愛死−LOVE DEATH−
第二十二章 堕ちる天使
一
その日、スルヤよりも少し遅れて帰宅したカーイは、高級デパートの袋を幾つも腕に抱えていた。
「ハロッズで買い物したの?」
「ええ、クリスマスの飾り付けが綺麗でしたよ。いつの間にか、もう、そんな時期なんですね。そう、今度の休みにでも、また一緒に行きましょう、スルヤ。あなたに似合いそうな帽子を見つけたんですよ」
荷物の中身に興味津々の様子のスルヤに優しく微笑みかけて、カーイは、そのままキッチンに入り、テーブルの上に包みを下ろした。
スルヤもすぐにテーブルの傍にやってくる。カーイは、彼に示すように袋の中から綺麗なクリスマスの絵のついた厚みのあるカレンダーを取り出した。
「アドベント・カレンダーを飾るのは初めてでしよう?」
「アドベント? 何、それ?」
スルヤは好奇心に目を輝かせて、おなじみのサンタクロースやもみの木が描かれた絵の上に、数字の描かれた小さな窓がある、カレンダーに見入っている。そんな表情をすると、いつもの童顔が余計に幼く見えて、カーイは、一瞬噴出しそうになった。
「アドベントというのは、クリスマスに備えるおよそひと月の期間のことですよ。ほら、このカレンダー、12月1日から25日までの数字が描かれた窓があるでしょう? クリスマスの期間まで、この窓を毎日1つずつ開いていくんです。試しに私が、1つ、開けてみましょうね…」
カーイが、1日の窓を開くと、中は小さな箱になっていて、親指サイズのサンタクロースのチョコレートが、出てきた。カーイが差し出すと、スルヤは反射的に手を広げ、受け取る。
「へえ…イギリスには、こんなカレンダーがあるんだ。ねえ、それじゃあ、毎日窓を1つずつめくって…中にはやっぱりサンタがいるの?」
「サンタとは限りませんよ。クリスマスにちなんだものが、何か入っているんですよ。これは、チョコレートバージョンですから、きっと、トナカイやそり、リース、そういったものの形をしたチョコが入ってるんだと思いますよ」
「何が出てくるか、毎日の楽しみって訳だね」
「そうそう」
「でも、今日はもう7日だから、今日の分まで窓を開けてもいいよね?」
「ええ、あなたの好きなように」
嬉々として窓を開き、チョコレートを取り出してテーブルの上に並べていくスルヤを、カーイは目を細めるようにして見守っている。スティーブンの死以来ずっと元気のなかったスルヤだが、少しずつ落ち着きを取り戻してきているようだ。カーイが買ってきた珍しいカレンダーに子供のように素直に喜んでいる、その様子はカーイの胸の痛みも少しやわらげてくれた。
「ミルク・チョコレートだ。甘くて、おいしいよ」
杖の形をしたチョコレートを口の中に放り込んで、スルヤは、そう呟いた。
「甘いから、おいしいんじゃないですか、あなたは?」
もう1つ、スルヤは、チョコレートを食べた。甘いものが大好きなのだ、彼は。顔だけでなく、味覚も子供だと、カーイがよくからかいの種にしていた。
「カーイにも、はい」
スルヤは、カーイに笑いかけながら、チョコレートのサンタを口元に持ってきた。
スルヤの屈託のない笑顔。カーイは、久しぶりに見た気がした。
「甘い?」
不覚にも泣けてきそうになった。泣けなくなって、久しいにもかかわらず。
カーイは、俯き、スルヤに押し込まれたチョコレートを、口の中で転がした。
「ええ、とても」
もう1つの袋に手を伸ばし、中身をテーブルの上に置いていった。小麦粉、ドライフルーツ、ナッツやスパイス…。
「お菓子も、作るの?」
期待に満ちた問いかけが、何だか耳にくすぐったい。
カーイは、最後にクリスマス用のお菓子の本を取り出して、その表紙の写真をスルヤに見せた。
「イギリス伝統のお菓子ですよ。クリスマス・プディングを作ろうと思って」
スルヤは、すぐにピンと来たらしい。
「あ、そう言えば、スーパーでも、最近、売ってるよね。何だろう、どんな味がするんだろうって、気になってたんだ」
「駄目ですよ。大量生産のスーパーの自社製品なんて、味気ないし、邪道です。おいしくないに決まってます」
「カーイ、作れるの?」
「もちろんです。私にできないことは、ありません」
尊敬の眼差しを向けるスルヤに、カーイは、ちょっと胸を張ってみせた。
「本当は、1ヵ月間は寝かせた方がいいそうなので、もう少し早く作っておいた方がよかったんですが…」
「ねかせる」
「ええ、場合によっては、ワインのように何年も寝かせることもあるみたいですよ」
「それじゃあさ、半分取っておいて、来年のクリスマスに食べてみたらどうかなぁ」
「来年…」
スルヤが何気なく言ったその一言が、カーイの心を激しく衝いた。
1年後の今、カーイは、スルヤは一体どうしているのだろう。
カーイが買ってきたお菓子の本を面白そうにめくっている、スルヤの顔に、じっと見入りながら、カーイは、祈りにも似た、強い想いが突き上げてくるのを、必死で堪えていた。
1年後もスルヤがこうして傍にいてくれたら、他には、何もいらない。スルヤがずっと健やかで、幸せで、カーイと一緒にいてくれるなら、どんなことでもする。
見果てぬ夢だった。
「どうしたの?そんなふうに俺のこと、じっと見て」
カーイの視線に気づいたスルヤが、不思議そうに小首をかしげた。
「いいえ、あなたが来年なんて言ったものですから、ちょっと考え込んでしまったんです」
「何を?」
カーイは、遠い目をして、微笑んだ。
「来年も、その次の年もずっと…あなたと一緒にクリスマスを過ごしたい、そんなことを」
彼の言葉に、スルヤは頬を少し赤らめ、それから、嬉しそうに破顔した。
「うん、俺も、そうしたい。そうしようよ、ね、約束だよ」
テーブルを回ってカーイの傍にやってくると、彼の肩を引き寄せ、ぎゅっと抱きしめた。
「ええ」
カーイは、ぼんやりしながら、スルヤの肩にそっと頭を預けた。体温とともにのぼってくる、スルヤの血の甘い匂いに、微かにあえいだ
身の奥底で、何か、恐ろしいものが身じろぎする。まさか。
ぞっとしつつ、押し殺した。
「あなたと一緒に、きっと」
お願いだから、目覚めないで。スルヤと一緒にいさせてほしい。
カーイは怯えていた。
スティーブンの命を飲み干してやり過ごしたはずだというのに、早くも訪れつつある、それは、飢えの予感だった。