愛死−LOVE DEATH−
第二十一章 家
六
バレリーは、ワインを喉に流し込むようにして飲み干すと、空になったグラスをカウンターの上に戻した。すぐに傍らのボトルに手を伸ばし、また新たにグラスを満たす。持ち上げて、ふと思い出したかのように、店の中をぼんやりと眺め回した。昔、スティーブンとよく訪れた、若者向けのカジュアルなワインバーだ。今は、1人、カウンター席にぽつんと座って、もう永遠に手の届かないところに行ってしまった人の思い出に溺れている。
薄暗い店の中には、数組の男女のグループやカップルが、楽しげに飲んで、時にははしゃいだ声をあげたりしている。煙草の煙のせいで、辺りはぼんやりと霞がかかったようになって、初めはそれが嫌だったのだが、スティーブンと付き合っているうちに慣れてしまった。煙草なんか害にしかならない、やめるなら今のうちだと何度言っても、スティーブンは聞く耳を持たなかった。こんなに早死にしてしまうなら、スティーブンをむっとさせる、あんなことを言わなくてもよかった。
視界がふいにぼやけた。今度はたちこめる紫煙のせいでは、なかった。
(スティーブン、スティーブン…)
バレリーは、俯き、手で口を押さえて嗚咽が漏れそうになるのを、押さえた。一体、こんな所で何をやっているのだろうと、思った。いくら泣いても、思い出の場所で柄にもなく酔っ払っても、スティーブンは帰ってはこないのだ。それに、スティーブンは、バレリーをひどく傷つけて、振った相手ではないか。その彼が、こんなに恋しいなんて。悔しい。
(本当にひどい奴。ただ私を振っただけじゃなく、こんなふうに、呆気なく死んでしまうなんて! 生きていたら、もっと文句を言ってやった…ううん、あんたより、もっと素敵な恋人をみつけて、見せ付けてやったのに)
バレリーは、バッグからハンカチを取り出そうとした。その時、
「なあ、あんた、1人なのかい?」
後ろから急に声をかけられて、バレリーは、一瞬、肩を震わせた。そちらを見ると、バレリーと同じくらいの年の若者達が2人、どことなく嫌な感じの、にやにや笑いを浮かべて、立っていた。
「何よ、関係ないでしょ」
気の強い彼女は、あまり柄のよくなさそうな2人組み相手でもひるまなかった。
「放っておいてちょうだい。私、人を待っているところなの」
これは、もちろん嘘だったが、こんな連中の相手などしたくなかったので、そう言って相手があきらめることを期待したのだ。
「嘘つけよ。もう1時間も、1人で飲んでるじゃないか」
結構しつこい。バレリーは、舌打ちをした。
「なあ、1人で飲んでも、つまんないだろ。俺達とつきあえよ、おごるからさ」
別の1人もそう言って、バレリーの肩に馴れ馴れしくも手をかけた。
「やめてよ」
かっときた彼女はその手を払いのけた。
「私、1人にしてと言っているの」
手を払われた若者は、鼻白んだ顔でバレリーを見返したが、初めに彼女に声をかけた、ピアスをした若者が、彼女の手首をつかんだ。
「そう言わずにさ、こっちに来いよ」
バレリーは、さすがに青ざめた。助けを求めるようにカウンターの向こうに店員の姿を探すが、端の方で他の客と熱心に話しこんでいて、彼女の視線には気がつかなかった。
腕を引っ張る男の手に力がこもった。バレリーは、必死になって、相手を振りほどこうとした。
「やめてよ、馬鹿。離してったら!」
ようやく、気配を察したらしい店員がこちらを振り返り、様子をうかがっている。助けに行くかどうかまだ迷っている様子だ。何をしているのよ、ぐず。バレリーは切れそうになりながら、思った。
「やめてよ、痛い…」
追い詰められたバレリーに、助けは、意外なところから訪れた。
「ああ、ごめん、待たせてしまったかな」
バレリーの前に立ちふさがるようにして立っていた男たちの背後から、誰かが彼女に呼びかけたのだ。初めて聞く声だが、一度聞いたら忘れられないような、どこか気だるげな、美しい響きの声だった。
胡散臭そうに振り返った男たちが、2人とも、はっと息を呑み、ひるんだ。
一体、誰なのだろう。バレリーは、男の手からもぎ離した己の腕を胸の前で押さえ、息を潜めて、現れた謎の人物と2人組の様子をうかがっていた。
「な、何だよ、おまえ…」
バレリーに対してはあれ程強気だったピアスの若者が、怖気ていた。相手に呑まれてしまっているふうだった。
「彼女は、僕の連れなんだ」
若者達の頭が揺れ、相手の姿が、その向こうに少し覗いた。照明が暗いのでよく判らなかったが、髪は黒く、半ば影になった顔の中、異様に赤い唇があざやかにうかびあがるかに見えた。
「長い時間待たせてしまって、彼女はすっかり怒っている。僕は埋め合わせをしなくてはならない」
その赤い唇が、微笑んだ。邪気のない笑みとも、悪意を含んだ嘲笑とも、どちらにも取れた。
「う…」
若者達は、尚もまだ何か言いたげにそこに立ちふさがっていたが、彼らが迫力負けしてしまっていることは、明らかだった。それ程の力が、黒髪の男から、発散されているのだろうか。一目見た感じでは、彼は、むしろほっそりとして、語る声も穏やかに響くのだが。
「そこを退いてくれないかな」
少しも激しいものを感じさせない声が、囁いた。
「邪魔だから」
男が動くのに、若者達は、かき分けられるように、自然に左右に退いた。男の方を悔しげににらみつけ、ぶつぶつと何事か吐き捨てて、ようやく、カウンター席から立ち去った。
バレリーは、呆然と椅子に腰をかけたまま、若者たちが逃げ去るのを見送った。彼らが店を出て行くのを確認して、やっと安心したのか、体からほっと力をぬいた。
「ここに座っていいかな」
低い含み笑いを帯びた声にそう話しかけられて、バレリーは震え上がった。
「あ…あの…」
助けてくれた男に礼を言おうと、そちらに顔を向けた。息を呑んだ。頬にさっと血が上り、胸の奥の心臓が激しく鳴り響くのを意識した。
男の顔をまともに見た、バレリーの目が、信じられないかのごとく、まん丸く見開かれる。
(嘘…信じられない。こんな人…まさか、この世にこんな…恐いくらいに綺麗な男の人がいるなんて…)
あまりに仰天したバレリーが、言葉を返すこともできず、つくづくと見入っているうちに、男は、彼女の隣の椅子を引いて、身軽な動きでそこに腰掛けた。黒々と濡れたような巻き毛が、その額にこぼれるのを、白い手が持ち上がってかき上げる。
「あ…ありがとう…助けてくれて…」
やっとの思いで、バレリーは、そう言った。
「いいんだ」
男は、カウンターに軽く肘をつき、その手の上に顎を添えるようにして、じっとバレリーを見た。黒い髪の陰には、淡い灰色の瞳が、瞬いている。それは、ひどく優しく、同時に、ひどく酷薄にも感じられた。
「君の事は、知っているよ」
「えっ?」
「ここ何日か、いつもこの時間にここに来て、1人で飲んでいるだろう? ずっと気になっていたんだ」
「気になって?」
先ほど男たちに絡まれたことを思い出したのか、僅かに警戒心をこめて、バレリーは尋ねた。
「あんまり辛そうに見えたからね」
男は、憂鬱そうに顔を伏せた。カウンターの上に、指先をそっと滑らせながら、しばし黙り込んだ。
「もし、今夜も、ここで君を見つけたら、声をかけてみようと思っていたんだ。君と話したいと思っていた。あの男たちがいようがいまいが、そうしたと思うよ」
警戒はしていたはずなのだが、男の、沈んでいても、どこかあまやかな声を聞いているうちに、忘れてしまったようだ。
「あ…」
バレリーは、動転しつつ、男から目をそらした。頬が、かっかと熱かった。
「ともかく、ありがとう。あなたのおかげで、私が助かったのは本当だし、お礼に何かおごらせて」
カウンターの店員に向かって手を上げた。
「それじゃあ、君と同じワインを少しもらおうかな。ハンガリーのワインだね。エグリ・ビガヴェール。『雄牛の血』と呼ばれるワインだよ」
男の話す英語には、Rの発音に独特の癖がある。外国人の旅行者だろうか。イタリアかスペイン系ではないのだろうかと、バレリーは推測した。
バレリーがオーダーしてすぐ、店員が新しいボトルとグラスを持ってきた。2つのグラスに注がれる血のごとく赤いワインを、バレリーは魅せられたかのように見つめていた。
「君が無事であったことに」
男がそうするのにならって、バレリーも、グラスを上げる。
「私、バレリーよ。あなたは?」
男は、うまそうに飲み干したグラスをカウンターに置き、バレリーを、またあの吸い込まれそうな不思議な瞳で見つめた。
妖しい生き物めいて赤い唇が動き、彼の名を形作った。
「サンティーノ」