愛死−LOVE DEATH

第二十四章 銀の月と夜の影


 ナショナルギャラリー。13世紀から20世紀にかけてのヨーロッパ絵画、数多くの名画を所蔵する、この美術館には、常に多くの観光客や美術に関心のある市民達が訪れる。

 そこの一角、ラファエル前派のイギリスの大家ジョン・ミレーの代表作『オフィーリア』の前に、カーイは立っている。もう、かれこれ2時間近くにもなるだろうか。

 人間と比べると格段に優れたヴァンパイアの感覚は、恋に破れて正気を失い、入水して果てたかの悲劇のヒロインの静謐な姿を描いた絵を、実に生き生きと鮮やかに捕らえていた。ゆるやかな小川の流れ、その上に揺らめく微かな木漏れ日、花々と一緒に漂う、死せる娘の肌のまだ柔らかいこと、その喉に胸元に寄せる水の音、陶然となったように開かれた瞳に映る、木々の梢を走る小さな影―あれはリスだろうか―に至るまで、彼には感じられる。

 そんなカーイにとって、美術館は、日々の憂悶から離れ、時間を忘れていつまでも楽しめる貴重な場所だ。

 この作品に漂う静けさに、その生々しいまでの死の匂いに、今は浸っている。

 同じ部屋では、過去の巨匠に倣おうという、画家の卵らしい若者が、カーイの斜め横に立って、熱心にスケッチをしていた。

 この素晴らしい美術館に花を添える、美しい芸術品の1つのように、カーイは、腕を体の脇に垂らして佇んでいた。意識を絵の世界に飛ばし、娘の唇が微かに動くのを見つめ、その細い虫の音めいた歌に耳を傾けた。彼自身の唇も震えるように動き、声には出さずに、唇の形だけで彼女の歌を口ずさむ。

 その唇の動きが、ふと止まった。

 カーイは、夢から覚めたようにゆっくりとまばたきをして、そちらに顔を向けた。

「あの…」

 先程まで彼の傍でスケッチをしていた若者だ。緊張した面持ちで、手に持ったスケッチブックを差し出している。てっきり、名画のラフスケッチを取っているかと思っていたのだが、そこに描かれているのは、他でもないカーイ自身の姿だった。

「自分では結構よく描けたと思うので、よければ、もらってください。断りもなく、絵に描いてしまって、失礼だったかもしれませんが」

 カーイが何も言わずに見つめるのに、若者は赤くなって、はにかんだように視線を落とした。

「ここにある絵はどれも素晴らしいけれど、でも、それ以上にあなたの姿が魅力的だったので」

 芸術家という連中には、こういう危ういほどに純真な人種が揃っているのだろうか。ふと、あのすべての始まりの日、よく晴れた秋の朝の公園でスルヤと出会ったことを思い出し、カーイは唇をほころばせた。それに、この若者の眼鏡の下で見開かれた黒い瞳にも、どこかスルヤに似ているところがある。

「よく描けていますね」

 眼差しに力を込めてカーイがささやくのを、魅入られた若者は、忘我の心地にある者の表情で聞いていた。カーイの白い顔が花開くように微笑むのを、なす術もなく見つめていた。

 受け取ったスケッチブックをぱらぱらとめくり、カーイはつけ加えた。

「あなたの他の絵も見てみたい」

 その何気ない囁きに込められたヴァンパイアの魔力に抗えるだけの精神力は、この若者にないことは、カーイには、初めから分かっていた。

 自分がどうして、こんな軽はずみなことをしてしまったのか、若者は、この時も、そして、最後までついに理解することもなかったろう。どうしても、この不思議な生き物、それこそ絵の世界からさまよい出てきたかのようなカーイの顔から視線をもぎ離すことができないようだ。

 カーイが誘いかけるかのごとく微笑むのに、若者は、半ば無意識のようにこう言っていた。

「あの…もし、よかったら、これから僕のフラットに来られませんか?」 




 これで、もう何人…?




 弱々しい冬の太陽は早々と沈み、大通りは帰路を急ぐ人々にあふれている。黒いロングコートのポケットに手を突っ込んで、その人ごみの中でも特に苦労する様子もなく滑るように動く、長い髪の青年の顔は、暗く閉ざされていた。ふと、ある店のショーウィンドウの前で立ち止まり、そこに陳列されたテレビに映る番組に疲れたような眼差しを数瞬の間向け、また歩き出す。

 夕方のニュース番組の中で特別枠を組んで特集されていたのは、ここの所ロンドンを震撼させている連続猟奇殺人事件だった。

 最初の犠牲者は、実はAホテルで殺害された外国人だと後で明らかになったが、その初めの殺人からふた月近く息を潜めていた犯人が次々と起こした殺し、特に無残にも頭を叩き割られた上に血を抜き取られていた犠牲者の写真をタブロイド紙がすっぱ抜いたことから、人々の関心は一気にその凄惨な事件に集まった。一見荒っぽい手口の、同じような殺しが立て続けに繰り返されているというのに、犯人の手がかりは全くつかめないということで、最初はただ面白がっていた市民達の間にも、次第にピリピリした緊張感が漂い始めている。

 最初の犠牲者と初めに報道されたスティーブン・ジャクソンの殺人が行なわれた通りの名前を取って、マスコミが勝手に『クランレイの吸血鬼』と名づけた犯人が自分だと思うと、カーイは、奇妙な違和感を覚えずにいられない。多くの番組でおなじみのように現れる、何人もの、もと犯罪捜査官や、訳知り顔の精神学者達は、こんな仮説を立てている。自分を吸血鬼と思いこんだ血液嗜好症(ヘマトフィリア)の男。ごく若い男性、それも暗い髪と瞳を持つ、南アジア系も含めた、少年のような若者達が被害者であることから、犯人もおそらくアジア系。反社会的で内公的、幼年期の家庭環境に問題がある人物。全く、一体これは誰の話なのだろうか。

 ある時、家で見ていた番組で、どうやって犯人は被害者の首にあのような傷をつけたのか、ということを推理する為に、御丁寧にも優秀な歯科技工士の助けで作った鋭い牙のついた義歯を示し、まさしく自分が吸血鬼であるとのイメージに浸るために、このような道具を用いたのだと言いきられた時には、正直な話開いた口がふさがらなかった。このような発想をする人間の方が、カーイにとってはよほど信じられない存在のように思える。そうして、試しのその牙を装着して見せた解説者の顔の滑稽さに、本当に笑いが止まらなくなってしまったものだ。

 一体、もう何人殺したのか、カーイは正確には覚えていなかった。警察の被害者リストに、今日会ったあの若者の名が載るのはいつだろう。一人暮しのフラットの、未完成なものも含めた多くの絵にあふれた部屋の真ん中で死んでいる若者。結局、名は聞いたのか聞かなかったのか。もう覚えていないので、新聞に載って初めて、カーイは自分が誰を殺したのか知ることになるはずだ。

(こんなことが、一体、いつまで続くのだろう…続けられるはずがない。でも…)

 この殺しが続かなくなるということは、スルヤの命をカーイが奪うことを意味するのだ。

(スルヤだけは、奪いたくない。私の傍にいて欲しい。いいえ、一緒にいられなくてもいい、スルヤが、人間の限りある生を精一杯生きて、幸せに暮らしてくれれば…)

 これも、ある意味、とても身勝手な考えだ。スルヤの代わりに無関係の人間が犠牲になってもいい訳がない。第一、そんなことを、あの優しいスルヤが望むはずはない。だから、一人を殺すたびに、スルヤには絶対打ち明けられない秘密がまた増えていく。

(自分の身代わりに他の誰かが殺されていたのだと知ったら、スルヤは、どんなに傷つくか…私を責めて憎んでくれるだけなら、まだしも…)

 あまりにも深い想念に取り付かれていたカーイだったが、ふいに、背中に寒気のような感覚が走るのに、はっとして、足を止めた。

 地下鉄の駅に程近い、家路を急ぐ人達で込み合っている大通りを立ち尽くし、鋭い視線を周囲に流す。

 錯覚ではない。何者かが、カーイを見ていた。

(誰?)

 カーイは、緊張に身を堅くした。あの視線は、カーイが何者であるのかを知っていて、意識的に向けられたものだ。人間ではない。カーイの同族だ。

(どこにいる…出て来なさい…!)

 無言の警告音のような気迫を周囲に放って、見えない相手を威嚇する。ヴァンパイアならば、声をかけずとも、同族に己の存在を知らせるのも、また気配を消したいと思えば、そうすることも出来る。一瞬感じ取れたこの相手の気配は、あまり友好的なものとは思えず、むしろ挑発か警告じみていた。

(何の目的で、私をつけ回すんです。バレリーを殺したのは、あなたなんですか?)

 煽られて殺気立ったカーイの目が、その時、視界の端に黒い影を捉えた。群集に紛れてたたずむ、その男は、カーイを見ていた。

 カーイは、体ごとそちらを振り返った。

 瞬間、蜃気楼のごとく、相手の姿はかき消えていた。

(あれは…あの姿は……)

 カーイは、そこに立ち尽くしたまま、肩を上下に揺らせるようにして、息をついた。

(まさか…?)

 確かめようとするかのごとく、目を凝らして、人波の向こうを透かし見たが、そこにいるのはごく普通の人間ばかりだった。

 諦めたように、カーイは、再び歩き出した。

 しかし、頭の中では、先ほどほんの一瞬姿を垣間見た、同族のことを考えていた。

(私が今日行った殺しのことも知っているのだろうか。殺し自体を邪魔することは今のところないけれど、やはり、このままにはしておけない。見つけ出して、真意を問いたださなければ…)

 疲れきった心と体に、この得体の知れない相手に対する不安と恐れが重くのしかかってくる。

 だが、無視するわけにはいかない。バレリーを手にかけたヴァンパイアだ。スルヤに危害を加えないとは言いきれない。何しろ、スティーブンが、スルヤに渡そうとしていたものがらみの殺人かもしれないのだから。

 本当に、スティーブンは何を残したというのだろう。あのネイサン・ナイト刑事も、その点に非常に興味がある様子だったが、カーイとしては、警察に発見される前に、それを見つけ出したい。だから、警察の動きにも、極力注意を払わなければならない。ヴァンパイアの能力を使えば、彼らの捜査に探りを入れ、先回りすることも難しくはないが、犯人である自分があまり近づきすぎて怪しまれることになっても、困る。さて、どう動くべきか。 

「スルヤ、帰っているんですか?」

 この家の玄関をくぐった時、カーイはいつも深く息を吸い込み、これから会う大切な人に自分の中にわだかまる血の色をした闇を悟られぬよう、細心の注意を払って、壁に立て掛けられた大きな姿見で、おのが姿を調べる。鏡の中の巧妙な殺人者は、しかし、この所やつれてきたようだ。

 足音もなく屋根裏に上がると、テレビを付けっぱなしにしたまま、ソファの上で恋人は居眠りをしている。そのテレビでも、例の事件が取り上げられているのに眉を寄せ、カーイはスイッチを切った。

 これだけの報道がなされているのだ。いくらカーイが、自分が犯した殺しのニュースをスルヤの耳には入れたくないと思っていても、情報を遮断することは不可能だ。 

 カーイが、帰りにいつもの花屋で買った、新しい百合の花束の先で頬を軽くくすぐると、スルヤはむにゃむにゃ言いながら顔をこすり、目を覚ました。

「あ…お帰り、カーイ」

 カーイは、ためらいもなく伸ばされた暖かい手に捕らわれ、引き寄せられるにまかせた。凍えた頬や唇に与えられる、優しい口付けに目を閉じた。

「冷たい…」

 ぽつりとスルヤがつぶやく。

「今、外から帰ったばかりだからですよ」

 まっすぐに向けられる、澄んだ、言葉以上に雄弁に語りかけてくる、ひたむきな瞳に、カーイは、ふと顔を背けたくなる衝動にかられた。

「顔色もよくないし、この頃、いつも何だか辛そうに見えるよ?」

 スルヤは、何か言いたげに、気遣わしげにカーイの頬を包んだ手を滑らせる。そうすることで、人並みの体温を取り戻させようとしているかのようだ。

「寒そうだよ」

 そうして、子供のような大胆さでカーイの氷のような手を取って引っ張り、腕の中に抱きしめる。

 買ってきたばかりの百合の花束が床に落ち、簡単にしかくるんでいない包装紙からこぼれ散らばったが、カーイは気にならなかった。このぬくもりに包まれることの喜びと安堵感に、我にもあらず涙がこみ上げてきそうになる。

 唯一無二の伴侶であった母を失って、世界をさ迷い歩いた末にようやく見つけた、初めての幸福だった。

 何ということだろう。一方で、その血に対する飢えは、日毎夜毎、身代わりの犠牲者から飲む血ではごまかしきれないほどに、差し迫ったものになっていくというのに。今日した殺しでも、スルヤに少し似ていると思った獲物の頚動脈をかき切ってはみたものの、飲む段になると、胸がむかついて、結局その血の半分も奪うことはできなかった。

「どうしたらいいんだろう」

 カーイの痩せた体をいたわるように抱きしめ、その髪を撫でながら、スルヤは悲しそうにつぶやく。

「あなたを元気にしてあげたいよ。ねえ、カーイ、俺は、あなたに一体どうしてあげたら、いいんだろう?」 

 時々、スルヤの何気ない言葉や、表情、態度に、カーイはぎくりとさせられる。ひょっとしたら、スルヤは、気づいてはいるのではないだろうか。

 いや、実際理解しているわけではないだろうが、本能的に恋人の身に起こっている血なまぐさい何か、体に染み付いた死の匂いを感じ取っているのかもしれない。

 知られたくない。怯えるように、カーイはスルヤの腕の中で身を固くした。

 ここは暖かいと、スルヤの体に身を寄せながら、カーイは、思った。体の内部からくる寒さに震えるカーイには、何よりも慕わしく、何よりもかけがえのないものだった。 

「では、抱いてください、スルヤ」

 スルヤの質問をはぐらかすためだけではない。カーイ自身も欲しかったのだ。重ねた肌を通して伝わるスルヤの熱を。血を吸うことに代わる、濃密な触れ合いを。

 懇願するように首に腕を巻きつけるカーイの背中を見下ろしながら、スルヤはしばし迷うように黙っていたが、結局は彼の望み通り、随分軽くなってしまった体を抱き上げ、2人のベッドまで運んでくれた。


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