愛死−LOVE DEATH−
第二十章 血と罪と
八
逃げるように、その部屋を後にした。
愛しい者を手にかけようとした夜。
そうして、果たせなかった初めての夜。
手に入れる寸前にあったあの人の血を思うと、体中の細胞の一つ一つが渇望を訴えて痛み、気が狂いそうになる。
芳しい、あの人の血、私のための最高の甘露。
愛すれば、愛するほど、一層欲しくなる。
駄目だ。あの人を失うことはできない。殺せない、どうしても。
そうして、母が与えた警告にもかかわらず、こんな袋小路に自らを追いこんでしまったことを自嘲せずにはいられなくなる。
血を吸う者は、人間を愛してはならない。
逃げよう、あの人からできるだけ遠くに。
飢えが私を蝕み始めた。このままでは、理性が持たない。段々血のことしか考えられなくなってくるのが、恐ろしいほどに分かる。
ああ、どうすればいいのだろう。本能に負けてしまった時、私は、スルヤのもとに舞い戻って、あの細い首をへし折り、血を飲んでしまうのだろうか。
そんなことは、したくないのに。
それでも、やはり、私は血が欲しい。
血が欲しい、血が欲しい…血が欲しい!
ああ、もう何も考えられない。苦しい。
スルヤ…。
ここは、一体、どこなのだろう。私は、何をしているの?
ああ、スルヤ、あなたが近くにいるだろうか。
血の匂いがする。
とても甘い、素晴らしい血が、すぐそこにある。
私を愛する者の血が、私を引き寄せる。そう、人間の血を最高の味に変えるのは愛、それこそが私の糧なのだ。
やはり、スルヤなのだろうか。この血は、私への深い愛情によって、充分に醸されている。今が丁度飲み頃の極上のワインのように、芳醇で、舌に喉に滑らかに感じられることだろう。
飲みたい。
のみたい。
ノミタイ。
スティーブンは、スルヤの家に向かっていた。地下鉄の駅を下りて、この時間になると、さすがに人通りもない、住宅地を足早に歩いていた。
(スルヤ、まさかと思うけれど、どうかおまえの身に何も起こっていないように。俺の心配が、単なるとり越し苦労であってくれるように)
昼間はこの付近の住人達がよく訪れる、しかし、今は門も閉じられて、夜の闇にひっそりと沈んでいる公園の前を通りかかった時、スティーブンはふいに言い知れぬ胸騒ぎを覚えて、足をとめた。
彼は眉を潜めて、顔をやや右手に向け、向かい側の歩道の方に、道路沿いに並んでいる大きな街路樹の陰になった辺りに探るような視線をあてた。
(何だ…?)
誰かに見られているような奇妙な感覚を覚えたのだが、何も起こらず、すぐに気のせいだと考え直して、スティーブンは、再び歩き出した。
しかし、数歩歩いた時、スティーブンは、はっと息を飲みつつ、そちらを振りかえった。闇の向こうから、獣じみた低い唸り声が聞こえた。
「うあぁっ?!」
その襲撃は、突然に、そして、あまりにも素早く訪れた。何かがぶつかるようにスティーブンの懐深く飛びこんで来たかと思うと、彼は、胸ぐらを掴まれ、軽々と振り舞わされて、気がつけば、公園を取り囲む煉瓦塀に体を押しつけられていた。何という力。胸を押さえつける凄まじい圧力に息がとまった。
「う…うぅ…?」
己を襲った者の顔を見ようと目を凝らしたスティーブンは、衝撃に凍りついた。
「カ…イ…?」
そこに見つけたのは、確かにカーイには違いなかったが、これまでにスティーブンが知っていた彼とは似ても似つかなかった。その美しい顔は苦痛に引き歪み、唇は激しい飢渇に駆られてまくれあがって、鋭い牙が顕になっている。凄まじい光を放つ青い瞳に射すくめられて、身動きすることもできなくなった。
カーイは飢えていたのだ。何故突然姿を消したのか、スルヤのもとに帰ってこようとしなかったのか、その瞬間、分かったような気がした。
「う…カーイ…」
スティーブンは必死になって呼びかけようとした。しかし、カーイは完全に我を忘れているようで、うっすらと狂気の膜がはったような目は、スティーブンを見てはいたが、これが誰なのか分かっていないようだった。
(あ…)
スティーブンの脳裏に、9年前のパリの夜がよみがえった。あの凍てついた白い闇が自分に向かって押し寄せてくるのを、呆然と感じていた。
逃げよう逃げようとあがきながら、結局できなかった。スティーブンを捕らえて離さなかった美しくも恐ろしい悪夢が、ここにいた。
飲みたいと苦しげに震える唇が形作るのを、魅せられたかのように見つめながら、スティーブンは、カーイの腕が己を愛しげにかき抱くのを、その顔が首筋に伏せられるのを意識した。突き上げてくる圧倒的な思いに眩んだかのように、彼は目を閉じた。
(俺は、あんたが現れるのをずっと待っていた…?)
スティーブンの体が、戦慄いた、次の瞬間、鋭い叫びがその唇から迸った。
「ああぁっ!!」
肉が引き裂かれる痛みに絶叫し、スティーブンの手はカーイを押しのけようと動いた。一方で、彼の心は、苦渋に満ちながらも、ある種の歓喜すら覚えつつ、このことを受け入れていた。
打ちこまれた死の楔がもたらした苦痛は、すぐに得も言われぬ悦びに溶けていく。そうしながら、己の血と命が、己の全てが、束の間恋人同士となった相手の内にどんどん流れこんでいくのを、意識していた。
自分が今死につつあることを悟り、スティーブンの本能は怯え、この行為を拒否していたが、既に彼の意識は肉体から遊離しており、屈折した愉悦と虚脱感にも似たあきらめに浸っていた。
(スルヤ…俺は結局おまえを裏切ってしまったのだろうか…)
その思いすら、次第に霞んでいく。スティーブンは、最後に力なく苦笑したかもしれない。罪悪感の鈍い痛みが、彼の震える胸を過った。
(すまない)と、固く閉じた瞼の裏にうかんだ大切な親友の面影に向かって呟き、スティーブンは、底のない闇にゆっくりと沈んでいった。
(血、血、私の欲しかった、この血…!)
カーイは、夢中になって、唇をあてた箇所から溢れ出す血を啜り、飲みこんでいた。あまりにも飢え乾いていた体に流れこんでくる熱い血は、まさに荒涼たる砂漠をさまよってやっと見つけた命の水であり、それが凍えきった体の隅々まで行き渡っていくのに、甘美な衝撃すら覚えていた。本当に、こんなにも素晴らしい血は久しく飲んだことがないような気がした。
カーイがずっと求めていた血、愛に満たされた、甘く香ばしい最高の飲み物は、カーイの恋人の命そのものだった。
(ああ、あんなに寒かったことが嘘のように体が温まっていく、疲れも痛みも癒されて、再び力がみなぎってくるのが分かる。失ったエネルギーを取り戻し生きかえったような…体中の細胞がまるで燃え立つようで…熱い)
口腔に流れこんでくる若々しい生気に満ちた血をごくごくと喉を鳴らして飲みながら、カーイは、腕の中でぐったりと動かなくなった体を愛しげに抱きしめた。
(私の愛する人、私の恋人、あなたの血で私はよみがえる…)
カーイは、うっとりとしながら、心の中で囁きかけていた。
(私の……恋人…?)
血で満たされ、渇きが癒されるにつれて、少しずつカーイの心は正気を取り戻してきたようだ。得もいわれぬ幸福感の中に、微かな不安と、何かがおかしいという違和感を覚え始めていた。
(私の恋人は…私が今愛しているのは、一体、誰? そう、スルヤ…私の可愛いスルヤ、ああ、私はあなたの血を飲んでいるだろうか…ついに飢えに負けて、あなたを奪ってしまったのか…これは、あなたの血、私が欲しくてたまらなかった、あなたの血なのだろうか?)
思考が働くようになってくると、満足感で一杯だったカーイの胸に、激しい疑念がこみあげてきた。
スルヤの血、スルヤの血? この腕の中で、力をなくして抱かれているのは、カーイの大切なスルヤなのだろうか?
(スルヤ、スルヤ、あなたなのですか? 私は、あなたの血を吸ってしまった…?)
カーイの心は呆然となったが、貪欲な体は、まだ足りぬかのように恋人の血をむさぼっている。すると、どこまでも甘く濃厚な血と共に流れこんでくる、死につつある者の唄が聞こえてきた。カーイが、人間との恋の終わりに恋人達を手にかけてその血を奪う時、いつも聞こえる彼らの声だ。真に理解しあえることのない人間の愛人達の血を体内に取りこむ、その一瞬だけ、カーイは彼らを身近に感じ、全てを共有することができる。
その声は、自嘲と自己憐憫に満ちて、こう囁いていた。
(すまない、スルヤ、スルヤ…俺は、カーイを愛してた…)
命を取られたことに対する恐怖や怒りではなく、ただ言いようのない哀しみに彩られた血の声が、カーイの中で鳴り響いていた。スルヤの声ではなかった。
(あなたは、誰です?)
カーイは、とっさに我に返って、捕らえこんでいた獲物から身をもぎ離した。支えを失った体は、膝から崩れるように沈み、石畳の上に倒れこんだ。それきり、ピクリとも動かなかった。
(すまない、スルヤ、スルヤ、スルヤ…)
頭の中で、依然として、その痛切な囁きは響き渡っている。カーイは、呆然と立ち尽くしたまま、脚下に横たわる者を凝視した。黒い皮のジャケットを着た背の高い男、短くかられたつややかな茶色の髪には見覚えはあったが、それはカーイの愛する人ではなかった。
まさか。
(スルヤ、すまない…)
カーイは、雷に打たれたかのように大きく身を震わせた。心臓が轟き、今にも張り裂けそうだった。そして、地面に跪き、打つぶせに倒れ伏したまま全く動かない男の体に飛びつき、その肩に手をかけ、引いた。
「スティーブン…?!」
悲鳴のような叫びが、カーイの唇から迸った。カーイは慄き、スティーブンの体から手を離して、それを戦慄く口許に持っていき、押さえた。
「嘘…まさか、こんなこと…あなたの血を飲んでしまうなんて…」
てっきりスルヤだと思っていた。カーイを引き寄せた血の匂いの甘美さは、まさに選ばれた恋人のものだった。いくら飢えていたとはいえ、スティーブンをスルヤと取り違えて襲ってしまうなんて。スティーブンは、カーイを憎んでいたはずだ。その血が、カーイを誘うはずがなった。
信じられぬように、スティーブンの固く目を閉ざした青ざめた顔を見下ろしていたカーイだったが、次の瞬間、弾かれたようになって、その体を引き寄せ、抱き上げて、揺さぶった。
「スティーブン、スティーブン!」
切迫した声で、カーイは呼びかけた。しかし、スティーブンは応える気配もない。がくりと傾いた首に残る深い傷跡、己が噛み裂いた傷口を見て、カーイは低く唸った。
罪悪感が込み上げてきた。殺すべきでない者から奪ってしまった。カーイのやり方ではなかった。
「しっかりして! 目を開けなさい、スティーブン!」
まだ血を流している傷口を手で押さえ、カーイは、必死になって叫んだ。だが、そんなことをしても無駄だということは分かっていた。スティーブンの血はほとんどカーイに吸い取られ、その心臓もとっくに打つのをやめていた。
カーイは、一瞬言葉を失った。スティーブンの哀しげに微笑んでいるかに見える顔を、放心したように見つめた後、苦しげに顔を歪め、言った。
「私にあなたを殺させないで下さい!」
カーイの脳裏にうかんだのは、スルヤの信じきった澄んだ瞳だった。
スルヤの命を奪うことを避けるために、カーイは、彼の親友を殺してしまったのだ。こんなことをスルヤが知れば、どんなにか傷つくだろう、哀しむだろう、過ちを犯したカーイを許してくれないかもしれない。
(こんなこと、私は望んだわけじゃない…ああ、何とかして、この人を生きかえらせなければ。私は、もうスルヤの顔をまともに見ることもできなくなる…)
恐ろしい間違いを起こしてしまったと取り乱す一方で、しかし、カーイは、1つの逃げ道を提示されたような気がしていた。
スルヤの身代わりになってしまった、スティーブン、彼の血を飲むことなど夢にも思っていなかったカーイではあったが、そのおかげで、ずっと己を責めさいなんでいた飢えがおさまったことに気付いていた。スルヤの血でなくても、飢えをしのぐことはできるのだ。そう、身代わりを見つければいいのだ。
そんなおぞましい悪魔の誘惑に、カーイはぞっと身震いした。
(スティーブン、スティーブン、お願いです。生きかえって、私のこんな恐ろしい思いを否定してください…)
カーイの必死に祈りも空しく、スティーブンが再び目を開くことはなかった。静まりかえった彼の胸に、カーイは、あきらめたように顔を伏せた。瞑目し、語りかけた。スティーブンは、今、カーイの中にいた。こんなふうに彼のことを親しく感じられる時がくるとは夢にも思っていなかった。体の中に取り込んだスティーブンの血と共に、彼の心はすべてカーイに向かって開かれていた。分かることができた。
(あなたは私をずっと愛していてくれたんですね…9年間も…? あんな恐ろしい目にあわされて、死にかけたのに? 人の心というものは、時として、私の理解を超えている。あなたの本当の気持ちにもっと早くに気付けたら、別のやりようもあったかもしれない…。こんなふうに殺さずにすんだかもしれない。私は、あなたの人生を台無しにしてしまった…すまないと言っても、今更しようのないことだけれど…)
死んだスティーブンを腕に抱いたまま、体中に新たな力がみなぎっているにもかかわらずひどく打ちひしがれ、うなだれて、カーイはじっと動かなかった。
そうしながら、憎まれているとばかり思っていたスティーブンの、死んだ今になってひどく優しく感じられる、その囁きに耳を傾けていた。
(カーイ、あんたをずっと愛していたよ)