愛死−LOVE DEATH

第二十二章 堕ちる天使


 日に日につのってくる飢えのせいだろうか。注意力がひどく散漫になり、ぼんやりと夢を見ているような、非現実感に襲われることが、この頃のカーイには、しばしばあった。

「…お客様?」

 若い男のいぶかしげな呼びかけに、カーイは、はっと我に返った。

「どうかなさいましたか?」

 カメラ店のハンサムな店員が、心配そうな表情でカーイを覗き込んでいた。

「ああ、すみません、ちょっと、ぼんやりとして…」

 そうだった。スルヤにプレゼントするカメラを受け取りに来たのだった。店員の説明を聞いている最中で、また意識を飛ばしてしまったらしい。

「本当に、大丈夫ですか?」

「ええ」

 カーイは、さりげなく店員から身を引いた。彼の体から漂ってくる血の濃密な匂いに、酔いそうになった。その匂いをかいでいると、また意識が薄れ、ともすれば衝動に駆られて、この若者のおいしそうな喉に一噛みしてしまいそうで、不安になった。

「すみません、やっぱり少し気分が悪いようです。顔を洗える場所はありますか?」

「店の奥に洗面所がありますので、よければ、お使い下さい」

 気遣わしげな青年の視線から逃げるように、カーイは、足早に洗面所に飛び込んだ。

白い洗面台の蛇口をひねり、冷たい水を手にすくった。それで目の周りを洗うと、少し気分がよくなった。

 ジャケットのポケットを探ってハンカチを取り出し、そっと押さえるようにして顔をぬぐった。

 目を上げると、鏡に映ったカーイの像が、彼を見返していた。

 母親譲りの優雅にして繊細な美貌、冴え冴えと冷たい青い瞳。この獣じみた凶暴な衝動を隠す、何と完璧な仮面だろうか。

 皮肉な気持ちで、鏡に向けて、優しく微笑みかけてみせる。この上もなく魅惑的な、偽りの仮面に、今のところ、ひびは入っていないようだ。しかし、いつまでもつものか。

 カーイが出てくると、例の店員が、ほっとしたような顔で近づいて来た。またしてもその血の匂いが、押し寄せてくる。

「大丈夫です」

 カーイが微笑みながら頷くと、彼は、赤い顔をして立ち止まった。初心な若者だ。少し、感じがスルヤに似ていないだろうか。

 若者を、ヴァンパイアの死の抱擁で抱きしめたい誘惑をはね退けながら、カーイは、腕時計を確認するふりをした。

「すみません、もう行かなくては」

 名残惜しげな若者の見送りを受けて、店の外を出ると、外は、もう陽が落ちて、すっかり暗くなっていた。この時期のイギリスの夜は、早く訪れる。

 ため息をついて、道行く人々を眺めた。

 クリスマスが近づいているからだろうか、彼らの表情に、どことなく、浮き立つような気分が感じられるのは。

 カーイは、店員から受け取った、カメラの入った紙袋を持ち上げ、大事そうに撫でた。クリスマスはまだ4日先だから、スルヤに見つからないよう、どこかに隠しておかないと。スルヤの喜ぶ顔が目に浮かんで、束の間、カーイの気持ちを和らげてくれたが、発作的に込み上げてくる飢えは、まだ離れてくれなかった。

 スティーブンを殺した時のような最悪の状態にはまだ至っていないけれど、このままの気分でスルヤの家に戻るのは恐かった。

 カメラ店の感じのいい店員にさえ、スルヤに少し似ていると思えば、食指が動きそうになったのだ。全く、我ながら、ぞっとするほどのあさましさだ。

(スティーブン、せっかくあなたの血が私を救ってくれたのに、私のこのどうしようもない欲求は、またしても私をあの嫌な考えに引き戻そうとする)

 スルヤの血でなくても、束の間ならば、飢えをしのぐことは出来る。

 カーイは、唇を噛み閉めた。そして、何かから逃れようとするかのごとく、夜の繁華街を歩き出した。

(スティーブンの血は、結局私を一月ともたしてはくれなかった。いつもならば3ヶ月は飢えずにすむはずなのに。スティーブンは、あんなにも私を愛してくれていた…その人の命だというのに…どうして…)

 クリスターによって受けた、あれ程の痛手から回復したことも初めてなら、スティーブンに対するような発作的な吸血行為を行ったことも初めてのカーイには、よく分からなかった。

(すみません、スティーブン…本当に、すみません…)

 カーイは、そろそろ店じまいの時間だというのに、クリスマスの買い物に訪れる客達でにぎやかな店々を眺めながら、ぼんやりと歩いた。そろそろ家に帰らないとスルヤが心配するかもしれないが、まだ帰れなかった。

 これからどうするのか、カーイは決めかねていた。スティーブンが与えてくれたせっかくの猶予期間さえ、無駄にしてしまった。こんなに早く次の飢えが訪れるとは予想してなかったとはいえ、何という愚かしさだろう。

 考えるまでもなく自然に地下鉄の方に向いていた、足をとめた。

(スルヤ、すみません、帰るのは少し遅れます)

 カーイは、踵を返した。

 このまま帰ってスルヤの顔を見たら、また、悪い甘えや弱さが出てきて、何も考えたくなくなる。傍にいたいだけの想いに流されてしまう。

(もっとも、考えて簡単に結論が出るものならば、とっくにそうしていたのだけれど…)

 悲観的な気分になりながらも、カーイは、以前訪れたことのある、落ち着いた雰囲気のバーに立ち寄った。

 一番奥のテーブルにつき、すっきりしたものが飲みたいので、シャンパンを頼んだ。珍しいサロンの1990年ものだ。

 店員が丈の長いグラスにシャンパンを注ぐのを待って、後は自分でするからとチップをやって下がらせた。

 とても喉が渇いていたので、一気に飲んだ。もっとも、これが酒で癒される類の飢えではないことは、百も承知していた。

(そう、この飢えからは私は永遠に逃れられない。スティーブンが身代わりになってくれたところで、スルヤを愛し続ける限り、私は、彼の血を渇望し、いつかは奪ってしまうだろう)

 シャンパンのグラスを持つ手が、震えた。

(スルヤへの想いを断ち切れたら、飢えも鎮まるのだろうか。そうして、私が彼のもとを立ち去れば、スルヤは死なずにすむ…)

 しかし、そう簡単に思いを断ち切れれば、これほど苦労はしないのだ。スルヤを忘れることなど出来そうもない。その想いを無理に殺して、スルヤから離れたところで、以前のように、無意識のうちに彼のもとに舞い戻ってしまうだけだ。実際、どんな距離もカーイには意味がなく、その体をつなぐ鎖も、閉じ込めておける壁も、この世には存在しない。

 バーはそれ程込み合ってはおらず、店員も近づいてくることはなかったので、カーイの物思いが中断されることは、ほとんどなかった。それでも、一度、身なりのいい紳士に、『お1人ですか?』と声をかけられたが、それこそ、もう放っておいてくれという気分だったので、無視をしてやり過ごした。

 静かなテーブルで、カーイは、ぼんやりと己の想念に浸り続けた。また少し、飢えから来る、夢遊病めいた状態に陥りかけていたのかもしれない。

(いっそ、もう、こんな体など、滅びてしまえば、楽に慣れたかもしれないのに…)

 自嘲的な気分で、そう思った。

 その時、何者かが、カーイのその仕様もない考えを聞きとがめたかのように、低く笑った。

 カーイは、瞬きをして、顔を上げた。

『死ねる体ではないということを、あの時、君は思い知ったはずではないのかな?』

 聞き覚えのある声が、どこからともなく、聞こえた。

 カーイの目が薄暗い店内を探るように動き、彼のいる場所からは、空のテーブルを2つ挟んだところにあるテーブルでとまった。慄いたかのように、見張られた。 

 そこは、少し前までは誰もいなかったはずだが、いつの間にか新しい客によって占められていた。真紅の髪をした、大柄な男達が2人。片方はゆったりと椅子の背もたれに身を預け、もう片方はテーブルの上に頬杖をついて、そっくり同じ顔をカーイの方に向けている。

 震えが、カーイの足元からじわじわと這い登り、全身を覆った。

 こんなことはありえない。カーイは、また夢を見ているのだ。

 カーイの恐怖を楽しむようにウイスキーのグラスを傾けている男たちから、視線をもぎ離し、彼は、両手で顔を覆った。

 そう、カーイは死にたくとも死ねない。だが、例え死ねことができようができまいが、己が殺した死者達の群れに加わることも、彼らの幻を見ることも御免だった。

 恐かった。

(消えてください! お願いだから、私の周りから離れて…あなた達は死んだ…いるべき場所は、ここではないでしょう?)

 答える声は聞こえず、彼らがそこにまだいるのかどうか、カーイには分からなかった。その姿を再び目にすることが恐ろしくて、顔を伏せたまま、しばらく、じっとしていた。

 カーイは、亡霊など、これまで見たことはなかったし、その存在も信じてはいない。命あるものが死ねば、その存在は、ただ無に返る。これが、カーイが頑なに守っている考えだ。だが、他でもない自分が『死に』かけた、あの体験以来、その考えが、少しぐらついている。カーイが今まで気がつかなかっただけで、目に見えない別の世界がこの世のすぐ傍にはあって、一度そちら側に近づいたことによって、そういうものが見えるようになったのだろうか。だが、理解できないものの存在を考えることは、不安感と恐怖心をもたらす。

(あなた方は、存在しない。もう、私に何もすることはできない)

 念じることで敵を払いのけようとするかのごとく呟き、カーイは、そろそろと目を開けた。

 すると、手の指の間から、シャンパンのボトルとグラスの置かれたテーブルの上が見えた。そして、向かい側の席に誰かが座っていること、その手がテーブルの端に軽く載せられていることに気がついた。

(誰?)

 心臓の鼓動が早まったが、何故か、先ほどのような恐怖感はのぼってこなかった。

 この相手に敵意は感じられなかった。それどころか、気遣いに溢れた優しさが伝わってくる。

 やがて、カーイは、その手に見覚えがあることに気がついた。その長いしなやかな指が、器用に動いて、ただの土くれから様々な形の器を作り上げていく様に、飽きることなく見守っていたことがあった。3年前。ニューヨーク。

 恐怖ではない、別の衝撃がカーイを震わせた。

『大丈夫だよ。誰も、君を傷つけることはない』

 懐かしいその声に、ぐらぐらと頭が揺れた。

 彼もまた死んだはずだ。だから、これも幻に過ぎない。

『いいよ、そう思っても。君が、幻であっても、僕に会えたと喜んでくれるなら』

 カーイは、息を呑んだ。幻か? 現実か?

 だが、これが、もう二度と会えないと思っていた彼ならば、どんなにか嬉しいだろう。

(本当に、あなたなんですか?)

 彼の名前を呼び、顔を上げて、確かめたいと思ったが、突き上げてくる別の感情が、カーイを押しとどめた。

(私…私は…あなたを殺してしまった…。これから新しい人生を始めようとしていた、あなたの未来を奪い去ったのは私…なんです…)

『もう、過ぎてしまったことだよ、カーイ』

 恨みつらみがあったとしても、全て過去に流し去ったかのような、清澄な穏やかさで、彼は答えた。その声を聞いていると、カーイは、何だか、たまらない気分になった。

(あなたは、私を受け止めようとしてくれていた…私が欲しがっているものに気がついて、用意し、差し出してくれた…私が、そんなあなたの気持ちに気づかずに、独りよがりの不幸に浸っている間に…。私は、誰に対しても心を閉ざしていたから、大切なものが傍にあっても気づかずに、いつも通り過ぎてしまっていたんです。あなたは、そのことを私に気づかせてくれた人でした。私も、あなたのことが好きでした。気づいたところで、もう、どうすることも出来なかったけれど…いいえ、せめて、あなたには、最後に本当のことを打ち明けるべきだったのかも知れない。殺すしかなくても、そうすることが、あなたの誠実さに応える、唯一のやり方だったのかも…)

『いいんだよ』

 あの時と少しも変わらない、胸の痛くなるような優しさで、彼は囁いた。

『君は、恐がっていたんだね』

 カーイは、己の前に置かれた手を食い入るように見つめた。その手に触れて、そこにかつて同じ温もりが残っているのか確かめたかったが、そうすることで、幻かもしれない、この人が消えてしまったらと考えると、やはり出来なかった。

『そして、今でも、恐がっている』

 カーイは、震える瞼を閉じた。そう、まるで子供のように恐がっている。

 人間相手に、たった1つの真実を伝えることが、こんなにも恐い。200年も生きてきて、その程度の勇気も持てないとは。

 ああ、スルヤ。

『信じることだよ、カーイ。君の愛する人を、信じてあげることだ。目を覆い、耳を塞いで、何も知らせずに、守ろうとするだけでは、2人とも幸せにはなれないよ』

 幸せ。カーイとスルヤ、2人が共に幸せになることなど、本当に出来るのだろうか。

『君が探し求める場所にたどり着けることを、ずっと祈っているよ、カーイ』

 その声が、別れを告げるものであることを、瞬間、カーイは悟った。

『愛している』

 カーイは、顔を上げた。テーブルの向こう側に手を伸ばし、叫んだ。

「待ってください、ポール…!

 ポールは、もう、そこにはいなかった。行ってしまったのだろうか。

 恐る恐る、あの双子兄弟がいた、テーブルの方を見やる。すると、やはり、そこも空になっていて、彼らが飲んでいた、ウイスキーのグラスすら残ってはいない。やはり、全ては夢だったのか。それとも、ポールが、彼らを一緒に連れて行ってくれたのだろうか。

(ポール…)

 突然、激しい感情の波にカーイは満たされた。あまりに切なく、あまりに狂おしく圧倒的で、真実痛みを覚えた。

 耐えかねたかのように、カーイは、テーブルから立ち上がった。コートとカメラの入っている袋を引っつかみ、やっとの思いで支払いを済ませると、バーから外によろめき出る。

(ポール、本当にあなただったのですか? 私が、弱くなって、追い詰められているのを見かねて、励ましに現れてくれた…? あなたを殺した、この私を…? まさか、そんなこと…私の都合のいい夢ではないのだろうか。とても信じられないけれど、でも…)

 与えられた、その言葉は信じたい。かつて愛した人からの許しと慰め、そして―

(スルヤを信じることだと、あなたは言った。信じて、全てを打ち明ける…そうすれば、悲惨な暗闇に閉ざされたように思える未来に、少しは光が差すのだろうか…私に、そうする勇気があれば…?)

 カーイは、夢遊病者のようなおぼつかなげな足取りで、どこに行くというわけでもなく、暗い夜道をさ迷っていた。実際、自分がどこをどう歩いているかも分かっていなかった。あまりにも深く己の考えに捕らわれ、断続的に打ち寄せてくる飢えも、意識を朦朧とさせていた。

 実際、傍から見ても、それは、力のない、頼りなげな姿だったろう。

 だから、なのかもしれない―

 何の考えもなく、いつしか表通りを外れた狭い路地の中に入り込んでいたカーイの後ろを、数人の影がつけていた。初めは一定の距離を保って後を追いかけながら、カーイの様子を探っているだけだったが、やがて、これはいけると踏んだのだろう、いきなり足を速めて、彼に迫ってきた。

(スルヤ、あなたの所に帰ろう。私が秘密を語ることをあなたも待っている…スティーブンの死があって…あなたが受けたショックに紛れるように、私は、また沈黙してしまったけれど…話したいと言えば、あなたは聞いてくれますよね…?)

 そうして踏ん切りがついてくると、訳もなく、不思議な高揚感に心が満ちてきた。ほとんど幸福感と言ってもよかった。

 スルヤに打ち明ける。

 そう意識した、瞬間、何者かがカーイの体を背後から捕らえ、すぐ脇の建物の壁に押し付けた。

「おい、おとなしくしろよ」

 若いが、どこがすさんだものを感じさせる声がそう囁いた。闇の中、きらめくナイフがカーイの喉に押し付けられる。

「いいコート着てるじゃねぇか。なあ、それで、まさか金持ってないってことはないよな?」

 カーイは、何が起こったのか分からないかのように、ゆっくりと瞬きをし、己の顔を乱暴に上げさせて覗き込む相手を、凝然と見つめ返した。

「これはまた…すげえ美人じゃないか…」

 男は、息を呑んだ。

 カーイは、無遠慮に頬を触れる指の感触に顔をしかめた。次いで、体を密着させている、男の血の匂いを、唐突に意識した。我知らず、喉が鳴った。

「触らないでください…」

 男は、一瞬ひるんだようだ。

「おい、おまえ、男かよ…驚いたな、その顔で…全く、危うくだまされるところだったぜ。髪なんか長くしやがって、紛らわしい…」

 いつものカーイなら、相手にこんな無礼な口を叩かせてはおかず、即座にその横面を殴りつけて黙らせていただろう。しかし、今は、急に高まってきた飢えを押さえつけることに必死で、それどころではなかった。

「仕方ない、金だ、金」

 乱暴な手がカーイのコートのポケットをまさぐり財布を取り出すと、後ろで見張っている仲間の方に投げてよこした。それさえも、カーイはとめなかった。強盗達は、皆で3人いて、若く、その血の匂いは、濃く、強烈だった。取るものを取ってさっさと消えて欲しいと念じていたのだ。

 しかし、貪欲な男の手が、カーイがしっかり掴んでいる紙袋を取り上げた瞬間、彼は、あっと声をあげて、それを取り戻そうと手を伸ばした。

「おっと、動くんじゃないぜ、綺麗なおにいちゃん」

 男がカーイの体を押さえつけた。袋を受け取った、その仲間が中からカメラの箱を取り出す。

「へえ、随分高そうなカメラだぜ。新品だし、これなら、売れば結構な金になりそうだな」

 そんな男の言葉を聴いた瞬間、堪えに堪えていた、カーイの我慢も限界に達した。ぷっつりと己の中で何かが音を立てて引きちぎられるのを、怒りのあまり真っ白になった意識の片隅で感じた。

 ぎらりと、凄まじい殺気に青光りする瞳が、男たちを睨みすえた。

 世界は、暗転した。

「げっ…は…!」

 カーイを捕まえていた男が、凄まじい力によって首を掴まれて、うめいた。なすすべもなく、人形のように振り回され挙句、すぐ傍にあった壁に頭を叩きつけられる。ぐしゃりと骨が砕ける音がし、血が飛び散った。

 次いで、呆然と立ち尽くす仲間達が、襲い掛かられた。

 逃げる間もなく、1人が、首をへし折られ、悲鳴もなしに、地面に倒れこむ。

 そして―

 最後に残った男は、カメラの入った袋を地面放り出し、声もあげずに、その場からほうほうの態で逃げようとした。しかし、その必死の動きも、カーイの目から見れば、あまりに緩慢なものだった。

 強風が吹きつけてきた、と見るや、強盗の体は風に舞い上げられるかのように地面から浮き上がった。

「ひい…」

 彼は、自分が何者かに捕らえられたまま空中に静止していることに気づいて、パニックに陥った。逃れようと必死の抵抗を試みたが、彼を捕らえ込む鋼のような抱擁の前には、何もかもが無力だった。

 己を捕らえるものの顔を見た、男の顔が恐怖に引きつった。口をOの字型に開き、彼は喉も裂けよとばかりに絶叫した。

「化け物…!」

 刹那、男の首は嫌な音をたてて折れ曲がった。剥き出しにされた肌は、鋭い一閃でかき切られる。

 泡立つ熱い液体が、傷口からあふれ出した。そう、彼が待ち望んだ血だった。

 吹き上げる怒りと、衝動と、欲望とに駆られて、屠った獲物から、彼は、飲んだ。理性のない獣と化していた。

 しかし―

(スルヤ、スルヤ…)

 少しずつ、怒りが薄れ、意識が元に戻ってくる。

 気がつけば、口腔に流れ込んでくる新鮮な血を、カーイは、貪るように飲んでいた。

 飲むべきではない血。殺すべきではなかった人間の命。

 深い哀しみに満たされつつも、解き放たれた欲望に突き動かされる体は、まだ止まらない。吹き出す血の勢いが弱まってくると、更に深く食い破って新たな血の道を探り、吸い取り、飲みくだす。びちゃびちゃと血をすする生々しい音に、ぞっとした。

 だが、これが、カーイの本性なのだ。

 カーイは、家で待っているはずの恋人に向けて、悲惨な気分で、語りかけた。

(私の秘密、あなたに打ち明けてしまいたかった、この秘密…。そう、あなたの恋人は、人殺しの怪物なんです)

 血への衝動と突き上げてくる憤怒に負けて、殺した、見ず知らずの男の血をごくごくと飲んでいる、この姿はどんなにかおぞましいものだろう。ヴァンパイアの最後の誇りにかけて、これだけはしたくないと思っていた、禁忌を犯してしまった。

 飢えをしのぎたいなら、身代わりの犠牲者を屠ればいい。

(スルヤ)

 束の間掴んだと思った、勇気など、この絶望的な行為の前に、粉々に消し飛んでしまっていた。



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