愛死−LOVE DEATH

第二十三章 聖夜

「それじゃあ、その男は、喧嘩のあった夜以来、一度もここに現れなかったんですね。外国人旅行者というだけで、どこの誰かも分からないと」

 その夜、ネイサンは、同僚刑事のピートと共にコヴェントガーデン近くのワインバーを訪れていた。バレリー殺人事件の捜査のためである。

 バレリーの友人達に、近頃の彼女に行動に変わったことはなかったかと尋ねたところ、新しい恋人が出来たと、それが身元のよく分からない旅行者なのだということを聞き、その外国人の行方を追って、ここまで来たのだ。

「まあ、あれだけ派手な大立ち回りを演じた後では、二度と来ることはできないだろうさ。最初に喧嘩を吹っかけたのはあのごろつきどもだが、返り討ちにあって大層な怪我を負わされたし、店の備品にも被害が出ている。見つかったら、賠償ものさ」

「その…男の人相風体は、覚えてますか? それだけの人数を1人で叩きのめすなんて、よっぽど、こう…筋骨逞しいというか、何か特別な訓練でも受けているような、とか」

「いや、ところが、全くそんな様子じゃなかったんだ。一見痩せぎすなくらいにほっそりとした、そっちの刑事さんなら簡単に取りひしげそうな、華奢な男だったんだよ。それにな、これがまた、めったにいないようなすごい男前なのさ。あんな奴に口説かれたら、大抵の女はふっとなって簡単になびいてしまうだろうさ」

「はあ…えっと、髪や目の色、その他に身体的な特徴は覚えてますか」

「ああ、髪は真っ黒だったな。肩より少し長いくらいの巻き毛だったよ。瞳は、ちょっと分からないが…淡い色だったな…背は、あんたとそう変わらないだろう。それとな、ちょっと印象的だったのが、まるで化粧でもしているのかと思うくらいに、唇が赤かったことさ」

 店の主人だけでなく他の店員にも聞いたが、たぶんイタリア訛りのような癖のある英語を話したという以外、これという手がかりはなかった。

「ピート、どう思います? この男がバレリーを殺した容疑者だとは考えられますか?」

「どうだかな」

 ピートは、バーのカウンターで飲みなれないワインをちびちび飲みながら、肩をすくめた。

「不良どもを叩きのめしたとは言っても、別にそいつらの血は飲んでないようじゃないか」

 キースの命令で、それまでの担当からはずされネイサンの調査をサポートすることになって、ピートは不満なのだろうかと、ふとネイサンは疑ったが、そういうわけでもないようだ。

「しかし、バレリーの殺人があって、ただの通り魔ではないかもしれないって可能性は高まったわけだよな。スティーブンの行動をしつこく調べていたおまえの捜査も、案外的を射たものだったって訳だ」

 スティーブンと近しい間柄にあったバレリーまでが殺されたことに、警察は注目していた。それに、彼女が殺されたのは自宅であり、何者かが外部から侵入した痕跡も、彼女が抵抗した形跡もほとんどなかった。通り魔ではなく顔見知りによる犯行、Aホテルで見つかった外国人の殺され方に、むしろよく似ている。

「なくなったディスクがどう関わってくるのか分からないが、これは、スティーブンの両親に連絡を取って、許可が出次第、クリスマス明けにでも彼のフラットを調べられたら、何か分かるかもしれん。そこで犯人につながる手がかりが出てくるか、それとも、何も出ないか」

 ネイサンは、真っ赤なワインの入っている己のグラスを見下ろした。その色が、殺されたバレリーやスティーブン、他の犠牲者の血を思い起こさせて、顔をしかめた。

「一体、何故、彼らは殺されたんだろう」

 ポツリと呟いた。

「そうだな」と、ピート。

「第一に考えられる動機は、犯人は、血を飲みたかった」

「まさか、本当に吸血鬼なんて…」

「あるいは、自分がそうだと思い込んでいる人間とかな。第二には、何か知られたくない秘密を握られたために、殺した。いずれにせよ、ミステリーじみた事件だな。マスコミが、あれやこれやと書き立てるのも無理はない」

「一体、どんな奴なんだろう、その『吸血鬼』って…」

「もし、俺達が追っている外国人が犯人なら、イメージにぴったりだな。黒髪黒尽くめの、この世のものとは思われないほど美しい男っていうんだからさ。全く、そんな男が現実にいるのかねぇ」

「この世のものとは思えない、か」

 鸚鵡返しに、ネイサンはつぶやいた。その顔が、少し紅潮した。

 この世のものとは思えない。まさにその形容がふさわしい美しい姿が脳裏に蘇ったのだ。

 カーイ・リンデブルック。

(おい、しっかりしろよ、ネイサン・ナイト。何で、仕事中にあの人のことなんか思い出すんだ。不謹慎だぞ。それに、それにだ、いくら綺麗だからって、あれは、れっきとした男性なんだから…)

 ネイサンは、幾分焦りながら、頭の中にいまだ焼きついているカーイのイメージを振り払った。一瞬、『吸血鬼』の容姿の表現から、彼を連想してしまったが、それだけだ。まさかカーイが事件とつながっているとは、この時のネイサンは、全く夢にも思っていなかったのだ。

「あ…」

 バーの外に出ると、ちらちらと雪が舞っていた。ネイサンは、とっさに手を差し出し、それを受け止めた。淡雪は、彼の体温に溶けて、あっという間に消えてなくなってしまう。

「そう言えば、明日はクリスマスか。この大事件がなけりゃ、俺達もクリスマス休暇でのんびり出来たはずなんだが、この状況じゃあな。全く、刑事ってのは、因果な仕事さ」

 ぶつぶつと文句を言って歩き出すピートの背中を、ネイサンは、茫洋とした眼差しで見送った。

 クリスマスか、と胸のうちでとひとりごちた。こんな陰惨な事件を抱えたままでは、とても楽しい気分で迎えられそうにはない。そう言えば、クリスマスカードも、もらうばかりで、ほとんど送っていなかった。一緒に祝える家族や恋人と暮らしているわけでもないし、特別信仰があるわけでもない。

 それでも、明日がクリスマスだと思い出した今、祈らずにいられなかった。

 どうか、何も起こらずに、誰の上にも穏やかに平和のうちに、この聖なる日が過ぎ去るように。

 どこか近くの教会の鐘が鳴る音が、コートの襟を合わせて、小雪のちらつく夜の街を歩き出すネイサンの耳に聞こえた。



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