愛死−LOVE DEATH−
第二十五章 再会の時
二
瀕死のネイサン・ナイトが路上で発見された、翌日の早朝、搬送先の病院で彼の死亡が確認された。
現場の状況や銃声を聞いたなどの周辺住民の証言から、ネイサンは何者かを追跡中に命を落としたものと思われた。捜査中の事件に関わることで誰かを追う過程で高所から転落したか、あるいは落とされたか。
キースは、処置室の前の黒い長椅子に半ば放心したように坐っていた。
ネイサンが病院に運ばれたという知らせを署で受け取って、キースはすぐに駆けつけたが、内臓と脳をひどく損傷していた彼は緊急オペをしても結局助からなかった。
(もう5時か)
ちらと腕時計を見やり、キースは茫洋とした顔を上げてしんと静まり返った無機質な病院の廊下を眺めた。
ブライトンに住んでいるネイサンの両親はまだ到着していない。
息子の死を知らされた彼らの嘆きを思い、キースは重い溜め息をついた。
殺された被害者の肉親と話したことなら何度もある。殉職した警官を他に知らないわけではない。
(だが、ネイサン…どうして、おまえなんだ…?)
昨日まで傍で働いていた大事な部下が突然いなくなってしまったことが、キースにはまだ信じられない。
キースはネイサンには目をかけていた。まだまだ危なっかしい所も多かったが、若くてがむしゃらなところが気にいって、いい刑事に必ず育ててあげてやると決めていた。
(急ぎすぎたぞ、ネイサン…警察学校を終了して、やっと念願の捜査課C1に所属され、何もかもこれからだったのに…おまえだってやり残したことはたくさんあったろう…?)
1人きりでネイサンの肉親を待つ、この一時、キースは胸の底からじわじわと湧き上がってくる喪失感に呆然と浸っていた。
たぶん、こんな感傷に浸れるのは今だけだ。例え殺されたのが親しい仲間であっても、捜査となれば、キースは冷静なプロに戻らなければならない。
しかし―。
「畜生め…!」
キースはいきなり頭を両手で抱え込むと、食いしばった歯の間から押し出すように呻いた。
見開いた、彼の黄色の瞳は火を吹かんばかりに爛々と輝いている。
(ネイサン…ネイサン、必ず…おまえの無念は晴らしてやる…! おまえを殺した奴は、この俺が、どんなことをしても―)
その時、廊下の向こうから慌しげな足音が近づいてきた。
「警部!」
キースが顔を上げると、ネイサンとコンビを組んでいたピートが息を切らして走り寄って来た。
「警部、ネイサンは…?」
キースが沈痛な面持ちで首を振ると、ピートは顔を強張らせた。
「そんな…」
そのまま、脱力したように、ピートはキースの隣に腰を下ろした。
2人は、そのまましばらく黙り込んだ。
「…ネイサンの…昨夜の足取りは分かったのか…? ネイサンを襲った奴についての何か手がかりは…?」
これも刑事の習性だろうか、キースはほとんど機械的に口を開いた。
「あ、ああ…はい…」
ピートは我に返ったように、びくっと身を震わせた。
「ネイサンは、昨夜署を1人で出て、例の…スティーブンのパソコンの修復を依頼していた、ミスター・ジョーンズの家に向かったんです」
ピートは己をしゃんとさせようと手の平で頬を軽く叩いた。
「そこでジョーンズ氏に会った後、署にまっすぐ戻るはずが、何を思ったか、地下鉄の駅からも遠く離れた、あんな場所で倒れているのを発見された訳で…ネイサンが何故あそこにいたかは、まだ分かりません。ただ…」
ピートは声を低めた。
「実は、ネイサンが殺される直前に会っていた、そのミスター・ジョーンズなんですが、実は彼もほとんど同時刻何者かの襲撃を受けていたんです」
「何だと?」
黙ってピートの報告に耳を傾けていたキースが、ふいに厳しい声で問い返した。
「ジョーンズは、ネイサンが帰ったすぐ後に自宅で何者かに襲われたんです。昏倒した時に頭を打ってはいますが、幸い命には別状ありません。意識を取り戻した後自力で警察に通報し…ただ打ちどころが悪かったのかショックのせいでか、言うことが少々あやふやだそうです。落ち着いてから改めて、ジョーンズ氏には話を聞くことにしていますが」
「そうか…」
重々しく頷くと、キースは考えを巡らせ始めた。
その顔は、早くも峻烈な刑事のものに戻っている。
ネイサンを悼む心はもちろんあるが、それは胸のもっとも大事な部分にしばし隠しておくことにした。
それから2時間後、キースは病院に到着したネイサンの遺族を迎えた。そして、上司として彼らに哀しい知らせを伝え、ネイサンとの面会に立ち会った後、彼はそのまま仕事に戻った。
夕べからキースは一睡もしていない。だが、犯人につながる手がかりを見つけるためには初動捜査は迅速であらねばならない。それに、今のキースは疲労さえ覚えなかった。神経が異常に昂ぶっているからだろう。
キースがまず最初に訪れたのは検査のために入院しているジョーンズだった。
自宅に侵入した何者かに襲われ、部屋を荒らされたが、命が無事だっただけ幸運な男だ。
「ああ、確かに依頼されたコンピューターは修復して、警察の探し物らしい画像ファイルも見つけた。そう、昨夜、それをナイト刑事には見せたはずなんだ」
だが、ピートからの最初の報告の通り、ジョーンズの証言は心許ないものだった。医者が言うには、ショックのせいで部分的な記憶障害を起こしている可能性があるそうだ。
「そう、画像…人の顔だったような気はするんだが、どんな顔だったのか、どうにも思い出せないんだ。ナイト刑事がそれを見て何と言ったのか…その辺りのこともはっきりしなくて…だが、たぶん彼にはその画像のコピーを渡したような気がする」
しかし、ネイサンはそれらしいディスクも何も所持していなかった。ジョーンズの記憶違いか、紛失したか、もしくは、ネイサンを殺した犯人が持ち去ったか―。
「俺を襲った犯人だって? それも、顔は見ていないよ。あんまり突然だったものでね。誰かに後ろから飛びつかれたと思った瞬間には、意識が途切れてしまったんだ。どうやって忍び込んだかも全く分からないな、残念ながら」
何だか、犯人に直接通じる記憶だけが抜け落ちているようで気持ち悪かったが、これ以上ジョーンズ本人からは何も得られず、キースは次に彼の自宅であるフラットに向かった。
先に到着した鑑識の連中が捜査中だったが、今の所、犯人の痕跡は見つからず、侵入方法も不明だという。
そして、キースと捜査官達を何より唖然とさせたのが、荒らされた部屋の中で発見された、破壊されたコンピューターだった。
「どうやったら、ここまで壊しつくせるんだ…?」
ジョーンズの仕事部屋には、スティーブンのものと彼自身のパソコンがあったはずだが、そのどちらも、ばらばらの鉄くずとプラスチックの山と化していた。
こうなってしまえば、修復して画像を取り出すなどと論外だった。
飛行機の上から落として地面に叩きつけるとか、とてつもない怪力の巨人が握りつぶしでもすればこうなるだろうか。
「何か、特殊な道具でも使ったのかな…? おい、昨夜異様な物音を聞いた奴とか、周辺住民の中ではいないのか?」
キースと一緒にフラットにやってきたピートもしきりと首をひねっている。
キースはコンピューターの成れの果ての傍に膝をついて、しげしげと見下ろしながら、ポツリと呟いた。
「人間の仕業とは、とても思えんな」
言った瞬間、キースは顔をしかめた。
(警部…吸血鬼って、本当にいると思いますか?)
キースの家で夕食を一緒に取った時、ネイサンがそう問いかけたことを、キースは思い出していた。
(そうだ、あの時、俺は吸血鬼の存在を信じるほど迷信家ではないと答えたんだ。ただし、この目で見、この手で触れて確かめられる証拠があるなら、別だがと…)
キースは足元に転がるコンピューターの部品を手にとって、ためつすがめつ観察した。
「理屈にはあわなくても実際に存在する、不思議…」
キースは居心地悪げに身じろぎをした。
その瞬間、キースは息を飲んだ。何者かが彼の耳に不可思議な囁きを吹き込んできたのだ。
《これを他人の目に触れさすわけにはいかない。警察に対しては、無論のこと。永遠に消し去ってしまわなければ》
キースは、とっさに手から部品を滑り落とした。
慄いたように立ち上がり、捜査官達が動き回っている部屋の中を見渡す。しかし、今キースに話しかけてきた者は誰もいないようだった。
戸惑うキースの視界の端を、今度は仄白い人影が掠めていった。
(おまえか…?)
キースはジョーンズの仕事部屋を出ると、何かに取り付かれたような顔つきでフラットの中を歩き回った。
自分の身に起こった、この異変が何なのか、キースには分かっていた。
(扉から入ったわけじゃない。窓から侵入した形跡もない。だが、そいつはここに存在した)
キースはふと寝室に足を踏み入れると、ベッドの傍の窓から外を窺った。窓は外の通りに面している。
キースは瞬間息を飲んだ。先程見たような気がした、白い影が壁を通り抜けて外から寝室に入ってきたのだ。
(このイメージは何なんだ? 昨夜、この部屋に忍び込んだのは、やはりこいつなのか?)
それは、実際に今ここに存在するものではないことはキースも承知していた。
キースが度々見ることのある『ビジョン』、単なる視覚を超えた、キースの異能だ。
見えないものを見る、この力を受け入れることを、しかし、キースは頑なに拒んでいた。
それは、たぶん、己の異常さを認めることにも繋がるからだろう。
しかし、この瞬間、キースは己のこだわりを忘れた。
ネイサンを殺した、そして、これから先も何人殺すか知れない、犯人を捕らえなければならない。これ以上は無駄な時間は一分一秒だってかけられない。
どんな手段を使っても、キース自身がそのためにどんな犠牲を払うことになっても、とにかく早く犯人をとめなければならないのだ。
(一体、おまえは何者なんだ? 人間なのか、それとも、まさか本当に…ヴァンパイアだというのか?)
キースが尚も目を凝らして白い影を追っていくと、辺りの情景までも今あるものとは変化し、昨夜の情景らしきものがぼんやりと見えてきた。
《それは、全く音をさせずに動いた。
獲物に忍び寄る猫のように滑らかな動作で、テレビの置いてあるリビングの前を通り過ぎ、灯りのついている奥の部屋に近づく》
キースがリビングをふらふらと横切っていくのに、他の捜査員がうろんげに顔を上げたが、彼は気づきもしなかった。
《男の鼻歌らしいものが、聞こえる。
部屋を覗き込むと、眼鏡をかけた、やや小太り気味の男が、ビールを片手に、散らかった机の上から雑誌を取り上げて、片付けている》
キースはジョーンズの仕事部屋の扉に寄りかかるようにして、中を覗き込んでいた。その顔は、いつの間にか汗でびっしょりとなっていた。
《それが、視線を動かすと、こちら側に向いたパソコンの画面が見えた。
そこに映っている画像に、それは、小さく息を呑んだ》
頭が割れるように痛み、吐き気まで覚えたが、キースは必死で目を凝らし続けた。
コンピューター・スクリーンに映る画像―。
スティーブンが残した、そのためにネイサンまでが命を落とすことになった、犯人に繋がるかもしれない、何者かの顔。
(頼む、それを俺に見せてくれ…!)
キースはついに堪えきれなくなったように低い呻き声を発した。
頭の中が沸騰し今にも爆発しそうなくらい、痛い―。
「警部!」
瞬間、誰かに後ろから肩を掴まれて、キースは怯えた獣のように激しく後ろを振り返った。
「あ…ああ、ピート…おまえか…」
「どうしたんですか、真っ青ですよ」
キースは喘ぐように息をしながら、心配そうに己を覗き込んでいる部下に向かって、大丈夫だというように手を振った。
「疲れが溜まっているんじゃないですか? ご自宅に戻って、少し仮眠でも取られた方が…」
キースは頭をしっかりさせようと何度も振った。
「いや、別に調子は悪くないんだ」
もう一度部下の顔を見ると、気遣わしげな表情の陰に何かしら不安と恐れが見え隠れしていた。
自分達とは違う、キースの異常な力を感じ取ったのだろう。
ついにピートはキースの視線を避けるように、顔を背けてしまった。
キースは密かに苦笑した。
「署に戻る」
短く告げて、キースは1人、ジョーンズのフラットを出て行った。
キースの『ビジョン』は訪れた時は同じく唐突に彼から去っていた。
もう少しで捕まえられそうな気がした、あの白い影はもう見えなかった。