愛死−LOVE DEATH

第二十一章 家


スルヤは待っていた。

やっと帰ってきたかと思えば、あまりにも唐突に、再び消えさってしまった恋人を、その帰還をひたすら祈りながら、たった一人、広い屋根裏部屋でまんじりもせずに夜を明かしたのだった。

新しくいれた熱いコーヒーを手にソファに座りなおす。壁の時計を見ると、針は6時を回った所を指している。この時期のイギリスでは、まだ夜明けには遠い時間。それも、スルヤの気分を落ち込ませた。彼の国では、冬でも、太陽の光はもっとあふれていて、強烈だった。

初めてのイギリスの冬、陰鬱なその季節は、しかし、恋人が傍にいるおかげで、とても心弾ませるものになった。そのはずだった。

(やっと会えたと思ったのに、カーイ、どうして?)

どんなに考えてみても、急に消えてしまう理由など見つからない。あれほど再会を喜び合い、離れていた時間の寂しさを埋めるように親密に過ごした、そのすぐ後に、どこに行くとも告げず、訳を説明することもなく行ってしまうなんて、信じられない。

(俺が知らない、カーイが抱えている問題のせいだろうか。それが、カーイをここに居にくくさせたり、時々見せる、苦しそうな顔をさせたりするんだろうか)

スルヤは、かわいい顔を、辛そうにしかめた。

(俺は、結局、カーイのことを何も知らないんだ。どこから来たのかも、どんなふうに生きてきたのか、家族や友人達のこと、どうして1人で旅を続けているのかも、何一つ知らない。初めの頃は、そんなことは知らなくてもいい、今俺と一緒にいてくれるカーイだけが全てだから、その他のことは関係ない、カーイがいつか話してくれたら、それでいいなんてうそぶいていたけれど…でも、今はもっとカーイのことを分かりたい。苦しんでいるあの人に手を差し伸べ、助けてあげたい。そう、カーイが1人で抱え込んでしまっている、何か…)

どんなに親しくなっても、カーイが決してスルヤに打ち明けようとはしない、秘密がある。それが、カーイを苦しめ、スルヤをもどかしい、悲しい気持ちにさせる。どうか、すべてを話して欲しい。どんなことでも、きっと受け止めるから。一緒に悩んで、どうすれば彼が救われるのか、考えたい。心を開いて欲しい。

(時々、カーイを見ていると、とても可哀想で、泣きたくなるくらい悲しくなるよ…あなたの孤独を…俺じゃ、埋められないのかな…ねえ、駄目なのかな?)

同じ時間を共に過ごしても、打ち解けて親密に話していても、どれほど愛し合っても、2人の間を阻む、見えない分厚い壁があるような気がする。その壁を越えたいとスルヤは思う。そこにいる本当のカーイを抱きしめて、大丈夫だよ、怖がらないで、ずっと傍にいるよと、言いたいのだ。

(カーイ、お願いだから、俺から逃げないで。俺にあなたを守らせてよ)

それとも、そんなことを言って、カーイを問い詰め、秘密を探り出そうとしたら、カーイは、今度こそ本当に逃げ去ってしまうだろうか。

「俺って、そんなに頼りないかな…そりゃ、年下だし、何の力も経験もないし、カーイの目から見たら、まだまだ子供みたいなものかもしれないけれど」 

自分で言って、余計に悲しくなったのか、スルヤはじわりと目をうるませて、両腕で抱えこんだ膝の上に顔をうずめた。

「カーイ、帰ってきてよ。何でもするから…お願いだよ…」

その時、玄関の方で、微かな音がした。

スルヤは、はっと息を飲んで顔を上げ、耳を澄ます。まさか。

「カ、カーイ?!」

次の瞬間、彼はソファから跳ね起き、屋根裏からその下の階へ、更に玄関へと続く階段をほとんど転がるような勢いで駆け下りていった。こんな感情の浮き沈みを、この所、一体どれほど経験したのだろう。落ち込んだり、寂しかったり、不安であったかと思うと、次の瞬間に気持ちが瞬く間に浮上する。見失った恋人の顔をそこに見つけた時の、暗闇の中で迷子になって途方に暮れていた自分の前にいきなり明るい光がさすような、こんな喜びを、スルヤは、他には知らない。

「カーイ!」

スルヤの呼びかけに、玄関の扉をそっと開いて入ってきたばかりのカーイは、微かに身を震わせ、顔を上げた。

本当に、本物のカーイだった。帰って来た。スルヤは、安堵と感動のあまり、脚から崩れてしまいそうになった。

実際、愛する人がたたずむ玄関まで階段を数段残した所で、スルヤは足をもつらせ、前につんのめった。 

「わっ…」

しかし、傾きかかった体は、見事としか言いようのない素早さで動いたカーイに、難なく抱きとめられていた。カーイの体からいつも漂う、花のようなほのかな香りに包まれて、スルヤはほっと息をついた。

「危ないですよ」

低くたしなめる声に、スルヤは顔を上げた。笑いかけようとして、失敗したのか、その顔はくしゃくしゃに歪んだ。カーイの2度目の失踪は、さすがに、楽天的なスルヤにも、ショックだったのだろう。カーイに頼りないとか子供っぽいとか思われることを一瞬前まで気にしていたはずだが、綺麗に忘れ果ててしまったようだ。

「か、帰って来てくれたんだね、カーイ!」

一杯に見開かれた大きな目は、既に涙の洪水だ。何か言いたげに口を開きかけるカーイの体にしがみつくようにして、おいおい泣きながら、スルヤは訴えた。

「あんなふうに急にいなくなっちゃうなんてないよ…もしかしたらもう帰ってこないんじゃないかって、俺、すごく不安で…そんなことないって思いたかったけれど、何だか本当に現実感のない人だから、このまま夢みたいに消えてしまうんじゃないかって気がしてきて、悲しくて悲しくて…」

言っている間にも、また感情が高ぶってきたのか、ひくひくと喉を鳴らせだす。

カーイは、その様子を、半ばどうしていいか分からぬように、半ばそれに魅せられているかのように、じっと見守っている。

「すみませんでした」

ようやく、カーイが口を開いた。

「どうしても一人になりたくて…一人で考えなくてはならないことがあったんです」

ふいに口ごもり、スルヤの視線を避けるように、うつむいた。

「これからどうするかとか、色々ね」

すると、スルヤは、潤んだ真っ黒な瞳でカーイをひたと見つめた。

「カーイ、ここから出て行っちゃうの?」

カーイの体がおののくように震えるのが、彼の体に回したスルヤの腕に伝わった。スルヤは、はっとなった。カーイが怖がっている。スルヤも怖い。カーイを失うなどと考えたくはなかった。けれど、それ以上に―。

「ねえ、カーイ」

スルヤは、涙の残った目の周りを服の袖でぐいっとぬぐうと、悄然と頭を垂れているカーイの腕を、いたわるように撫で下ろしながら、優しい口調で囁きかけた。

「覚えてる?いつだったか、カーイは、ここを自分の家だって言ってくれたよね? そう言ってもらって、俺、すごく嬉しかったんだよ。何ていうか、家っていうのは…誰かと一緒に作る、いつでも必ず帰っていける場所のことだよね…カーイは俺のいる場所が家だって…俺のことをそんなふうに…思ってくれるのかなって、嬉しかった。俺も、この町ではずっと1人だったから。自分で決めた留学で、ロンドンには昔から惹かれていたことも確かだけれど、この広い家を、まだ自分の家だと実感できるほど慣れてはいなかったんだよ。けれど、あなたが来てくれて、一緒に暮らしだして…何だかどんどん家の中の空気が変わっていくのが分かったんだ、安心して帰って来られる、ほっとくつろげる俺の居場所なんだって、思えるようになって…あなたと一緒なら、この異国での初めての冬も全然平気だし、他のどんな場所でもきっとうまくやっていける。俺にとって、あなたはそういう存在なんだよ。あなたをなくしたら、俺、せっかく見つけた家をなくしちゃうよ。だからね、カーイ、あなたも、もし同じように感じてくれているのなら…」

「私…」

呆然と響く小さな声が、スルヤの囁きをさえぎった。いつもはずっと大人に見える、時々この人はもう何十年も何百年も生きてきたのではないかと思えるくらいに超越した雰囲気を漂わせている、カーイの様子は、今はまるで違っていた。まるで親も家もなくした小さな子供のように、寄る辺なく、心細げだ。おずおずとスルヤを見上げる青い瞳には、迷いとためらいが漂っている。

「ここにいても、いいんでしょうか?」

もう自分ではどうすることもできないとでもいうかのような、途方に暮れた問いかけだった。

スルヤは、カーイの腕に置いた手に力を込め、深々とうなずいた。

カーイの顔には、一瞬抑えようもない歓喜の色がよぎったが、すぐに、それは深い苦悩に取って代わられた。

「でも、私は…」

怖気づいたかのようにスルヤから退こうとする。その手をスルヤの手が掴み、引き寄せた。

「逃げないで、カーイ!

スルヤの必死の呼びかけが、カーイの足をそこに縫いとめた。スルヤは、逃がすまいというように、カーイの手を握りしめたまま、熱っぽく訴えた。

「あなたがどこの誰でも、今までどんなふうに生きてきたのだとしても、俺は、あなたを愛しているよ。そんな寂しそうな顔をしないで。お願いだから、ここに、俺と一緒いてよ。ねえ、俺は、もうあなたを1人ぼっちにはしたくないんだ。どこにも行かせたくない…せっかく巡り合って、掴んだ、この手を離したくない」

普段はひたすら素直で優しい、この年の男の子にしては珍しく自分の感情を人に押し付けることもしない、スルヤが、こんなふうに強い調子でカーイに迫るのは初めてだった。柔らかな線を描く頬のおかげでいつも年よりも幼く感じられる顔は意思的な表情を浮かべ、黒い澄んだ瞳ははっとするほど強い光を放って、造り自体はどこがどう変わったわけでもないのに、この瞬間のスルヤを一人前の男のように見せていた。

「スルヤ…」

恋人の鮮やかな変貌に、カーイは息を呑み、魅せられたかのごとく、絶句した。やがて殺さなければならない獲物であれば、会うことなど適わない、3年後、5年後、10年後のスルヤの幻を垣間見ていたのだろうか。

その肩に、スルヤは手を置き、引きよせた。カーイは抗わず、震える瞼を伏せ、スルヤの優しく暖かい抱擁とキスに身をゆだねた。

「ここにいて、カーイ」

スルヤは、精一杯の愛情を込めて囁き、今度はカーイの額に愛撫のような柔らかなキスをした。

スルヤの腕の中で、硬くこわばっていたカーイの体がほっと力を抜き、ほぐれていくのが分かった。込み上げてくる愛しさに泣きたい気分になりながら、スルヤは、彼の体に回す腕に力を込めた。

「好きだよ」





(こんなことは、たぶん間違っている)

カーイは、スルヤに手を取られるまま、屋根裏部屋に上がった。そして、夜明け前の一時を2人のベッドの中に戻って、お互いのぬくもりを確かめるように身を寄せ合って、過ごした。

放心状態のカーイに、スルヤがあれやこれやと問いかけることはなく、ただ優しい腕で抱きしめ、頭を撫でたりしてくれた。そうされると、カーイは、怖い夢を見たり寂しくなったりする度にブリジットのベッドにもぐりこんでいった、子供の頃に返ったような、懐かしく、安らかな気持ちになった。 

しかし、こんな幸福に浸ってはいけないのだ。己が、一体何をしたのか、忘れたわけではない。

今でも、耳を澄ませば、カーイの血に溶け込んだ、スティーブンの囁きが聞こえてくる。カーイは、スルヤの大切な親友を手にかけてしまったのだ。

(スティーブン、あなたの血を飲んだおかげで、私は、今、飢えを感じることなく、スルヤを抱きしめることができる。そう思うと、あなたに感謝したいくらいの気持ちになるけれど、これでよかったなどと言える訳でもない。奪うべきでない者から私は奪った。血を吸う者の流儀から外れた吸血行為をしてしまったんです)

スティーブンを殺した後、カーイは、門の閉ざされた公園の中に入り込んで、そこのベンチに座り、殺したばかりの獲物の声に耳を傾けながら、しばらくの間、考え込んだ。これからどうすべきか、散々頭を悩ませた。

差し迫った飢えをしのいだ今こそ、スルヤから離れるチャンスではないのか。今ならば、ひょっとしたら、離れられるかも知れない。スルヤの血に対する切迫した欲望が戻ってくる前に、できる限り遠ざかるのだ。そうすることが、犠牲となったスティーブンに報いる、唯一の方法でもある。

しかし−。

スルヤは、カーイを抱きしめたまま、いつの間にか、うとうとし始めたようだ。カーイが帰って来たことで、待っていた間の不安と緊張が解けたのだろう。その頭がゆっくりと落ちかかるのをカーイは抱きとめ、枕の上に優しくのせてやる。

(結局、こうして戻ってきてしまった)

スルヤの頬に手を置いた。生きているスルヤの温もりが、そこにある。カーイが、スティーブンを身代わりにしてまで守ったものだ。

けれど、この平穏もいつまで続くものか。緊急避難的なやり方でひとまず発作的な飢餓状態は脱したとはいえ、スルヤの血への欲求が完全に消えたわけではない。カーイが本当に飲みたいのは、己が愛し、愛された者の血。スティーブンの命によって緩和された苦しみは、やがて戻ってくるだろう。その時、カーイはどうするのか?

カーイは、規則正しい寝息をたて始めたスルヤの背中に、その眠りを妨げぬよう気遣いながら腕を回した。いつもはもっと平然としてできる抱擁なのに、何だか己の力がスルヤを害してしまうような気がして、ひどく怖かった。スルヤの頬にぴったりと己の頬を寄せ、目を閉じた。こうして、恋人の体温を感じ、安らかな吐息に耳を傾けていると、彼を愛するあまり、その柔らかい体をばらばらに引き裂いてしまいたくなる。人間とヴァンパイア。幸せになど、なれるはずもない。ただ、離れがたいという想いが、カーイをここにつなぎとめている。

『スルヤにすべてを打ち明けてしまえよ。スルヤなら、きっと、あんたの重荷を受け止めてくれるはずだよ』

カーイの中でいまだ息づいている、スティーブンの最後の名残が、そう語りかけた。

カーイは、悲しげに、首を振った。

(打ち明ける? スルヤに、私があなたを殺したのだと、スルヤの身代わりにしてしまったのだと話せというんですか?)

スティーブンの気配は、ずっとカーイを案じていたが、それも次第に遠ざかっていくのが分かった。カーイの中に取り込まれた無数の恋人達と同じように、彼もまた、カーイには行かれない彼方の世界に飛び去って行くのだ。

(すみません、スティーブン、私は、罪の告白をするためにここに戻ってきたわけではないんです。我ながら、卑怯だと思うけれど、スルヤの愛情を失うくらいなら、嘘に嘘を塗り重ねても構わない。スルヤがもう私にあんなふうに笑いかけたり、抱きしめたりしてくれなくなるくらいなら、どんなに辛くても、この芝居をやりぬいてみせる。私は…)

胸の奥から熱いものがせりあがってくるのを覚え、カーイは、喉もとを押さえた。

(違う)

唇が震え、声が漏れそうになるのを、必死でこらえた。スルヤの肩に顔を伏せた。

(スルヤ、スルヤ…あなたに、みんな話してしまいたい。私が生きてきた時間の長さ、出会ってはすぐに別れることを繰り返すしかなかった恋のこと、旅をしているのは、別に好きなわけじゃない、ただどこにも居場所がなかったからなのだということも、私が、血を飲んで永遠を生きる怪物なのだということも…! 私がどこの誰でも、どんなふうに生きてきたのだとしても、愛していると言ってくれた、あなたの言葉を信じたい…!)

カーイは、発作的にスルヤの肩を掴んで揺さぶろうとした。はっとなり、その手をもう一方の手で押さえる。

暗がりの中でもはっきりと見通すことのできる目で、スルヤの穏やかな寝顔を見下ろし、カーイは、肩を揺らして喘ぐように息をした。

(駄目。今は、まだ…あなたにこんなひどい真実を打ち明けることはできない。あなたは、もうじき、とても辛い知らせを受け取ることになるのに…あなたを一層苦しめる真相など伝えられない)

それでは、一体どこまで、この秘密を抱え続ければいいのか。出口など見つからない深い迷宮に迷い込んだような気がする。本来ならば、人間相手の恋において、最後まで演技をし通すのがヴァンパイアのルールだ。最悪の真実を知らせることで、短い恋の幸福に水をさしてはならない。それが、獲物に対するせめてもの情けというものだ。カーイも、ずっと、そう考えていた。

(でも、スルヤは、私が何も言わないことに次第に不安と不審を覚え始めている。それも当然のことに違いない。好きになれば相手のことをもっと知りたがり、世界を共有したくなるのが自然で…けれど、私には、そんなごく当たり前の願いすら叶えてあげることができない。スルヤを傷つけたくない一心でしてきたことが、彼をひどく傷つけてしまう…ああ、こんな時、どうすればいいのか。私と同じ悩みを抱えたことのあるヴァンパイアだって、きっといたはず…私の周りに1人でも仲間が残っていてくれたら、私の悩みに聞いてくれる誰かがいてくれたら、よかったのに…)

現実には、カーイが仲間達と遠ざかって久しかった。かつての友人も恋人も、名前だけは知っている古い血族も、皆、今はこの世界に存在しているのかも分からない。

(レギオンだったら、人間相手に恋に落ちた私を、あの思い切り嫌な気取った言い方で馬鹿にして、目を覚ませとでも言うかもしれない…駆け出しの頃と同じ失敗をいまだに繰り返しているのかと、嘲笑うかも…ああ、今、あなたはどこにいるのだろう、私が初めて恋したレギオン。それから…ナポリで会った、頭のいかれたサンティーノ…ほんの短い間夫婦の真似事をしてみた、ストロベリーブロンドの髪が綺麗だったエディス…一度も会ったことはないけれど、ブリジットの姉、つまり私の叔母でもあるマハ…彼女くらい古いヴァンパイアが今も残っているとは思えないけれど、もし、生きていたら、会ってみたい…この永生をどうやって生き抜けばいいのか、尋ねてみたい)

懐かしい面影の数々は、しかし、あまりにも遠い。

カーイは、次第に取り留めのないものになっていく思考を振り払うかのごとくかぶりを振った。そして、腕の中にいるスルヤに気持ちを向けた。

(私は、束の間の恋の相手と呼ぶには、あまりにも、あなたに深くのめりこんでしまったということなんですね。巧みな言い訳と優しい嘘を何千回何万回も繰り返してきた私なのに、あなたの前では、上手な言葉がとっさに出なくなる…ひどく不器用な、恋の駆け引きも何にも知らない初心な少年に戻ったように…不思議ですね)

次第に夜が明け、天窓から覗く空も次第に明るくなってきた。寒い冬にも負けずに生きている雀達の朝一番の声が、聞こえ出す。

(ああ、夜が明ける…)

どうすることもできず、置き去りにしてきたスティーブンのことを思い出し、カーイの顔は暗く沈んだ。程なくして、誰かが彼を見つけるだろう。カーイの犯した過ちは白日のもとにさらされる。

(スルヤ)

天窓からさしてくる朝の光の中、カーイの傍らで幸福そうな微笑を浮かべて眠っている恋人の頬に指を滑らせながら、カーイは、胸の内で、彼に語ることのできない思いを語りかけていた。

(許してください…どうか私を許してください)




スティーブンの訃報がスルヤの家に届いたのは、それから数時間後のことだった。




スルヤは、この日は学校には行かず、家でカーイと共に過ごすことにしたらしい。まだ、どこか不安げで、何かしら落ちつかなげなカーイの様子を見て、心配に思ったのだろう。カーイは、ここまできて、今更スルヤの家を出て行くつもりはなかったのだが。

「ああ、アニー? どうしたの? あ、クラスのことなら、今日は休むつもりなんだけど…えっ…何、よく聞こえないよ」

遅めのブランチを一緒に取って、しばらくたった頃、廊下の方から、電話に向かって話しているらしいスルヤのよく通る声が聞こえてきた。カーイは、コーヒー豆を手動のミルで引く手をとめて、キッチンを離れた。開けっ放しにしたドアから出ると、リビングの前に、受話器を持って佇むスルヤの後ろ姿が見える。

「え、スティーブンが、何?」

 カーイは、己の胸に手を置いた。その下で激しく鳴り響いている心臓の鼓動を、意識した。

「えっ?」

 次の瞬間、スルヤが息を呑む音が聞こえた。背中を向けているため顔の表情は分からなくても、彼の体が大きく震えるのを見ていられなくて、カーイは、とっさに目を伏せた。

「嘘…」

 スルヤが、それだけの言葉を口にするのに、随分長い時間がかかった。

 カーイは、唇を噛み締め、思い切るように再び目を開くと、受話器を手にしたまま、呆然と立ち尽くしている、スルヤの方に静かに歩いていった。 

「スティーブン…」

 まだアニーの声が聞こえてくる受話器を、スルヤは手から落とした。それを、すばやく動いたカーイの手が受けとめ、もとあった所にそっと戻す。

「スルヤ」

 胸を鋭い錐で何度も突き刺されるような痛みを覚えながら、カーイは、後ろからスルヤの肩に手を置いた。

「スティーブン…スティーブンが…嘘だよ…だって、おとつい話したばかりなのに…そんなこと、あるはずないよ…」

 うわごとめいたスルヤの言葉が、胸に痛くてたまらない。しかし、カーイは、この時のために、ここに戻ってきたのだ。スティーブンを殺したことに罪悪感を覚え、スルヤの顔を再び見ることを躊躇いながらも、ここに戻ろうと決心したのは、ただ恋人と離れがたいからではなかった。親友の死を知って、どんなにかショックを受けるだろうスルヤの傍についていてやるためでもあったのだ。スティーブンを殺したカーイがスルヤを慰めるなど、白々しい、欺瞞に満ちた行為だが、それは自分の責任だと思った。

「スルヤ、スルヤ」

 スルヤの体に腕を巻きつけて、抱きしめ、その耳に向かって、なだめるように囁き続けた。スルヤの衝撃を少しでも和らげてやりたかった。

 しかし、スルヤを突然襲った悲しみと衝撃の前には、カーイの慰めも祈りも、無力だった。

「アニーがね、スティーブンが死んだって言うんだ…今朝早く路上に倒れているのを誰かが発見して警察に通報したらしいって…現実感がないよね、こんな話…やっぱり何かの間違いじゃあないのかな、きっとそうだよ、カーイ…」

 それだけを、ぼんやりとした、心ここにあらずの調子で呟くように言うと、スルヤは、カーイの腕をすり抜けるようにふらふらとリビングの中に入り、ソファの方にて歩いていった。カーイも、その後を追うように部屋に入った。スルヤは、ソファの上に投げ出すように身を沈め、両手で顔を覆った。やがて、ぶるりと身を震わせたかと思うと、ごく低い声をあげてひっそりと泣き出した。

 そんなスルヤを途方に暮れた面持ちで見守ることしか、カーイにはできなかった。一瞬声をかけようと口を開きかけたが、実際何も言えなかった。

 スルヤが、泣いている。覚悟していたはずでも、彼の嘆き悲しむ様を見ることは耐えがたかった。カーイのせいだった。

 スルヤの覚えている痛みが、カーイを何より傷つけた。

(私がどんなにスルヤを守りたいと思っても、私のすることは結局彼を傷つけてしまう…私は、スルヤにとって、一体、何なのだろう)

 カーイは、打ちのめされていた。



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