愛死−LOVE DEATH

第二十一章 家


 ロンドン警視庁捜査課のオフィスでは、スティーブン・ジャクソン殺害事件を担当する刑事達が集まって、会議を開いていた。

 これまでに分かったことを整理してみると、まずは、ニューイントン署が捜査にあたったものの、犯人につながる手がかりが1つも見つからず迷宮入りになりかけていたAホテルでの殺人と、今回の殺人は、やはり同一犯のものだということだ。頚部動脈を見事に噛み裂いた『歯型』は一致し、獲物にとどめを刺さず心臓の拍動にあわせて溢れ出す体内の血を飲み干したらしい方法も、単なる模倣犯にできる技ではなかった。

「その歯型と言うか、牙の跡なんですがね、人間の犬歯でも同じように深く噛み裂けないことはないかもしれないが、かなりの力を要するし、それに、傷跡を見る限り、一撃で鮮やかに切り裂いたように見える。もしかしたら、歯に何か加工したか、牙に似せた特殊な道具を使ったのかもしれないというのが、意見を聞いた歯科医の話です」

 部下達の報告を、腕を組んだまま、ピクリとも動かない無表情で、キースは、聞いていた。しかし、頭の中では、誰にもまねのできない素早さで提示された事実を分析し処理しているのだ。何が起こっても動じそうにない、どっしりと構えた様子を見ていると、新人のネイサンは、自分の上司はやっぱりかっこいいと、改めて憧れを覚えてしまう。

「ネイサン」

 突然、そのキースに名前を呼ばれて、ネイサンは、動揺しつつ、椅子から立ち上がった。とっさに手元の調査ファイルを床に落としてしまう。

「あ、あ、すみません」

 赤い顔をしてファイルを拾い上げるネイサンを、ベテランの先輩刑事達は、苦笑しながら見守っている。

「スティーブンの身辺調査の結果について、話してくれ」

 キースの穏やかな声に促され、ネイサンは、1つ咳払いをした後、話し出した。スティーブンの肉親、友人達に話を聞いたが、彼が別にストーカーの被害にあっていたとか、不審者に接触したという話は聞かれなかった。交友関係も、かつての恋人と別れ話でもめた以外は極めて良好で、大勢に好かれ、慕われた若者だった。

「ただ1つだけ、引っかかったのが、事件の起きる少し前まで、スティーブンは、ひと月近く学校を休んでいて、その間の行動がどうも不明なんですね。事故にあって怪我をしただとか、別れた恋人がえらく気性の激しい娘で、彼女と顔をあわせたくないがためにしばらく身を潜めていたのだとも言われてるんですが、実際のところは分かりません。ですから、これについては、また調べて追って報告します」

「ネイサン、スティーブンがしばらく女の子から隠れていたことよりも、どういう経緯で、彼があの現場で襲われることになったのか教えてくれ」

 先輩刑事に催促されて、ネイサンは、ちょっとむっとした。

「今から言おうしていたところですよ」

 そうして、ネイサンは、スティーブンが当日友人に電話を入れようとした後、彼に会うために家を出、友人宅の最寄りの地下鉄B駅で下り、近道をするために選んだ道の途中、クランレイ・パークの傍で、何者かに襲われたのだと伝えた。

「スティーブンの家の電話に残っていた記録からすると、電話をかけたのが午後9時を回った所ですし、B駅の職員が彼らしい若者を目撃したのが10時前、とすると、現場に着いたのは10時半より少し前くらいでしょう」

「死亡推定時刻とも一致するな」

 キースの低い呟きが、報告を終えて席に着いたネイサンを振り向かせた。

「ご苦労だったな、ネイサン。スティーブンの身辺調査は引き続き行なってくれ」

 自分の調査が取り敢えず認められたことに、ネイサンは、ほっとした。

「さて」 

 報告を一通り聞いたキースは、部下達から集めたファイルを手に椅子から立ち上がり、デスクの後ろにある大きなホワイトボードの前に立った。

「2ヶ月前に殺された外国人、そして、今回のスティーブン・ジャクソン、彼らを殺したのは、おそらく、同一人物と見られる」

 ボードの上に、キースは、発見時の被害者達を写した、大きく引き伸ばされた写真を貼り付けた。

「だが、この2つの殺しで決定的に違うことがある」

 キースは、部下達1人1人を問いかけるかのように眺め回した後、続けた。

「スティーブンは夜の街でいきなり何者かに襲われたが、初めの被害者は、高級ホテルの部屋で就寝中に襲われている。抵抗した形跡もなく、よほど安心した状態で熟睡していたのだろう。付け加えて、彼は裸で、殺される直前まで、誰かと一緒にいたらしい」

「一緒に泊まった誰かに殺されたってことなんですか?!」

 ネイサンが大きな声をあげるのを、隣にいた刑事が手で制した。

「結論を急ぐな、ネイサン」

 キースは苦笑し、再び続けた。

「彼が最後の夜を共に過ごした者が犯人なのかは、今の段階では何とも言えないが、重要な参考人であることは確かだということだ」

 刑事達がざわめいた。

「ホテルの宿泊客名簿をもう一度調べなおしてみましょう」

「町でひろった女ということも考えられるかな…その場合でも、誰かが顔くらい覚えているかもしれない」

「被害者の身元も特定しなくては。たまたまロンドンに旅行に来ていたのか、それともイギリスに長期滞在中のビジネスマンであったのか」

 キースは部下達に頷き返し、それぞれに指示を与えていった。まずは、最初の被害者の周囲を重点的に調べ上げる。同時に、血に対して異常な嗜好を示した前科者がいないか、警視庁に集められたリストからピックアップする。

 スティーブンの調査は、主にネイサンに任せられた。任せても大丈夫だと信頼してくれたのか、それとも、こちらの方は犯人と直接つながる可能性は低く、大して重要でないと踏まれたのか、ネイサンには、ちょっと分からなかったが、1つのことを集中してこつこつと調べ上げていくのが、刑事の基本だとキースには日頃教え込まれているので、与えられた仕事に一所懸命に取り組もうと決めたのだった。




「ブレイク警部」

 その日の夜、いつものように最後まで残業をしていたキースのデスクに、ネイサンがコーヒーのカップを手にやってきた。

「何だ、まだ署にいたのか、ネイサン」

 書類をめくる手を止め、キースは、意外そうにネイサンを見た。

「それを言うなら、警部だって」

 ネイサンは、キースにコーヒーを手渡すと、隣のデスクの椅子を引き寄せて、座った。

「金曜の夜だぞ。デートする彼女くらい、おらんのか」

「あはは。いませんよ、残念ながら。警部こそ」

「…恋愛する暇などない。ましてや離婚した後では、その気にもなれん」

 沈黙が流れた。

「ええっと…」

 ネイサンは、目をぐるぐる回しながら、苦しげに、何とか話をつなげようとした。

「お、奥さんとは、どうしてまた別れたんです?」

 言ったとたん、不適切な問いかけだと思ったのか、彼は顔をしかめた。

「プライベートな質問だな」

 切って捨てるようにそう言って、ネイサンの尊敬する上司は、コーヒーのカップをデスクの上に戻し、再び書類の方に向き直ってしまった。

「すみません」

 キースは、ため息をついた。

「おまえ、聞き込みでもそんなふうなのか? それでは、必要な情報など聞き出せんぞ。第一、押しが弱すぎる。話をつなげたい時は、もっとしつこく食い下がらんか」

「警部、聞き込みと、個人的な話をする時とは勝手が違いますよ。でも、そうですね…」

 素っ気ないようで、キースは、新米のネイサンをいつも気遣っていた。凶悪犯を何人も逮捕したキースの武勇伝を捜査課の外で聞いていた時は、ネイサンも、彼のことをもっと難しい人物と想像していたことだろう。怒鳴られたらさぞかし怖そうな、強持ての鬼刑事といった風貌のキースだ。だが、そんな彼の意外な優しさを、ネイサンも、傍で仕事を一緒にするようになって、分かってきたようだ。ネイサンの言葉の端々に、尊敬の念と共に親しみが込められている。

「それじゃあ、お言葉に甘えて。警部、一度ちゃんと聞いてみたかったんですが…」

 そう前置きして、ネイサンは、いつも必要以上のことは進んで話そうとしない、口が重いキースに、思い切ったように尋ねてきた。

「警部、あなたに見える…その、ビジョンって、どんなものなんですか? 噂で聞いてると、それこそ、天才的な閃きとか、超能力とまで言う奴もいて、俺も、警部の下で働くようになって2ヶ月になりますが、やっぱり、警部がその時何を見ているのか、ピンとこないんです。俺なんかが聞いて、まねできるものでもないだろうけれど、上司のことは、ちゃんと理解しておきたいし、分かるように説明してもらえませんか。別に警部のことを、いんちきとか、怪しいとか疑っているわけじゃないんですよ。ただ、一応知っておけば、いざという時に警部を助けることもできるんじゃないかと思って」

 キースは、しばらく、持ち上げたコーヒーカップの中をみつめたまま、じっと考えをめぐらせていた。それから、椅子をくるりと回して、ネイサンに向き直った。

「ネイサン」

「は、はい」

 ネイサンの期待と緊張感を漂わせた顔を見、キースは黙りこんだ。首を傾げるようにして、また少し考え込んだ。

「3年前のことだ。ハックニー地区で、武装した強盗団が、中古車販売店に立てこもった事件があったんだが…覚えているか?」

 重々しい口調で、キースは、一言一言確かめるようにゆっくりと語りだした。

「えっ、3年前ですか…そうですね、ちょっと待ってください、俺も、ずっと刑事志望でしたから、新聞やテレビでその手のニュースはチェックしているんですが…あ、もしかして、刑事が1人撃たれて重体になって、その後亡くなったとかいう…?」

「その刑事が、俺だ。…勝手に殺さんでくれ」

 淡々と告げるキースに、ネイサンは、うっと詰まった。

「裏通りとはいえ白昼堂々と店を襲った犯人と、通報によって駆けつけた警官達との間で、ついには銃撃戦が始まってしまったんだが、その時、店の傍のアパートからうっかり出てきた小さな女の子がいてな。全くまずい所に出てきたものだ、早く逃げろと思ったんだが、彼女は足がすくんで動けなくなってしまった。本当に、強盗か警官隊の撃った弾が下手をすればあたりそうな場所でな。俺は、どうしても見ていられなくなって、彼女に向かって叫びながら駆け寄ったんだ。その直後に撃たれた俺には、記憶はないんだが、彼女を抱いて銃撃を避けるように横様に転がったらしい。幸い女の子は無事だったが、俺は頭を撃ちぬかれた。手術で一命は取り留めたが、意識が戻るかは保障できないと宣告されたそうだ。しかし、ひと月後に、俺は目覚めた。どこにも障害は残っていないように、初めは思われた。俺は、自由に体を動かせたし、普通に話せた。皆が奇跡だと言った。しかし、次第に俺は、何かがおかしいことに気づくようになった」

 キースは、言葉を切り、がっしりとした肩を上下に揺らせて、大きなため息をついた。

「初めに気づいたのは…目の前を通り過ぎていく、ありふれた光景の残像が、いつまでも消えないことだった。ほら、電車やバスに乗って、窓から見る風景を何気なく見ていても、それをいちいち覚えてなどいないだろう? しかし、俺には、通り過ぎた店の名前すべてが思い出せたし、道を歩いていた人々の顔や服装も、まるで写真に取ったかのようにはっきりと記憶に残っていた。それだけじゃない、時には、見たはずのないものまで見えるんだ…ビルの陰から飛び出してきた子供、俺には建物の影に隠されて見えなかったはずなのに、その子が、後ろから追いかけてきた友達とふざけあい、手にしていたコークの缶を道端に捨てる様子まで分かった。レストランで食事をしていて、隣の席にカップルが座っている。俺には、女の顔は見えるが、男の方は背中を向けているので、どんな顔をしているのか、分かりようがない。しかし、俺には、女の表情や仕草だけでなく、男のそれも同じように分かるんだ」

「警部、それって、一体、どういうことなんです?」

「俺の頭を散々調べた医師は、脳の一部が銃弾によって破壊されたためだろうと言っていた。人間は、普通目に入ってきた情報を、必要なものとそうでないものを瞬時に処理して、いらないと判断したものはすぐに忘れるようになっているそうだが、俺の場合は、その部分に支障ができているらしい。だから、目に入ったものすべてが記憶として刻まれる。それに加えて、想像によって思い描いた映像が現実と結びついてしまうんだそうだ。目から入った情報が、想像力によって増幅されるとしまうとでも言ったらいいのかな」

「想像力」

「そうだ、俺の見ているビジョンとは、半ば現実、半ばそれを超えたものなんだ。現実とは微妙に違う。だから、そのすべてを鵜呑みにして信じるわけにはいかない。俺は、必死に理性と論理的な思考を働かせて、意識的に情報を処理しなければならない。おまえ達が無意識にやっていることを、な」

「警部、それって…」

 ネイサンは、一瞬言葉を失った。眉間をしわめて、キースが話してくれたことを理解しようと一生懸命に考えを巡らせているようだった。しかし、ついには、あきらめたように頭を振った。

「俺には…残念だけれど、実感として警部の体験していることを分かることはできません。けれど、それは、物凄く大変なことじゃないんでしょうか…? いつも視界に入ってくるものすべてを、いちいち覚えてしまったら、頭の中がパンクしそうになるだろうし、現実かそうでないのか、自分で判断しなくちゃならないなんて…俺なら、きっと耐えられないと思います」

「俺も、最初の頃は、怖くて外に出られなかったし、目を開けたくもなかったが…人間の体というのは、不具合ができても、それなりに順応していくようにできているのだろうな。いつしか、自分である程度はコントロールできるようになった。妙なものが見え出したら、意識的にそれを遮断する、とかな」

 キースは、ふと遠い目になった。

「俺が、この新しい自分と何とか折り合いをつけてやっていける自信がついた頃、妻が家を出て行った。俺も自分のことに必死で、彼女の悩みにまで気づいてやれなかったんだろうな。彼女は、俺が…俺の目が恐いと言っていた。自分のすべてを見透かされているようで落ち着かないとも、家事で手を抜いた部分や失敗を細かいところまでいちいち見つけられてしまいそうで、俺の気に入るよう完璧にしようとすることに疲れたとも…俺は、一度もそんなことを言った覚えはないのだが、もしかしたら、無意識のうちに、彼女にそう受け止められる素振りや表情をしていたのかもしれないな。すまないことをしたと、今でも思っている」

「で、でも、それって、警部のせいじゃないのに…」

「彼女にとっては、俺が変わったという事実が、一番耐えられないことだったんだ。俺の『力』を、何も知らない連中はうらやみもする。だが、実際は、こんなものを抱えては、当たり前の近しい人間関係を築くことすらできない。ネイサン、これは才能でも天から与えられたギフトでもないんだ。運悪く負った大怪我の後遺症なんだよ」 

 ネイサンは、何か訴えかけたいかのように口を開くが、キースの沈んだ表情を見たからか、出かかった言葉を飲み込んだ。うかつなことを言えない雰囲気だった。

「えらい後遺症を抱え込んだが、幸か不幸か、俺は、それを才能として生かせる仕事についていた。事件現場や遺留品、被害者の遺体…一度見たら忘れないし、必要な時に細部に至るまで思い描ける。事件が起こった時の情景、犯人がどこから入ってきて、どんなふうに被害者に襲ったのか、どんなふうに争いあったのか、殺したのか…俺には、見える」

「でも、それは幻…なんですよね。現実ではないと、警部も…」

「ああ、そうだ。だが、全くの空想というわけでもない。自分の中に入った情報を処理して組み立てた、最もありえそうな場面、だ。俺も、その点については、気をつけている。自分にだまされないように、疑って、論理的に説明できるものでなければ、信じないようにしている」

 ネイサンは、感じ入ったような深いため息をついた。それから、改めて、惚れ惚れとするような目で、キースを見つめた。

「そうやって…警部は、輝かしい実績をあげてきたんですね。どん底から這い上がり、大変な後遺症も才能としてちゃんと使いこなしてきたんだ…すごい…やっぱり警部はすごい人ですよ!」

 ネイサンの紅潮した顔を、キースは複雑な面持ちで見つめていた。別にこんな賛辞が欲しいわけではなかったのだが、ネイサンの期待に満ちた眼差しに促されて、彼らしくもなくポツリともらした。

「実は、スティーブンの遺体を見た時に、俺は幾つか気になったことがあったんだが…」

「え、何です? 何か見えたってことなんですか?」

 椅子から半ば腰をうかせ、勢い込んで尋ねるネイサンに、キースは、逡巡した。口を開きかけたが、気を変えた。視線をそらした。

「いや…やめよう」

「警部、そんなことを言わずに教えてくださいよ、それこそ、犯人につながる手がかりが、そこから見つかるかもしれないじゃないですか。俺も、一緒に考えますから」

「おまえは、スティーブンの調査を担当している。俺が余計なことを言って、変な先入観を抱かせては、捜査の妨げになるだけだ。実際、理屈にあわないビジョンだったんだ。俺自身にも納得できないものを、人に説明して納得させることなどできない。あれは、たぶんただの空想だったのだろう」

 不満げなネイサンの顔に、やはり口にすべきではなかったと、キースは、後悔した。どんなに言葉を尽くして説明しても、やはり、キースだけが持つ、この感覚を理解してもらうことなどできないのだ。それが、どんなに危ういものをはらんでいるのかも。

 キースは、カップの中に残っていた、冷めてしまったコーヒーをぐいっと飲み干した。それから、手元のファイルに目を落とした。スティーブンが発見された現場の検証結果が写真と共にはさまっている。改めてそれらを読まなくとも、キースは、あの場面のすべてを鮮やかに蘇らせることができた。キースが、その足で訪れ、調べた現場だ。被害者の姿だ。そればかりか−。 

(不思議なものを見た)

 キースは、あの場所に立った時に覚えた妖しいめまいが戻ってくるのを意識し、額を手で押さえた。まだ雪が積もっていた地面には、皮のジャケット着た若者が仰向けに横たわっていた。まるで、誰かの手でそっと横たえられたかのようだった。近づいてみるまでは、首の深い傷も見えず、服にも乱れはなく、彼が本当に死んでいるのか、分からないくらいだった。不思議なくらい、その死に顔は、穏やかで苦痛の名残はない。むしろ、諦めのような表情を浮かべていた。


《その時、雪は、もう降ってはいなかった。

スティーブンは、雪の上を急ぎ足で歩いている。

道は暗く、他には人の姿もない。

急に立ちどまる》

 何を見た?

《彼は息を呑む。瞬間に何かが襲い掛かってくる》

 早い。それにすごい力だ。

《スティーブンは引きずられ、公園の柵に押し付けられる》

 誰だ。誰だ。

《スティーブンは、襲撃者を見、そして、己は死ぬのだと理解する。

待ち受けるかのように目を閉じる。

スティーブンは、抱きしめられるようにして、死んだ。

それを受け入れた》

 何故だ、スティーブン?

《スティーブンを殺した者が、彼の傍らで途方に暮れたように立ち尽くしている》

 おまえは、誰だ。


「警部!」

 ネイサンの呼びかけに、キースは、我に返った。どうやら、またちょっと己のビジョンに引き込まれていたらしい。

「ああ、大丈夫だ」

 何故か、鼻腔に強い花の香りを感じた。この香りは知っている。香りの強い、あの大輪の百合の花だ。

 キースは、己の頬をぴしゃりと平手で打った。

「だ、大丈夫ですか?」

 ネイサンの手が、キースの肩に心配そうにかかっている。キースは、気持ちを静めるために深く息をして、そちらを振り返った。

「ああ」

 ネイサンの若々しい顔には、理解の範疇を超えたものに対する、戸惑いと不安があった。

「大丈夫だ」

 キースの身に前触れもなく突然起こる、この異常は、直接目にした他人を時に恐がらせる。妻が、そうであったように。

「さあ、そろそろ帰ることにするか。ネイサン、おまえもデートの相手がいないなら、休めるうちに休んでおくことだ。捜査が進みだしたら、しばらくは残業続きの上に休日も返上で働かなくてはならんのだからな」

 キースは、椅子から立ち上がり、何か問いたげなネイサンの視線を避けたまま、コートを取りに隣のロッカー室へと向かった。