愛死−LOVE DEATH

第二十三章 聖夜


 ネイサンは、呼び出し音がもう一度鳴るのを聞いてから、あきらめたようにデスクの電話の受話器を置いた。

(全く、最近の若い女の子ってのは、こんなにいい加減なものなんだろうか。絶対電話をくれるって約束したのに…)

 思わず、腹立たしげに舌打ちをした。バレリーから、あの思いがけない電話をもらったのは、もう5日も前のことである。その日のうちに連絡があるはずが、結局、電話はかかってこず、あくる日に、ネイサンが何度電話をいれても、彼女が出ることはなかった。実は性質の悪い悪戯ではなかったかと疑いたくなるくらいだったが、彼女の真剣な声を思い出すと、そうでもないような気がして、連絡が取れないことが余計に気にかかった。

 ため息をつきつつ、ぴりぴりした緊張感の漂うオフィスを見渡す。3日前に発生した第三の殺人のせいで、仕事はぐんと忙しくなった。捜査体制も規模を拡大して、ロンドン全域で2000人近い捜査官が、犯人の手がかりを追っている。市民やマスコミの注目も集まったため、問い合わせや情報提供の電話はひっきりなしに鳴り続けているし、ネイサンのような新人さえ、捜査関係者と見たリポーターに、いきなりテレビのマイクを向けられたことがある。ますます、気が休まらない状況になっていた。

(早く犯人を捕まえないと、こっちの神経がもたないかもしれないな)

 初めて関わることになった大事件と、それを巡る世間の注目ぶりに、熱意だけには自信のあったネイサンも、少々腰が引けていた。

「ネイサン」

 いきなり背後から声をかけられ、ネイサンは、慌てて後ろを振り返った。

「ブ、ブレイク警部」

 奥の部屋で、しばらく数人の捜査官と話しこんでいたキースだが、いつの間にか話を終えていたらしい。

「どうした、ぼんやりとして。会議は2時からだぞ。報告書は、まとまったのか?」

「は、はい、それは、準備してます。ただ、ちょっと気になることがあったんで、考え込んでいたんです」

「気になること?」

 ネイサンは、言いかけて、躊躇うかのように口を閉ざした。バレリーからの謎めいた電話やスティーブンの身辺の不審な出来事を、キースに相談したい気はするが、捜査の責任者であるキースは、いちいちそんな些末なことに関わっていられるほど、暇ではないはずだ。それに、もう後1時間少しで会議が始まる。キースにだって、その準備やらあるだろう。

 じっと黙り込むネイサンの様子を、しばし、その落ち着いた黄色の瞳で見守った後、キースは、いつもの重々しい、しかし、どこか親しみを感じさせる口調で言った。

「会議まで、まだ少し時間がある。ネイサン、この先の寿司バーででも、軽く昼飯を食わんか?」

 ネイサンは、えっというようにキースを見上げたが、嬉しそうに顔が緩んでしまうのを抑えることはできなかったらしい。キースは、ネイサンの返事も待たずに、行くぞとだけ言って、コートを取りにロッカー室に向かった。

 離婚後1人暮らしを続けているキースは、自炊などする時間はないなりに健康に気を使っているのか、低脂肪、低カロリーの日本食レストランを利用することが、よくあった。ネイサンを連れて行ったのは、最近署の近くに出来た、モダンな造りの流行の回転寿司屋だ。目の前をベルトコンベアーに乗せられた、ツナやサーモン、アボガドの握りや巻き寿司が流れていくのを見ていると、目新しいエンターテイメントを見ているように、何となくわくわくした。

「この店、入るのは初めてだけれど、味も結構いけますね。おいしいですよ、この味噌スープ」

 横目で隣のキースを見やると、彼は、上手に箸を使って、ツナの握りを黙々と口に運んでいた。ネイサンは、箸は苦手だったので、フォークを使って、アボガドの手巻き寿司をつついていたが、ふと、思い切ったように言った。

「警部、俺、気になることがあるって、さっき言いましたけれど、聞いてくれますか?」

「ああ」

 キースは、どっしりした湯飲みを持ち上げて、濃い緑色に濁った茶を飲みながら、ネイサンを促した。

「事件と直接つながるものかどうかは怪しいんですが、実は、スティーブンのガールフレンドから、5日前に電話をもらったんです。それが、何だか腑に落ちない、何とも奇妙な内容だったんです」

 ネイサンは、バレリーが話してくれたディスクの話をした。それから、スティーブンの周囲を調べるうちに出てきた、釈然としない、幾つかの事実―彼が行方不明になっていたことや、何かトラブルに巻き込まれていたという噂、事実、彼自身怪我を負い、彼の叔父も何らかの『事故』に巻き込まれ、現在も入院中であるということなどを、説明した。

「どれも、あの事件には、直接関係ない話ではあるんです。スティーブンがしばらく姿を消していたからって、それが、彼が殺される原因を作ったのだという事実は何も出ていない。バレリーの話はもっと分からないし、想像力の豊かな女の子の単なる思い込みと言えば、それまでみたいなものです。けれど、何だか、気にかかって…。ここまで調べたんだから、納得できるところまで調査を続けたい気がします。ただ、俺だけ、捜査の本筋を外れて、間違った方向に行ってるような不安もあって…」

 こんなふうに時間を取ってキースに話を聞いてもらうのは、久しぶりだった。悩みと迷いを打ち明けたとたん、肩の荷が少し下りたように、気分がすっきりした。ピートにいくらからかわれようが、ネイサンにとって、いざという時に、この経験豊富な上司が頼りであることは、やはり否定できない。

「そうだな」

 途中で余計な質問をすることもなく、ネイサンが語り終えるのを静かに待ち、キースは、なおも、しばらくじっと押し黙って考えを巡らせているふうだった。

「人間というは、誰しも、1つくらい人に知られたくない秘密があったり、表向きの顔からは想像しにくい意外な面を持っていたりするものだ。だが、不審だと思うことが、そう幾つも出てくる、一見事件には結びつきそうにないことでも、何かしら引っかかる点が複数あるというのなら、俺は、おまえの捜査があながち的外れなものだとは思わん」

「警部」

「それに、スティーブンの死については、俺自身も、通り魔的な殺人と決めつけることができない、納得できない部分がない訳ではないんだ」

「えっ?」

 キースは、ちょっと言いにくそうな顔をした。

「これは、俺自身にも説明のつかないものなのだが…俺はスティーブンが殺された現場にも最初に駆けつけて、調べた。彼が、あの雪の中で眠ってるように横たわっている姿も、意外に穏やかな死に顔も、この目で見た。通り魔に惨殺された人間が、あんな静かな死に顔をしていることに、驚いたものだ。正直、違和感を覚えた。彼は、長身で、スポーツをやっているらしい、なかなかしっかりした体つきをしている。その彼がほとんど抵抗らしい抵抗をした形跡がない点も、気にかかった。だから、なのかもしれないが―」

 キースは、手を上げて、確かめるかのごとく、己の額に触れた。

「現場にいた時、変なものが見えたんだ。襲われるスティーブンの姿を、俺は、見た。スティーブンは、瞬間、自分が死ぬことを悟ったはずだが、抵抗はしなかった。彼は、襲撃者を、そいつがもたらす死を受け入れたんだ」

「警部、それって…あなたが時々見るっていう、ビジョンって奴ですか…? スティーブンが襲撃者を受け入れたって、どういうことなんです?」

「ビジョン…そう、ただの幻覚だ。俺にも説明がつかないと言っただろう。だから、俺も引っ掛かりを覚えながらも、理屈にあわない、こんな考えを捜査に盛り込むことはしなかったんだ。だが、おまえの話を聞いて、少し考えが変わった。ネイサン、引き続き、スティーブンの調査を行なってもらえるだろうか」

「そ、それは…もちろんです、警部」

 ネイサンは、目を白黒させながら、やっとの思いでそう言った。見当違いのことをしているかもしれないと不安だった、自分の捜査をキースが認めてくれたことは嬉しい。しかし、それ以上に、事件の初めから、スティーブンの死に方にただならぬものを感じ取っていたキースの異能ぶりに、驚かされてもいた。だが、そう語ったキースは、少しも誇らしげには見えなかった。それどころか、苦虫を噛み潰したような、自嘲的な表情をうかべている。

 おそらく、キース自身は、人に見えないものが見えたり感じ取れたりする、そんな能力を忌々しく思っているのだろう。たたき上げの刑事であり、生真面目なほど捜査を重ね、1つずつ証拠を集めていくやり方が、正当だと思っている。キースにとって、偶然手にしてしまったその力は、これまで積み重ねてきた努力をあっさり否定しかねないものでもあった。『超能力』など本当にあったら、刑事は必要ないのだ。

(でも、だからって、せっかくの『ギフト』をそこまで拒否することはないと思うんだけれどな。才能の1つなんだって認めて、それを駆使して捜査すれば、きっと警部自身だって楽になれるし、そんな自分に誇りも持てると思うのに)

 ネイサンは、若いだけに、刑事という仕事に対するこだわりもそれ程持っていない。結果さえ出せればいいのだと思っている。だから、署の内部では、キースに対する心ない中傷や無責任な噂が一部で囁かれていることも知っていたが、それ以上に彼の輝かしい実績を買っていたので、断然キース支持派なのだった。

「そうだ、警部、せっかくだから、聞いてもいいですか。Aホテルの被害者の名前を割り出せたのは、警部が、殺人のあった部屋で何か、他の捜査員が見つけられなかった手がかりを見つけたからだって聞いたんですが…もしかして、その時にも、警部の『ビジョン』が働いていたんじゃないですか?」

 キースのたくましい肩が、一瞬、微かに震えた。

「ネイサン…」

「いいじゃないですか、別に隠すことなんてないと思いますよ。俺、そういうところも含めて、警部のことは、すごい刑事だって、尊敬してますし」

 明るい調子で言うネイサンに、キースは、あきらめたようなため息をついた。

「大したことじゃないんだ。他の連中が見逃していた手がかりを、俺がたまたま見つけた、それだけなんだ」

 自分に言い聞かせるような口調で言うキースが、ネイサンは、何だか傷ましくなった。人と違ってしまうというのは、そんなに辛いことなのだろうか。

「犯人や被害者の視点に立って事件の現場を観察するというのは、捜査員がよくやることで、俺も、あの日、そうやって改めてホテルの部屋を調べていた。ホテル側が、クリスマスシーズンには、その部屋も稼動させたいというので、片付けられる前にもう一度見てみようと思ったんだ。そうするうちに、ちょっと酩酊状態に近い感覚に襲われて、何か見たり、聞いたりしたのは確かだ…あの…写真で見ただけの被害者が動いたり、連れらしい相手に話しかけたり…だが、そんなことは重要でない……ただの幻に過ぎないんだ。だが、そうするうちに、気がつけば、いつしか俺は手にペンを取って電話の受話器を待ちあげていた。どうしてそんなことをしたのか、分からなかった。その時、手元にあったメモ用紙に目が留まった。設備のいいホテルに時々ある、備え付けのものだ。何かが書かれていたわけではないが、よく見ると、うっすらと文字らしいものの跡が残っている。たぶん、上にあったメモに書いた文字の形が残っていたんだろう。もしかしたら、被害者が書き残したものじゃないかと思った」

「それが、フランス語だったって訳ですか?」

 同僚のピートの言葉を思い出しながら、ネイサンは呟いた。

「全ての文字は読み取れなかったので、持って帰って、鑑識に調べてもらった。すると、フランス語の、何かのタイトルのような言葉と、電話番号らしい数字が出てきた」

 その電話番号は、ホテル近くの書店のものだったと、キースは続けた。そうして、メモに残されていたフランス語は、本のタイトルであり、それを取り寄せるよう注文した客がいたことが分かった。伝票には、『F・ヴェルヌ』という名前と、連絡先としてAホテルの電話番号が記されていた。日付も、殺人事件の直前となっていた。更に被害者の写真を店員に見せたところ、そのうちの1人が見覚えがあると証言した。

 そうして、殺された外国人の身元について、大きな手がかりが得られた。フランスを初めとして幾つかの国の警察機構に、F・ヴェルヌという名の行方不明者がいないか、現在問い合わせをしている最中だ。

「Fっていうと、フェリックスかフランシスか、ファレル…何でしょうね。いずれにしろ、すごいお手柄じゃないですか、警部。被害者の名前を突き止めたなんて」

 ネイサンの手放しの賞賛にも、しかし、キースは、複雑な面持ちで否定的に首を振るばかりだった。

 その時、いきなり、キースの携帯が鳴った。

「俺だ。ああ、今、近くの寿司バーで飯を食っているところだ。もうすぐ署に帰るが…」

 ネイサンは、会議の時間に遅れそうなのではと腕時計を確かめた。まだ20分ある。

「何だと?」

 キースの口調が、険しいものに変わった。ネイサンは、はっと顔を上げた。

「分かった。すぐ、そちらに戻る」

 携帯を切るキースの顔には、先ほどまでの穏やかさとは打って変わって、厳しさがみなぎっている。大変なことが起きたのだと、ネイサンには、すぐピンときた。

「何があったんですか、警部?」

 キースは、その鋭い目をネイサンに向けた。一瞬躊躇った後、重々しく告げた。

「新たな犠牲者が見つかった。バレリー・レシアス。おまえの知っている少女だな、ネイサン」



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