愛死−LOVE DEATH−
第二十章 血と罪と
五
あなたのいる場所に、私は引き寄せられていく。
あなたの血の声が私を呼ぶ。私には逆らうことはできない。
だが、それにも増して、あなたを愛しいと思うこの心。あなたの声を聞きたがり、優しい微笑みを夢に見、伸ばした、この手の指先に触れる、あなたの暖かさを欲しがっている。
そう、この心が、私をあなたのもとへと還らせるのだ。
(スルヤ)
カーイの目は、恋人の姿をずっと追っていた。
この日、彼のもとに帰ると決意し、実際その家の傍まで戻ってきた。しかし、そのまま家に入ることはせずに、少し離れた街路樹の影から見守っているうちに、スルヤが外に出てきた。紺色のコートに身を包み首の周りにはマフラーも巻いて、それでも、冷たい空気の中に出てきた途端寒そうに身をすくめる仕草が、何とも可愛らしい。しかし、カーイはまだ声はかけず、歩きだすスルヤの後を、彼に気づかれぬよう、一定の距離を保って静かにつけていった。そうしながら、彼がすることを密かに眺めて、それを楽しんだり、胸をつかれるような思いを味わったりしていた。
スルヤがカーイの行方を探し回っていることは、すぐに明らかになった。彼が訪ね歩いているのは、二人で共に立ち寄ったことのある場所であり、カーイが超常の聴力を発揮して、例えばスルヤが訪れた花屋で、そこの主人相手に話している声を聞けば、カーイの情報を少しでも集めようと必死になっていることが知れた。
(スルヤ、あなたは、そうやってずっと私を探してくれていたんですね)
スルヤが自分を心配してくれていることを再確認して、カーイは、こんな追いつめられた状況でありながら、嬉しくなった。
そして、花屋から出て行くスルヤを見送った後、その店の中に入っていった。
「あ、あんた…カーイさん?!」
花屋の中年の主人は、カーイの顔を見てびっくり仰天した。とっさにそれ以上言葉が出てこなかったようだが、ドアの方を指差してあえぐ様に息をした後、勢い込んでこう言った。
「たっ…たった今だよ、スルヤさんが…ここに来たんだ。あんたを必死で探してた…あんたがここに立ち寄ったり、何か分かったらすぐに知らせてくれって頼まれていたんだ…今すぐ追いかければ、まだ追いつくよ。あんたってば、擦れ違いに入ってきたようなものだから…」
アイルランド系なのだろう、なまりのきつい英語を話す主人の興奮のあまり紅潮した顔に、カーイはつい微笑みを誘われた。
「ええ、分かっていますよ。スルヤの姿を見かけたので、ここに入ってきたんです」
「そ、それなら、早く追いかけないと…」
「いいんです。私は、その気になれば、すぐにあの人に追いつくことができますから」
花屋は、怪訝そうに首を傾げた。それから、ふいに神妙な顔になった。
「その、あまり立ち入ったことを聞くのもなんだが、急に出ていってしまったそうじゃないか…あの子と喧嘩でもしたのかい? あんたが帰ってこないって、あの子は、随分としょげ返っていたんだよ。健気らしく大丈夫だなんて言ってたけれどね…あんないい子に心配をかけたり、哀しませたりしちゃいけないよ。帰るつもりがあるなら、早く元気な顔を見せて安心させてやることだ」
「ええ」と、カーイは、花屋の言葉に素直に頷いた。
「スルヤのことは、ずっと気にかかっていたんです。ただ、この数日は本当に連絡も取れない事情があって…やっと戻れるようになったんですが、そうなると、逆にスルヤの方が私に対して怒っていないかと心配で…」
「そんな心配は無用だよ。あの子は、ただあんたの無事を祈って、あんたの顔をもう一度見られることだけを願っている。さ、早く追いかけていってやることだ」
カーイは、再び微笑んだ。その笑顔のすきとおるような美しさに、花屋の主人は思わず息を飲んだ。
「その前に、花をいただけませんか。そう、いつもの百合の花を買って帰りたいんです」
カーイの白い手が、主人の後ろにたっぷりと活けられている百合の花の方を指し示した。
「あ…ああ…」
どこか呆然とした調子で主人は呟き、それから、何か閃いたらしい、ぽんと手を打った。
「そうそう、花束を作ってやろう。そういう約束だったな」
カーイが、不思議そうに瞬きをして、見守るうちに、花屋は、商品の白い百合を全部瓶の中から抜き取ると、レジの前のテーブルに広げ、薄い紫の紗の紙と透明のシートを取り出して、花束を作り始めた。
「リボンをかけて…ほら、できあがりだ」
「…何だか、プロポーズにでも持っていくような立派な花束ですね」
差し出された花束を両腕で抱えながら、カーイは、幾分当惑気味に囁いた。
「スルヤくんに約束してたんだよ。あんたが戻ってきたら、そのお祝いに大きな花束を2人にあげようってな。それを持って、あの子のもとに帰って、仲直りなりプロポーズなりするんだな」
冗談ぽく言う主人と両腕にあまるような花束をつくづくと見比べ、カーイは、ちょっと考えこんだ後、
「ありがとう」と、幾分声を震わせて、言った。何も知らない他人の優しさが気遣いが心にしみるようで、だからこそ、これから自分がしなければならないことを思って、胸がつまった。
そして、カーイは、スルヤの後を追いかけることにした。
花屋を出てしばらく歩いた所で、次はどこに行こうと迷うように、スルヤは立ち止まった。この辺りは、住宅地に差し掛かっているが、まだぽつんぽつんと商店も並んでいる。それでも、この寒さのせいか、あまり人通りはなかった。
「うう…寒いと思ったら、また雪まで降り出したよ」
ちらちらと白いものが舞い始めた鉛色の空を見上げ、スルヤは、溜め息をついた。ポケットに突っ込んだままの手をぎゅっと握り締める。石造りの街では、冷気は足下から忍びこんできて、芯から体を凍えさせ、南国育ちのスルヤには堪えた。自分の口から吐き出される息が白いことがおもしろくて、わざと息を吐いてみた。いきなり、くしゃみが出た。それから、ぶるっと大きく身震いをした。
「寒いなぁ…」
もう少し歩いた所に、小さなカフェがあった。カーイと一緒に入ったこともある。そこでお茶でも飲んで、温まろうとスルヤは思った。いくらなんでも、これではまた風邪をひいてしまう。
そうして、再び歩き出そうとしたのだが、スルヤは、突然、何かしらはっとしたように足をとめ、後ろを振りかえった。まさかと思った。
信じられないものを見たかのごとく、そのただでさえ大きな目が、更に大きく見張られる。
ついさっきまで誰もいないと思っていた街角に、黒いロングコートのほっそりとした人物が立っている。その超然とした佇まいも、両腕からこぼれんばかりの百合を抱えていることも、何だか、ドラッグストアや果物屋、小さな本屋が並んでいる、この辺りの生活感漂う庶民的な雰囲気にはそぐわなかった。妙に現実離れしていたので、その姿がすぐにかき消えてしまったとしても、スルヤはそれほど不思議には思わなかったろう。恋しがる気持ちが束の間恋人の幻を垣間見せたのだと思うことだろう。だが、その人は、いつまでも消えなかった。
「カ…イ……?」
スルヤは、しばらく、ぽっかりと口を開けたまま、その場に凍りついたように立ち尽していたのだが、やがて、掠れた声で恐々囁きかけた。まるで、呼びかけることで、この夢の中の人物めいた不思議な人が再びいなくなってしまうことを恐れているかのようだった。
しかし、カーイは、いなくなったりしなかった。スルヤの声が届いたのか、微かに頷いたのが分かった。
「カ、カーイ!」
スルヤは、弾かれたようになって、駆け出した。カーイのもとにまっすぐ走り寄ろうとした。
「スルヤ、道が凍り付いています、そんなふうに駆け出したりしたら、危ない…」
カーイが注意した、途端に、スルヤは案の上路面に薄くはっていた氷に足を滑らせ、よろめいた。幸いすぐ傍に街灯があったので、とっさにそれにしがみついて、恋人の見る前で無様に転ぶことは避けられたが。
「カーイ…」
恥ずかしそうに笑って、スルヤは、今度は用心しながら、カーイのもとにゆっくり近づいてきた。
その様子を、カーイは、瞬きすることも忘れて一心に見つめていた。寒がりのくせに、こんな天気の日に外を出歩いたりするなんて。ほら、鼻の頭が真っ赤になっていますよ。手袋とマフラーはしているけれど、こんな日には、帽子だってかぶった方がいい。それとも、スルヤは帽子を持っていなかったろうか。コートを買った時に、いっしょに買ってあげればよかった。
それから、氷のように冷えきった己の手を、スルヤを引き寄せたいかのように伸ばしかけた。だが、今の自分の体にはスルヤを暖めるだけの体温もないことを思い出して、すぐに引っ込めた。血を飲んだ後の熱く燃え立った体ならば、寒そうにしているスルヤを暖めることができるのに。今だけでもいいから、凍えそうな恋人を抱きしめてあげる為の温もりがよみがえって欲しいと、切に願った。
「カーイ?」
優しく微笑むスルヤの顔が、すぐ近くにある。夢のようだ。黒い大きな瞳は潤んで、今にも涙が溢れ出すのではないかと思われたが、スルヤは、泣き出したりはせず、代わりに、こぼれるように笑った。
「カーイも、寒そうだね」
そう言って、自分の首からマフラーを解いて、カーイに渡そうとした。カーイは、慌てて辞退した。
「駄目ですよ、あなたの方が、寒がりなのに」
「ううん、俺は、大丈夫だから」
スルヤは、カーイの首にマフラーを巻きつけてやった。そこに感じられるスルヤの温もり、その甘い匂い、カーイは、思わずほっと息をついて、目を瞑った。
「すごい花だね」
「ええ、いつもの花屋のご主人がね、私達にって、くれたんですよ」
「ねえ、カーイ」
「はい?」
「抱きしめてもいい?」
カーイが頬を僅かに赤らめて小さく頷くと、スルヤは、彼の肩をそっと引き寄せて、花束を押しつぶさないように用心しながら抱きしめた。ごく軽い抱擁ではあったが、それでも、その優しさと暖かさに、カーイは、おじけたように震えた。己が、こんなにもこのぬくもりに飢えていたことを思い知らされて。
「お帰り、カーイ」
ああ、帰って来たのだと実感した。
一体、どこに?
そう、カーイの家だ。
自分の体を慈しみように包みこむ、この腕の中で、カーイは、束の間、我が身を激しく苛む飢えも疲れも寒さも忘れられた。
ブリジットを亡くしてから、世界中を渡り歩いてずっと探していたものは、こんな安らぎではなかったろうか。
似たものを見つけたと思ったことは、これまでもあったのだ。ポールが与えようとしてくれた、カーイが本当に安らげる家のような場所。手を伸ばせば届きそうなくらい近づいたことも確かにあった。けれど、それらは長続きするものではなく、失ってばかりだった。人間との恋は、結局、永続などできない。
「スルヤ、スルヤ…」
やっと戻って来られたこの暖かい場所も、カーイは、すぐに失うのだ。そう、ここに帰って来た目的を忘れてはいない。カーイは、スルヤを殺して、その血を奪う。
今夜。
もう逃げてはいけない。逃げた所で、いつかは殺してしまう。
せめて愛しいスルヤが苦しまないよう、素早く、この上もなく優しく、その喉をかき切って殺してしまおう。そうして、スルヤの全てを飲み尽くしてしまおう。その一時、スルヤはカーイと1つになって彼の中で息づくだろう。人間同士のカップルが及びもつかないような幸福な一体感を共に味わうことができるだろう。例え、一瞬後には消えてしまう、もろい夢であろうとも。
今夜。
それは、200年もの長い生の中で数え切れないほど繰り返してきた、おなじみの血の饗宴だ。何も難しいことなどない。親密な熱い抱擁の中で、夢見心地の犠牲者の喉に牙をたてるのは。死への精一杯の抵抗を示して一層激しく収縮する心臓が送り出す、傷口からあふれる血に口をつけ、ヴァンパイアの接吻の衝撃にはねあがる体を力で押さえこみ、やがて死の痙攣が訪れるまで抱きしめながら、その最後の一滴までも飲み干すことで、愛するスルヤのすべては彼のものとなる。
そう、今夜、カーイはそれをするのだ。