愛死−LOVE DEATH−
第二十三章 聖夜
七
イブの夕べは、スルヤと2人、古楽器オーケストラによるクリスマスコンサートを聞いた後、クリスマスのイルミネーションに飾られた街をそぞろ歩き、最後にトラファルガー広場の教会で催されたイブのミサに参加してからやっと家路についたので、家に着いた時には、もう日付は変わっていた。
イギリスのクリスマスの雰囲気を、スルヤは満喫していたようだ。スティーブンに続いてバレリーの死の知らせを受け取ったせいで、落ち込んでいたが、思い切って連れ出してよかったと、カーイは思う。
スルヤは、各地のクリスマス・ソングや、お馴染みのバッハにヘンデルからポップスまで、サウスウォークのカセドラルで演奏された曲の数々にうっとりと聞き入っていた。その時の満足そうな顔や、街を飾る色とりどりの灯りの下や華やかな広場に飾られたツリーの周りで子供のように無邪気にはしゃいでいる様子、屋台で買った香料入りの温かいワインをおいしそうに飲んでいる姿を思い出すと、カーイの胸もほんのりと温かくなった。
スルヤには、いつも幸せでいて欲しい。それが、カーイも幸福にしてくれた。
(早く起きてきてくださいよ、スルヤ。いつまで寝ているつもりなんですか、全く)
昨夜の疲れがぬけていないのか、ぐっすり眠り込んでいるスルヤをベッドに残して、先に起きたカーイは、このリビングに飾ったクリスマスツリーの下にこっそり置いたプレゼントを見つけた時のスルヤの反応を想像して微笑んだり、屋根裏部屋の方をうかがって、そわそわしたりしていた。
がたんという物音が上の階でした。しばらくして、階段を駆け下りてくる足音が聞こえた。
「カーイ?」
リビングの扉からスルヤの顔が覗いた。寝癖がついてピンと立った髪がカーイの微笑を誘う。
「メリー・クリスマス」
カーイが言うのに、スルヤもにっこりして答えた。
「メリー・クリスマス」
カーイは、スルヤに向かって意味深な表情で片目をつむって見せ、それから、視線をリビングの片隅に飾られたツリーの方に移動した。スルヤの視線も、カーイのそれを追いかけた。
「あっ」
スルヤは、スリッパをぱたぱた鳴らせて、ツリーの方に駆け寄った。
「いくら休みの日だからって、パジャマ姿でうろうろするのはやめなさい、スルヤ。髪だって、ぐしゃぐしゃですよ」
内心ではそんな格好もすこぶる可愛いと思いながら、カーイが見守るうち、スルヤは、ツリーの根元に置かれた箱を持ち上げ、カーイを振り返った。
「これ、俺に?」
カーイは、笑いながら、頷いた。
「開けてみてください」
スルヤは、床にぺたんと座り込んで、嬉しそうに包みを破り始めた。
「あああ、これ、欲しかったカメラだ。嘘ぉ…高かったでしょ、カーイ」
「お金なんて、問題じゃないんです。あなたが喜んでくれるかどうかが、私にとっては大問題なんです。気に入りましたか?」
スルヤは、カラメル色の頬を紅潮させて、興奮気味に叫んだ。
「もちろん! ありがとう、カーイ! これね、叔父さんが使っているのと、同じカメラなんだよ。俺みたいな写真家の卵にはもったいないくらい、立派なカメラだよ。うわあ…どうしよう、何だか、すごく写真を撮りたくなってきた。ねえ、せっかくだから、今日、写真撮影してもいい? モデルになってよ、カーイ」
「あなたがそうしたいなら」
大人の余裕でゆったりと満足そうに頷いてみせたが、スルヤの素直な喜びように、カーイも快哉を叫びたいくらい嬉しかった。
「あのね、俺も、カーイに贈るものがあるんだよ」
スルヤはそう言って、立ち上がった。
「ちょっと待っててね」と言い残し、リビングを飛び出していくスルヤの姿をカーイは目を細めるようにして見送った。さて、一体、何をくれるというのだろう。不思議なくらいの多幸感に満たされながら待っているうちに、スルヤは階段を駆け下りてきた。
「これだよ」
受け取った封筒を意外そうに見つめる。それから、封を切って、中を確かめた。
「航空券?」
インドのデリーまでのオープンチケットだった。
「うん、カーイは一度もインドを旅行したことはないって言ってたでしょう。ねえ、落ち着いたらさ、一緒に行こうよ。俺の生まれ育った場所をあなたに一度見せたいんだ」
「あなたの国…あなたが生まれた場所を訪れる…あなたと2人で…」
カーイは、その提案について思い巡らせながら、呟いた。そして、期待に満ちた目をして答えを待っているスルヤを、つくづくと眺めた。
「素敵な計画ですね。私も、あなたという人が育まれた世界を見てみたい気がします」
それは、本当に素晴らしい考えだと思った。出来ることなら、今すぐにでも、荷物をまとめて、空港までタクシーを飛ばしたいくらいだ。どうして、今まで思いつかなかったのだろう。発展途上にあるアジアの国は、カーイの趣味からはちょっと外れていて、旅先に選ぶことはなかったのだが、スルヤがいるなら話は別だ。それに、彼が生まれ、彼が見、感じながら育った土地ならば、案外、好きになれるかもしれない。
説明し難いほどの幸福感が、胸の奥から奔流のように迸って、カーイを隅々まで満たしていった。スルヤと2人で見る夢に、溺れた。
「約束だよ」
スルヤはカーイの体に腕を回し、甘えるようにもたれかかった。
「ええ…必ず」
カーイは、スルヤの頭をかき抱くようにして、彼の暖かさと甘い匂いにうっとりと目を細める。
いつまでも、こんな時間が続けばいい。終わりたくない。終わらせない。
その日一日、カーイは、ほとんどうかれ、はしゃいでいると言っていいくらい、スルヤと2人きりの幸せな時間を過ごした。スルヤが望むまま、家中を移動しながら、新品のカメラで撮影会をやった。近くのレンタルビデオショップで借りた、『ミスター・ビーン』の全話を一気に見て、お腹が痛くなるくらい笑い転げた。それから、もちろんクリスマスのパーティーも。昼間から時間をかけてじっくり焼いたターキーは、カーイの会心の作品だったし、スルヤが楽しみにしていたクリスマスプディングも、蒸しなおしてカスタードソースを添えて食べると、自画自賛してもいいくらいに美味しかった。あまり食べると胸やけがしそうだったが、甘い物好きのスルヤは、平気でおかわりをしていたくらいだから、大成功と言えるだろう。シャンパンのボトルも1日で2本空けた。もっとも、お酒に弱いスルヤはすぐに真っ赤になってしまい、飲んだのは、ほとんどカーイだったが。
熱に浮かされたような幸福感には、いつまでも終わりなどこないかに思われた。このまま、ずっと続いていくように感じられた。
それでも、やがて昼が夜になり、その夜の闇も次第に深くなっていく。異様に高揚したカーイの気分が伝わったかのように、はしゃぎまくって疲れ果てたスルヤは、深夜になって、カーイに支えられるようにベッドにたどり着くや、すぐに深い眠りに落ちていこうとした。
「スルヤ、スルヤ、ねえ、もう眠ってしまうんですか?」
カーイは、まだスルヤを寝かせたくなかった。この一時を、少しでも長引かせたかった。
「起きてくださいよ、ね?」
ベッドの上で正体をなくしているスルヤの上にのしかかり、セーターの裾から手を入れてくすぐると、スルヤは、体を2つに折ってくすくす笑った。
「駄目だよぉ、カーイ…俺、もう…眠くて、目も開けてらんない…」
「私より若いくせに、だらしのない。もう少しがんばれるでしょう? 起きて、ボードゲームでもしましょう。借りてきたビデオもまだあるし…それとも、あなたがどうしてもこのベッドから離れたくないと言うのなら、ここで一戦交えますか?」
セーターを捲り上げて、現れた滑らかな胸に唇を押し当てるカーイを、スルヤは笑いながら抱きしめて、広いベッド代わりのマットレスの上を転がった。
「んんん…今夜は、もう、このまま寝よう、一緒に寝ようよ…」
半分寝ぼけまなこで、カーイを隣に寝かせると、スルヤは掛け布を引き上げて、そのまま沈没した。
「スルヤ…」
カーイは、上体を起こし、スルヤを覗き込んだ。完全に眠っている。一瞬、それでも揺すり起こそうとするかのごとく手を伸ばしかけたが、結局諦めたようだ。
せめて口付けをと、スルヤの方に身をかがめる。すると、彼の体から立ち上る、何とも言えない、甘く、香り高い血の匂いに、頭の芯がしびれた。
(喉が渇いた…)
カーイの皮膚の下で、獣が蠢いた。目がふっと細くなった。唇がめくれ、真っ白な牙が剥き出される。
(愛しい人、愛しい、あなたの血…)
カーイは、スルヤの枕元に手を突いて、彼の上に倒れ掛かろうとする我が身を止めた。己を支配しようとする獣を抑え込み、正気づかせようと頭を何度も振った。
(スルヤ)
死の牙を隠し、愛のこもった優しいキスをスルヤの柔らかな頬に与えると、滑るような身のこなしでベッドから飛び降りる。
(あなたの血は、飲まない。決して)
スルヤの満ち足りた寝顔を、カーイは、ベッド脇に立ちつくしたまま、長いことじっと見つめていた。
(スルヤと一緒にいられる、この幸せ、何にもかえがたい、この時間を守るためなら、どんなことでもする)
いつしか、カーイの顔から笑みは消えていた。痛切な、切迫した表情がうかび上がっていた。
スルヤの眠る暖かい場所から、彼は、意識して我が身をもぎ離すように、
退いた。
スルヤと一緒に見た、クリスマスの夢は覚めていた。
いまや、カーイの後ろには、暗く冷たい現実が、容赦なく、しかかっている。
(例え、他の何を犠牲にしても)
震える手で己の喉を押さえ、乾いた唇を舌でなめた。
音もなく彼は動き、衣装ダンスから黒いコートを取り出し羽織ると、そのまま霧と化して家の壁を通り抜け、凍てつく冬の夜の中にさ迷い出て行った。
不吉な亡霊、悪霊、人に災いと破滅をもたらす、まさに悪しき運命そのものと化していた。
カーイは、飢えていた。
しんと静まり返った暗い通りを、カーイは、風のように移動した。ヴァンパイアの移動の速度であったから、別の街に出るのもあっという間であったろう。カーイが立ち止まったのは、おそらくシティの中心に近い、若者達が集まるようなバーやディスコが建ち並ぶ、しかし、さすがにほとんどの商店は休業するクリスマス、それもこの深夜のことであり、人通りのぱったり絶えた夜の街中だった。
「………」
石畳から立ちのぼる湿った冷気は、皮のブーツの中にまで忍びこんでくるが、凍えるようなその寒さも気にならない様子で、カーイは耳を澄ませた。
誰かが石畳の道を歩く足音が、近づいてくる。
風に混じって漂ってくるアルコールと血の匂い。どうやら、これがカーイの足を止めさせたらしい。
そう、血の匂い。
またしても渇きを覚えたのか、薄く開いたカーイの口から赤い舌が覗き、唇を舐める。
カーイは、動いた。灯りに引き寄せられる蛾のように、その血の匂いがする方へと引き寄せられていった。
そして―。
「ううっ、寒い」
若者は、近くに住む友人の家でクリスマスの馬鹿騒ぎをやった後、ガールフレンドを送って、自分のフラットに帰る途中だった。クリスマスの夜のことであり、地下鉄もバスも動いていないし、タクシーさえ走っていない。仕方がないので、歩いて家まで帰ることにしたのだ。
今夜は、よく冷える。アルコールで暖まった体も、歩いているうちに冷えてしまった。家についたら、また少し飲んで、さっさと寝よう。
彼が、人気のない通りの真ん中で、あまりの寒さに皮のコートの襟をあわせてぶるっと身を震わせた時である。
(あ?)
若者の顔に、不審そうな表情がよぎった。
同じ道の端、今は灯りの消えた店のショーウインドウの前に、ほっそりとした人影が立っているのを見つけたのだ。白っぽい髪を長く伸ばしていることから、女性かと思った。
こんな時間に若い女が一人でいるなんてと、いぶかしく思ったが、声をかけることで面倒にまきこまれるのはごめんだったので、気づかぬふりをして、足早にその場を離れた。
しかし、数ブロック行った所で、若者は再び足を止めた。
先程と同じ『女』が、彼の行く手に立ちはだかるようにして、通りの中心に立っていたのである。いつの間にか追いぬかれたのだろうか。いや、そんなはずはない。
ぽかんと口を開けて凝視する若者の顔に、言い知れぬ戦慄がうかんできた。今度は頭上から降りかかってくる月明かりを遮るものが何もなかったので、その顔をはっきりと見てとることができた。こんなに美しい顔は見たことがなかった。しかし、そのわずかに細められた双眸と半ば開かれた唇の表情は、何かしら若者の背中の辺りをぞっと冷たくさせた。まるで自分が捕食者の前に投げ出された無力な小動物にでもなったかのような不安を抱かせた。
若者はじりっと後退りした。体ががたがたと震えだし、額には冷たい汗がうかんだ。
長い髪をした幽鬼じみたその人物が手を伸ばすような仕草をした、瞬間、若者はくるりと踵を返して、逃げ出した。本能に突き動かされるがまま、脱兎のごとく駆けた。
ごうっという、風の音めいたものが、若者の耳に届いた。途端に、若者の体は凄まじい力に捕らえられた。悲鳴をあげたかもしれないが、それを聞くものは誰もいなかった。そのまま数メートルをほとんど体重のない人形のように一気に連れ去られ、固い煉瓦の壁に叩きつけられた。若者の側頭部は、卵の殻のように簡単につぶされ、黒っぽい血がその体の押しつけられた壁をゆっくりと伝い、流れ出す。呆然と目を見開いた若者は、それでもまだかろうじて生きていた。一体自分に何が起こったのか分からぬかのような呆けた表情をうかべた、その黒いガラスめいた瞳は、こんな状況でなければきっと陶然となって見とれただろう世にも美しい顔を映している。
「すみませんね。私には、今どうしてもこれが必要なのです」と、襲撃者は、言った。その口から覗く、鋭い2本の牙。人間ではなかった。
彼は、若者の皮のコートを開き、その下のシャツを半ば引き裂くようにして肌をあらわにすると、びくびくと死の間際の痙攣に震え出すの首筋に、きらめく牙を沈めた。
全てが終わった後、カーイは、力を失った若者の体を、崩れ落ちるがままにした。
死体からは、カーイが飲み残した血がじわじわと流れ出し、黒っぽい石畳を染めていく。とっさにそこから目を背けたい衝動に駆られたが、カーイは、動かなかった。自分がしたことの結果を目に焼き付けた。
暗鬱な笑いが、雪で作られた彫像めいて、冷たい顔に広がっていく。
(一端泥にまみれれば、汚れなど、もう気にならなくなるかと思ったけれど、案外…辛い…)
吐き気を覚え、口元を押さえた。若者の体に染み付いた煙草と整髪料の匂いもあまり好きにはなれなかったが、それ以上に、舌を刺す、この血の味、死にいく者の恐怖と絶望の苦い毒の味に、眩暈を覚える。
(でも、おかげで、またしばらく飢えをしのぐことは出来る。スルヤの血を奪わなくてもすむ)
カーイの足元で徐々に冷たくなっていく黒髪の若者の姿が、一瞬スルヤに重なり、身震いした。
本当ならば、死なずにすんだはずの命。
どうせ、捕食の対象の人間に過ぎないのだから、誰が死んだところで同じだし、その人数が少しばかり増えようが、どうということはない。そう割り切ろうとしたが、むしろ気持ちは沈むばかりだ。ヴァンパイアにしては、人間的になりすぎたのか。ヴァンパイアであっても、誇りにかけて、認められない行為だからか。少なくともブリジットならば、決して、こんな無残で無意味な殺人を許さなかっただろう。
(堕ちるのかい?)と、哀切な響きを帯びた、かつて愛したレギオンの声が問いかけた。
いつか見た暗示めいた夢が思い出された。神の眷属が立つ高みから、なすすべもなく堕ちていく自分を想像した。
自分が何者であるかを忘れ、誇りも捨て、本能のまま無軌道に人を襲い続けるのなら、それはもう、ただの血に飢えた獣と同じだ。
(ブリジット、あなたが到達した場所になど、こんな私が辿りつけるわけもない)
血を飲んだばかりだというのにおさまらない寒さに震え、コートの襟を立てると、カーイは死体に背を向け、歩き出した。
罪を宣告された人のように肩を落とし、力ない足取りで、夜の闇の中に紛れ、立ち去っていく。
人間達を時に魅了し時に圧倒した、その身にまとっていた光の翼のような光輝も、消え果てたかのようだ。そんなカーイの姿を見守るものは、この静謐な夜の中では、はるか天上の月くらいのものに思われた。しかし―。
何の予兆もなく、カーイがいなくなった街角に、また別の人影が降り立った。
深く濃い闇の中から結晶と化して零れ落ちたかのような、黒く美しい姿が、凍りついた街に佇んでいた。
しなやかな手が上がり、月明かりの下、濡れたような艶を帯びた重たげな黒髪をかきあげる。
物思わしげな淡い灰色の目が、つい今しがたカーイが消えていった方角を追った。
「何てことだろう」
サンティーノは、地面の上に横たわる、壊れた人形めいた死体を見やった。溜め息混じりの呟きが、血を吸ったように赤い唇から漏れ出る。
「まさか、こんなことになるなんて…こんな馬鹿げた話、一体、彼らにどう伝えればいいのか―」
半ば途方に暮れ、半ば蔑みのこもった声だった。
再び、死体の方を、どうするか迷うように眺めたが、結局そのまま打ち捨てることにしたらしい。
現れた時と同じく唐突に、サンティーノの姿は、夜の街がつくる影の部分に吸い込まれていくかのように、消えた。
後に残るのは、動くものの一つとてない街角で、徐々に冷えていく若者の死体のみ。
月だけが見ていた。
息絶えた若者の流した血が、石畳を濡らしている。天高くから降り注ぐ仄かな月明かりの下で、それは、墨のように黒い。
ふいに、吹き寄せてきた厚い雲の影に、月は隠れた。街は、漆黒の闇に沈んだ。若者の姿もまた。
まるで、ついには月さえも、この無残な光景をこれ以上見ることに耐えられなくなかったかのごとく。