愛死−LOVE DEATH−
第二十二章 堕ちる天使
二
煙草の煙にけむったワインバーの中をきょろきょろと見渡しながら、バレリーは、奥へと歩いていった。
今夜も、彼は来ているだろうか。
別に約束などかわしたわけではない。姿が見えなくても、仕方がなかったが、つのる期待感はごまかせない。
バレリーは、心臓の鼓動を静めようとするかのごとく、胸に手を置いた。
ウィークデーの今夜は、若者達に人気のこのバーも、それ程込み合ってはいない。もともとは地下の倉庫だったらしい、コンクリートの打ちっぱなしの天井に灯る、薄暗いライトの下の空間は、ひっそりと静まっている。店内に流れる音楽もごく控えめだった。
奥のカウンター席が見えたところで、バレリーの足が止まった。
淡いライトの届かぬ影の中に半ば沈んで、カウンターの隅の席で、ワインのグラスを傾けている男がいる。ぼんやりとした薄明かりに微かに光るグラスの中には、血のように深い色合いのワイン。そっと傾けて、彼はその色味を観賞しているようだった。
バレリーは、深く息を吸い込んだ。
「サンティーノ」
呼ばれて、彼は、ゆっくりとバレリーの方に体を向けた。
バレリーは、一瞬微かな悪寒が体を走り抜けていくのを感じた。半分影になっているせいだろうか、サンティーノの美しい顔が、いつもとは異なって見えたのだ。本能的に避けたくなる、危険で恐ろしいものが、そこにうかんでいた。
「やあ、今夜もまた会えたね」
しかし、かけられる声は、やはり、サンティーノのどこか眠たげであまやかな響きのものだ。ほっと力を抜いて、バレリーは、そちらに近づいていった。
「座っても、いいかしら」
どうぞというように、サンティーノは手を差し出した。間近で見る、その顔には、何も変わった様子はない。相変わらず、憂鬱そうで、気だるげで、僅かに伏せた目元は、濃いまつげの作る陰影のせいか哀しげに沈んで見える。これほど完璧な美貌でなければ、活発なバレリーにとっては、暗くて陰気で、傍にいると、やりきれないタイプだったかもしれない。
「そのワイン、随分気に入ったのね」
サンティーノが1人でほとんど空けている、エグリのボトルを見て、バレリーは言った。
「お酒、強いんだ」
「君も、たいしたものだよ」
微笑を含んだ声がそう囁く。
「君も飲む? それとも、何か別の飲み物がいいかな」
「あなたと同じでいいわ。雄牛の血と言うんだったわね、そのワイン。確かに血のように真っ赤」
サンティーノは、ウエイターを呼んで、2本目のエグリ・ビガヴェールを持ってこさせた。
「僕達の何度目かの再会に」
そう言って、サンティーノはグラスを軽く上げて見せる。バレリーもそれに合わせて、己のグラスを上げた。
何を思ったか、バレリーは、くすりと笑った。
「どうかしたのかい?」
「ええ、私、一体何をやっているんだろうと少し呆れたのよ。ここには、死んだスティーブンの思い出に浸って泣くために来ていたのに、いつの間にか、あなたに会いに来ているみたい」
「僕達は、別に何の約束も交わさなかっただろう?」
「そうね。それでも、今夜も、やっぱり来てしまったし、あなたが見つかって、よかったとも思っている」
バレリーは、ワイングラスの中を見下ろし、苦笑した。
「スティーブンが死んで間もないっていうのに、何してるんだろう、私」
溜め息をついた。
「亡くなったスティーブンは、君の恋人だったんだね」
「以前は恋人だったこともあるけれど、違うわ。私、ふられたの」
バレリーは、わざと明るい調子で言って、肩をすくめた。
「君を袖にするなんて、見る目のない、馬鹿な男だったんだよ」
何気ないサンティーノの一言に、バレリーのワイングラスを持つ手が震えた。赤い液体が、グラスの中で、不安げに揺れる。
「どうかしら…ね…」
バレリーは、内心の動揺を隠すために、グラスに唇をつけ、横目でそっとサンティーノをうかがった。
彼は、カウンターの上に軽くひじをついて、頬にそっと手を添えるようにして、バレリーを見ていた。額にこぼれかかる前髪の陰から覗く、淡い色の瞳に浮かぶ表情は、いつもと同じに読みがたい。今の台詞も、本気だったのか、単なるからかいだったのか、バレリーには判断がつかなかった。少し酔いが回っているかのように、僅かに開かれた唇は、爛漫たる薔薇の花びらを思わせる深紅で、男性のものとは思えぬほどに官能的だ。その口唇から、一瞬濡れた舌が蛇のようにちらりと覗いたような気がして、とっさにバレリーは視線を逸らした。
「あ…ねえ、サンティーノ、あなたは、ロンドンには旅行で来ているのだと言ったけれど…いつもは、何をしている人なの? イタリア人だと言ったわね。私、ローマなら、昔行ったことがあるけれど、あなたはどこの街の出身?」
妙にどぎまぎしながら、バレリーは、囁いた。
「生まれはナポリだよ。今は、訳あって、離れているけれどね。イタリアだけでなく、ヨーロッパの各地を移り住んできたけれど、懐かしい故郷には特別の思い入れはある。例え、昔に比べて、どんなに変わってしまってもね」
「ナポリかぁ。ちょっとイメージと違ったわ。南イタリアの男って、もっと陽気で軽い連中かと思ってた。ね、それじゃ、仕事は?」
「何だと思う?」
「ううん、あなたが働いている姿ってイメージしにくいけれど…ファッション関係、たとえばデザイナー? あるいは、画家とか、芸術関係?」
「そういう友人ならいるけれど、僕自身は絵もデザインもやらないよ」
「じゃあ、役者とかモデル…あっ…そう言えば、どこか感じが似ているわ、あなた」
「えっ?」
「ううん、ちょっとあなたに雰囲気が似ている人を思い出したのよ。顔かたちじゃなくて、まとっている空気が、同じなの。その人も、信じられないくらい綺麗な人で…現実味がないというか、人間臭さがあまりなくて…」
「誰?」
「私の知ってる子の同居人なの。モデルらしいんだけれど…」
一目垣間見ただけなのに、目の網膜に焼き付いてしまったかのように鮮やかな、銀髪の青年の美しい姿が思い出された。バレリーは、寒いわけでもないのに、身震いをした。
「君は彼と話したの?その、僕に似ているという?」
サンティーノの声は、変わらずビロードのように滑らかだが、注意して聞けば、微かな感情の昂ぶりを、そこに感じ取れたかも知れない。だが、脳裏に蘇ったカーイの姿にとらわれていたバレリーには、分かるはずもなかった。
「あ…いいえ、私は一度姿を見ただけで、言葉を交わしたわけじゃないわ。だから、どういう人なのか、よくは分からないの。もしかしたら…スティーブンは、彼と親しかったのかもしれないけど…そんな話、彼は一度もしたわけじゃないけれど…」
「スティーブンが…?」
バレリーは、夢から覚めたかのように、瞬きした。
「どうして、そう思うんだい?」
「どうして、そんなことをあなたが尋ねるの?」
用心深く問い返すバレリーに、サンティーノは、少しもひるまず、淡々として答えた。
「君が話すことには興味があるからだよ、バレリー。君の生活や友人のことを知りたいと思う。僕に似ているという、その人については、何だか君がこだわっているように思えたから、尋ねたまでさ」
サンティーノは、手元のワイングラスを引き寄せ、残っていたワインを飲み干した。半分閉じられた目は、バレリーから離れ、今は、空になったグラスを茫洋と眺めている。
「あ、ごめんなさい。今の言い方、きつかったわね」
サンティーノを怒らせてしまったのではないかと、バレリーは不安になった。
「あなたの言うとおり…こだわっているのは本当かもしれないわね。私、スティーブンとは一時でも恋人同士だったから、彼のことを他の人よりは少しは知っているつもりでいたのよね。それなのに、全然知らない彼の一面、秘密を垣間見たような気がして…それでちょっと腹が立ってるんだと思うわ」
悔しげに唇を噛み締めた。
「あんなに好きだったのに、私、スティーブンの何を見ていたんだろ。スティーブンは私に何も言ってくれなかった。なのに、スルヤには、最後にあんなものを残して、何かを伝えようとしていたのよ」
「あんなもの…?」
バレリーは、口篭った。
あのディスクの中の画像。あれには、一体、どんな意味があったのか。暗号めいたものがあって、スルヤなら、一目見て、スティーブンのメッセージが分かるのだろうか。スティーブンは、己の死などまさか予見していなかっただろうけれど、結局、あれはスルヤに対する遺書めいたものになってしまった。なのに、どうして、さっさとあれをスルヤに渡してしまわないのだろう。この期に及んで、まだスルヤに嫉妬しているのだろうか。あれを渡さないことで意地悪しているのだろうか。
(私の考えすぎなのかも知れないのに…別に何の意味のないのかもしれない。あの画像は、スルヤと一緒に住んでいる、あの人をモデルに作ったものというだけで…あの人とスルヤに、ちょっと見て欲しいというだけだったの…?)
スティーブン。
バレリーは、胸の奥から苦い悲しみがせりあがってくるのを覚えた。すると、カウンターに置いた手の上に、別の手が慰めるかのようにそっと重ねられた。
「サンティーノ」
サンティーノは、バレリーの悲しみを共有しているかにも見える、憂いのこもった顔を、彼女の方に向けていた。
「いつかは、君達皆が行ける場所だよ。そんなふうに悲しみにくれなくとも、スティーブンとはまた会えるさ」
バレリーは、何故か不思議に感じた。サンティーノの言葉には、切実な羨望の響きがこもっているような気がしたのだ。しかし、一体何をうらやむというのだろう。
突然、己の手に重ねられたサンティーノの手を意識した。男性なのだから、バレリーのものよりも大きいけれど、無骨なところの少しもない、繊細な手はひんやりと冷たい。なのに、その手に触れられた部分から、燃え立つ熱が伝わったかのように、体が熱くなっていた。
「よう、今夜も、いいムードじゃないか、お二人さん」
バレリーを包みかけた夢見心地な気分は、背後からかけられた野卑な声によって、消え去った。振り返ると、1週間前の夜バレリーに絡んできた若者達が、同じように柄のよくない仲間を3人、後ろに従えて立っていた。
「この間は、俺達をよくも馬鹿にしてくれたよな」
若者達の顔には、悪意のこもった嘲笑がうかんでいる。この間は、サンティーノの迫力の前に何もできずにすごすご逃げ帰ったくせに、今夜はやけに自信ありげなのは、大人数を引き連れているからだろう。
バレリーは、あの一件があった後も、サンティーノと会うために、この店に頻繁に訪れていた。今思えば、軽率だったかもしれない。しかし、バレリーにとって、サンティーノとのつながりはここしかなかったのだ。
「君達を馬鹿にした覚えなど、ないけれど」
サンティーノの気だるげな声がした。不穏な気配を漂わせた連中を前にしても、少しもひるんだ様子はない。
「だから、その態度が人を小馬鹿にしているって、言うんだよっ」
バレリーは、不安を押し殺そうとするかのように、胸の前で腕をそっとよじり合わせた。
「サンティーノ…」
バレリーを安心させようとするかのごとく、サンティーノは彼女の手をそっと撫でた。
「僕の態度が気に入らないのなら、それで、一体どうしようというのかな?」
サンティーノは、再び満たしたグラスをカウンターから取り上げると、己を取り囲んでいる5人組をあまり興味なげに見ながら、ワインを飲んだ。
「この…野郎…!」
リーダー格のピアスの若者が気色ばんだ。サンティーノのグラスをはたき飛ばそうと手を伸ばすが、サンティーノは素早くかわし、若者の足を軽く払った。
「わっ」
バランスを失った若者は、サンティーノの膝の上に倒れこむ形になってしまった。若者の肩にサンティーノの手が軽くのせられる。
「こ、この…」
若者は体を起こそうと試みるが、どうしたことか、起き上がることができない。ほとんど力など入れていないかに見える、サンティーノの手に押さえ込まれている感じだ。
「僕達2人のせっかくの夜を邪魔してくれた、無粋な輩」
唄うように囁いて、サンティーノはグラスに残っていたワインを若者の頭にぶちまけた。
「は、離せ、この気障野郎! おい、おまえら、ぼんやりと見てないで、こいつを何とかしろ!」
若者が怒りを込めて吼えるように怒鳴るのに、あっけに取られていた彼の仲間達が駆け寄ろうとした。
「デビーを離せ!」
いきなり、デビーと呼ばれた若者の体は、ボールのように彼らに向かって勢いよく投げ飛ばされた。若者達は悲鳴をあげた。
「も、もう許しちゃおかねぇ。そいつを袋叩きにしてやれっ!」
床にはいつくばったまま、デビーが喚きたてる。他の連中も、我に返ったのか、殺気だった顔をサンティーノに向けた。
「駄目、サンティーノ、無茶しないで」
バレリーが震える声で訴えるのに、サンティーノは、苦笑混じりに答えた。
「だって、仕方がないだろう。向こうは、どうしても僕とやりあいたいと言うのだから。僕自身は、あまり暴力的なことは好きではないのだけれど、仕方ないさ」
憂鬱そうに溜め息をついた。
「そう、仕方がない」
吐息のような声音で囁いて、サンティーノは、ゆらりと椅子から立ち上がった。
バレリーは、引きとめようと、彼の腕に手を伸ばした。
「やめ…」
言いかけた言葉を、バレリーは飲み込んだ。目を見開いた。
若者達に向けられた、サンティーノの横顔に、その瞬間、何かしら、ぞっとする変化を見たのだ。
サンティーノは、笑っていた。この状況を楽しんでいるかのような、ぞっとするほど酷薄で、残忍な笑みだ。だるそうに伏せられていた目は、強い力を放って見開かれ、目じりがきっとつり上がっている。まとっている雰囲気まで、別人のように、変わっていた。今までよりずっと動的で、争いを前に、鬼気迫る覇気に満ち溢れている。いきりたつ若者達よりも、今の彼の方がずっと危ない感じがした。まるで、仮面劇の登場人物が、一瞬で、別の役の顔に付け替えたかのようだ。
バレリーが知っているサンティーノではなかった。
「優男のくせに、ヒーローを気取るんじゃねぇよ。自慢の顔が台無しになるぜ!」
5人組の中で一番大柄な男がサンティーノの胸倉をつかんだ。しかし―
「うわぁぁっ」
ほっそりとした手にいきなり腕をねじり上げられて、男は、らしくもない悲鳴をあげた。何という力。振りほどこうとしても、相手はびくともしない。
「離せ…この…」
苦悶の脂汗を流している男の顔を、サンティーノはあざけるように眺めた。そして、いきなり、軽く力を入れるようにしてその手をねじまげた。
鈍い、嫌な音が響いて、男は絶叫した。おかしな角度に曲がった腕を押さえ、がっくりとその場に膝をつく。
「ラ、ラルフ!」
どよめく若者達を、サンティーノは振り返った。サンティーノの変化を、若者達も何となく感じ取ったのだろう、彼らの間に緊張が走った。
「おい、次は、誰の番だ?」
バレリーは、一瞬耳を疑った。サンティーノの声の感じまでもが、微妙に違っていた。いつもより男っぽく、暴力的な美しさに溢れている。
「まさか、このぐらいの軽いお遊びで、怖気づいたわけではないだろうな?」
挑発するように、そう言うと、サンティーノは、ゆっくりと若者達に近づいていった。彼らの恐怖を長引かせて、楽しんでいるかのような緩やかな動きだった。
若者達は、つのってくる恐怖に後押しされるように、ほとんど一斉にサンティーノに向かって襲い掛かった。
バレリーの悲鳴があがる。
騒ぎを聞きつけて、店員や客達が様子を見にきたが、興奮状態の若者達の間に割って入るだけの勇気はなく、遠巻きにして見守るばかりだ。
「誰か止めて! け、警察を呼んで!」
バレリーは、真っ青になって叫んだ。手をもみ絞るようにしながら、若者達に取り囲まれたサンティーノの姿を、必死になって追った。
いくらなんでも多勢に無勢で、サンティーノが勝てるはずがない。しかし、そう思ったのも束の間だった。
殴りかかってくる若者達を、ダンスでも踊るかのような軽い身のこなしでよけていた、サンティーノが、まるでそうすることに飽きたかのように、急に彼らの1人に襲い掛かった。その動きが一瞬見えなかったのは、暗い照明と漂う煙草の煙のせいだけだろうか。
若者は、突風になぎ払われたかのように、床に横様に投げ出され、低くうめいたきり、気を失った。
「こ、この、よくもフレッドを!」
別の男が、傍らのテーブル席から椅子を引き寄せ、後ろから、サンティーノの頭に打ち下ろそうとする。
サンティーノの姿がまたも消えた。
椅子は固い床に打ち付けられた。折れた足が飛んだ。
「えっ…」
若者の眼前に、黒い影が飛び込んできた。瞬間、若者の体は、空を飛んだ。悲鳴をあげて退く客達の前に落下した彼も、やはり目を回していた。
またも、黒い不吉な鳥めいた影が、音もなく動いた。
もう1人。
ピアスをした、リーダーのデビーが振り返った瞬間、傍らにいた友人が、血反吐を吐きながら、テーブルの上に倒れこんでいった。
何も見えなかった。
しかし、今、彼のすぐ傍には、黒髪の恐るべき美貌の男が立っている。
「な、何だ…あんた、一体、何なんだよっ?!」
今や彼の仲間は、皆、気を失って倒れているか、怪我の痛みにうめいている。こんなはずではなかった。
「ふん」
サンティーノは、ほとんど乱れたようにも見えない重たげな黒髪をわずらわしげにかき上げながら、床にはいつくばっている若者達を睥睨するかのごとく眺め回した。
「一体、何だと思っていたのかな。この《俺》を?」
凄みのある低い声に、若者の最後の意地も誇りも消し飛んだ。
デビーは、くるりとサンティーノに背を向けると、扉に向かって、一目散に駆け出したのだ。そこいらで伸びている仲間達を見捨てて、客達を押しのけるようにして、逃げ出そうとした。
男の姿を追ったサンティーノの双眸が、物騒な冷たい光を放って細められた。
次の瞬間起こったことを理解できた人間は、その場には、やはりいなかっただろう。扉に向かって、他の客をなぎ払う様にして駆け出しかけたデビーの体は、いきなり何か凄まじい衝撃を横から受けた様に吹っ飛び、店の片隅にある大テーブルの上を、そこに並べられたグラスを粉々にしながら滑り、壁にぶつかるようにしてようやく止まった。そのテーブルの客たちは悲鳴をあげて、慌てて自分たちの席から逃げ出す。
「うっ?!」
呻き声を上げて、デビーは痛む体を起こそうと試みるが、動くことはできなかった。鉄のような腕がその喉をしっかりと押さえていたのだ。
「う…うぅ…」
真っ赤になってもがくデビーの胸に片膝を乗り上げるようにして、サンティーノは、その苦しむ様を冷やかに見下ろしている。一体、どうやってこれをしたというのか。デビーの目は、彼が動く所など、少しも捕らえられなかった。ようやく、これは何か人の常識をかけ離れた力が働いているらしいことに遅まきながら気づいたのか、デビーは、がくがくと震え出した。
「さて、どうするかな。このまま、胸を押しつぶしてやってもいいが、やりすぎだと、後で《あいつ》に非難されるのも面倒だ」
サンティーノは己の手をじっと見下ろし、拳の形に握りしめた。
「がはっ…!」
拳を口に叩き込まれ、デビーの体が跳ね上がった。血と、砕けた歯が飛び散る。それきり、動かなくなった。
「これで、許してやる」
サンティーノは、気を失った若者を置いて、軽い身のこなしで、テーブルから飛び降りた。
店はしんと静まり返っていた。
いつの間にか音楽もやみ、時折聞こえる、負傷した男達の苦鳴以外は、凍りついたような店内にいる客達も一言も発しない。
「バレリー」
半ば気を失ったようになって、カウンターの縁にしがみついていたバレリーは、知っているはずなのに、初めて聞くような力強い声に、呆然と顔を上げた。
「この店から逃げるぞ。じきに警察が来る。面倒に巻き込まれるのは、ごめんだ」
バレリーが答えるのも待たずに、サンティーノは腕をつかんで、彼女を立ち上がらせた。食い込む指の痛みに、バレリーは眉をひそめたが、精も根も尽き果てていたので、逆らわずに、急かされるがまま、ワインバーを後にした。
ざわめきが戻りつつある店内では、客や従業員達が、怪我人達の周りに群がってきていたが、足早に出て行く2人に声をかけるものは、誰もいなかった。
「サ…サンティーノ、待って、私、そんなに早く走れないわ…!」
結局警察が呼ばれるほどの大騒ぎを引き起こしてしまったバーから急ぎ逃れ、数ブロック行った所の人通りのない暗い裏通りに入りこんだ所で、ようやくサンティーノは足を止めた。
「ああ…もう、何て夜だったんだろう。それにしても、あなたが、あんなに強かったなんて、信じられない…あいつらを、まるで子ども扱いにして、叩きのめして、ねえ、あなた、ジュージュツでもやってたの?」
バレリーは、痛む胸を押さえ、近くの壁によりかかりながら、ささやいた。
「ううん…そんなものじゃなくて、何だか、不思議な魔法でも見てるみたいだった…ねえ、サンティーノ、あなたって、一体…」
見上げると、バレリーの連れは、彼女の前に立っていた。両側に建物が立ち並ぶ狭い路地から臨める、晴れ渡った夜空には、冴え返った満月がうかんでいる。サンティーノの頭上に調度かかるようになって、黒々とうねる髪の背後から、ほの白い月の光が、極光のごとく差していた。
「誰?」
己の声が不安げに震えていることを、バレリーは意識した。
「誰、か」
サンティーノは苦笑したようだ。その顔は、月の後光の作り出す影に沈んで、よく見えなかったのだが。
「おまえの知らない男だよ」
バレリーは急に寒さを意識したかのように、コートの前を合わせた。しかし、その目は、己の前に立つ、美しい影から離れられなかった。
サンティーノの姿が動いた。潮が引くように、バレリーの前から身を翻し、立ち去っていこうとする。
「ま、待って」
バレリーは、とっさに叫んで、彼を引きとめようとした。しかし、寒さと恐怖にこわばった体は、思うように動かなかった。
「サンティーノ」
地面に崩れるように座り込む、バレリーの前に、一枚の小さなカードが投げられた。震える手で、それをつかみ上げる。
「そこのホテルに泊まっている。もし、気が向いたら、連絡を取るんだな。おまえの《サンティーノ》に」
バレリーは、ホテルの名前と所在地や電話番号が印刷されているカードをじっと見下ろした。
「ねえ、でも…」
言いかけた言葉を、飲み込んだ。
本当に、夢でも見ているかのようだ、今夜は。
バレリーが再び顔を上げた時、サンティーノの黒々とした姿は、夜に溶け込んでしまったかのように、彼女に前から忽然と消えていた。