愛死−LOVE DEATH−
第二十二章 堕ちる天使
五
(子供の頃、こんな話を聞いたことがある。
昔々、天に住まう天使達が、地上の人間の娘達に恋をした。
それがために天を追われ、地上に堕ちた、彼らこそが、私達ヴァンパイアの遠い先祖なのだ。
不滅の命を持つ私達でさえ、気の遠くなるほどの昔、見た者など、もう誰もいない、古い時代の話だけれど)
カーイは、浅いまどろみから目覚めるかのごとく、ゆるゆると瞼をあげた。
強い風が激しく叩きつけてくるのを、ふいに意識する。
天を貫くほどに高い塔、崩れかけた望楼の天辺に、カーイは立っていた。
どのくらいの高さがあるものか。足下を覗き込めば流れる雲が、その下を掠め飛んでいく白い鳥が、そのずっと下に、ビーズを貼り付けて作った箱庭めいた、小さな街が見えた。
下方から吹き上げてくる風が、カーイの長い髪を、ロングコートの裾をはためかせる。
こんな高みから見下ろすと、地にへばりついて細々となされる人間の営みは、いかにも脆くちっぽけなものに思われた。神々の視点にでも立ったかのような、何かしら超越した気分で、カーイは、地上を睥睨していた。それもそのはずで、カーイの体に流れる血を過去に辿っていけば、古い神の眷属、あるいは天に住まう神に仕える御使いであったのだ。ヴァンパイアの間に伝わる、古い伝説は、そう語っていた。
カーイの背中にも、だから、その時の名残りが残っている。まるでもぎ取られた翼の痕のような疵。天使の羽の痕。光に満ちた天上を追われ、ほうき星のごとく燃えながら地に落ちていった、遠い先祖の痛みを覚えているかのように、時折、その傷がうずくことがある。
カーイは、堕ちた神々が地上に残した、最後の子供だった。それゆえ、誇り高くあらねばならなかった。何が起こっても揺るぎなく、血を吸う神の子としての永遠の時を、生き続けなければならなかった。
(けれど、もう、私には、そんな誇りを守り続けることも、強くあることもできそうにない。いつの間にか、こんなにも弱く、迷いやすくなってしまった、私に、神の眷属は名乗れない)
ふいに、背中の傷跡に、ひりつくような痛みを覚えた。
名状しがたい不思議な引力を感じて、カーイは、後ろを振り返った。目を見張った。
金色に光り輝く天使が、そこに佇んでいた。
だが、よく見れば、天使どころか神そのもののような、その顔は、カーイのよく知っているもので、翼めいて広がって見えたのは、カーイのものと同じように長いコートだった。
『レギオン』
今のカーイより、この男の方が、よほど神々しく見えた。世界の暗い片隅をさ迷っていた、狂える魂ではなく、最も輝いていた時代の懐かしいレギオンだった。炯々と光を放つ瞳、自信に溢れた物腰、不死者特有の傲慢ささえも、すべてが美しい。カーイも、かつてはそうだったのだ。
レギオンは、何か問いたげな顔をして、カーイをしばらく見守っていた。やがて、その体が動いた。カーイの方にゆっくりと歩いてくる。
カーイは、小さく息を呑み、レギオンから逃れようとするかのように、じりっと後ろに下がった。しかし、狭い高楼の上には逃げる場所もなく、カーイはすぐに縁にまで追い詰められた。高台を囲む壁もほとんど崩れ去り、端に立つと、落下を食い止めるものは何もなく、すぐに空に向かって飛び込んでいけそうだ。
鳥ならば、逃げるためにそうするだろう。
ならば、翼を失った神の子は?
『堕ちるのかい?』
レギオンの哀しげな声が、そう呼びかけた。カーイは、震えた。
『堕ちるのか、カーイ?』
レギオンの美しい顔が、眩い太陽を取り囲み隠そうとする雲のような、憂いに翳った。まるで今のカーイの在りようを悲しみ、嘆いているかのようだ。
その手が、カーイに向かって、狂おしげに伸ばされた。カーイを捕まえ、連れ戻そうとするかのごとく。
だが、カーイは、レギオンに捕らえられるわけにはいかなかった。もう、彼のもとに戻ることはできず、かつての自分と同じ生き方をすることも、また。
『駄目です、レギオン、来ないでください!』
そう訴えるカーイに向かって、レギオンの腕が更に伸びた。
高楼の縁にまで追い詰められた、カーイの足下で、塔を成す白石が崩れた。ぐらりと、体が揺れる。
カーイは、じりじりと迫ってくるレギオンを、苦しげに見つめた。自分を追い詰める者ではあっても、やはり、カーイの一部は惹かれ、戻りたがっている。誘うかのように開かれた胸に、飛び込んで行きたがっている。
かつての恋人、カーイと同じ血をひく、慕わしい仲間。しかし―
カーイは、引きずられそうになる、そんな思いを振り捨てた。
逃げよう。
カーイは、くるりと身を翻し、下方に広がる空と、その下に広がる、人間達の大地を見た。
レギオンの手が風に流れる髪に触れたのを感じた。瞬間、カーイは、宙に向かって、身を躍らせた。
うねりをあげて押し寄せてくる大気に、包まれるのを感じた。
たちまち、ごうごうという風の音に鼓膜が悲鳴をあげ、押しつぶされた肺からは全ての息が、口からは絶叫がほとばしったかもしれないが、もはやカーイには何も聞こえなかった。
カーイは、堕ちた。
天から墜落する一条の白、炎の矢と、きらめく流星と化した。
彼の遠い親達が、そうなったように、残された唯一の場所、帰るべき家である大地へと、まっすぐに落ちていった。
「カ、カーイ、どうしたの、しっかりして!」
カーイの目を覚ましたのは、己の口から溢れ出す悲鳴と、スルヤの切迫した呼びかけだった。
「あっ…ああ……」
やっと声をあげることをやめ、上から心配そうに覗き込んでいるスルヤの顔を呆然と眺める。
「ああ」
肩を震わせるようにして、深呼吸をした。
「スルヤ…」
スルヤと一緒のベッドの上だった。いつものように寄り添いあって、眠っていたのだ。
「すみません、起こしてしまいましたね」
まだ少し恐々に身を起こすカーイを、スルヤは心配そうに見守っている。
「恐い夢、見たんだね」
カーイは、己の肩を抱きしめて、身を震わせた。まだ、あの落下する生々しい感じを覚えている。
「ええ…」
スルヤの腕が、カーイをぎゅっと抱きしめた。優しい手が、カーイの頭を慰めるように撫でる。
「どんな?」
カーイはほっと体の力を抜いて、スルヤの胸に頭を預けた。
「高い所から落ちる夢です。すごく恐かった…」
「もしかして、高所恐怖症?」
「違いますよ」
むっとして、身を起こすと、スルヤのほっぺたを軽くつねってやった。
「痛い」
つねられた頬をさすっているスルヤの様子に、カーイは、小さな笑い声をたてた。おかげで、気持ちがほぐれた。
「何か飲むものを、持ってこようか?」
再びベッドの上に横になるカーイに、スルヤの気遣いに溢れた声がかけられる。
「いいえ」
カーイはスルヤのパジャマの袖を引っ張って、自分の隣に横にならせた。
「それよりも、私の傍にいてください。こうしていると、ほっとするんです」
スルヤのくすぐったそうな笑い声が、カーイの耳を愛撫した。
「それじゃ、カーイが眠るまで、俺が起きて、見守っていてあげるよ」
その囁きに、カーイは安心して、目を閉じた。
そう言えば、以前は、スルヤが先に眠って、カーイが先に起きるのが常だった。眠りの中でうっかり顕わにしてしまうかもしれない本当の姿を、獲物とした人間には見られぬよう、カーイは、ずっと気をつけていた。なのに、今では、カーイがスルヤより先に眠り込んでしまうことも、しばしばあった。今でも秘密は抱えているはずだが、心が通い合うにつれて、カーイの緊張は少しずつほどけていっているようだ。
それから、さっきの夢を思い出した。胸の奥が、少し疼いた。切ないのか、不安なのか、よく分からなかった。
(レギオン…)
遠い昔に失ってしまった恋を、今更、惜しんだりしているわけではないが―
塔の上の危うい場所に立ち尽くしていた、カーイに向けて手を差し出した、彼の悲しげな顔が、陽炎のように脳裏にうかびあがり、揺らめいて、消えていった。