愛死−LOVE DEATH−
第二十二章 堕ちる天使
三
「それでは、これが予約の控えです。ご注文のカメラは、18日の入荷になりますので、それ以降におこしになってください。入り次第、ご連絡しましょうか?」
親切そうなカメラ店の店員がそう言うのに、束の間、カーイは首を傾げて、考え込んだ。その様子を、若い店員はぼうっとした顔で見ほれている。
「いいえ、電話は入れないでください。これは、内緒のクリスマスプレゼントなので、渡す時まで、あの人には知られたくないんですよ」
「随分奮発なさったんですね。このカメラは、プロの間でも評判いい、大変性能のいいものですよ」
「ええ、そうらしいですね。私の恋人は写真家志望なんです。このカメラを欲しがっていることを聞き出したものですから、ぜひ、クリスマスに贈ろうと思って」
「きっと、喜ばれると思いますよ。羨ましいくらいです、あなたの恋人が」
若い店員は、ほんの少し残念そうな顔をしたが、カーイは、気づかない振りをした。なかなか整った顔立ちの清潔な好青年だ。その血も、きっとさわやかな味わいだろう。
「それでは、18日以降に」
純情そうな店員に、毒にならない程度の魅力的な微笑で礼を言い、椅子から立ち上がろうとした瞬間、カーイは、激しいめまいを覚えて、テーブルの端をとっさにつかんだ。震える手で額を押さえ、微かにあえいだ。
「だ、大丈夫ですか?」
驚いた店員が、テーブルを回りこむようにしてやってきて、カーイの肩を抱いて、椅子に座らせようとした。とたんに、青年の血のにおいが鼻腔に忍び込んでくる。カーイは、慄いた。
「触らないでください」
店員の手を振り払った。
「大丈夫ですから」
心配顔の青年から逃げたい一心で、ふらつく体をひきずるようにして、ドアに向かって歩いた。
「ちょっと立ちくらみがしただけです。…カメラのことは、お願いしますよ」
カーイは、カメラ店の硝子扉を押し開いて、外に出た。繁華街の喧騒が押し寄せてくるのに、またしても、頭がぐらつく。幸い、近くにタクシー乗り場があったので、そこでブラックキャブに乗り込み、スルヤの家へと向かった。
(何ということだろう。私は、一瞬、あの青年を襲いたい衝動に駆られた。血の匂いに対して、ひどく敏感になっている。でも、どうして? スティーブンの血を飲んだのは、ついこの間のことで、その血のおかげで私は満たされた。本当なら、飢えを覚えるのは、ずっと先のはずなのに)
幸い、タクシーに乗っている間に、眩暈はおさまってくれた。
家に戻ると、スルヤはまだ帰っていなかった。
カーイは少しほっとして、玄関を入ったところに、壁に立てかけるようにしてある、大きな姿見に映る、己の姿に見入った。
顔に手をやり、どこにも変化がないか、調べてみた。血に飢えた顔など、スルヤに見られたくない。だが、鏡の中から見返すのは、不安そうな表情をうかべてはいるものの、見慣れた己の顔だった。
(けれど、明らかに、私は飢え始めている。せっかくスティーブンが犠牲になってくれたというのに、何ということだろう。私の体が受けた痛手から完全に回復するためには、彼の血だけでは十分ではなかったのだろうか。それとも…)
カーイは、苦しげに唇を噛み締めた。
(スティーブンの血では、私の体は満足できなかったのか。彼の血は、確かに私を愛してくれた人のものだけれど、私が心から欲した血ではなかったから…スルヤの血の代用とは、なれなかった…そういうことなのだろうか?)
深い吐息をついて、カーイは、鏡の中に立つ途方に暮れた姿を眺めた。
(あの衝動がまた近づいてくる。どうすれば、いい?)
退けたはずの、あの嫌な考えが、蛇のようにするりと脳裏に入り込んできて、カーイは、それをふり払うかのごとく、頭を振った。
(どうすれば…)
鏡の中のカーイは、やはり、哀しげに彼を見返すばかりで、何も答えてはくれなかった。
やがて、あきらめたように、カーイは、鏡の前を離れ、悄然とした足取りで、屋根裏部屋に上がっていった。
部屋に飾ってある、百合の甘い香りが漂ってくる。この香りに包まれて、スルヤが戻ってくるまで少しの間眠ろうと、カーイは思った。そうすれば、少しは元気になるだろう。
そう、例え長続きするものではなくても。