは不安に駆られた子供のように屋根裏部屋から駆け下り、スルヤの声がした方に向かった。
さっきから胸が騒いで仕方がない。このざわめきを静められるのは、やはりスルヤしかいなかった。
「カーイ?」
階段の途中で、カーイはスルヤを見つけた。
切迫した様子で急き立てられるように階段を駆け下りてきたカーイに、スルヤは目を真ん丸く見開いた。
「何かあったの、そんな顔して…?」
スルヤは気遣わしげな目になって、更に何かを言いかけるが、その前にカーイはものも言わずに彼に抱きついた。
「わっ、カ、カーイ」
スルヤは足を滑らせそうになったが、とっさに階段の手すりに捕まって体を支えた。
「びっくりしたなぁ」
耳元で響くスルヤの甘い声に、カーイはほっと吐息をもらした。
「危ないよ?」
カーイの無茶を咎めることはなく、スルヤは彼の頭にそっと手を置いた。
かつてブリジットがそうしてくれたように、スルヤはよくカーイの髪を指先で慰撫するように梳いてくれる。すると、不安や恐れの小波がたったカーイの胸はいつの間にか凪いでいて―。
「私…どんな顔をしていましたか…?」
カーイは顔をスルヤの肩に押し当てたまま、おずおずと尋ねた。
「うん…何だか、とても心細そうに見えたよ」
スルヤはカーイの望みを敏感に感じ取ったかのように彼の体に腕を回し、ぎゅっと抱きしめてくれた。
カーイの胸は熱くなった。何にも代えがたい、この温もり、この安らぎ。
ここ以外のどこにも、カーイはもう行きたくなどないのだ。例え、かつて愛した人が現れようとも、その気持ちが揺らぐはずはない。
けれど、レギオンに会って何が起こるか、無性に不安で―。
「スルヤ、スルヤ…私をしっかり抱きしめて、離さないで下さい」
カーイはスルヤの体にすがりついたまま、そう懇願せずにはいられなかった。
私は今、別の人と別な唄を紡いでいる。
そう、例えあなたでも、この愛は奪わせない。