愛死−LOVE DEATH

第二十二章 堕ちる天使


 学校が冬休みに入る直前のその日、ネイサン・ナイト刑事から、スルヤに電話がかかってきた。彼を初め、スティーブンの友人達を集めて、改めて話を聞きたいというのだ。

 スルヤも、スティーブンを殺した犯人が捕まるのなら、協力は惜しまないつもりだった。今でも、彼のことを考えたり話したりすると、泣きそうになるのだが、辛いのは、この際我慢しよう。

 そうして、約束の日、クラスを終えたスルヤは、他の友人達、アニー、ケン、ティム、そして、バレリーと一緒に、ネイサンとの待ち合わせ場所である、学校近くのカフェに向かった。

 スルヤは、何となくバレリーとは顔を合わせづらかった。スティーブンの『お気に入り』のスルヤに、以前から彼女は嫉妬して、何かあるたびに意地悪をしたり、嫌味を言ったりしていた。女の子から焼きもちやかれるなんて変な気分だったが、スティーブンとバレリーの仲についてとやかく言うわけにもいかず、気にはしていても、黙っていた。実際、彼らが完全に破局を迎えてからは、バレリーと話したこともあまりなかった。それなのに、あの葬儀の時、取り乱した彼女に、スルヤは激しく罵られ、顔をぶたれたのだ。

『あんたなんか、大嫌いっ』

 そう叫んだ、バレリーの泣き顔が、しばらく脳裏から離れなかった。逆恨みだと、他の友人達はスルヤを慰めたが、そのつもりはなくても、自分が彼女を傷つけていたのかと思うと辛かった。いや、そうではなくて、バレリーは、そこまでスティーブンのことが好きだったのだろう。だから、あれが八つ当たりだとしても、スルヤには、バレリーを責める気は全くなかった。

 ただ、こうして顔をあわせると、またバレリーが嫌な思いをするのではないかと、気を使った。どう接したらいいのか分からなくて、ちょっと離れた所にいて、ちらちらと彼女の様子を眺めたりしていた。

 時々、バレリーとは目があった。すると、彼女の方も、後ろめたそうな顔をして、当惑気味に視線をそらした。スルヤを叩いたことを気にしているのかもしれない。それなら、気にしないでと、スルヤは言いたかった。後で、バレリーを捕まえて、そのことだけでも、伝えようか。

「やあ、皆、わざわざ集まってもらって、すまないね」

 ネイサンは、スルヤ達が店に入ってくるのに気がつくと、テーブルから立ち上がって、ここだというように手を振った。

 スルヤがこの若い刑事と会うのは、これで2度目になる。彼がスティーブンの身辺調査の担当らしい。詳しい捜査内容は教えてはもらえないのだが、彼の熱心な態度を見ていると、警察はちゃんと犯人を追ってくれているのだと、ほっとする。ケンなどは、彼のことを、ちょっと若すぎるんじゃないか、きっと下っ端だよと言うが、スルヤは、刑事という職業の割に人好きのする笑顔や、溌剌とした態度が結構気にいっていた。

 この日、ネイサンが、スルヤ達を集めたのは、学校を休んでいた間のスティーブンの消息を調べるためだった。

「それが、スティーブンが殺されたことと何か関係があるんですか? テレビでは、あれは通り魔らしいって、言ってたけれど」

 ティムが、神経質な手つきで眼鏡に触れながら、尋ねた。

「テレビのトークショーの言うことを、鵜呑みにしてはいけないよ」

 ネイサンは、嫌や顔もせずに、やんわりとたしなめた。

「初めから通り魔に違いないって断定して捜査を進めると、大事なことを見逃して、後でとんだ失敗だったと後悔することにもなりかねないからね。スティーブについては今まで色んなところで話を聞いてきたけれど、とても、誰かに殺されるような子じゃなかった。ただ1つ気になったのが、一時行方不明になっていたって点なんだ。スティーブンの両親は、母親はもう長いこと息子に会っていなかったし、父親も、彼が1人暮らしを始めてからは、それほど頻繁に連絡を取っているわけではなく、彼が学校を休んでいたことも知らなかったと言う。彼は、なかなか、交友関係が広いから、聞き込みをするのも大変なんだが、今のところ、友人の誰かの家に転がり込んだという話も、どこかに旅行に行っていたという噂も聞かない」

「おい、誰か、スティーブンのフラットに訪ねていった奴はいたかな?」

 ケンが、店の奥まったところにあるテーブルをぐるりと取り囲んで座っている、仲間達に向かって言った。

「あ、俺、学校の帰りに結構立ち寄ったよ。いつも留守だったけれど、手紙を入れて帰ってたんだ」

 スルヤが、軽く手を上げて、言った。

「私も、あんまり彼の姿を学校で見ないから、心配になって、様子を見に行ったわ。フラットの大家さんにも、スティーブンがどこに行ったか尋ねてみたけれど、何も聞いてないって」

 バレリーも、考えに沈みながら、ゆっくりとそう答えた。

「じゃあ、本当に、スティーブンは、親しい友達の誰にも、どこに行くとも告げずに突然姿を消してしまったんだね。スティーブンが姿を消す前後、何か、彼の様子に変わったことはなかったかな。スルヤ君は、スティーブンが戻ってきた直後に会ったらしいが、その時、彼は手を骨折していたという。バイクの転倒とか、そんな事故だったという話も聞いたけれど、調べてみると、どうも、そういう訳ではないようだ」

 ざわざわと友人達は囁きあった。

 スルヤは、難しい顔でちょっと考え込んだ。スティーブンと再会した直後、自分の身に起こった奇妙な体験を話すべきか迷っていたのだ。突然意識が飛んで、気がつけば自宅のベッドに横たわっていたということを話すべきだろうか。けれど、スティーブンの失踪とは直接関係ないかもしれない。こんなことを言ったら、余計に捜査を混乱させるだけだろうか。

 この記憶の空白は、スティーブンが死んでしまったために、謎のままだった。もしかしたら、本当に、彼は何かを知っていたのかもしれない。電話がかかってきた時に、スティーブンに尋ねたこともある。しかし、何かトラブルに巻き込まれていたらしいスティーブンは、落ち着くまで待ってくれと、言ったのだ。

 突然、スルヤは、あっと小さな声をあげた。

「そうだ、これ、関係があるのかどうか分からないけれど、俺、スティーブンから電話をもらったんです。その時は、もうスティーブンは一時フラットにも戻ってきていたんだけれど…病院からでした。彼の叔父さんが、事故か何かに巻き込まれて、大変だって、スティーブン、ひどく動揺してた…」

「また事故か」

 ネイサンは、いぶかしげに眉根を寄せた。

「ええ、それで、どういう意味なのか分からないけれど、スティーブンは、自分のせいだって言ったんです。トラブル続きで、どうすればいいのか分からないって、言ってました…何があったのかは教えてくれなかった。話せるようになるまで、もう少し待ってくれと…」

 スルヤは、ふいに口ごもって、言葉を切った。やはり、あのことも話してしまおうか。

「あの…」

 しかし、隣に座っていたケンが口を開くのに、スルヤは、出かかった台詞を呑みこんだ。

「スティーブンの抱えていそうなトラブルって、女の子がらみしかと思い浮かばないけどなぁ」

「やめてよ、ケン」

 アニーが、彼を軽く睨みつけた。

「私のことを気遣ってくれなくてもいいのよ、アニー」

 そう言ったのは、バレリーだった。彼女とスティーブンの経緯を知っているケンは、ばつの悪そうな顔をして、黙り込んだ。

「たぶん、この中で、一番最後にスティーブンに会ったのは、私じゃないかしら」

 バレリーは、心配そうに己を見る友人達から一瞬顔を背けた後、思い切ったように、しゃんと顔を上げて、言った。

「彼が殺される、確か3日前だったわ。私は、彼がフラットに戻っていることなんか知らなくて、たぶん、誰もいないだろうと思いながら、訪ねてみたの。そうしたら、スティーブンが出てきて…中に入れてもらって、しばらく、話したのよ。学校のこととか友達のことを、彼は私に聞いたけれど、自分がどうしていたかって話になると、はぐらかしてばかりだった。私も、あまり深く追求して彼を怒らせたくなかったから、それ以上は聞けなかったし。けれど、何だか、彼、随分と感じが変わったような気がしたのよ」

「変わったって?」

 ネイサンが、興味深そうに聞いた。

「打ちひしがれて、元気がなかった。いつもは自信家で、どこか人を見下したような話し方をする人だったのに、随分謙虚に優しくなったような気がしたわ。彼の考え方を変えてしまうような、何か大きな出来事があったのかもしれない。そんなふうに思えるくらいだった」

「けれど、その出来事が何なのかは、彼はやはり言わなかったんだ」

「ええ、そうよ。私は、スティーブンにとっては、心を開ける相手ではなかったし、その私に、あんな弱い面を見せただけ、すごい変化には違いなかったのだけれど」

「そう言えば、スティーブンが戻ってきて殺されてしまうまでの数日間って言うと、カーイさんを皆で探していたんだったわよね」

 アニーが、思いついたように、そう呟いた。

「どこに行ったのかと心配していたスティーブンからいきなり連絡があって、何かと思ったら、人探しに協力して欲しいって。それよりも、あなたの行方を私たちは心配していたっていうのにねって、少し呆れたんだけれど」

「カーイって、誰のこと?」

 初めて聞く名に、ネイサンが、問い返した。

「俺の同居人です」

 うっすらと頬を赤くするスルヤを、ネイサンは、不思議そうに振り返った。

「あの、すごい嵐のあった日に出かけたきり、数日間家に帰ってこなくて、スティーブンが、彼を探すのに協力してくれてたんです。結局、カーイは無事に帰ってきてくれて、ほっとしたんだけれど…スティーブンが…」

「スティーブンは、その人とは面識があったのかな」

「ええ、一度一緒に食事をしたことがありますから」

 そう答えて、ふと視線を動かすと、バレリーがこっちを見ていた。スルヤに向かって何か言いたげな顔をしていた。

「スティーブンの抱えていた『トラブル』というのが、何なのか気にはなるな…」

 ネイサンは自分の書いたメモに目を通し、その上に更に何か付け加えるように書き込んだ。そして、集まったスティーブンの友人達を見渡し、安心させるように、にっこり笑って見せた。

「だからと言って、それが、直接スティーブンの死の原因だとも限らないんだけれどね。だから、あまり、うかつなことを、周りや、ましてやマスコミ関係者になどもらしてはいけないよ。もし、その他に気になることや、後で思い出したことがあれば、俺に直接電話をして、話して欲しい」

 そう言って、ネイサンは懐から電話番号のカードを取り出して、一枚ずつ配った。

「今日は本当にありがとう。君達の話は、とても参考になったよ」

 渡されたカードをスルヤはじっと見下ろした。言い損ねたことがあると思ったら、いつでも、ここに電話をすればいい。顔を上げると、バレリーも、妙に真剣な面持ちでカードを睨みつけていたので、スルヤは、ちょっと不思議に思った。

 そうして、他にも行くところがあるというネイサンは、先にカフェを出て行った。

 残されたスルヤたちは、しばらく、そこでお茶を飲みながら、亡くした友人のこと、これから来る冬休みの予定などを取りとめもなく話し合った。

「それにしても、バレリー、あなたのことは、あの後どうしたんだろう、大丈夫だろうかって、心配してたのよ。けれど、思ったより元気そうで、よかったわ」

 アニーがそう言うように、確かにバレリーは、葬儀の時の動転ぶりを思えば、この短い期間によくもここまで立ち直ったと感心するくらい、かなり落ち着いて見えた。スティーブンのことを語ると、その顔は悲しげに沈んだし、顔にもまだ少しやつれた感じは残っているが、立ち直ろう、吹っ切ろうとしていることが、意思的な瞳の輝きから伝わってきて、スルヤも安堵した。

「ええ、初めの何日かは泣いて過ごしたけれどね。スティーブンとの思い出の場所に行ったり、家に帰って、やっぱり泣いたり。でも、彼は死んでしまって、私がいくら泣いたって帰ってこないのだから、もう忘れよう、あきらめようって考えを切り替えることにしたの。それに、スティーブンも、死んだ後まで、私がいつまでも思い切れずにいたら、きっと気分が悪いだろうと思うのよ。だって、私、彼には、嫌われていたんだもの」

「あら…」

 半分は自分を納得させるためだろうが、意外にあっさりとスティーブンへの思いを断ち切る発言をする彼女に、アニーは、少し鼻白んだようだ。

「どうしたのよ、バレリー。あなたが元気になったのなら、それは、嬉しいけれど…何か、あったの?」

「実はね、好きな人ができたんだ」

 思わぬ返事に、そこにいた全員が目を丸くした。

「向こうが私のことをどう思ってくれているか分からないし、恋人とはまだ言えないけれど…私は彼のことが好きなんだと思うわ、多分…」 

 あまやかな調子でそう言いながらも、どこか心もとなげな表情をした。

「彼のおかげで、スティーブンの死の痛手から立ち直ることができたのよ。だから、その点についてだけでも、すごく、彼には感謝しているの」

「まあ…まあ……」

 アニーは、しばらく、何と答えればいいのか分からない様子だった。

「それは、よかったじゃないの、バレリー。そうよ、あなたを振った奴なんてさっさと忘れて素敵な人を見つけなさいって、私も、ずっと言ってたんだわ。ちょっと、びっくりしたけれど…よかったわ。で、どういう人のなのよ?」

「うん、実は、あまりよく知らないの。たまたまバーで知り合った旅行者なの。イタリアのナポリの出身らしいわ。それでね、すごく綺麗な人なの。そして、不思議な人…」

 目の縁をぽっと赤くして俯くバレリーを眺めながら、スルヤは、どこかで聞いたような話だなぁと思っていた。カーイの白い花のような顔が、ふいに頭の中にうかびあがった。

「旅行者? ねえ、ちょっと大丈夫なの? どこの誰とも知れない人と急に親しくなりすぎるのは、危なくない?」

 そんな忠告めいたことを言うアニーと反論するバレリーを見比べながら、スルヤは、かつて、カーイと付き合い始めたばかりの頃、スティーブンに恋人ができたのだと打ち明けた時のことを、懐かしく思い出していた。

 バレリーに新しい恋人ができて、その人が彼女を幸せにしてくれるのなら、こんなに素敵なことはない。どうか、今度こそ、彼女が恋人のせいで泣いたり、苦しんだりすることがありませんように。そう、スルヤは思っていた。




「待って、スルヤ」

 カフェを出、友人達と別れて、1人、地下鉄の駅に向かおうとしていたスルヤの後ろから、バレリーの声が追いかけてきた。

「あ、バレリー、どうかしたの?」

 立ち止まって屈託のない顔で笑いかけるスルヤに、バレリーは、一瞬躊躇うように黙り込んだ。

「この間のことなんだけれど、ごめんなさいね、いきなり、ぶったりして。あなたは私に何も悪いことをしたわけじゃないのに、私が一方的にあんなふうに責め立てて…」

「いいんだよ。気にしないでよ、バレリー。大事な人を亡くして辛かったのは、俺も一緒だから、バレリーの気持ちは分からないでもなかったし。それよりも、元気になって、よかったよ。スティーブンも、向こうの世界で、きっと安心しているだろうって思うよ」

 絶句し、スルヤの少しも卑屈なところのないまぶしい笑顔をつくづくと眺めた後、バレリーは、笑った。

「あーあ、やっぱり、あなたにはかなわないと思うわ、スルヤ。勝手な思い込みで嫉妬したり、意地悪した、私が馬鹿みたい。スティーブンがあなたを大事にした気持ちも分かる気がする」

「バレリー?」

 バレリーは、肩で大きく息をついた。

「あのね、実は、私、スティーブンからあなた宛のあるものを預かっているんだ」

「え、スティーブンから?」

「正確には預かったんじゃなくって、彼のフラットにあったものを、何なんだろうって好奇心から、私が勝手に持って行っちゃったんだけれど。泥棒みたいなまねをして、スティーブンにも、あなたにも、悪かったと思うわ」

 意外な告白に、スルヤは、目をぐるっと回した。

「でも、あんなものを私がずっと持っていても意味がないし、それこそ、スティーブンが死んだ後もあなたに焼きもち焼いているみたいでしょう。それに、私、スティーブンのことは思い切ろうと決めたから、やっぱり、あれも、ちゃんとあなたに渡さなきゃって考えたの。いざ、あなたに打ち明けるのは勇気がいったけれど。本当にごめんなさいね、スルヤ」

「いいんだよ、バレリー。でも…スティーブンが俺に渡そうとしていたものって、何?」

「あなたは、何も聞いてないの?」

「ううん、そんな話はしたことないよ」

 バレリーは、納得できないかのように、眉間に少ししわを寄せた。

「そうなんだ。実は、あなた宛の大きな封筒に入っていたから、そうに違いないと勝手に思ったんだけれど。手紙も何も入ってなかったから、どうして、あれをあなたに送ろうとしていたのかも、分からないわ。パソコンの保存用のディスクなんだけれど…」

「えっ、ディスク?」

 予想外のバレリーの答えに、スルヤは当惑した。その様子に、バレリーは口を開きかけるが、気を変えたのか、首を左右に振った。

「私が言うより、中身を見てもらった方がいいと思うわ。今日は、持って来ていないんだけれど、近いうちにあなたに渡すから。また、電話するわね」

「わ、分かったよ」

 それだけを告げると、バレリーは、腕時計を見下ろした。

「あら、もう、こんな時間だ。ごめんなさい、スルヤ、今夜はちょっと約束があって急ぐから、詳しい話は、また今度ね」

 噂の恋人とのデートだろうか。近くのバス停の方に慌てて走っていくバレリーの後ろ姿をちょっと呆然となって見送った後、1人残されたスルヤは、首を傾げて、考えに沈み込んだ。

 スティーブンがスルヤに残したもの。

(一体、何なんだろう。ディスクって…?)

 気にはなったが、バレリーが渡すと約束してくれたのだから、じきに中身を見ることはできるだろう。

 スルヤは、再び、地下鉄の駅目指して、歩き出した。

 ふいに、訳もない胸騒ぎを覚え、後ろを振り返った。

「バレリー?」

 彼女の姿は、黄昏の紫がかった街の中に溶け込むように消えていた。

 スルヤは、足元から這い上がってくる冷気を急に意識したかのように体に腕を巻きつけ、小さく震えた。



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