愛死−LOVE DEATH

第二十四章 銀の月と夜の影


 ニューヨークJFK空港からロンドン・ヒースロー空港に向かう、コンコルドBA0004便。僅か3時間半足らずで両都市を移動する、最高速度マッハ2.02に達する音速旅客機は、外観だけでなく内部も速さだけを追及したコンパクトなものだ。

 エコノミークラスに毛が生えた程度のものだなと、思ったより狭い座席や低い天井を眺めた時は思わず肩を竦めたくなった彼だが、今度の旅は、のんびりファーストクラスでというものではない。少しでも早くロンドンに到着したくて、矢も楯もたまらなかったのだ。全く、こんな高揚感を味わうのは何年ぶりだろうか。

 長身の体には少々窮屈な座席に身を落ち着け、彼は、葉書よりも少し大きいくらいの窓から外を眺めやる。

 人間の目では、濃い群青色の空以外には何も見えないだろうが、上空17000メートルを飛ぶ旅客機から、下方をほとばしるように流れる雲を透かし、地上を眺めることも、その気になれば、彼には出来る。だが、今更、それは珍しいものでもない。むしろ、そうやって窓を眺める素振りで、己の中で去来する幾多の過去の断片と向き合うことを楽しんでいた。隣の座席が空いているのは幸いだった。大事な再会を控えた、この一時、抑えても沸き上がってくる様々な感情を整理し、沈めるための貴重な時間だ。

 暗い窓ガラスに映る緑色の瞳は、彼の昂ぶりを物語って、燃える恒星のように輝いている。

(君は、私を覚えているかい?)

 伸ばした指先で、分厚い窓ガラスに触れてみると、それは信じられないくらいの熱を帯びていた。音速を超えて飛行するため、かなりの摩擦熱が生じるのだ。機首付近では100度近くに達するという。

 全く、人間というものは、大したものだ。自らの体では空を飛ぶこともできないのに、その代わりに知恵を絞って、こんなとんでもないものを造りだす。その恩恵に、人間のふりをして、自分も浴している。

(いくら空を飛べても、さすがにマッハを越えて、会いたい人のもとに駆けつけることは無理だからね)

 それでは、どこかの国の幼稚な映画の主人公になってしまう。喉の奥で軽く笑って、人間を遥かに凌駕する肉体的な能力を供えた、堕ちた神の末裔である自分達と、1人1人は脆弱なくせに、蟻のように増えて地を多い、大勢の知識と経験を積み重ねて作り上げた力によって栄華を誇る、人間達と、果たしてどちらが優れているのか、考えをめぐらせた。この点について、これから会うことになる彼と話し合えたら、きっと面白いだろう。彼が生きてきた200年は、その中で経てきた経験は、彼にどのような見識を与えたのか。

(君は、どんなふうに変わったのだろうかね、カーイ)

 ふと思いつき、彼は、座席の肘掛部分のスイッチを押して、客席乗務員を呼んだ。聴覚のレベルをアップして耳を澄ますと、機内の奥の方で、微かに言い争うような声が聞こえた。彼の求めに応じて行くのは誰か、もめているのだ。

『あの人、絶対、俳優かモデルよ。見た、あの顔、あのスタイル? 信じられないくらいの美形じゃない』

『あら、違うわ。新進気鋭の芸術家だって話だけれど。ニューヨークのギャラリーで個展が開かれてるって、ヴォーグ誌に確か載っていたわ…』

 夢見るように半ば目を閉じて、彼が辛抱強く待っていると、そのうち、1人の女性乗務員がやってきた。

「お客様、お呼びですか?」

 彼が目を開けて、にこりと微笑むと、彼女は頬をうっすらと染めた。イギリス人らしい抑制の効いた、なかなかの美人だ。クリアーな英語の発音も、快く耳に響く。美しい英国女性の血を味わうことに、彼が気を惹かれないわけではないが、今度の旅では、それをすることはないだろう。それ以上に魅力的な出会いが待っている。

「ああ、先ほどもらったシャンパンをもう一杯もらえないかと思ってね」

 彼の求めに彼女は即座に応じ、高級シャンパンのボトルとグラスを持ってきた。

「ありがとう」 

 グラスを上げて礼を言うと、彼の輝く金髪やそれ以上に華やかな美貌に、職務で許される以上の長い視線を向けていた乗務員は、小さく息を呑んだ。

「ああ」

 思い出したかのように、彼は、グラスを持つ己の左手を見下ろした。これも、ほとんど完璧な美しさだが、小指の中程から先は、黄金色をした偽物だった。極めて繊細で精巧なつくりの、純金にオパールの爪を嵌め込んだ義指だ。

「この指は、昔、失ったんだ」

「まあ…事故にでもあわれたのですか?」

「いや」

 彼は、懐かしげに目を細め、呟いた。

「恋人にあげたんだよ。別れる時、どうしても、私の形見を欲しいと言うものだから」

 呆然としている乗務員に顔を向けて、彼は、冗談めかした、魅力的な表情で片目をつむってみせた。

「ロンドンで久しぶりの再会をすることになっているんだ。だから、気は早いけれど、シャンパンで乾杯をと、ね」

「まあ、それは…楽しみなことですわね」

 乗務員は少しがっかりしたようだが、彼がおしゃべりをしている間に空けたグラスを再びシャンパンで満たしてくれてから、立ち去った。

(全く、楽しみなことだ)

 再び1人になった彼は、ゆっくりとシャンパンを味わいながら、物思いにふけり続けた。

(それにしても、サンティーノの奴、ロンドンで見つけた仲間がカーイだったなら、もっと早くに私に連絡をくれればよかったものを…ひと月もの間一体何をしていたんだ?)

 屈折した感情をカーイに抱いているらしい友人の行動については、幾分不安と不信感を覚えないでもないが、カーイを捕まえるためのお膳立てをしてくれていたのなら全て許そうと思った。

 やがて、コンコルドが徐々に速度を落としていくのが感じられた。どうやら目的地が近づいてきたらしい。

 彼は、座席の背にもたれかかっていた身を起こし、窓から外を透かし見た。

 ロンドンに下りた、夜のとばりは既に深く濃い。

 しかし、彼の目は、その暗さを貫き通して、地平の彼方に瞬く、大都市の溢れる光の乱舞を捕らえていた。

 彼にとって懐かしい古巣でもある、この街にだけは、彼は、およそ80年もの間立ち寄ることはなかった。慎重に避け続けた。

 思い出は、美しく楽しいものばかりではない。苦痛を伴うものもある。

 しかし、今、彼はその地に降り立とうとしている。

 思い出の中でもっとも美しいものを、再び見出すために。

(カーイ)

 脳裏にあざやかにうかびあがる面影に向かって、彼は、シャンパンのグラスをそっとかかげた。その陰で、切望を秘めた、鮮やかな緑の瞳が、燐光のような輝きを放って燃えあがった。

 端正な唇が動き、声には出さずに、ひっそりと、200年前に語られた古い愛の唄を紡いだ。

(我が不滅の恋人よ…)


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