愛死−LOVE DEATH

第二十三章 聖夜


 スルヤは、天窓から差し込む淡い朝の光の下で、うんと伸びをして、目を覚ました。

「あっ…」

 何かしら慌ててベッドから飛び起き、傍らを見下ろす。不安げな顔が、たちまち安堵の笑みに溶けた。

 スルヤの恋人は、彼の方に顔を向けて、眠っていた。昨夜は遅くに帰宅したものだから、疲れているのだろうか。こんなふうにカーイが寝過ごすことはまれなのだが、スルヤは、こんな無防備な姿でぐっすり眠り込んでいる彼を見ることが出来て、何だか嬉しかった。

 スルヤの傍にいると言ってくれた、恋人。

 窓越しの白くかすんだ冬の光の中、透き通ってしまいそうな、その体にスルヤはおずおずと手を伸ばし、長い髪の一房に触れた。

 スルヤは、カーイの眠りを妨げぬよう気遣いながら、そっと身をかがめて、彼の頭に唇を軽く押し当て、また、離れた。ひたむきな目で、カーイの眠りを見守った。

(カーイ、カーイ…ここは、あなたにとって安心できる場所なのかな。ねえ、あなたは、ここに俺と一緒に居て、幸せ?)

 あまりにも現実離れした、その美しさ。目覚めた時には淡雪のように消えていたとしても、少しも不思議ではないような。

(夕べは、やっぱり、本当は不安だったよ。あなたが、もう二度と俺に何も言わずに出て行ったりはしないと信じていたけれど、それでも…)

 1人になって考えたいことがあったのだと、カーイは言った。以前にも、同じような言い訳を聞いたことがある。一瞬追及したい欲求に駆られたのは、確かだ。

(でも、何だか、それってカーイを追い詰めそうな気がして…やっぱり聞けなかったよ。問い詰めても、ただ苦しい思いをさせるだけのような気がして…間違ってるのかな、俺。一度、ちゃんと話し合った方がいいのかな。ねえ、何がそんなに不安なの、一体、何があなたを悩ましているのだろう…あなたのために俺に出来ることはない、カーイ…?)

 ためらいを帯びた複雑な眼差しで、スルヤは、眠れる恋人を眺めた。起こすのが可哀想なくらいによく眠っている。少なくとも、今カーイが貪っている夢の世界までは、彼を悩ます懊悩は忍び込んでいないようだ。

 スルヤはしばし躊躇った後、思い切ったのか、安らかな寝息を立てているカーイに向かって微笑みかけた。

(もう少しの間…待ってみるよ、カーイ。あなたの準備が出来るまで…この頃のあなたは何だか変わってきているもの。以前よりずっと俺に心を開いてくれているふうだし、少なくとも、俺に打ち明けたいって気持ちは何となく伝わってくるし…だから、もう少しだけ、あなたの気持ちの整理がつくまでは…あなたが一言でも俺に話したいことがあると言ってくれれば、ううん、そんな素振りを少しでも見せてくれたら、俺は…)

 込み上げてくる愛しさに胸が詰まって、スルヤは、パジャマの襟元をつかんで、吐息をついた。

(もう少し眠っててよ、カーイ。そっとしておいてあげるからさ)

 スルヤは、カーイを起こさぬよう、慎重にベッドの端まで移動して、床に下りた。抜き足差し足で、階下に続く階段まで歩いても、やはりカーイは起きない。ふと、さっきの、あの幸せそうな寝顔をカメラに撮ってみたくなったが、それは、また今度にしようと思いなおした。

 一階に下りると、玄関のドアの郵便差し入れ口の下に落ちている郵便物を拾い上げた。パリに住む叔父からのエアメールがあったので、封を切りつつ、リビングに入った。ソファに座り、反射的にリモコンを取り上げて、テレビをつけたが、画面の方はほとんど見ずに、封筒から綺麗な絵のついたクリスマスカードを取り出した。同封された手紙に目を通す。ロンドンの冬には我慢できているか、スルヤが以前手紙で報告した恋人とはうまくやっているのか、クリスマス休暇には国に帰らないのかとか。

(デリーに帰る、か。そんなことは考えてなかったなぁ…父さんや母さんには悪いけれど、スティーブンのことがあったし、一緒に暮らしているカーイって恋人がいるし、今は、ロンドンを離れる気にはなれないもの。落ち着いたら、一度、カーイをつれて、家に戻りたい気はするけれど)

 その思いつきに、スルヤは、はっとなった。

 カーイに自分の生まれ育った国を見せたい。南アジアを訪れたことはないというカーイには、きっと強烈な印象を与えることだろう。ヨーロッパとはあまりに違うあの世界を、彼は、どう受け止めるだろう。スルヤを好きになったように、好きになってくれるだろうか。

 スルヤは束の間、夢想した。目に焼け付くまぶしい光と、サリーやパンジャビドレスの鮮やか原色、むっとする人いきれ、埃とスパイスと生き物のにおいのたちこめる街を、白い服を着たカーイが、ゆったりと歩く。子供の頃廃屋の中で見た、幻めいた白い人物に似ているが、違う。この白は、不滅の炎のように生き生きと輝き、鮮やかに燃えている。決して、消えることはない。

 スルヤは、ほっと息をついた。いつか、そんなカーイを見ることができたら素敵だろう。その姿をカメラにおさめられたら、どんなにいいだろう。

 スルヤは、テレビの画面をぼんやりと眺めた。気分を変えて、ソファから立ち上がった。

(コーヒーでもいれようっと)

 それは、いつもはカーイの仕事なのだが、たまには、カーイのためにスルヤがコーヒーを淹れてもいいだろうと思った。本当に、カーイの淹れてくれたコーヒーは、おいしい。豆も行きつけの店で焙煎したてのものを購入するくらいの凝りようなのだ。それを、飲むたびに手動のミルでひいてから、ドリップで淹れる。電動のミルは熱が豆に加わるし、サイフォン式の淹れ方は、豆の雑味を取り除くことが出来ないので、NGなのだそうだ。本当だろうか。

(ええと…ちょっと濃い目のモカが好きなんだよね、カーイは…豆の量は、こんなものかなぁ)

 以前教えてもらった通りに、豆をミルでひき、お湯を沸かし、その間にドリップの用意をする。これも、紙ではなくて、布(ネル)製だ。本当に凝り性なんだからと苦笑する。お湯の温度も気をつけて。90度くらい。分からないけれど、ポットの中を覗くとぷつぷつ泡が出てきたから、こんなものだろう。初めに少しお湯を注いで蒸らした後、ドリップの中のひいたコーヒーの中心に狙いを定め、円を描くようにゆっくりとお湯をそそぐ。たちまち、コーヒーのいい香りが、ふわりとたちのぼった。

「スルヤ、スルヤ」

 階段の方から、カーイの声が聞こえた。やっと起きたらしい。  

「下にいるんですか?」

 別に計っていたわけではないが、丁度いいタイミングでコーヒーを淹れられたことに嬉しくなりながら、スルヤは、浮きたつ声で叫んだ。

「今、コーヒーが入ったところだよ。早く下りておいでよ」

 2つのマグカップにコーヒーを注いでテーブルに置いた時、リビングから聞こえてくる、つけっぱなしのテレビの音声に、スルヤはふと気を引かれた。

 顔色が、さっと変わる。

 まさか。

 スルヤは、キッチンから飛び出し、リビングに向かった。

(…被害者の3人が、昨夜遅く発見されたのが、この通りです。彼らの身元などはまだ発表されていませんが、関係者の話によると、少なくともうち1人は、首にひどい傷を受けており、血を吸い取られた形跡があるということです)

 スルヤの顔が、緊張にこわばった。引きつけられるように、ふらふらとテレビに近づいて、画面の中、マイクを片手に幾分興奮した調子でニュースを伝えるリポーターの姿を、呆然と見つめた。

(今月1日に起こった、スティーブン・ジャクソンさんのケースと酷似していますが、同一犯であるかどうか、警察は捜査中であり、正式には発表されていません。しかし、吸血が本当になされていたなら、単なる模倣犯であるということは考えにくいと思われます。あの恐ろしい『吸血鬼』は、まだこのロンドンにいたということなのでしょうか。連続殺人が始まったということなのでしょうか…)

 スルヤは、己の体に腕を回し、こみ上げてくる震えを押し殺そうとするかのごとく、抱きしめた。

 リビングの扉の所で、小さな物音がした。振り向くと、カーイが青ざめた顔で立っていた。

「カーイ…」

 かすれた声で、スルヤは呼びかけた。思い出すにはまだ辛すぎる記憶が蘇って、彼の胸を痛めていた。

「また、殺人事件が起こったんだって…スティーブンを殺した犯人と同じかもしれないって…」

 カーイも、少なからず、このニュースに衝撃を受けているように見えた。テレビの画面に食い入るように見入っている、その顔は、固く強張っている。

「カーイ?」

 無言のまま、カーイはスルヤのもとにやってくると、その体に腕を回し、きついくらいに抱きしめた。思いのほか激しいカーイの反応に、スルヤは一瞬戸惑うが、自分を案じてのことだと解釈した。

「スティーブンのこと、ちょっと思い出しちゃった」

 小さく鼻をすすった。

「でも、俺は大丈夫だよ、カーイ。スティーブンを殺した犯人が早くつかまって欲しいし、殺された人たちのことも気になるけれど、いつまでも、めそめそ泣いたりなんかしないよ」

 その瞬間、カーイの体が微かに震えたように感じられたのは気のせいだろうか。首をねじって、後ろに立っている彼の顔を確かめようとしたが、そうするより先に、カーイはスルヤから離れた。

「せっかく淹れてくれたコーヒーが、冷めてしまいますよ」

 抑揚のない声音でそう言ってリビングを出て行くカーイの背中を、スルヤは、戸惑いつつ、見送った。

 カーイの後ろ姿は、とても哀しげで、打ちひしがれて見えた。

「カーイ…?」

 依然として事件現場を映している、テレビ画面を振り返る。

「どうして…」

 名状しがたい不安感が込み上げてきた。スルヤは、胸をそっと掴みしめて、扉を振り向き、その向こうに消えていった人を、震える眼差しで追いかけた。



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