愛死−LOVE DEATH

第二十章 血と罪と


 スティーブンが、その高級ホテルを出、家路についた時には、辺りはもうすっかり夜になっていた。アニーからの情報を頼りに件の本屋の付近一帯を探し回った、スティーブンは、やがて、近くに有名人も度々利用するようなハイクラスのホテルがあることを思い出した。まさかという思いで、そのホテルを訪れ、カーイ・リンデブルックという客の宿泊を尋ねたが、フロントの返事は期待したものではなかった。そう都合よくカーイの潜伏先が見つかるはずはないかとあきらめかけたのだが、ホテルを出ようとした所で、タクシーから降りてくる宿泊客に手を貸しているドアマンを見て、ふと思い出したように、ポケットに入れたカーイの写真を取り出した。

 それを見せられたドアマンの答えに、スティーブンは、思わず快哉を叫びたい気分に一瞬なった。

 ドアマンは、カーイを覚えていたのだ。確かにこのホテルの宿泊客だったと、彼は告げた。やっとカーイが見つかったと思ったが、ただ、残念なことに、カーイは今朝チェックアウトをしていた。どこに行ったかまでは、もちろんドアマンは知らないし、フロントを問い詰めたところで同じだろう。

 せっかくもう少しでカーイが捕まる所だったのにと、スティーブンは口惜しくなった。

 悄然となったまま、彼は、フラットにたどり着いた。

(結局、収穫はなし…か)

 一瞬躊躇ったが、スルヤの家に電話をいれることにした。こんなことを話しても、ぬか喜びさせるだけかもしれないが、カーイが無事で、まだこのロンドンにいるということだけでも、スルヤの慰めになるかもしれない。

 それから、はっと思い至った。

(ホテルを引き払った後、今度はどこに行ってしまったのかと思ったけれど、もしかしたら、カーイはスルヤのもとに帰っているんじゃないだろうか?)

 スルヤの電話番号をダイヤルするスティーブンの手は震えていた。カーイの声が今度こそ聞けるのではないかと、期待していた。しかし、電話の呼び出し音はひたすら鳴りつづけるばかりで、誰も出ようとはしない。

(誰もいないのか? スルヤも…カーイも…?)

 ちらりと壁にかけられた時計を眺めやる。9時を回ったところだ。

(こんな時間まで、まだスルヤの奴カーイを探して歩き回っているんだろうか。おい、あんまり無理をすると、おまえの方こそおかしくなって、倒れちまうぞ)

 スティーブンは、溜め息をついて、受話器を戻し、そこにしばらく立ち尽くしたまま、部屋の中を茫洋と眺め回した。

(スルヤ…)

 ふと自分の机に目がとまった。そこの引出しの中に入れたままにしているCDを思い出した。スルヤに送ろうと思いながら、まだ果たせないでいる。果たして、スルヤにあれを見せる気など本当にあるのだろうか。自分の本心をスティーブンは今でもはかりかねている。

 スティーブンは、机に近づいて、ディスクを隠した引出しを開けてみた。そこにはスルヤの宛名の書かれた封筒は入っていたが、しかし、どうしたことだろう、その中は空っぽで、ディスクなど引出しの中のどこにも見つからなかった。

(まさか、そんな…俺は、確かにここに隠したのに。そうだ、あの時、バレリーが来たから、とっさに、この中に封筒ごと放りこんだんだ)

 スティーブンは、息を飲んだ。ここを去る時のバレリーのどこか落ち着かなげな態度を思い出した。

(バレリー…あの後、俺はあいつをここに通した。そうだ、あいつはここに坐ってた…もしかしたら、俺が目を離した隙に引出しを開けて、あれを見つけたのかもしれない。それで、何だろうと思って、持ちかえった…あいつは、昔から好奇心の強い女だった…それに、何故だかスルヤのことをひどく意識していて…スルヤの名前の書かれた封筒なんかあったら、中身を確かめたくなるかもしれない)

 スティーブンは舌打ちをして、怒ったような動作で電話の所に戻り、受話器を掴みあげた。バレリーに電話をして、ことの真偽を問いただすつもりでいた。しかし、急に気を変えて、受話器を下ろした。

(俺は、あの画像をスルヤに本当に見せたかったのだろうか…?)

 急にそのことを強く意識した。バレリーからあれを取り返したいのは、他人に、スティーブンの心の秘密を、大切にしていた彼の偶像を見せたくなどなかったからだ。だが、スルヤには見せても構わないと思ったのか。いや、抵抗がない訳ではない。ただ、そうしなければならないという義務感があった。

(スルヤにあれを見せる…ああ、たぶん本気でそう考えたに違いない。そうして、ずっと胸に溜めこんでいた、あの秘密を打ち明けてしまいたかった。スルヤに話すことは恐いけれど、それでも、あいつならきっと理解してくれる。そうして、許しを乞いたかった…)

 許し? 一体、何に対する許しだというのだろう。

 スティーブンは、ぶるりと身を震わせた。今まで直視することを避けていた、己の本心に向き合おうとしていた。

(あのイメージは、俺の大切なものだったんだ…この9年間ずっと…そうだ、スルヤ、おまえがカーイと出会うずっと前から、俺はあいつを知っていた…ずっと追い求めていた…すまない、スルヤ…俺は、純粋におまえを守りたいだけじゃなかったんだ。本当は…おまえが羨ましかった…ねたましかった…カーイに選ばれたおまえに、嫉妬してた…俺はおまえになりかわりたかったんだ。あんな恐ろしい目にあわされて、人生まで狂わされてしまったのに、こんなふうに思うなんて、俺は、やっぱりいかれているのかもしれないけれど…カーイを、ずっと…愛してた…)

 だから、あの廃工場でカーイが危機に陥った時、どうしてもそのままにしておくことができず、助けてしまった。スティーブンには、カーイを傷つけることなど、初めからできる筈がなかったのだ。

 スティーブンを苦しめてきた、夜毎訪れる悪夢の中の恋人。恐ろしいと思いながら惹かれ、追い求めてきた。やっと見つかったと思った時には、しかし、自分のものではなかった。

 スティーブンの顔が引き歪み、彼は、半ば泣き笑いのように、低い嗚咽を漏らした。震える手で口許を押さえた。

(スルヤ…)

 電話の方を、再び眺めた。本当にまだ帰っていないのか。いつもなら、この時間には家にいるはずだ。ここ数日は、スティーブンからの電話を待ちわびている様子だった。少しでもカーイの情報を見つけたいし、それに、親身になって話を聞いてくれるスティーブンと話すことで、寂しい気分を紛らわせたいのだ。

(まさか、家にはいるけれど、電話に出ることはできないということは考えられないだろうか。カーイと一緒に帰っているなんてことはないだろうか…?)

 スティーブンは、ふいにいわく言い難い寒気を覚えて、己の体を抱きしめた。

 この不安な胸騒ぎは何なのだろうか。何だか、とても嫌な予感がする。

 カーイが仮にスルヤのもとに戻っていたとして、それが、どうだというのだ? 彼にスルヤをどうこうする意思があるとは、スティーブンにも、もはや考えられなかった。

 しかし―。

(まさかという予感が消えない。俺は、虫の知らせとかそんな迷信を信じる性質じゃないけれど…なぜだが、さっきから心臓が変に激しくなっているし、それに、この奇妙な焦燥感…畜生、何でこんなに落ちつかないんだ?)

 カーイは、ヴァンパイアだ。スルヤに対する並々ならぬ執着は、獲物に対するもの以上だとしても、人間を殺して血を吸う怪物であることにはかわりはない。

 スティーブンの脳裏に、9年前のパリの夜、セーヌ川にかかる端の上で、カーイの腕に抱かれて死んでいった名も知らぬ犠牲者の姿がうかんだ。その顔は、何ということだろう、今やスルヤの顔にすり変わっていた。

(スルヤ…カーイ!)

 スティーブンは、クローゼットに駆け寄り、手近にあるジャケットを引っつかむと、それに腕を通しながら、フラットの玄関へと向かった。

 今すぐスルヤの家に行かなくてはならない。そんな切迫した思いに、彼は駆られていた。 



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