愛死−LOVE DEATH

第二十一章 家


 不思議な音楽が聞こえる。昔どこかで聞いたことがあったのかもしれない、心の琴線に触れる、懐かしい、どこか古びた響きの音が近くでしていた。

 人々が集い談笑している声や動く気配、衣擦れや、グラスとグラスが軽く触れ合わされる音がする。一体ここはどこなのだろうと思いながら、カーイは、うっすらと目を開ける。

 どうやら、彼はどこかのサロンにいて、カウチの上で居眠りをしていたらしい。

 カーイは、探るような視線を周りに注いだ。大勢の仲間達が、そこにいた。カーイが少年時代を過ごした18世紀後半の衣装があるかと思えば、もっと古い時代のデザインの、あるいは19世紀辺りのドレスと、着ているものはまちまちだが、共通点は、ここにいる者すべてがヴァンパイアだということだ。カーイが失って随分になる、彼の血族が、在りし日の華麗な姿で存在していた。カーイは、胸の潰れるような懐かしさと恋しさに襲われた。

『ああ、皆、こんな所にいたんですか。私だけをのけ者にして、自分達は仲良く楽しくやっていたなんて、ずるい。とても長い間、あなた方を探し続けてきたんですよ』

 カーイが立ち上がって、そんな抗議の言葉を投げかけると、仲間達は親愛の情のこもった眼差しを彼に向け、笑いかけ、グラスを掲げたりした。

 カーイは、思っていたよりも広い部屋の中を、笑いさんざめく同族達の間を、ゆっくりと歩き出した。ちっぽけなサロンどころではない、まるでどこかの宮廷の夜会であるかのようだ。話に聞いたことのある、かつてローマに存在した、ヴァンパイアの宮廷というのは、こんな感じだったかもしれない。

 すれ違う仲間達の向こうから、誰かが手を振ったのが見えたのでそちらを振り返ると、紅いワインのグラスを手に意味ありげな顔で頷く、黒い巻き毛の痩せた青年の姿があった。血を吸ったように鮮やかな唇は、かつてと同じどこか皮肉な笑みをうかべている。『死にたがり』のサンティーノ。ブリジットを失ったカーイが、一人旅を始めてすぐに訪れた、ナポリで出会ったヴァンパイアだ。レギオンの親友と名乗ったサンティーノとは、しばらく共に過ごした。しかし、極端に落ち込んで黙りこむ日が続いたかと思えば、ひどく高揚した様子で町中カーイを引きずり回す、浮き沈みの激しい性格には、とてもじゃないが付き合いきれなくて、行かないでくれとすがるのを振り切って逃げ出したのだった。たぶん、今で言う躁うつ病の気があったのだろう。とっくに滅びてしまったと思っていた、古い馴染みの1人だった。

 カーイはサンティーノに何か言おうとしたが、前をふさぐカップルに隠されて、その姿は見えなくなった。カーイはあきらめて、更に広間の探索を続けた。

 若い女性達の鈴を転がすような笑い声が上がった。カーイが目を向けると、ギリシャ神話の三美神のように美しい女達が壁際のカウチに腰掛けていて、手前のテーブルに置かれた銀の盆から小さなお菓子をつまみながら、楽しげにおしゃべりをしている。真ん中に座った、淡い薔薇色のドレスを着た小柄な姿に、カーイは、はっと息を呑んだ。カーイよりもはるかに年経たヴァンパイアであるにもかかわらず、10代の少女のような容姿を保ち続けているエディス。ロマンチックなものが好きなのは相変わらずのようだ、レースにリボンと可愛らしく装って、ストロベリーブロンドの髪は、かつてカーイが贈った蝶の形の髪留めでまとめられている。エディスは話すことに夢中で、カーイに気づかない。後で改めて声をかけようと、カーイはそこを通り過ぎた。

(一体、ここには、どのくらいのヴァンパイアがいるのだろう。世の中にこんなにたくさんの同族がいたなんて、信じられない…まるで夢のようだ…)

 カーイは、足を止め、立ち尽くした。

 夢。

 興奮が一気に冷めた。そう、こんなことが現実であるはずがない。カーイは、夢を見ているのだ。

 己の属する場所を見つけた喜びに震えていた胸が、凍りつく。輝いて見えた広間も急に光を失って、そこにうごめく者達も皆、墓場で踊る亡霊めいた暗い影と化してしまった。

『こんな所でぼうっとして、一体どうしたのかな、坊やは?』

 カーイの心臓が胸の内ではねた。声のした方に、勢いよく向き直る。まばゆいほどの金色の髪が、そこで揺れていた。

『レギオン…!』

 カーイの狼狽ぶりがおかしかったのか、レギオンは緑色の瞳をくるめかせ、声をあげて笑った。記憶にあるのとそっくり同じ、高らかに誇らしげに響く鐘の音のような、レギオンの笑いだ。カーイは、今にも腰が抜けそうな程動転していたが、久しぶりに見るレギオンの顔から目を離すことが惜しくて、そこに立ち尽くしたまま、瞬きも忘れて、彼の親しげな笑みに見入っていた。

 影の王国に、明るさが戻ってきた。水底で聞いているかのようだった遠い物音も、再びはっきりと響きだす。レギオンは、カーイにとっての太陽だった。今となっては遠い昔の話だが。

『こちらにおいで、カーイ』

 魅力的な仕草でウインクを投げてよこし、カーイを導くように先に立って歩き出すレギオンを、人波をかき分け、必死になって追う。

 お願いだから置いていかないでと泣いて彼にすがったのは、一体、いつのことだろう。

 レギオン。レギオン。 

 ヴァンパイアの群れの中、溺れそうになりながら、カーイは、レギオンの金色の頭を追いかけた。やがて、人波がさっと脇に退き、カーイは、突然、ぽっかりと空いた空間の中に進み出た。

 瞬間、何かにつまずいたようによろめき、カーイは、足を止めた。

(あ…)

 全身が緊張にこわばり、次いで、震えが襲った。

 カーイがすっかり魂を飛ばして見入る中、大勢のヴァンパイア達に女王のようにかしずかれながら、豪奢な肘掛け椅子に座している、2人の女達のうち、片方がすっと立ち上がった。

 光沢を帯びた真珠色のドレスに身を包み、滝のように流れる銀髪には瞳と同じ紫水晶の髪飾りを編みこんで、優雅に立つ、女神のような女性を一目見たとたん、カーイは、一気に子供の頃に引きずり戻された。どんなに辛いことがあっても、とっくに枯れ果ててしまったかのように、久しく流したことのない涙が、堰を切ったように両目からほとばしる。

『ブリジット』

 カーイは、吸い寄せられるかのごとく、ふらふらと母に近づいていった。彼女の優しさが、深い慈しみと愛が、カーイを迎え、包み込んでいく。

 夢ならば、お願い、覚めないで。

 カーイは、ブリジットの前に立っていた。

 その顔は、カーイと瓜二つだったが、それでも、異なっていた。今のカーイには、とても及ばない、超越した輝きが彼女にはある。

『カーイ』

 聞くだけで穏やかな気持ちにさせられる、音楽的な声に呼ばれて、カーイは、喜びに打ち震えた。

『ブリジット…あなたに、ずっと会いたかった…会いたかったんです』

 すると、ブリジットは、どことなく悪戯っぽい顔をして微笑んだ。

『私は、ずっとあなたの傍にいたのよ。カーイ、あなたが、気がつかなかっただけ』

 カーイは、当惑し、途方に暮れたように、ブリジットを見返した。

『ブリジット、あなたは、私を置いていってしまったんじゃないですか。人間が死ぬように、私の行かれない場所に行ってしまった。あなただけじゃなく、ここにいる仲間達も、皆ではなくても、ほとんどの者達が、たぶん…? 私には、分かりません。あなたがいない200年を生きても、まだ分かりません。何のために永遠の時間を生きるのかも…私達の永生の果てに何があるのか、本当に、終着地などというものが、見つかるのかどうかも…』 

 ふいに気持ちが高ぶって、カーイは、ずっと秘めていた激しい思いを口にした。

『ブリジット、どうか、教えてください。一体、何のための永生、何のための…この苦労だったのか、安らぎ1つ…私に与えてはくれなかった…!』

 不死であるヴァンパイアとして、言ってはならない、魂の傷に根ざした訴えだった。こんなことを話せるのは、ブリジットだけだ。

 ブリジットは、傷ましげに、秀麗な眉をひそめた。

『カーイ、その答えを、あなたは自分でずっと探してきたのでしょう? 私が答えてあげられるものではないのよ。仮に答えられたとしても、あなたは自分で実践して手に入れた答えでなければ、納得しない人よ。あなたが自分で見つけ、そして、選ばなければ』

 カーイは、ブリジットを見つめた。そこには、昔と同じ曇りのない愛情が輝いている。彼女のいる所に、いつか、カーイも行き着くことができるのだろうか。だが、カーイには、信じられなかった。

『愛しているわ』

 カーイも愛していた。けれど、彼女のいる高みには登りつけない。

『愛しているよ、カーイ』

 しばらく存在を忘れていた、レギオンの声が後ろでした。

 気がつくと、カーイは、慕わしい仲間達に取り囲まれていた。

 輝くようなレギオン、憂鬱そうな面持ちのサンティーノ、少女じみた甘い微笑を唇にたたえたエディスも、皆、そこにいた。恋しさに胸を詰まらせながら、彼らの顔をぐるりと見渡し、改めて、母に向き直った。

『ブリジット、私は…』

 手を上げ、変わらぬ慈愛に満ちた微笑を浮かべている、ブリジットの頬に触れようとした。

『!』

 その手を、横から伸びてきた何者かの手が強くつかんだ。

 はっとなってそちらを見る。

 それまで、カーイの意識にのぼることのなかった、もう1つの玉座に座る女が、彼の手を捕らえたのだった。その細い指が容赦なく食い込んでくる痛みに、カーイは顔をしかめた。

 女は、ブリジットとは対照的に黒一色で装っていた。頭から被っている黒いベールに半ば以上隠されて、その顔はよく見えない。しかし、なぜか、その柘榴色の双眸だけは、闇の中に灯る火のように、くっきりと浮かび上がっていた。ベールの陰に、一瞬老女のような顔がうかびあがったかと思うと、若い女が、少女が覗いた気がする。カーイはこの女を見たことはなかったが、何故か、知っているような気がした。

 少なくとも女の方は、カーイを知っているようだった。

『おまえは、選ばなくてはならない』

 あらゆる感情を欠いた、まるで石の像から発せられてでもいるかのような声が、カーイに語りかけた。ブリジットが言ったのと同じ言葉だったが、まるで違うふうに響いた。

『あなたは…』

 カーイは、怯え、女の手を振り解こうと、あがいた。

『誰?』

 ベールの影で女が、微笑んだ。

 瞬間、カーイの頭の中で、何かが弾けた。

 この女を知っている。カーイは、そう思った。

『ブリジットの子。私達ヴァンパイアの最後の子供、カーイよ…』

 胸の奥からせりあがってくる、その名を、カーイは、叫んだ。

『マハ!』




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