愛死−LOVE DEATH−
第二十三章 聖夜
一
以前の私は、何も持ってはいなかった。
何も必要としなかった。
孤独だったが、自由でもあった。
けれど、どうしても失いたくないものが、今の私にはある。
私は、もはや自由ではなくなってしまった。
それでも、確かに言えることは、自由であった時よりも、今の方が私は幸福なのだということ。
だから。どうしても。何を犠牲にしても。
この恋だけは、失いたくない。
「スルヤ…」
夜半に帰宅したカーイは、居間のソファでテレビをつけっぱなしにしたまま眠り込んでいるスルヤを見つけた。
そう言えば、この曜日はいつも、9時から始まるドラマを一緒に楽しんでいたのだ。カーイの帰りを待ちながら、1人で寂しく見ていたのだろうか。悪いことをしてしまった。
「スルヤ、起きてください。そんな所で眠ったりしたら、また風邪をひきますよ」
ソファの前に膝をつき、スルヤの暖かな寝顔をうっとりと見下ろしながら、カーイは囁いた。
「あ…? カ、カーイ…?」
眠りは浅かったらしい。スルヤは、すぐに目を覚ました。手の甲で目をこすりながら、慌てて身を起こす。
「おかえりなさい…あれ、もう、こんな時間だ…」
「もっと早く帰るつもりだったんですが…。おかげで、いつもあのドラマ、見損ねてしまいましたよ。後で、どうなったか教えてくださいね」
「うん…」
スルヤは、優しく微笑むカーイの顔をじっと見た。
カーイは、ふと気になった。この澄んだ綺麗な瞳には、今の自分の姿はどう映っているのだろう。どこも変わっていないか。恐ろしくないか。醜くはないか。
血を奪った、見知らぬ若者の断末魔の叫びが、カーイの脳裏に蘇った。
(化け物!)
一瞬凍りついたカーイを、スルヤの腕が引き寄せ、抱きしめた。
「こんなに遅い時間まで、どこに行ってたの?」
耳元をくすぐる囁きには、責めている響きはなく、カーイの身を心から案ずる、気遣いと優しさが溢れている。
「心配をかけて、すみません。連絡を入れるべきでしたね。1人で、バーで飲みながら、考えごとをしていたんですよ」
「考えごと?」
スルヤが、不思議そうに問い返す。
「ええ、たまには1人になって、あれやこれやと考えたい時もあるんです。だって、あなたと一緒にここにいると、私は、もう、何も考えたくなくなってしまうんですから…」
カーイは、スルヤの体に腕を回し、その暖かさを探りながら、クスリと笑った。
「それだけです。何も、あなたが心配するようなことはなかったんです」
半分は真実、半分は嘘だった。
バーで出会ったポールの幻、あるいは亡霊がせっかく与えてくれた助言も、その効力を失っていた。
カーイは、スルヤの体に回す腕に力を込めた。
やはり恐い。失うことが、恐い。
(スルヤ)
カーイの不安をなだめようとするかのごとく、スルヤの指が、彼の髪を梳くようにして撫でた。その心地よさに、ほっとする。ここにいてもいいのだと、許されているような気がして。ともすれば、本当に何も考えたくなくなる。
自分が何をしてしまったかも。これから何をしようとしているのかも。
「屋根裏部屋に行きませんか。まだ眠そうですよ、あなた」
カーイは、スルヤから身を引いて、立ち上がった。
「ううん…目は覚めたと思ったんだけれど、カーイの顔を見て、安心したからかな」
スルヤは、小さなあくびをした。それから、一転、真顔になって、囁いた。
「ありがとう。戻ってきてくれて」
カーイは、とっさに目を逸らした。心臓が、微かに震えた。
「もう、あんなふうに急に姿を消したりはしませんから、心配しないで下さい、スルヤ。私は…決めたんです、あなたの傍にいると…」
動揺を押し隠しつつ、カーイは、何か言いたげなスルヤに背を向けた。
ふいに、奇妙な目眩にも似た感覚がカーイを襲った。ああ、またかと、うんざりした気分で思った。
「カーイ」
カーイを追いかけるかのように立ち上がった、スルヤの手が髪をそっと引っぱった。その優しい手から、カーイは、するりと逃れた。
「先に休んでいてください。私は、シャワーを浴びてきますから」
あえてスルヤを振り返りもせず、何気ない調子でそう言って、カーイは、2階のバスルームに上がっていった。そうしなければならなかった。スルヤには見せなかった、カーイの顔には、苦悶の汗がうかんでいた。
(口の中に残る、ざらついた血の味が気持ち悪い…)
広々としたバスルームに滑り込み、後ろ手で鍵をかける。肩で大きく息をつくと、カーイは、よろめくように洗面台に近づいた。青ざめた苦しげな顔が、鏡に映る。
突発的な怒りと飢えに、あんなにも支配されていなければ、決してあんな不細工な殺しはしなかったろう。恋をしかけるどころか、何の面識もない、夜の街で出くわした強盗などから奪ってしまった。分かっていたことだが、とてもその血は飲むに値しないものだった。突然見舞われた災厄に対する恐怖と憎しみの突き刺すような味。いつもは自分を愛する者の血しか飲まないカーイにとって本当ならば飲めたものではなかったのだが、血を欲していた体は、それをむさぼった。しかし、あれほど飢え乾いていたにもかかわらず、結局、全部飲み干してしまうことはできなかった。うんざりとなって離した、死体の傷口からは、まだ飲み残した血が細い筋となって流れ続けていたのだ。
そうして、あの苦しみが始まった。
震える手で蛇口をひねり、水を流す。スルヤに気づかれてはならない。額にうかんだ冷たい汗を手の甲でぬぐい、ほっと息をついた瞬間、突き刺すような痛みがみぞおちを走り、カーイは身を2つに折ってあえいだ。
「あ…」
洗面台につかまるようにして、声を殺したまま身を震わせる。次の瞬間、流れる水が血で真っ赤に染まった。更に2、3度、カーイは、血を吐いた。それが渦を巻きながら配水管に吸いこまれて行く様を、うつろな青い瞳が凝然と見守った。
飲むべきではなかった血が、結局すべて吸収することはできなかった犠牲者の血が、いくらかのカーイ自身の血と混じって、吐き捨てられていく。
殺しをした直後はもっと辛かったのだ。体の中で暴れる犠牲者の血が、それを吸収しようとする彼の体の組織を攻撃し、細胞の一つ一つを傷めつけた。その激しい痛みと吐き気に、死体もそのまま打ち捨てて、かろうじて現場を立ち去るのが精一杯だった。そうして、通りをさ迷ううちにたどり着いた、暗い公園のベンチに一人身を横たえて、この衝撃が去るのをじっと待ち続けたのだ。
この苦しみは、血を吸うものの禁忌を犯した、当然の報いなのかもしれない。
こんな吸血行為を繰り返したら、ヴァンパイアの誇りだけではなく、さしもの不滅の体までもぼろぼろになってしまうかもしれない。果たして、これから先、自分はどうなってしまうのだろうとの不安が、カーイの胸をよぎる。
(それでも、あの人を手にかけてしまうよりかは…)
カーイは、ずるずると、その場に崩れる様に座りこんだ。起き上がる気力も体力も使い尽くしてしまったかのように、洗面台に寄りかかるな姿勢で、水の流れる音に耳を傾けながら、しばらく動こうとはしなかった。