愛死−LOVE DEATH

第二十章 血と罪と


 ベッド脇のサイドテーブルには、ほとんど空になったシャトー・ディケムのボトルとグラスが二つ残されている。

「月がすごいねぇ」

 既に幾度となく行なわれた恋人達の熱い格闘のおかげですっかり乱れたシーツの上に、汗ばんだ体をぐったりと横たえて、スルヤは天井に大きく取られた窓から覗く冴え返った白い月をうっとりと眺めている。

「ええ、本当に」

 カーイは、スルヤの傍らに身を寄せて、同じように天窓の外に輝く月を眺めながら、低い声で囁いた。

「ここに戻った時は、空は分厚い雲に覆われて、雪まで降っていたというのに…今は、こんなにクリアーな夜空を眺められるなんて…」

 カーイが超常の視覚を発揮して見る空は、スルヤの目に映る以上にあざやかだ。月は、白い炎を帯びて、めらめらと燃えあがっているようだし、それを取り囲むように無数の星々が花開いている。それは、シャガールの描く絵のような幻想的な眺めだったが、人間であるスルヤには、同じ感覚を共有することはできない。そのことを物足りないとか寂しいと思っても、仕方のないことだ。

「きっと、カーイが無事で帰ってきてくれたことを、神様がお祝いしてくれてるんだよ」

「あなたの言う神様って、一体どの神様か知りませんが、たかが人間に対して随分細かい気配りをしてくれるものなんですね」

「えへへ…」

 この家に一緒に戻ってきた最初は、2人とも夢見心地だった。一緒に食事をしたり、いつものようにリビングでコーヒーを飲みながら語り合ったりしたものの、どちらもが舞い上がっていて、話らしい話にもならなかった。求める相手が傍にいるという、熱にうかされたような幸福感だけが胸を占めていた。

 カーイは、先にスルヤにシャワーを浴びさせ、その後で、バスタブにうんと熱くしたお湯をはり、ゆっくりとつかって、体を温めた。死体さながらに冷たい体でスルヤに触れられるのは嫌だったので、スルヤが心配するくらい長い間、バスルームから出てこなかった。

「いい匂いがするね」

 やっと戻ってきたカーイの体を、スルヤは、待ち焦がれていたかのように抱きしめ、髪に顔を埋めて囁く。その腕の中で、カーイの顔は満足げだった。自らが美しいことを、恋人のひたむきな瞳の中に、己が依然として彼にとって素晴らしい褒賞であることを確認して、安堵していた。飢えは、カーイの面差しも姿もまだ変えてはいないようだった。そう、この姿が恐ろしい怪物になってしまう前に、スルヤを奪ってしまおう。あんな恐ろしい悪魔じみた顔を、スルヤには見られたくない。そう思いながら、スルヤの優しい抱擁に身を委ね、離れて随分久しく思える熱い肌に触れた。

 2人の屋根裏にこもって、彼らは何度も愛し合った。スルヤにとっては、それは、ようやく取り戻した恋人の存在を確認するような触れ合いであり、カーイにとっては、同時にもっと差し迫ったもの、これが最後だと思えばこそ、恋人の全てを己の心と体に焼き付けようとするような行為だった。何度交わしても、まだ足りなかった。

「あ…電話が鳴ってる…出なきゃ…」

 階下で電話が鳴る音がするのに、スルヤは、面倒くさそうに呟いて起きあがろうとするが、その体にカーイの腕が巻きついて、引きとめた。

「放っておけばいいんですよ。今は誰にも邪魔させたくはありませんから…あなただって、そうでしょう?」

 スルヤは、一瞬迷う素振りを見せたが、艶然と笑うカーイの顔に、やはり気を変えて、その傍らに再び身を落ち着けた。

「うん、悪いけど、今日だけは放っておこう」と、悪戯っぽく笑った。 

「ねえ、スルヤ…まだ疲れてはいないでしょう?」

 身を寄せ合ってたわいのない言葉を交わすうちにも、するりと伸びてきた手が再び体に触れ始めるのに、スルヤはほうっとしびれたような甘ったるい息をもらした。

「カーイ、ちょっと待ってよ…」

 しかし、若いと言ってもさすがに疲労を覚えたのか、制止の声をあげる唇を、覆い被さってきたカーイの唇がふさぎ、黙らせる。

「まだ、大丈夫でしょう?」 

 いとおしむように滑らかな褐色の胸に手を滑らせながら、カーイはささやいた。

「私はもっと欲しいんです」

 そのきらめく青い瞳の奥深くに過る切迫した思い、どんなに与えられても満たされることのない飢えに、見返すスルヤの顔には戸惑いの色が隠せない。

「本当にどうしちゃったの? あんなふうに突然いなくなったあなたが帰ってきて、こうして久しぶりに触れ合えるのは、俺だってもちろん嬉しいけれど…これじゃあ、いつもと逆だよ?」

 スルヤの率直な問いかけに、低い含み笑いをカーイは漏らした。

「そうですね。いつもはあなたの方が…駄々っ子のようにいつまでも止まらないんですよね。だから、いいでしょう、たまには私が好きなだけ求めても? それにね、私の方が、あなたよりもずっと…飢えていたんですよ」

 スルヤはまだ何か問いたげに唇を開くが、それより早く下腹部に滑り降りたカーイの手に体の芯を握り締められて、言葉を失った。そんなスルヤの額にそっと唇を押し当て、それから、震える口に胸にと滑り下ろしながら、カーイは、囁いた。

「あなたは私のものですよね、スルヤ、この瞳、この唇、この熱い胸、そして…いつも元気一杯のあなたらしくそそり立っている、ここもね」

 カーイの細い指でしごき上げられた刺激でまたしても固くなっていた部分に顔をうずめられ、スルヤはびくりと喉を痙攣させ、体を反り返らせた。

「あ…カ…カーイ…ああっ…」

 外の身を切るような冷気もここには届かない。また少し部屋の温度と湿度が上がったように感じられる。

 ベッドのきしむ音と、絡み合う激しい息遣い、どちらかが時折もらすあえかな喘ぎが、夜の静寂を束の間震わせたかと思うと、また、もと静けさにかえる。

 そんなことが際限なく繰り返され、ついにスルヤは音をあげた。

「ひい…駄目、さすがにもう駄目、これ以上、何にも出ないよ…気持ちよかったけれど、もう…終わり…」

 ベッドの上に手足を大きく広げた格好で転がると、スルヤは目を閉じ、しばらく胸をせわしなく上下させていた。そんなふうに一杯に腕を広げると、そのすべすべした薄い胸にはうっすらと肋骨がうかびあがって、いつもよりも一層少年ぽく見えた。まだ、たったの18才なのだ。恋の仕方もやっと覚えたばかり、これから、どんどん大人になって、体つきも男らしく逞しくなり、色んな人と会って経験を積み、多くのことを学んで、そう、スルヤは、どんなにか素晴らしい大人になるだろう。その優しさはきっと変わらない、どこかいつまでも少年のような無邪気さを残した、それでいて包容力のある、魅力的な男性になるだろう。写真ももっと修行を積めば、立派な写真家として大成するかもしれない、彼の叔父のような成功をすることだって、夢ではないかもしれない。

(ああ、私と出会うことさえなければ…だが、そんなことを今更思っても、どうしようもない…あなたは、あの朝、私に声をかけた…あなたの運命はあの瞬間に決まってしまったんです)

 早くもとろとろと眠りかけているスルヤを、上体を起こした姿勢のまましばし眺めるカーイの胸には、実に様々な思いが去来していた。

「スルヤ…」

 ゆるやかに伸びた手が、恋人の汗ばんだ熱い額の上に置かれる。

「うん…?」

 その感触が気持ちいいのか、既に半分夢の世界に飛び去りかけながらも、スルヤは幸せそうな無邪気な笑みをうかべた。その表情が可愛らしくて、いじらしくて、カーイの胸は火がともったように熱くなった。震える声が漏れそうになる唇を、きつく引き結んだ。

(どうか目を開けないで。あなたの知らない私の顔、抑えようもなく突き上げてくる飢えに歪んだ恐ろしい顔を見られたくないから)

 血を吸う神の子としては失格と言わざるをえない、気弱な感傷的な心だと思ったが、それはカーイの真実の気持ちだった。本当は、スルヤを殺したくなどない。一緒に生きてゆきたい。限りある命の人間が相手であれば、永遠につれそうことは不可能だけれど、ならば、せめて大人になったスルヤを一目でも見たい。しかし、この飢えが、カーイにそんな猶予を与えてはくれないのだ。

(スルヤ、短い時間だけれど、あなたと一緒にいられて幸せでした…このまま続けられたらよかったのに…)

 血に対する渇望は、性的な衝動よりもずっと根源的で抑えがきかない。ましてや、それで命をつないでいるのだ。殺すしかない。他に道はない。

 それでも、慎重にその瞳を避けるように、カーイはそっとずらした手でスルヤの今は閉ざされた両方の目を覆い隠した。そのままゆるく力を加え、頭を横に向けさせると、若々しいピンとはった首筋が彼の前に無防備にさらけ出される。

 我知らず、カーイの喉は鳴った。

 更に頭を枕に沈めるように軽くそらせると、スルヤの喉は、ククと小鳥が鳴くような小さな音をたてた。

 どうしてこの人はこんなにも警戒心がないのだろう。こんな時になっても、少しも疑わないなんて。完全に眠りこんでしまったのか、それともまだ半分起きていて、これを恋人の優しい戯れと感じているのだろうか。

 上体を屈め、スルヤの穏やかに上下する胸に唇を押しあて、そのまま、それを喉の方に移動させる。

 そういえば、最初に会った時も思ったのだ。この世界で生きるには、無防備すぎる。優しすぎる。純粋で、綺麗でありすぎる。

 首筋の柔らかな血のくぼみにカーイは唇をあてた。薄い肌のすぐ下で脈打つ血を感じ、堪えきれずに熱い息をもらした。飲みたい。

(私のスルヤ…スルヤ、スルヤ…)

 カーイの薄い唇がめくりあがり、光る鋭い牙が二つ闇にきらめいたかと思うと、スルヤの首の上に沈みこんだ。

 そのままじっと動かなくなった。獲物である恋人の喉にぴたりと口を当て、その鋭い凶器を肌にかけながら。鋭い牙で一噛みすれば、スルヤの柔らかな肉は裂けて、それで、すべてが終わるだろう。後、ほんの少しの勇気が、力があればいい。スルヤの血は、カーイのものになる。

 ごうごうという血の音が、耳の奥で鳴り響いている。これはスルヤの血だろうか、それとも、カーイ自身の、狂ったように打ちつづける心臓が固く強張った体に送り出す血の音だろうか。

 カーイの体は、慄いたように震えた。

(ああ…!)

 カーイの心は挫けた。がくりと身をスルヤの傍らに投げ出す。その唇から牙は隠れ、顔はスルヤが休んでいる枕の上に力なく沈められた。

(駄目、できない、私の傍らでこんなに幸せそうに眠っている、この人を殺すことなんて、できない…今こうして生きている、この人の全てが私は好きなのに…私の手で、その命を断つなんて、できない)

 その時、傍らのスルヤがクスクスと小さな笑い声をたてた。

「何…カーイ、くすぐったいよ…」

 目が覚めたといっても、まだうとうとしながら、スルヤはつい今までカーイの唇が押し当てられていた方の肩を少しすくませた。

「…すみません」

 スルヤは、カーイの存在を身近に感じられるこの幸福感に浸りながら、あまやかに微笑んだ。

「よかった、あなたが帰って来たのは、夢じゃなかったんだ…あなたとまた会えて本当に嬉しい…もう、何も言わずどこかに消えてしまったりしないでね…俺さ、ずっとあなたと一緒にいたいんだ…ずっと…」

 重い瞼を半分開いてみると、そこにいるはずの恋人の姿がない。不審に思って、視線を上げると、広い部屋の片隅、月明かりのささない影になった部分に佇む人影を見つけ、安心したように微笑む。とても人間に移動できる早さではないということに、スルヤの眠たい頭は思い至らなかった。ただ少し不思議に思ったのは、その姿が何だか途方にくれて見えたことだ。

「スルヤ」

 自分の名を呼ぶカーイの声の響きは優しくて、好きだと思う。声のする方に向けてまた笑いかけ、スルヤは再び目をつぶった。

「愛していますよ」

 二百年の間に使い古されて、何の意味もなくなってしまったはずのその言葉を、カーイはこの時初めて言ったような気がした。

「うん」と、迷いもせずに、スルヤも言った。

「俺も…ね、すごく愛してる」

 一瞬、スルヤは眠りこんでしまったのだろう。しかし、ふと何か言い知れぬ不安を覚えて、彼はベッドから飛び起きた。

「カーイ!」

 切羽詰ったような声で、その名を叫ぶ。答えは返ってこない。スルヤは、愕然と目を見開き、ベッドの上で起きあがった姿勢のまま、狂おしげに呟いた。

「カーイ、カーイ…そんな…」

 どうして、どうして? やっと会えたのに。

 また行ってしまうの? どうして?

 カーイが、佇んでいたと思しき場所に向かって、スルヤは、手を伸ばした。だが、そこには、もう誰もいない。

 天井から淡い月の光の降り注ぐ青白い部屋は、スルヤを一人残して、がらんどうだった。



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