愛死−LOVE DEATH

第二十四章 銀の月と夜の影


 キースは、行きつけのガーデニング・ショップ、チェルシー・ガーデナーの種のコーナーにいた。

 ここでは、欲しい種類の種が、ほとんどすべて手に入る。ポピーの種類だけでも、ざっと10種類くらいあるだろうか。迷った挙句、白い大輪の、花の中心にだけ黒が差している品種を選んだ。

 今日は、随分久しぶりに、まともな時間に家路につくことが出来た。クリスマスに起きた新たな殺人事件の対応に追われて、ここ2日は署に泊り込んでしまった。タフさには自信のあるキースではあったが、さすがに体の芯に重い疲労がたまっていることを意識しないわけにはいかなかった。

(スイートピーの種も買っておくか)

 仕事帰りに時間があればよく立ち寄る、この店は、キースの言わば息抜きの場所だ。色とりどりの花の写真が印刷された種のパッケージや球根をじっくりと眺めながら選んだり、ぴかぴかのガーデニング用ツールの前を歩いたりしていると、殺伐とした仕事のためにささくれ立った神経が癒されるような気がした。

 閉店間際まで店の中を探索した後、レジをすませ、外に出ると、イギリスの長い冬の夜が彼を迎えた。コートの襟を立て、歩き出そうとした、その時、ポケットの中の携帯電話が鳴った。

「はい?」

 また何か緊急の連絡が入ったのだろうかと思いながら、キースが電話に出ると、興奮するといつも早口になる、ネイサンの声がした。

(警部、ネイサンです。今、署に戻ってきたところなんです。お話したいことがあったんですが、警部はもう帰られたと聞いて…あ、すみません、携帯にまでかけるほど緊急の話ではないんですが…その…スティーブンの家から持ち帰ったパソコンを調べてもらって…その件で、ちょっと…)

 キースは、ネイサンがちょっと言いにくそうに口ごもるのを聞きながらも、腕時計を見下ろした。

「ネイサン、もし今夜の予定が特にないなら、今から俺の家に来ないか?」

(えっ、警部のお宅にですか?)

「ああ、今夜は久しぶりに、少しはまともな食事を作ろうと思っていたんだ。それなら、1人より2人の方がいい」

「いいんですか…急にお邪魔して、食事までご馳走になって…?あ、もちろん俺も手伝いますけれど。ありがとうございます、警部。喜んで、行かせてもらいます!」

 こうして、キースは、もよりの地下鉄の駅でネイサンと待ち合わせをし、彼を伴って、自宅へと向かった。

 ネイサンの声の感じから、これはまた込み入った話になりそうだと思った。おそらく、あまりいい結果は得られなかったのだろう、途方に暮れて、キースにアドバイスを求めているらしい。新人だからといって甘やかすつもりはないが、経験不足を熱心さでカバーしようとしている、その姿は何だか昔の自分とも重なって、キースも、ネイサンのことはつい気になってしまうのだった。

 ネイサンとピートが、スティーブンの父親の許可を得てフラットを調べたことは聞いていた。バレリーを殺した犯人が持ち去ったディスクに保存されていた画像と同じファイルが、どこかに残されていないかとふんだのだ。ネイサン達は、スティーブン所有のCD‐Rやパソコンを署に持ち帰ったが、どうしてもパソコンの方は起動できなかったので、パソコンメーカーの技術部に持ち込むことになった。

「いい家ですね」

 キースの家は、築100年くらいになる、年季の入った赤いレンガの壁の色合いが美しい一軒家(デタッチド・ハウス)だ。離婚した男が1人で維持するのは少々大変だが、彼の努力で中はいつも気持ちよく整理され、リビングは、絨毯から壁の色、飾られた絵に至るまで、暖かい色合いでまとめられ、ほっとくつろげる雰囲気だった。

 興味津々上司のプライベートな空間を眺め回していたネイサンは、くすんだ薔薇色をしたソファの前のテーブルに広げられた雑誌や本に目を留めたようだった。

 ガーデナーズ・ワールド。ホピュラーなガーデニング専門誌だ。意外、とでも思っているのだろうか。

 その後ろ姿に目を細め、着替えをすませる為に2階に行って戻ってくると、キースはキッチンに入った。

「ネイサン」

 キースが呼ぶと、リビングからすぐにネイサンが飛んできた。

「は、はい、警部」

「今夜は、スパゲッティ・ボロネーゼを作るからな」

 腕まくりをして、冷蔵庫から肉や野菜を取り出しているキースを見て、ネイサンは、小さく息を飲み込んだようだ。

「あ、なら、丁度よかったですね」

 手土産にと途中で立ち寄ったワインショップで購入した、イタリアの赤ワインをキースに手渡す。

「キャンティか。この銘柄は結構好きだ。ありがとう、ネイサン」

「何か、お手伝いできることはありますか?」

「ああ。では、野菜のサラダは、おまえに任せよう」

 ネイサンは、嬉しそうににっこりした。夕方待ち合わせの地下鉄の駅で会った時は、いかにも仕事のことで頭がいっぱいで他のことは考えられない、余裕のない顔をしていたが、やっと気持ちがほぐれてきたらしい。1人暮らしで、料理など面倒なだけのものだといつも言っていたが、キースと2人、キッチンに立っての共同作業には、思いのほか、楽しげな様子だ。

「あの、警部は、ガーデニングが好きなんですか?」

 キッチンの小さな窓の前にさりげなく置かれた、ほんの少し芽を出したヒヤシンスの鉢植えを見ながらネイサンが質問をするのに、大きなフライパンで肉と野菜をいためながら、キースは言った。

「別れた妻が好きだったんだ」

「はあ…」

「彼女が世話をしていた庭は、それは見事なものだった。いつかはイエローブック(正式名 Gardens of England & Wales。ナショナルガーデンスキーム加盟のプライベートガーデンを掲載したガイドブック)に載るような庭を作るのが夢だと言っていた。しかし、離婚して、彼女が出て行った後は荒れ放題でな…見かねたと言うか、可哀想になって、水や肥料をやり出したら、案外おもしろくてな」

「はまったんですね」

「ああ」

 少し照れくさくなりながら、キースは、頷いた。

「植物や土に触るのは、いいぞ。命に触れているという気がして。しょっちゅう人殺しや怪我人ばかり見ていると気持ちがすさんでいかんのだが、庭のことを考えている間は忘れられる」

「そう言われると、何だか庭にはまる人の気持ちが分かる気がしますよ」

 ソースが出来てしばらくするとスパゲッティも茹で上がった。ネイサンが隣のダイニングでテーブルを整えている間に、キースは、2つの皿に湯気をたてるスパゲッティを分け、熱々のソースを上からかける。

「待たせたな、ネイサン。腹が減っただろう」

 キースがスパゲッティの皿を手にダイニングに入っていくと、ネイサンは、ワインのコルクを抜くのに悪戦苦闘していた手を留めて、目を輝かせた。

「すごくいい匂いですね、警部。もう、おなかがペコペコですよ」

 それは、昼過ぎに署で書類を見ながらサンドイッチにかぶりついたきり、9時前のこの時間まで何も食べていなかったキースも同じだった。これだけは人に自信を持って振舞えるくらいにうまく作れるようになった、スパゲッティ・ボロネーゼを、キースは、しばらく黙々と口に運んだ。

「ああ、美味しいですよ、これ。警部が、料理も得意だなんて意外でした。今度レシピを教えてくださいね」

「教えてもらっても、作るのか、おまえ?」

 ネイサンの土産のキャンティ・ワインもいい味だった。アルコールが回ってきたせいか、ネイサンは、よくしゃべったし、その話を聞きながら、キースも久しぶりによく笑った。思えば、こんなふうに、この家で誰かといっしょに夕食を取ることなど、1年近くなかったのだ。人といっしょに夕食のテーブルを囲むと言うのは、やはりいいものだ。

 男2人ではあったが、楽しくくつろげる晩餐が終わると、キースは、紅茶と一緒にデザートのクリスマス・プディングを持ってきた。

「あまりものだがな。ハロッズのだから、なかなかいけるぞ」

「ありがとうございます。クリスマス・プディングなんか、今年は食べられないと思ってましたよ」

 キースは、ゆったりと微笑んだ。ふと、視線を部屋の中にさ迷わせた。この家は、やはり、1人暮らしには広すぎる。

「そんなによかったのなら、時々めしを食いに来てもいいぞ」

「ええ、いいんですか? 俺、結構あつかましいから、本当にお言葉に甘えてしまいますよ」

 キースは、ネイサンの屈託のない顔を見ながら、紅茶のマグカップを取り上げた。目を閉じた。

「…ネイサン」

 キースは、ごく穏やかな声で、切り出した。

「それで…スティーブンのフラットから持ち帰ったパソコンやディスクから、何か、手がかりらしいものは見つかったのか?」

 ネイサンが溜め息をつくのが聞こえた。

「それが…今度も、駄目だったんです」

 キースが顔を上げると、ネイサンは、悔しげに唇を噛み締めていた。

「目当ての画像らしいものはなかったんだな。メーカーに見てもらったパソコンの方は、どうなった?」

 ネイサンは、眉間に深いしわを寄せ、どうにもならないというように手を振った。

「あのパソコン、コンピューター・ウィルスにやられていたんです。中のデータは、全部飛んでしまっていて、見れないって」

「ウィルス?」

 キースは、眉をひそめた。

「ええ、依頼した技術者の話では、見たことがないタイプの奴で、もしかしたら新種のウィルスかもしれないって。それに、ネット経由で感染したものではなく、他の記憶媒体を通じて感染したんだろうって」

「誰かが、意図的に感染させて、コンピューターの内部のファイルを破壊しようとしたという可能性はあるのか?」

「それを、今、俺は疑っているんですよ、警部」

 ネイサンの顔は、興奮したせいか、さっと赤らんだ。

「何だか、俺達がスティーブンのフラットに行くのを誰かが知っていて、先回りをして、見つけられては困るものを処分していったんじゃないかって。あのフラットを調べた限りでは、外部から進入した形跡はなかったんですが、これは、明日にでも、もう一度鑑識の人間を連れて、調査するつもりです」

「ウィルスにやられたというパソコンの方は…データの復元は、どうしても不可能なのか?」

「メーカーの話では難しいとのことでしたが…」

 キースは、太い腕を組んで、しばらく考えをめぐらせた後、思いついたように、言った。

「俺の知っている人間で、セキュリティ・テクノロジーのプロがいる。そいつに、ウィルスの調査とデータの修復を依頼してみるか」

「それは…そういうプロがいるなら、是非お願いします。コンピューターなんか、俺、からきし駄目で…」

「俺も、苦手だ」

 キースが親しげに笑うと、ネイサンも、つられたように微笑んだ。

 やはり、自分はこいつを気に入っているようだと、キースは思った。よし、こいつのことは、きっちり面倒をみてやる。必ず、いい刑事に育て上げてやる。

「警部…吸血鬼って、本当にいると思いますか?」

 唐突にこんな質問をするネイサンを、キースは、いぶかしげに眺めた。

「いや。俺は迷信家ではない。この目で見、この手で触れて確かめられる証拠があるなら、別だがな」

 ネイサンは、小さく吹きだした。

「警部って、本当にどこまでも『刑事』なんですね。俺も、別に、そんなものの存在を本気で信じているわけじゃないけれど…」

 ネイサンの顔に、自信なさげな表情がうかんだ。

「それじゃあ、俺達が追いかけている犯人って、一体何者なんだろう? あんな…常識では考えられない殺し方でわざわざ人を殺して…しかも、足取りをつかめる手がかりは何も残さない。もうちょっとで何かが分かりそうなところまで追いつめたと思ったら、するりとかわされてしまう…人間だとしたら、かえって恐ろしい気がしますよ」

 キースは、口を開きかけ、一瞬躊躇った後、言った。

「人間でも、何かしら怪物じみた者もいる。どこか人と違った部分を持ち、不幸にも人の道を踏み外してしまったような奴が…恐ろしいというよりも、ある意味哀しいことだと、俺は思う」

 ネイサンは、はっとしたように顔を上げた。

「俺達に出来ることは、むやみやたらと恐れたり、マスコミで騒がれているような意見に惑わさせることなく、冷静に仕事をして、早く犯人を捕まえることだ。これ以上の犠牲者を出さないためにも、そして、その犯人にこれ以上の罪を犯させないためにも、な」

「警部」

 ネイサンは、若い顔に真摯な表情を浮かべて、何か言おうとするように口を開きかけるが、キースは、それを手で制した。

「そろそろ帰って休め、ネイサン。明日も、この調子だとハードな1日になりそうだ」

 ネイサンは、ちょっと不満げだったが、やがて諦めたように肩で息をついた。

「分かりました。でも…」

 考えをめぐらせるよう、首をかしげた。

「また、ここには寄らせてもらいますからね。警部がいいって言ったんですから。また、食事をしながら、色んなことを話し合いましょう」

「ああ」

 キースは、面白そうに黄色の瞳を瞬かせ、笑った。

「楽しみにしている」

 この若い後輩に向かって、心からそう言っている自分に、キースは、ふと気がついた。


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