愛死−LOVE DEATH

第二十四章 銀の月と夜の影


 ネイサンは、その日の夜、待ちわびていた連絡を受け取った。キースに紹介されたコンピューター・ウィルスの専門家から、スティーブンのパソコン内部のファイルを復元ができたという知らせを聞くなり、1人で署を飛び出していた。

 できればネイサンも、まずキースにも報告して、コンビを組んでいるピートか、できればキースと共に復元されたファイルを見に行きたかったが、生憎とどちらも署にはいなかった。いつ帰ってくるか分からない先輩刑事をのんびり待てるほど、ネイサンの気は長くない。

 諦めかけていた、犯人に繋がる手がかりが、これで見つかるかもしれないのだ。ネイサンの心ははやっていた。

「ああ、早かったんだな」

 ある大手のコンピューター・セキュリティ会社に勤めているという、その男は、電話を入れて1時間もしないうちに自宅までやってきたネイサンの素早さに、目を丸くした。

「ありがとうございます、ミスター・ジョーンズ。それで…本当にデータは修復できたんですか?」

 いかにもパソコン好きらしい、青白い顔に分厚い眼鏡をかけたジョーンズは、在宅勤務の仕事場にしている、パソコンと専門書とスナック菓子に占領された部屋に、ネイサンを通してくれた。

「思ったよりも時間はかかったが、大方のファイルは元通りに出来たと思うよ。画像のデータを探しているということを、キースから聞いていたので、それらしいものが出てきたところで、連絡したのさ」

 ジョーンズは、ネイサンの見守る前で自分のパソコンを立ち上げた。ネイサン達がどうやっても直せなかったコンピューターから抽出したデータを、これで見せてくれるという。

「個人的には、むしろ、このウィルスを作った奴に興味があるな」

「え、ウィルスの…?」

「一般にはほとんど広まってない形のウィルスなんだが、ちょっと前に、ある人物が作ったとされるものに似ているんだ。アンダーグラウンドでは知る人ぞ知るってハッカーでもあるらしいんだが…」

「ハッカー?」

 あまりコンピューターにもネットワーク・セキュリティの分野にも明るくないネイサンは、きょとんとして、目をぱちぱちさせた。

「えっと…どこの誰が作ったって、そんなの区別がつくんですか? あ、それじゃ、その製作者を突き止めたら、誰がスティーブンのパソコン・データを破壊しようとしたかも、分かるんじゃ…?」

「そんなに簡単に分かるものかい。ネットワークは所詮匿名の世界なんだから、そこにいる奴らの経歴なんか信用できるものか。俺の言う人物だって、実在しているのかすら怪しい…お、この画像ファイルだ、いいか、開くぞ」

 ジョーンズがマウスをクリックすると、パソコンの画面が変わった。彼の後ろにいた、ネイサンは、思わず身を乗り出し、処理中のブーンという低い音を立てている、コンピューターの画面を覗き込んだ。

 数瞬後、スクリーンは青みがかった光を帯びた画像を映し出した。

「ジャーン。ほうら、見事に復元したぜ。たいしたものだろう」

 ふざけた調子で言うジョーンズには応えず、ネイサンは、スクリーンに映し出された像に、食い入るように見入っていた。その目は、張り裂けそうなほど、大きく見開かれていた。

 ネイサンは、無意識のうちに、己の手をぎゅっと握りしめた。

(あ…?)

 しばし、息をすることも忘れていたが、やっとのことで、ほうっと深い吐息をついた。

 ネイサンは、自分が何を見ているのか、初めは、よく分からなかった。次いで、違和感を覚えた。ジョーンズは何か間違いをしたのだと思った。こんな所で目にするはずがない顔が、そこにあった。

(え……ええ…? これって、カーイさん…じゃないのか…?)

 ネイサンは、とっさに、どう考えればいいのか分からなかった。

「どうだい、こりゃ、またすごい美人じゃないか。とても、素人が作り上げたグラフィックだとは思えない。見ていると、背中の辺りがぞくぞくしてくるくらいの迫力だよ」

 ネイサンは、心臓の鼓動が急に高鳴ってくるのを感じた。

「これって…実在する人物を撮ったものじゃないんですか?」

「さあ、モデルはいるのかな。けれど、この画像自体は、グラフィク用のソフトを使った加工がかなりなされているようだ。それに、こんな人間が本当に存在するものか。美しすぎるってだけじゃない、何だが、えらく人間離れした雰囲気じゃないか」

「人間離れした…」

 ネイサンは、ぶるっと身を震わせた。 

 全く、その通りだ。この世のものとは思えないほどの美しさ。この画像の人物が、ネイサンたちと同じ人間とは、とても思えなかった。

(あ…そんな…それじゃ、バレリーが見かけた、この画像にそっくりな人物って、カーイさんのことだったのか…? でも、どうして…?)

 ネイサンの頭の中は、すっかり混乱していた。

(スティーブンが作ったこの画像のモデルになったのが、あの人なのか…それじゃあ、スティーブンは、殺される直前に、何を思ったか、これを親友のスルヤ君に渡そうとしていたということなのか。一体、どうして? どういう意味があって、そんな…?)

 別に大した理由などない。友達に、ちょっと自分の作品を見てもらいたかっただけだ。この画像を見なければ、ネイサンもそう考えていたかもしれない。しかし、底知れぬ禍々しさと、抗いがたい魅惑を放って、見るものを釘付けにせずにはおかない、この姿を前に、そんな安易な考えは消え去ってしまった。

 それは、確かにカーイの顔ではあったけれど、ネイサンが、あの日スルヤの家で出会った、優雅で上品な青年のものとは異なっていた。むしろ、あの優しげな生き物の下に、こんな恐ろしい素顔が隠されていたのかと愕然とさせられる、そんなショッキングなものだった。しかし、何かしら、真実さを感じさせた。少なくともスティーブンが見ていたカーイは、このような存在だったのだ。

(俺は、自分でもそうと知らないうちに、事件の核心の部分に出会っていたのかもしれない)

 ネイサンは、暴れまわる心臓を落ち着かせようとするかのごとく、服の上から胸をそっと撫でた。

「おい、どうしたんだい、ナイト刑事?」

 ジョーンズの訝しげな問いかけに、ネイサンは、やっと自分を取り戻した。

「あ…ああ…すみません、ちょっとびっくりしてしまって…。ありがとうございます、ジョーンズさん。俺は、今から署に帰って、ブレイク警部にこの画像の件を報告します…そうだ、この画像、コピーできますか?」

「ああ、お安いご用さ」

 ジョーンズがCD−Rにカーイにそっくりな画像をコピーしている間に、ネイサンは、携帯でキースに連絡を取ろうとした。

(駄目だ。地下鉄にでもいるのかな、通じないや)

 一刻も早く、この画像をキースに見せなければ。自分が興奮状態に陥っていることは、ネイサンにも分かっていた。頭の中を整理するためにも、キースの冷静な意見を聞きたいところだった。

 ジョーンズから画像の入ったディスクをもらうと、ネイサンは、もう一度礼を言って、彼のフラットを飛び出した。

 とにかく、この大きな収穫を署に持って帰って、上司や仲間達に示したい。もしかしたら、これが、事件解決の糸口になるかもしれないのだ。そのことだけが、今のネイサンの頭を占めていた。

 大通りを外れた、さびれたこの界隈には、この時間、ほとんど人通りはない。

(しまった。タクシーを呼んでもらえばよかったな。まあ、いいや。地下鉄まで、それほど距離はなかったし)

 ネイサンは、コートのポケットに入れたディスクに、確かめるように触れると、オレンジ色のぼんやりとした街灯がぽつんぽつんと灯っている夜の街を、早足で歩き出した。  

 そして―。

 ネイサンが、ジョーンズの住まうフラットを立ち去った後、同じ街角に、突然、別の人物が、影の中からふわりと降り立った。

 彼は、遠ざかっていくネイサンの後ろ姿を、複雑な眼差しで追いかけ、しばし迷った後、ネイサンが今出てきたフラットを振り仰いだ。灯りのついている窓の1つを、じっと眺めた。

 瞬間、彼は、まるで見えない翼でもまとっているかのごとく、舞い上がった。そのまま、鳥のような実に優雅な身のこなしで、3階に位置するその窓の場所まで飛ぶと、するりと壁を通り抜けた。

 寝室らしい部屋に降り立った彼は、隣の部屋から流れるテレビの音声を、更に奥の部屋で、住人が動く物音を聞いた。

 彼自身は、全く音をさせずに動いた。獲物に忍び寄る猫のように滑らかな動作で、テレビの置いてあるリビングの前を通り過ぎ、灯りのついている奥の部屋に近づいた。

 男の鼻歌らしいものが、聞こえる。部屋を覗き込むと、眼鏡をかけた、やや小太り気味の男が、ビールを片手に、散らかった机の上から雑誌を取り上げて、片付けているところだった。

 視線を動かすと、こちら側に向いた、パソコンの画面が見えた。そこに映っている画像に、彼は、小さく息を呑んだ。

(あれは…)

 男が、彼の気配を感じ取ったかのように、扉の方を振りかえろうとする。そうさせる前に、人間の目には捕らえることのできない速さを動いた彼は、男の背中に飛びかかり、頭を軽く撫でるようにした。瞬間、男は、声も立てずに、その場に昏倒した。

 己の足元で気を失っている、見知らぬ男を見下ろし、彼は、再びコンピューターの方を振り返った。何かしら警戒するかのように、慎重な足取りで近づいた。パソコンの画面の前で、足を止めた。

(これが…スティーブンが遺したという画像…?)

 呆然となって見つめる彼を、コンピューター画面の中のイメージが、冷たく見返していた。

 恐る恐る伸ばした指先で、彼は、己の顔に触れた。

(私)

 カーイは、自らの写し身を前に、奇妙な困惑と衝撃を覚えていた。

(違う。私は、こんな顔はしない…こんな、ぞっとするような、怪物じみた表情などしたことはないはず…これでは、まるで本物の悪鬼のようではないですか、スティーブン。あなたは私をこんなふうに捉えていたんですか?)

 これは、おそらく、彼が子供の時に出会ったカーイのイメージなのだろう。殺しをし、犠牲者の命を取り込んだ直後のカーイ、恐ろしげな恫喝でスティーブンに秘密を守るよう暗示をかけた、美しい悪魔の姿だ。

(ある意味、真実ではあるのかもしれませんね。私に命を奪われる人間から見れば、これが、私の本当の姿なのかも…)

 落ち込んだ気分で、カーイは、ため息をついた。

 それから、意を決したように、復元された己の画像と向き直った。これを他人の目に触れさすわけにはいかない。警察に対しては、無論のこと。永遠に消し去ってしまわなければ。その為に、ネイサンの動きを見張り、ここまで追ってきた。

(ネイサンも追わなければ…この画像のコピーか何か持っているかもしれない。だが、彼は、ここでこの画像を見てしまった。今頃、私のことを怪しんでいるだろう。どうする? 彼の意志が弱いなら、強烈な暗示を与えることで、記憶を消すことも可能だけれど…最悪の場合、殺すしかない…)

 またしても正常な狩り以外の殺しをすることに抵抗を覚えたが、それが、カーイが選んだ道だった。

 そして、画像ファイルを開いていたパソコンと、スティーブンの部屋から持ち出されたらしい、もう1つのパソコンも、幾分手荒いやり方で『処分』してしまった後、しぼんでしまいそうな気概を奮い立たせ、カーイは、ネイサンの後を追った。


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